ヴァイオリンの調整技法についてのお話しです。 ( part 5 – A )

2013-5-14

私事で恐縮ですが  弦楽器製作や修理そして楽器調整のためにヴァイオリンなどの特性やバランスをイメージする基礎としているのは弦楽器のジャンルを越えたさまざまな事象の記憶です。

たとえば 私が大学生だった 31年ほど前にはじめて目にして 感銘を受けた下の写真もそうです。

この ブロー・ノックス・デュアル・キャンチレバー・タワー 、別名 “ダイヤモンド・アンテナ” ( Blaw-Knox dual cantilevered towers.  A.k.a. “Diamond antenna”. )を 皆さんはご存じでしょうか?

因みにこの写真は 1933年にハンガリー・ブタペスト(  Lakihegy )に建設された”ダイヤモンド・アンテナ” を撮影したものだそうです。 その高さは 314.0m もあり建設当時はヨーロッパで最も高い構造物だったとされています。

そして念のために申し添えれば エッフェル塔は 1889年の竣工当時 世界一の高さを誇っていましたが 旗部を含んで 312.3m でした。その後の 1940年代になって エッフェル塔は 放送用アンテナが設置され324.0mとなり現在にいたっています。

1933年に Lakihegy タワーが竣工した当時 すでにエッフェル塔の世界一の座はニューヨークにある クライスラー・ビルなどのマンハッタンのビルディングに奪われていましたが、ヨーロッパ地域ではまだ最も高い建造物とされていました。  クライスラー・ビルは 1930年 にマンハッタン・カンパニー・ビル( トランプ・ビル )の 284.0m を抜く 319.0m( 283.0m )として竣工しました。 しかし その翌年の1931年にエンパイア・ステート・ビルディング( 381.0m –  1950’s 電波塔増設  443.2m  )が完成した事によりひとまずこの競争は終結しています。

 

高さ314.0mの Lakihegy タワーと 312.3mの エッフェル塔のどちらも基礎には大きな荷重が掛っています。とくにエッフェル塔は おおよそ4000t といわれている東京タワーの2倍位はあるそうです。資料集ではエッフェル塔は材料の錬鉄だけで約7300t とされ、すべて合わせると約9700t から10,000t とされています。

この高さと重さを支えるために基部は4脚あわせると そこそこの面積が確保されているのが上の写真からもご理解いただけると思います。それから エッフェル塔の基礎部分には面積のほかにも慎重な配慮がなされました。とくに軟弱な地盤であるセーヌ川に面する2脚の基礎工事には 1841年にロワール川の砂洲でフランスの M.トリジェールが世界ではじめて鉄筒( 鉄製ケーソン )と圧気を利用し20mの深さまで掘削・沈設に成功し その後 改良された『  潜函工法(ニューマチック・ケーソン) 』が採用されました。

この工法は1874年に完成したセントルイスのイーズ橋や 1883年竣工のアメリカ、ブルックリン橋主塔基礎工事や、1890年に建設されたイギリスのフォース鉄道橋の基礎などで採用されたもので この『  潜函工法(ニューマチック・ケーソン) 』の採用があったことや、塔の基部に水平に保つためのジャッキを組みこむなどの多くの工夫がエッフェル塔が工期2年2ヶ月と5日で竣工したことにつながったと言われています。

 

     

     

     

     

     

さてもう一方の ブロー・ノックス社が建設した “ダイヤモンド・アンテナ” の場合にも その独特なフレキシブル・ベースには過酷な荷重がかかっています。

冒頭の写真にある” Lakihegy ” タワーは ドイツ軍により破壊され現存していないため( 戦後に再建されました。)”Lakihegy” タワーが 314.0m ( 1,031 フィート )で竣工した翌年である 1934年にアメリカ・オハイオ州 メイソンに WLWアンテナとして建設されたブロー・ノックス・アンテナを参考例としてあげさせていただきます。
WLWアンテナは高さが 831フィートで竣工し その後の事情で 747フィートに改造されて現在にいたります。そのアンテナ重量は 約 136t だそうです。

上部にある “ダイヤモンド・アンテナ” のおよそ 136t の荷重はこのフレキシブル・ベースの一点で支えられています。このために台座側は 300t 以上の負荷がかかっても破損しないように設計されているそうです。

http://hawkins.pair.com/wlw.shtml

現在、北アメリカにはブロー・ノックス社が建設した “ダイヤモンド・アンテナ” が 8基残されています。
その中で最も高いのが 1932年にテネシー州ナッシュビル郊外にWSMラジオ・タワーとして竣工した下の写真の塔で、竣工時には高さが 878フィートあったそうです。
これは1939年に受信状況を改善するために 246m( 808フィート)に改築され現在に至っています。このラジオ・タワーの建設以降 ブロー・ノックス社は全米各地からの受注が相次ぎます。 こうして10年後の 1942年には米国内のすべてのラジオ塔の70%がブロー・ノックス社が建設したものという状況を生みます。

 

     

http://hawkins.pair.com/wsm.html

このWSMラジオ・タワーは 計算値で 約300t の重さとされ、それを支えるベース・インシュレーター( porcelain insulators / 磁器ガイシ )は600tまで耐えられるように設計してあるそうです。

