宮沢賢治と音楽についてのお話しをします。

大正という時代は1926年12月25日に終わります。 その3週間前の 12月2日に 30歳となっていた宮沢賢治は花巻から チェロを持って上京します。 22歳頃にレコードを聞くことではじまった西洋音楽へのこだわりは28歳頃にはビオラなどの楽器を準備した上で器楽合奏の練習に励むとともに、 レコード・コンサートを何回も催すなど賢治の生活のなかで重要な役割を果たし始め、当時の地方都市では考えられない枚数のクラッシック音楽のレコードを収集するなど熱のこもったものでした。

上の写真でネクタイをしている大津三郎さんは この当時 1926年1月に発足したNHK交響楽団の前身となる 『 新交響楽団 』で トロンボーン奏者をやっていました。注)1   そして上京した賢治は彼らが事務局としていた 銀座・数寄屋橋のピアノ販売店 『 塚本商行 』2階の練習場を訪ね 懇願の末、上写真に写っている荏原の大津さん宅で早朝 6時半から 3日間の チェロの特訓をうけることとなりました。 大津さんは 1896年8月生まれの宮沢賢治の 4歳年上でした。

下の写真は賢治が練習場をたずねてから 2年 4ヶ月程後の 1929年4月に日本青年館で『 新交響楽団 』による演奏会のおりに撮影されたもので 注)2  指揮者を二年間務めた ヨーゼフ・ケーニッヒ さんの( 前列中央 )最後の演奏会のものです。  トロンボーン・パート右側が 37歳の大津さんで ケーニッヒ さんの左側が 近衛秀麿さん、 指揮者の譜面台右側にチェロを構える 26歳の斎藤秀雄さん、1st ヴァイオリン3プルト裏に 同じく26歳の鷲見三郎さんなどが見えます。 この写真が撮影された頃 花巻で宮沢賢治は 稗貫農学校の教師を退職してはじめた 『 羅須地人協会 』が頓挫し 1928年12月に発病した急性肺炎がなかなか治癒せず療養しながら 1924年ころ執筆をはじめた 『 銀河鉄道の夜 』の原稿の改筆 ( 31年頃まで続けられ4稿が残されていて最終稿が没後の1934年に出版されました。 )や 『 セロ弾きのゴーシュ 』( 同じく死去した翌年に出版 )の執筆を続けていたと考えられます。

大津三郎さんは ブルッフの 『 コル・ニドライ 』 が好きで チェロでよく弾いていたのを 娘の日出さんは覚えているそうです。 彼女の想像では 『 セロ弾きのゴーシュ 』のなかで、猫が 『 トロイメライ 』を弾けと言う場面がありますが 『 コル・ニドライ 』の旋律が意識の底にあったと思うと話されていました。 実際に 1925年1月18日の日付のある詩 『 氷質の冗談 』の余白にも、賢治の自筆で  Kol Nidrei     Max Bruch  と書かれていることから、すくなくとも 『 コル・ニドライ 』は 賢治が愛好した曲であるとともに この詩のBGMだったと考えられています。 1921年上京して再会した同人誌 『 アザリア 』( 1917~18 )の保阪嘉内との決別や 最愛の妹トシが 1922年11月27日に 24歳の若さで永眠し、深まる孤独感に法華経とともに 『 音楽 』が数少ない癒しや安らぎを与えてくれたのでしょう。  彼の『 銀河鉄道の夜 』を読むと、孤独な少年ジョバンニと 溺死した友人カムパネルラの寓意により表現された喪失感は深く、それと対を成すかのようにタイタニック沈没時( 賢治が15歳の1912年4月15日未明でした。)の逸話である讃美歌 320番 『 主よみもとに近づかん… 』を思い起こさせる表現があったり ( 第2稿では320番の歌詞が書かれていました。)、サウザンクロス( 南十字星 )でのハレルヤ( ” ハルレヤ ” )は彼が描く美しい星空に響きます。

この頃の作品で描かれる宮沢賢治の世界は 37歳 1カ月で死去する 1933年9月21日まで …例えば 1931年9月の上京時の発熱の記録からはじまる『 最後の手帳 』に 自宅で臥床していた11月3日に書きつけた 『 雨ニモマケズ… 』 のように願望と現実の相違の悲しさ苦しみの字間に 『 やさしさ 』が満ち溢れた” 詩 ” などがそうでしょうが 『 銀河鉄道の夜 』の最終稿で書かれた ” 境地 ” を あたかも強化しようとしているかのように反復されているように思います。

宮沢賢治が『 最後の手帳 』を使いはじめたころである 1931年9月18日には満州事変が勃発し、1937年には盧溝橋事件と拡大していきました。  日本青年館で『 新交響楽団 』の写真が撮影されて10年後の昭和14年( 1939年 )に 47歳となった大津三郎さんと家族は日本の国策に沿って満州の新京に渡りました。 そして真珠湾攻撃で太平洋戦争がはじまり 日中戦争が激しくなった 1941年頃 内地に引きあげ、すでに人手に渡っていた賢治との思い出もある旧居の近くに住まいを構え 内幸町のNHKで依頼された写譜の仕事に自宅で励みながら 54歳の時に終戦を迎えられました。

それからまた月日を経て宮沢賢治が亡くなって27年たった 1960年に大津三郎さんは 69歳で亡くなられました。 最後にその時の様子を 1998年発行の 『 宮沢賢治学会 : イーハトーブセンター会報 第十六号 』の中村節也さんの 『 聞き書き ‐ 大津三郎のこと 』より引用します。 大津さんの通夜のとき、遺骸の胸の上にはその年の1月に ローゼンシュトック指揮による NHK交響楽団 初演のショスタコヴィッチの 「 第五交響曲 」のスコアが置かれていたそうです。  “  … それが大津さんの 最後の大きな仕事でなかったかとおもう。

【 人生は死にたいする一連の前奏曲である 】 アルフォンス・ド・ラマルティ-ヌの 『 詩的瞑想録 』に因んだ リストの「 レ・プレリュード 」が葬儀のとき流れていた。 この曲は大津さんが 『 日露交歓演奏会 』のときに演奏した いちばん好きな曲だったという。 ”

   

 

注)1 大津三郎さん( 1892 ~ 1960 )は 明治 四十三年 海軍軍楽隊入隊、大正三年海軍省委託生 弦楽専修生として二年間、東京音楽学校で信時潔に チェロ( セロ )を学び、大正九年海軍退役後、諏訪丸の楽士、ハタノ・オーケストラを経て、新交響楽団に入団、昭和14年に渡満、帰国後は写譜を専業とされていました。

注)2 これらの写真は 上写真( 1939年頃 ? )の右側に写っている「 女の子 」 である 大津日出さんからいただきました。 彼女は ヴァイオリンを鷲見三郎さんに師事し 第14回 日本音楽コンクールで2位を獲得するとともに新交響楽団の時期からNHK交響楽団で ヴァイオリニストをされていました。 上の写真が撮影された大津さん宅の庭の一角には賢治から花壇の造り方を教えてもらった大津三郎さんが造った花壇があったそうです。 これは 賢治が 花巻の教え子のために設計した 『 南斜花壇 』とそっくりだったそうで、日出さんとお母さん ( 写真和服女性 )は 後年、花巻で賢治の設計図に基づいて復元された 『 南斜花壇 』を見てそのことに気づきとても懐かしかったそうです。

注)3 記述中の一部に 大津日出さんより頂戴した 1998年発行の 『 宮沢賢治学会 : イーハトーブセンター会報 第十六号 』の記事を引用いたしました。