16年ほど前のことですが、 よく遊びに来てくれた東京工業大学の数人の学生と話をしていてリーナス・トーバルズ ( Linus Benedict Torvalds )の話になりました。 この時私は どうやってオールド・ヴァイオリンのような弦楽器を製作するかのプランを考えていました。 1969年にフィンランド・ヘルシンキに生まれたプログラマーのリーナス・トーバルズは 1991年に開発した『 Linux カーネル 』のソースコードを公開( オープンソース )するという信じられない決断をし すでに世界的な 『 時の人 』でした。 そして私は彼の行動によっていわれた『 リーナスの法則 』( 目玉の数が十分だったら どんなバグも深刻ではない。)が頭の中にあったので 情報工学や 機械工学、物理、化学の専攻の彼らに『 自分はリーナス・トーバルズになりたいと思っている。』 と話したのです。 彼らは顔を見合わせて笑いました。 私は 『 … ? 』でした。 彼らは 『 あなたはすでに スティーブ・ジョブズ だと自分たちは思っている。 だから自分たちは遊びに来ているんです。』 と言いました。 私は『 スティーブ・ジョブズ ? それって誰?』 でした。
これは 1994年の12月のことでした。 当時の私のパソコンは 1989年製 5インチ・フロッピーに外付けのハードデスクが40メガバイトの NEC社 PC9801RA2 の動作環境に苦しみの日々を送っていたころの話です。
彼らに教えてもらった 『 スティーブ・ジョブズ Steve Jobs ( 1955年 ~ )』 とは 1972年に オレゴン州のリード大学を半年で退学し 1977年に スティーブ・ウォズニアックとロン・ウエインそして マイク・マークラとともに アップル社を設立し1980年には2億ドルの資産を築き、 1984年に Macintosh を 発売、1985年5月24日の取締役会で解任され退社し、1986年にルーカスからピクサー社を買い取り経営手腕により上場に成功した ( 1995年12月20日アップル社が ピクサー社を買収する形でアップル社に戻り、1996年 暫定CEOを経て 2000年正式にアップル社のCEOになり現在も続けています。) 著名企業である アップルの創業者で実業家だということでした。
私はこのことがあってから折に触れ スティーブ・ジョブズさんのリサーチをしています。
彼の人となりを伝えるのが 2005年10月29日にスタンフォード大学の卒業式での祝賀スピーチでしょう。 私も共感しましたので下に意訳を引用させていただきます。
本日世界中でも最も良い大学で話をできることを光栄に思う。 だけど ぼくは何を隠そう 大学をでていない。 そして今日が最も大学の卒業に「 近づけた 」日だけど、そんな中で三つの話をしたいと思う。 大げさな話じゃなくてたった三つ。
まずは点のつながり ( Connecting dots )について。
ぼくは大学を6ヶ月でやめたけど それは生まれる前に始まった。 当時 学問に励んでいた未婚の( 生物学上の )母は 僕が大学の高等教育を受けた両親に育てられるべきだと信じていた。 ぼくは生まれたすぐに養子として今の両親の元にいったが 大学に行かせることが条件だったそうだ。 17年後、ぼくが行った リード大学はスタンフォードなみの授業料で 当時の両親の全財産を使い果たすほど高かった。
人生で何をしたいかもわからないぼくは 6ヶ月もすると大学にいる意味が見いだせなくてやめてしまった。 これは後に非常にいい選択になった。 単位取得が関係なくなったのをいいことに その後しばらく大学の講義にはでていたが興味のある講義だけにでることができた。 もちろんいいことばかりではなく友達の寮の床で寝泊りして コカコーラのビンを売って大学には通い続けた。 だけど当時自分の直感と好奇心のためにやったことが後々お金に換えがたい経験になっていく。
当時 リード大学の構内のいろんなところに カリグラフィーが使われていて本当に美しかった。 リード大学はカリグラフィーに関してはアメリカでもトップクラスの講義があり、すっかり魅せられたぼくはそこで芸術としての文字について学んだ。
10年後このことが マッキントッシュの開発の時に一気に花開いた。 もし ぼくがあそこで大学をドロップアウトして カリグラフィーをやっていなければマッキントッシュにはあの美しい文字列はなかった。 もっと言えばウィンドーズは所詮マックをコピーしただけなのだから パソコン自体に今のような文字の選択や概念はなかっただろう。