因みに 1932年10月にブロー・ノックス社  “ダイヤモンド・アンテナ 建設チーム” はテネシー州ナッシュビル郊外でこのWSMラジオ・タワーを竣工させるとすぐに 前出のオハイオ州メイソンにあるWLWラジオ・タワーの建設現場に移動し1934年4月14日には それを完成させていますので、工期は1年5ヶ月といったところのようです。

下はアメリカで 1933年に 取得された “ダイヤモンド・タワー( Blaw Knox-Antenne ) “の特許(  USA, No.1897373 )で、発明者の Nicholas Gerten さんはペンシルバニア州 ピッツバーグにあるブロー・ノックス社の社員とのことです。 1927年頃にこの構造からはじまったブロー・ノックス・アンテナは改良を重ね 1931年頃には冒頭の写真にあるタイプとなり 1936年の特許( U.S., No. 2116368 the inventors Edward J. Staubitz )のころには全米各地で盛んに建設されました。これは 1958年にブロー・ノックス社がこの部門を廃止するまで続いたそうです。


私はこの”ダイヤモンド・タワー( Blaw Knox-Antenne ) “のつり合い方やゆれ方‥なかでも回転運動などの要素が ヴァイオリンと類似していると思っています。
あご当ても含んだヴァイオリンの重さは およそ450g位で全長が590mm前後なのに対し、WSMラジオ・タワーの 300t ほどの質量と 246mの高さは直接比較してもあまり意味はないと思いますが、力学的に考えてみると‥ いろいろ思い当たる事柄があるからです。

私は “ダイヤモンド・タワー “の写真を見たときから『 ヴァイオリンの質量の中心はどの位置におかれたか?』について考え‥ 現在も その検証を続けています。

下のリンクは Tobias Hutzler – ” BALANCE  / バランス・パフォーマンス” です。
(  5分44秒 )

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ヴァイオリンという弦楽器は 多声音楽( ポリフォニー )の礎が築かれた ルネサンス末期にあたる16世紀半ばに誕生したことが知られています。
そして17世紀に入るとバロック音楽の発展やオペラの隆盛  注)1 などによる大きな需要に応えるために盛んに製作されました。ヴァイオリン製作で名高いクレモナも この” 時代の風 ” によって広く知られることになりました。

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注)1 たとえば ヴェネツィアでは 1613年にオペラ『 オルフェオ 』の作曲( 1607年 )で高名だったクレモナ生まれの モンテヴェルディ( 1567-1643 )が サン・マルコ寺院の楽長となり音楽の様式に変革をもたらした改革者として死去するまで活躍します。また 1637年に設立された『 最古の歌劇場 』として有名なサン・カッシアーノ劇場などのオペラ劇場は17ヶ所を数え器楽発展のあと押しをします。

そして1703年からピエタ慈善院付属音楽院 でヴァイオリンの指導と作曲活動をおこなった ヴィヴァルディ( 1678-1741 )の登場です。彼は 1675年からローマで活躍していたコレッリ( Arcangelo Corelli  1653 – 1713 )の影響を受けたといわれています。このヴィヴァルディは 1711年に『 調和の霊感 』を出版します。これはバッハ( 1685 – 1750 )が 1731年頃に『 4台のチェンバロのための協奏曲イ短調 』BWV1065 などとして引用したことでも有名ですね! このほかにヴィヴァルディは 1713年からはオペラ作曲家としての活動も開始しその分野でもヨーロッパ中で知られる存在だったそうです。
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ヴァイオリンなどに関する出来事で 私達にとって重要なことは この時期の日本にヨーロッパから ヴィオール やリュートなどの弦楽器とアルパ( 小型ハープ )、クラヴィコード( 鍵盤楽器 )などが持ち込まれ 演奏されたという事実です。


Nagasaki,  JAPAN

ヴァイオリンが誕生する 少し前の 1522年には『 マゼラン( 1480 – 1521 )の世界周航 』が達成され すでに『 大航海時代 』が到来していましたので 話はグローバルです。

日本史でも重要事項として扱われている天正遣欧少年使節は  1585年 7月18日にクレモナを訪れました。それはイベリア半島の付け根に位置するナバラ王国にあるサビエル城で生まれた フランシスコ・ザビエル(  Francisco de Xavier  1506 – 1537  叙階 – 1552 )が 1549年に鹿児島に上陸して日本にキリスト教を伝えてからから 36年後にあたり、この旅の目的地であるローマで 教皇グレゴリウス十三世に謁見 (  1585年3月23日 → 4月10日死去 )するとともに 後任の新教皇シクストゥス五世( 在位 1585 – 1590 )にも謁見を許され その後の戴冠式( 5月1日 )に参列した後の帰途でヴェネチア、ヴェローナ、ミラノ などの諸都市訪問の旅をしているときの出来ごとでした。

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私にとって興味深いのは天正遣欧少年使節一行がクレモナに滞在した時に 四人とほぼ同年齢のクレモナ生まれで 1590年には マントヴァ公国の宮廷に仕え その後 ヴェネツィアのサン・マルコ寺院の楽長となったモンテヴェルディ(  1567 – 1643 )と彼らが 会ったかどうか‥ ということです。
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客観的に考えればこの時彼らがクレモナに立ち寄った要因は クレモナ出身でこの後の 1590年に ローマ教皇グレゴリウス14世 ( 在位 1590年 – 1591年 )となるクレモナ大司教 スフォンドラート(  Niccolo Sfondrato  1535 – 1591 )がいたからだと思われます。 使節一行が訪れたこの時 クレモナ大聖堂の楽長は ルネサンス音楽の作曲家で オルガン奏者のマルカントニオ・インジェニェーリ(  Marc Antonio Ingegneri   1547 – 1592 )が務めていました。 そして意味深いことに インジェニェーリ は モンテヴェルディの作曲の師でもあったのです。
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ニコロ・スフォンドラートも、そして 当然ですが インジェニェーリも 総じて音楽の熱心な後援者となり、音楽を通じて街の名声を高めたといわれている人達ですから 私は個人的には天正遣欧少年使節一行とモンテヴェルディが 語らう位のとりなしがあったと想像しています‥ 。 それから 天正少年使節が日本に持ち帰った楽器はスペインのアルカラで贈られたものが多かったようですが、私は すくなくとも ヴィオールはクレモナで作られたものだったと考えています。
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ローマ教皇の謁見の翌年( 1586年 )アウグスブルクで出版された使節の肖像版画。
右上で王冠を手にしているのが 正使(主席)伊東マンショ、左上で手袋を手にするのが同じく正使 千々石ミゲル、右下が副使の中浦ジュリアン、左下が原マルチノ、上中央が使節に同行した ディオゴ・メスキータ神父といわれています。(京都大学図書館蔵)
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こうしてヨーロッパでは使節一行にとって幸せな時間がながれました。 しかし帰路についた彼らはこののちに運命の残酷さを知ることになります。少年達がキリシタン大名である豊後の大友宗麟( 1530 – 1587 )、肥前・大村の大村純忠( 1533 – 1587 )そして 肥前・島原の有馬晴信( 1567 – 1612 )のローマ教皇に対する使者として長崎を出港した 1582年2月20日 以降も時代は立ち止まっていなかったからです。
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すでに日本では遣欧少年使節が出帆してわずか 4ヶ月後の 1582年6月21日に『 本能寺の変 』が 起こり織田信長( 1534 – 1582 )が自害し、豊臣秀吉( 1537 – 1598 )の時代が始まっていたのです。その上に‥ 祖国をめざした遣欧少年使節一行がインドのゴアに到着した 1587年 に長崎では 大村純忠が そして豊後では大友宗麟が相次いで死去します。

そして 1587年7月には ついに 豊臣秀吉によるバテレン追放令が発布されました。 日本でキリシタン排斥の動きが進行していた 1590年7月21日に使節団は 長崎に帰港します。  しかし 謁見の許可がなかなか下りず 1591年3月3日になってやっと 聚楽第において豊臣秀吉に謁見がかない、そこで西洋音楽の( ジョスカン・デ・プレの曲といわれています。)御前演奏をしたと伝えられています。
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私にとっても非常に残念なことですが これらの活動もキリシタン排斥の動きをとめることは出来ませんでした。 この出来事からまもなくして 彼ら四人にも 峻烈な迫害が加えられます。

  • 伊東マンショ      c. 1569年 – 1612年(正使) 大友宗麟の名代。
    宗麟の血縁。日向国主の孫。後年 司祭に叙階。1612年長崎で 潜伏中に死去。
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  • 千々石ミゲル      c. 1569年 – ( 1633年 ? )(正使) 大村純忠の名代。
    純忠の甥、晴信の従兄弟。信教による身内の苦難を耐えきれず1601年に棄教。
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  • 中浦ジュリアン  c. 1568年 – 1633年( 副使 )後年 司祭に叙階。
    彼は 1633年に長崎で『 穴づり』の拷問によって殉教しました。
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  • 原マルティノ   c. 1569年 – 1629年(副使)後年 司祭に叙階。
    彼は迫害に遭ったことによる病により 1629年 追放先のマカオで死去します。

こうして日本のキリシタン弾圧は激しさを増し 1580年にイエズス会が島原半島の有馬に設置し 第一期生のなかから ” 天正少年使節 ” がえらばれた 『 セミナリオ  』も いく度にもわたる移転のはてに長崎のセミナリオ ( 1612年 ~ 1614年 )を最後に途絶えました。

そして 1637年12月11日最後の大規模な一揆となった『 島原の乱 』が勃発します。 この反乱は 1638年4月12日に落城したことにより原城の籠城者のほぼ全員が (  正確な人数は不明ですが、私は 27,000 ~ 37,000人 であったと思っています。)戦闘と飢えと鎮圧後におこなわれた処刑で命を落とします。 そしてこの国では江戸時代をとおして徹底した迫害がおこなわれたため ヨーロッパから運ばれてきた西洋楽器や 印刷機などの文物のほとんどが失われてしまいました。
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ポー平原の中央に位置するクレモナは ミラノから 80㎞、ブレッシアから 60㎞、トリノとヴェネツィアからおおよそ200㎞ほどに位置する古都で ポー川などの水上交通や街道などによって それらの都市や モデナ、ボローニャ、フィレンェ、ローマ、ナポリなどと繋がっていました。

ヴァイオリンを取りまく状況を文化的な側面から見るとルネサンスやバロック期は非常に豊かだったといえると思います、しかし社会的には決して平穏な時代ではありませんでした。