今・現在・未来を見て点はつなげない。 過去を見たときに初めてつながりが見える。 だけど将来 必ず点がつながれることを信じてやって欲しい。 そして強い信念を持って欲しい。 どんな信念でも構わない、持つことが重要。 仮にレールからはずれることになってもその信念が自分を救うことになり他との違いがでる。
二つ目の話は 愛と喪失 ( Love and Loss )について。
ぼくは30にしてアップルを創ったが クビになった。 自分の創った会社から解雇されるのは不思議に思うかもしれない。 それは そもそもはアップルの成長のために雇った人と意見が食い違い始め、ビジネスに支障をきたしたが そのときにボードは僕ではなく彼を選んだ。
ぼくは30にして成人してからの人生のすべてを失った、そして何をしていいかわからなかった。 自分が起業家の面汚しと感じて ディビッド・パッカード ( HPの創業者 )と ボブ・ノイス ( インテル創業者 )に謝りにいった。 ぼくは失敗した。 それも大きく公に失敗した。 一時期は シリコンバレーから逃げ出そうかとも思った。
でも… やっていることを愛している、 もう一度やろうと思った。 今にして思えば アップルをクビになったのはすばらしいことだった。 軽くなった、 愛していることを再びすることができた。 そして生涯、 愛することとなるすばらしい女性と会うこととなった。 事業では ネクストと ピクサーをつくり どちらも大成功した。 それからなんとアップルは ネクストを買収することになり ぼくはアップルに戻ることになった。 そしてプライベートでは すばらしい家族をもつことに…。
アップルをクビになったのは本当に苦い薬だった。 でも患者はそれを必要としていたように思う。
人生は時々 レンガで頭を強くたたいてくることがある。 だけど ぼくを動かし続けたのは やっていることを愛する力だ。 絶対に愛することを見つけないとだめだ。 それは仕事でも人生でも同じことが言える。 探し続けろ、妥協はするな。
自分が偉大だと信じることをやれ、 愛していると思うこと、 人を探せ。 見つけたときにそれは自然とわかる。
探し続けろ、 妥協はするな。
三つ目は 死 ( Death )について ぼくは 17のときある言葉と出会った。 それは 「 明日 死ぬと思って今日を生きれば そのうち自分が正しい日がやってくる。」 と言うものだ。
それ以来 毎日のように自分に聞く。 「 もし明日 死ぬ運命なら 今日このことをするだろうか?」 もし数日ノーが続くようなら 何かを変えないといけない。 この言葉はぼくにとって最高のツール。 死を意識したときに 何も失うものがないことに気がつく。
ぼくは一年前に余命6ヶ月の癌を告知され、 死の準備をするように言われた。 その後精密な細胞検査を受けたけど 顕微鏡を覗いていた担当医は泣いていたことをワイフから聞いた。 検査の結果 極めて稀なタイプの癌細胞で手術で摘出可能だとわかり… おかげで今日ぼくは元気だ。
これを経験したから以前よりもっと確かに言える。 死にたい人なんていない。 天国へいくような人でも 死に急ぐことはしないが 「 死 」は全員が共有する目的地だ。
だけど 「 死 」は人生の中で最もすばらしい発明だ。 「 死 」は変革者であり、 「 新しき 」のために 「 古き 」を一掃する。 そして今日 君たちが 「 新しき 」人だ。 だけどいつか君たちも古くなる日がやってきて一掃されることになる。 こんな言い方をして悪いが これはさけようのない事実。 そう君たちに残された時間はあまりにも少ない。
だから他人の人生を生きるのに時間を無駄にしてはいけない。 教義に囚われるな、 それは他人の思考の結果を生きることだ。 他人のノイズに惑わされ自分の内なる声を引き抜くな。
そして最も大事なのは自分の心と直感に従う勇気を持て。 どういうわけか本当になりたい自分を自分はすでに知っているのだから。 他のすべてのことは 二の次だ。
私が若い頃 ” Whole Earth Catalogue ″ という雑誌のような媒体があった。 1960年代後半だったので はさみとのりとポラロイド・カメラがまだ使われていたが、 紙媒体のグーグルとも呼べるようなものだった。 それも 1970年代中盤には無くなることになるが、 最終号の裏表紙に書かれていた言葉が今でも非常に心に残っている。
『 ハングリーであれ、 愚かであれ 』 ” Stay hungry ! , Stay Foolish !″ ぼくは いつも自分がそうありたいと願っている。 そして今日、君たちにも そうなることを願いたい。
『 ハングリーであれ、 愚かであれ 』 ” Stay hungry ! , Stay Foolish !″
みなさん 本当にありがとう。