東ローマ帝国の末期にオスマン・トルコは支配地域をひろげていき 1453年についにコンスタンティノーブルを陥落させ東ローマ帝国( ヴィザンチン帝国 )を滅亡させます。 オスマン帝国はこの後も勢力範囲をひろげ この抗争の最終局面でヴェネツィア共和国、スペイン、ジエノヴァ共和国、教皇領などの艦船で結成された神聖同盟艦隊( ローマ教皇連合艦隊  )とオスマン帝国艦隊が イオニア海にあるレフカダ島沖で戦うことになります。 この “プレヴェザの海戦( 1538年 ) “は神聖同盟艦隊側の敗北に終わり 以降はオスマン帝国が地中海の制海権を握ります。こうした変化はヨーロッパ音楽に影をさし、当然ながらヴァイオリンなどの製作環境にも影響をあたえました。

それから『 ペスト( 黒死病 )』などの『 疫病の大流行 』が大きな社会不安を発生させていたことも重要だと思います。 ペストは まず 1348年 ∼ 1351年にかけてコンスタンティノープルをはじめ、キプロス、サルデーニャ 、コルシカ、マジョリカ等の地中海の主要都市、さらにマルセイユ、ヴェネチア等の港町にまず上陸して、翌年に入るとアヴイニヨン、フイレンツェそして イングランドまで広がり、その次の年にはスウエーデンやポーランドも浸食し 1351年にはロシアにまで達したそうです。 この流行ではヨーロッパの総人口8000万人のうち、その約三分の一にあたる2500万人が 犠牲となったといわれています。

悲しいことに このときの大流行をきっかけとして、ペストはいわば風土病化してヨーロッパの地に根を下ろし、 それ以後18世紀にいたるまで何度もくりかえし発生しまた。 とくに 17世紀にはヨーロッパの各地 で頻発したことが記録されています。アムステルダムでは 1622年から1628年にかけてペストが毎年 発生して 3万5000人程が死亡し、パリでは 1612年、1619年、1631年、1638年、1662年、1668年 ( 最後の流行 )にペストが流行して大きな被害がでました。ロンドンでは 1593年から1664年にかけて、そして 翌年の1665年と ペストが 5回も流行し 死者の合計はおよそ 15万6000人におよんだと言われています。
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因みにクレモナも何度にもわたってペスト禍にみまわれ 1630年の大流行の際には アンドレア・アマティの息子で父の工房を引き継いでいた ジロラモ・アマティ( Girolamo Amati  1561 – 1630 )とその妻 そして 2人の娘が犠牲となり、アマティ工房は 34歳となっていた ニコロ・アマティ( Nicolo Amati  1596 – 1684 )が引き継いだといわれています。
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このアマティ工房は クレモナの木工や金細工職人が集中した地区で  ” 島 ( isola )” とよばれた San Faustino にあり、イタリア最古のヴァイオリン製作者として知られる アンドレア・アマティ( Andrea Amati  c.1505 – 1579 )が プレヴェザの海戦の翌年である 1539年頃に工房を設立したことに始まり‥ すばらしい事に1740年に アンドレアの曾孫である ジロラモ Ⅱ( Girolamo Ⅱ Amati  1649 – 1740 )が亡くなるまで四代に渡りおよそ200年間 ヴァイオリンなどの名器が製作し続けられたことで広く知られています。

 

アンドレア・アマティが生まれたころクレモナは ミラノ公国の属領となっていて 1513年から 1524年がスペイン王国、ついで 1524年からの2年間フランス王の支配を受けました。 そして 1526年 から『  スペイン継承戦争 』までの 『 174年間 』という長期間が スペイン王国領でした。

クレモナが スペイン領からハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール六世( 1685 – 1740 )が支配するオーストリアの領土となったのは、アンドレアの孫にあたるニコロ・アマティ( Nicolo Amati  1596 – 1684 )が亡くなって23年後のことでした。

『 スペイン継承戦争( 1701 – 1714 ) 』での クレモナは 1701年から1702年の『 クレモナの戦い 』でオーストリア軍に敗れるまでフランスが短期間支配したのちに 1707年にミラノまでの北イタリア やナポリなどをオーストリア軍が平定したことによりハプスブルク家の所領となります。この状況は 1713年の『 ユトレヒト条約 』などにより確定する事となりました。


1713年の『 ユトレヒト条約 』によるヨーロッパの勢力図(  茶色はイギリス、青はフランス、黄色はスペイン、緑はオーストリア、橙はサヴォイア、深緑はブランデンブルク=プロイセン  )

この時期の諸国間の勢力図は 1720年にサヴォイア公とハプスブルク家の間でスペイン継承戦争の際に獲得したシチリア島をオーストリアに割譲する代償としてサルデーニャ島をサヴォイア公国が領有することによりトリノを実質的な首都として サルデーニャ王国の成立を認めるなどの動きがありました。


こういった社会情勢下でクレモナでのヴァイオリン製作はアマティ工房を中心に展開されていました。 上の地図にあるように 1680年にはアントニオ・ストラディヴァリも アマティ工房がある San Faustino に工房を設立します。( No.⑤ )これはニコロ・アマティの絶大な信頼を得ていた兄弟子 アンドレア・ガルネリが 1654年頃から住んでいた家( No.④ )のお隣でした。

この時 ストラディヴァリ( 1644 – 1737 )は 36歳くらい、師であるニコロ・アマティ( 1596 – 1684 )は 85歳前後 、そして兄弟子 アンドレア・ガルネリ( 1626 – 1698 )は 54歳で ジロラモ・アマティⅡ( 1649 – 1740  )は 31歳と考えられます。

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ヒル商会( William Henry Hill, Arthur F. Hill & Alfred Ebsworth Hill著 )が研究書として 1902年にロンドンで出版した  ” Antonio Stradivari, His Life and Work (1644-1737) “や
1931年に出版の ” The Violin-Makers of The Guarneri Family (1626-1762) ” によれば、ヴァイオリンの製作技術を 初代アンドレア・アマティ( c.1505 – 1579 )と二代目にあたるアマティ兄弟( Girolamo  1561 – 1630 , Antonio 1540 – 1640 )までは『 家職 』として 『 一子相伝 』的にあつかっていたと記述されています。

このスタイルを三代目のニコロ・アマティ( 1596 – 1684 )は激変させたそうです。
これは当時クレモナにはイタリア各地の宮廷やその他の国々から楽器の注文が殺到しておりもっと大々的に製作する必要が生じていたためと伝えられています。
このニコロ・アマティの決断はグアルネリ・ファミリーや ストラディヴァリ・ファミリー、ルジェーリ・ファミリーなどを生みだしヴァイオリン製作にとって非常に重要な意味をもっていました。

私は 音楽文化の中心が宮廷サロンから劇場・ホールに移る流れはヴァイオリンの改良を促進したと考えています。 その参考に当時の演奏会場の資料がほしかったのですが、さすがに1600年代のサロンや音楽ホールは ほとんど現存していないため 1700年代中頃に使用された音楽ホールの資料を 1985年に マイケル・フォーサイス氏( Michael Forsyth )が ” Buildings for Music “のタイトルで出版した書籍の翻訳版( 『 音楽のための建築 』1990年 長友宗重氏、別宮貞徳氏 共訳 / 鹿島出版会刊  )p.31 ~ p.49より引用させていただきたいと思います。

『 ‥  1791年から1792年、1793年から1794年にかけてのシーズンに、ここハノーヴァ・スクェア・ルームでハイドンは、93番から101番までの《ザロモン交響曲( ロンドン交響曲 )》を指揮したのである。これらは特にこのコンサートホールのために書かれたもので、堂々たる成功をおさめた。

中でも94番ト長調《驚愕》( 1791年 )と100番ト長調《軍隊》( 1794年 )が素晴らしかった。ザロモン自身は四重奏の専門家で、ハイドンは1793年に ハノーヴァ・スクェア・ルームで演奏するザロモンのために作品71と74の弦楽四重奏曲を書いた。

室内ではなくコンサートホール用に四重奏曲を書いたのはこれが初めてで、ハイドンがその目的とする建物に書法を合わせていることがよくわかる。オーストリアの貴族のコンサートや 私的な家庭音楽会のために書いたのどかな、親しみのある四重奏曲に比べて、オーケストラ的といってもいいような響がし、構成は雄大で、一段と力強く、また< 公的 >な性格が感じとれる。

コンサートホールは、1794年2月25日付け『 ジェネラル・イブニング・ポスト 』 の記事によると、縦横24.1mと9.7m、高さは書かれていない。しかし、当時の図面を見ると、チプリアーニの絵を飾ったヴォールト天井は、高さおよそ6.7ないし8.5mと推定される。少なくとも一方の壁には窓があり、ゲインズボロその他の絵がかかっている。オーケストラ席は、初めルームの東端だったのが、後に西端に変更された。1804年に古代音楽演奏会がキングズ・シアターからハノーヴァ・スクェアに移った時、ロイヤル・ボックスが3つ東の端につくられた ( 建物はあ1848年までガッリーニから年1,000ポンドで借りていた )。ステージは円形劇場風に高く傾斜が急で、視線に、したがって〈 音線 〉にも邪魔が入らない。

ほぼ180㎡の場所に定員800席だから、たいへんな混み方だったと思われる。1792年のハイドンのための慈善コンサートには、なんと「1,500人が入場した」といわれている。満員状態での音の吸収は相当なもので、中音域の残響時間は1秒足らず、特に低音のレスポンスが低かっただろう。その結果、オーケストラの響きは明瞭で透明だが、音響効果は、今日最上とと思われるものよりずっとドライだったに違いない。しかし、当時は素晴らしいと考えられていたらしく、1793年6月29日の『 ベルリン音楽新聞 』には次のような読者の投稿が掲載されている。

ザロモンのコンサートが行われたルームは、ベルリンのシュタート・パリス(Stadt Paris)
と較べて、奥行きは同じようなものだが、幅は広く、きれいに装飾され、ヴォールト天
井である。ホールの音は筆舌に尽くしがたいほど美しい。

ホールが小さいだけに、さぞや大きな音に聞えたことだろう。特にハイドンが《 ロンドン交響曲 》のために使った「 大 」オーケストラではそうだったにちがいない( 1791年から92年にかけててのシーズンには35人編成、翌シーズンにはさらにクラリネットが2本追加された )。間口が狭いから、オーケストラがフォルテッシモで演奏すると、どの席も壁側から強い反射音を受け、空間的な拡がりの感じは申し分なかっただろう( 第1章で述べた空間的拡がり感のこと。弱音の場合は、ほとんど直接音しか耳に届かないから、そうならない )。

18世紀も末になると、ほかにも多くのコンサート・ルームがロンドンで使われていた。前述のアルマックはウィリス・ルーム( Willis’s Rooms )と名を改め、1776年にはトマス・サンドビー( Thoumas Sandby )設計のフリーメンソンズ・ホールが開場して、数年古代音楽アカデミーの使用するところとなった。古代音楽アカデミーは1726年に声楽アカデミーとして設立され1792年まで続いた出色の音楽家集団で、以前は、18世紀に人気のあったもうひとつのコンサート会場居酒屋 「 王冠といかり 」( The Crown and Anchor Tavern )で演奏していた。1772年にフランシス・パスカリ( Francis Pasquali )なる音楽家が建てたトッテナム・ストリートのコンサート・ルームが、1785年に改装拡張されたが、それは、ジョージ3世が古代音楽コンサート( 古代音楽アカデミーから分かれたもの )のパトロンとなり、この団体がそこで定期演奏をするようになったからである。トッテナム・ストリート・ルームは、世紀の変わり目には人気が衰え始め、1794年に古代音楽コンサートは前の年にできた新しい、素晴らしいコンサートホールに移った。これは、ロンドンのイタリア・オペラ上演劇場であるキングス・シアターが再建され、1792年に開場していたところへ、その東側( ヘイマーケット側 )に合体するような形でつくられたものである。建築者はミハエル・ノヴォシエルスキ( Michael Novosielski )。ハノーヴァ・スクェア・ルームよりはるかに今日のコンサートホールに近い。

ザロモンはコンサート会場をキングス・シアター・コンサートホールに移し、ハイドンは最後の3つの交響曲、102番から104番までをこのホールで演奏するために書いた( 103番変ホ長調《 太鼓連打 》には、美しいソロの部分があるが、おそらくオペラ・コンサート・オーケストラの首席奏者、かの有名なジョバンニ・バッティスタ・ヴィオッティのために書かれたのである )。ハイドンがこれらの作品のために用いた大オーケストラは―――交響曲102番は55人、103番と104番は59人編成―――大きさに較べて割合残響の多いホールと相まって、たっぷりとした力強い音を響かせ、せいぜいメゾフォルテくらいの演奏でも壁面からの反射音が耳に達したことと思われる。ハイドンがピアノからフォルテへの急激な飛躍を避けているのは、残響時間が長くてその効果が失われるからだろう。そのかわりに、たとえば102番冒頭のホルン、トランペット、弦のユニゾン( ハイドンがオーストリアに戻ってからは木管もこれに追加 )では、漸強、漸弱の記号を使って、ホール自体の音響に効果を委ねている。その効果たるや、H.C.ロビンズ・ランドン( Robbins Landon)をしていわしめれば、「 うら寂しい、禁欲的な音 」に加うるに「茫漠たる空間、宇宙的孤独感を伴ったもの( おそらくは、それがハーシェルの大望遠鏡を通じて得たハイドンの永遠の観念 )」ということになる。

 

18世紀のヨーロッパ大陸では、公のコンサートに出かけるということはまだほとんど行われていなかった。上流階級の人たちは、裕福な好事家の私邸や数ある宮廷で開かれるなかばプライベートな音楽の集いに出るだけだったのである。宮廷の音楽施設の中でも贅を尽くしたもののひとつが、ヨゼフ・ハイドンのパトロン、エステルハージ家のそれだった。1761年、ハイドンはオーストリア、アイゼンシュタットにあるエステルハージ居城の副楽長に任命された。これは中世のとりでを、カルロ・マルティーノ・カルローネ( Carlo Martino Carlone )とセバスティアーノ・バルトレット( Sebastiano Bartoletto )が1663~1672年に宮殿に改造したものである。さらにハイドンは、ハンガリーのエステルハーザ城に移り、そこに25年近くとどまった。これらの居城のコンサートホールは、今でも一応昔のままの形で残っており、音響効果を直接体験できる点で、とりわけ興味がもたれる。

 

アイゼンシュタットの大ホール( 今の呼び名ではハイドン・ザール )は、ハイドンが作曲の対象としたコンサートホールの中では最も大きく、楽々400人を収容できる。部屋は長方形で、天井は彩色した折上げ、側壁沿いに深いニッチが並んでいて、両端には円柱に支えられた狭いバルコニーがある。奥行38.0m、間口14.7m、高さは12.4mとなっている。ハイドンは初めてここでコンサートを開くに当たって、もとの石の床の上に木の床を張るよう注文をつけた( 今日も残っている )。おそらく、床が多少振動するような感じがほしかったのと、もうひとつは、低音域の大きな残響を減らしたかったためだろう。それでもなお、中音域の残響時間は満員時で1.7秒、低音域は2.8秒にのぼるし、部屋がいっぱいでなければ( 当初はそういうことが多かった )さらに伸びて、まるで教会近くなる。( 20世紀には、これくらいの残響時間は、2,000~3,000席のホールでは珍しくない )。ユルゲン・マイヤー( Jürgen Meyer )が指摘しているが、1761年から1765年の間にこのホールで演奏するために書かれた数多くの交響曲は、すべて、ここの〈 ライブな 〉音響を意識していることがはっきりわかる。ホールの大きさの割に残響時間が長いことと、狭い壁側からの反射音が強いこととが両々相まって、フォルテの全合奏では音楽が全堂にみなぎるような強烈な印象を与える。交響曲第6~8番コンチェルト・グロッソ様式では、コンチェルティーノ( 独奏 )が分かれていて〈 段階的強弱法 〉( Terrassendynamik )が使われており、合奏の強音が独奏部分の弱音とみごとな対照をなす。この時代のハイドンが使った小オーケストラの音は、交響曲13、31、39、72番では、ホルンを4本にすることで強化される。13番の出だしのホルンなど、残響が長くて、ほとんどオルガンのような響きがする。ハイドンは1796年以降にもまたコンサート用にアイゼンシュタットを使った。ニコラウス1世の後を継いだニコラウス2世がエステルハーザを離れてウィーンに行き、夏の間だけ古い一族の居城で過すことにしたからである。最後の6曲のミサのうち5曲の初演はこの大ホールで行われた。弦楽四重奏曲は、同じ階にある美しい小さな部屋で演奏された。

エステルハージ侯ニコラウス1世は、1762年に位を継いだあと、目もあやなロココ式の宮殿エステルハーザ城を建てた。その中には、大きなミュージック・ルーム、イタリア・オペラ用のオペラハウス( 1768年完成 )、マリオネット劇場( 1773年完成。洞窟のような仕上げで、壁やニッチには石や貝殻が貼ってある )、それに特別の音楽家の宿舎( 1768年 )もつくられていた。この宿舎には外来のオペラ歌手や劇団員のほかにオーケストラのメンバーも泊まるのだが、外からの客があまりにも多いため、住み込みの楽士は、だいたいがウィーン出身なのに、妻の同伴を許されていなかった。実はこれがきっかけでハイドンはかの有名な《 告別 》交響曲を書いたのである。ここの大ミュージック・ルームで初演されたこの曲は、そろそろ楽士たちに休暇を与えていい頃ではないかと、ハイドンが侯爵にほのめかしたものだった。

エステルハーザのミュージック・ルームは、1766年に完成した。ハイドンがかかわりをもつホールの中ではいちばん小さく、15.5m × 10.3m × 9.2m しかない。聴衆が200人満員の時、残響時間は中音域で1.2秒、低音域で2.3秒である。ということは、アイゼンシュタットよりもずっと短いわけで、そのドライで澄んだ音は、今日のリサイタル・ホールの状況に匹敵する。ハイドンのオーケストラは、アイゼンシュタット時代と同じ大きさだったが、その音は全く異なり、ほとんど室内楽のような感じだったと想像される。これまたマイヤーの見解だが、このルーム特有の音響は、ハイドンの作曲書法に反映されている。たとえば、交響曲57番の最終章ペルペトゥウム・モービレはプレスティッシモ( できる限り速く )と指定されているが、残響時間の長いルームではぼやけてしまうだろうし、67番の緩徐楽章の末尾で全弦楽器がコル・レニョ( 弓の木部を使う奏法 )で演奏するパッセージは、非常に音が小さいから、聴衆はよほどオーケストラに近く座れない限りはかばかしい印象を受けられない。エステルハーザで書かれた交響曲の多くが2つの版で出ていることも重要な意味をもっている。ひとつは、野外を含め他の会場での演奏用にトランペットとティンパニーを使ったもの、もうひとつは、親近感のある音響を持つミュージック・ルーム用にこれらの楽器を抜いたものである。

ロンドンのコンサートホールについて見たとおりで、大陸の公共コンサートホールも、宮殿のホールに較べて仰々しいところがはるかに少ない。ドイツに最初の公共コンサートホールが建てられたのは、ようやく1761年のこと。ハンブルグのコンツェルトザール・アウフ・デム・カンプで、ハンブルグは当時イギリスの影響を強く受けていた。このホールのことはほとんどわからないが、ごく簡素な建物だったと推定しなければなるまい。次なる重要な発展は、1781年、ライプツィヒのゲバントハウスに有名なコンサートホールが建てられたことだった。

ハンブルグと同じくライプツィヒも、長年、楽士を雇っていて、町や教会の祝日には音楽を演奏させ( トーマス教会でJ.S.バッハの作品を演奏したのはこういう楽士である )、時には公会堂の塔から音楽を流したこともあった。しかし、本来の公共コンサートは、ライプツィヒもほかほドイツの都市と同じく、コレギウム・ムジクム( 音楽学校 )、あるいは学生その他からなるアマチュアの音楽協会が先鞭をつけた。ライプツィヒには宮廷がなく、主として商業と大学の町で( ゲーテやフィヒテはここで教育を受けた )、活発な音楽伝統をもっていた。1700年頃、コレギウム・ムジクムが2つ設立された。そのひとつの創立者が作曲者ゲオルク・フィリップ・テレマンで、彼のあとを追ってJ.S.バッハが校長になった。コンサートはコーヒーハウスで行われた―――イギリスの居酒屋コンサートと軌を一にする。1743年に私的な音楽協会が結成され、フランクフルトに現存する類似のものと同じ名前で、グローセス・コンツェルト( 大コンサート )と呼ばれた。16人のメンバーは、だいたい町議会n楽士である。最初はメンバーの私邸でコンサートを開いていたが、やがてビュール川沿いの三白鳥亭に部屋を借りてそこへ移った。ヨハン・フリードリッヒ・ライヒャルト( Johann Friedrich Reichardt )が1771年に、その部屋について「 大きさは並の居間ぐらい、一方に奏者のための木のやぐらが組まれ、反対側は高い木の桟敷で、観客ないし聴衆が長靴をはき、かつらを着けずにやってくる 」と述べている。コンサートは木曜日に開かれ、冬は毎週、夏は隔週―――今でもそれは変わらない―――であった。

七年戦争でプロイセンがザクセンを侵略し、グローセス・コンツェルトの活動は中断した。理由はもうひとつあって、コンサート・ルームに隣接する三白鳥亭の一部が壊れたのだった。1762年に再開され、フルート奏者でバス歌手のヨアン・アダム・ヒラー( Johann Adam Hiller )が指揮者に指名された。1766年にライプツィヒの劇場が設計され、それにコンサートホールも組み込まれていたので、もつと立派な会場を求める必要もいよいよ満たされるかと見えたのだが、結局コンサートホール抜きで建てられてしまった。1780年、市長ミュラーは、市議会を説得して、ゲヴァントハウス、つまり「 織物商ホール 」の2階の図書室をコンサート・ルームに改造することに同意させた。設計者はライプツィヒの建築家ヨハン・フリードリッフ・カール・ダウテ( Johann Friedrich Carl Dauthe )で、その後まもなくライプツィヒのニコライ教会の内装を美しく模様替えしたことでも有名な人物である。コンサートホールは1781年に完成した。

旧ゲヴァントハウスは( 「 旧 」と後に呼ばれるようになったのは、それに替えてつくられたノイエス[ 新 ] ・ゲヴァントハウスと区別するため )、1894年に取り壊されたが、その平面図、部分図を書き、構造も記録された。ライプツィヒし歴史博物館には、内部を印象深く描いた小さな水彩画が現在も残っている。ホールは両端が曲面をなす長方形で、23.0m × 11.5m × 7.4m 。壁は柱形とパネルの効果を出すように、初めは彩色されていた。天井は縁が折上げの平天井で、人物をまじえた空の景色のフレスコ画で飾られている。描いた人は、ライプツィヒ・デザイン絵画建築学院の校長アダム・フリードリッヒ・エーサー( Adam Friedrich Oeser )だった( ゲーテは彼の学生 )。ホールは座席数400( ただし、あとの章で述べるとおり、19世紀に収容能力がふやされた )。座席は壁側と平行に並べてあるので、聴衆は互いに向き合うことになる( この配置は、建物のある間終始変わらなかった )。そしてその両端は高いボックス席になっている。オーケストラの舞台は50ないし60人の奏者を載せることができ、床の約1/4を占めて、わずかに高くつくられ、前に手すりが設けてある。旧ゲヴァントハウスは、1835年から1847年までメンデルスゾーンが指揮者だった間、音響の良さでとりわけその名をとどろかせていた。そして、今日にいたるコンサートホール設計の歴史の中でも、最高の位置に位する最初のホールという栄誉を担っている。

  

 

ニコロ・アマティは1630年頃にフランチェスコ・ルジェーリ( Francesco Ruggieri  c.1620 – 1698 )を弟子として工房に入れ、1641年頃には アンドレア・ガルネリ( 1626 – 1698 )も弟子入りさせました。

 

ストラディヴァリは 1680年に San Faustino に工房を移すとハープやマンドリンの製作に取り掛かります。


The Cutler-Challen Choral Mandolino
Antonio Stradivari  1680年http://orgs.usd.edu/nmm/PluckedStrings/Mandolins/StradMandolin/StradMandolin.html

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The Rawlins Stradivari Guitar
Antonio Stradivari     1700年
http://orgs.usd.edu/nmm/PluckedStrings/Guitars/Stradivari/StradGuitar.html

私は この17世紀に古典力学や近代物理学が進歩したことにより ヴァイオリンの音響研究が 進化しその改良が進んだと考えています。
そもそも古典力学は自然科学・工学・技術の分野の基礎となり、近代科学文明の成立に影響を与えた事が知られています。

私はヴァイオリンの誕生と発達には ガリレオ・ガリレイ( 1564~1642 )が “音” は空気の粗密波が鼓膜に達したときに生じる感覚であるとし、メルセンヌ( 1588~1648 )がその伝わる速度を計測し オランダのホイヘンス( 1629~1695 )が 1678年に公表 ( 1690年出版 )した『 ホイヘンスの原理 』によって振動波を ” 素元波 “や ” 包絡面 “によって捉えることで分析研究を飛躍的に進め ニュートン( 1643~1727 )が 『 ニュートン力学 』によって ”音” やその他の波の現象を説明するのに大きな成功をおさめたことが寄与したと考えています。

それはまずガリレオ( Galileo Galilei  1564 – 1633 第2回異端審問 – 1642 )が 研究における科学的手法を提唱したことに始まりを見出せます。  1666年になるとルイ14世によってフランスに科学アカデミーが創設されました。最初に会員として任命されたのは 22人で、天文学者、解剖学者、植物学者、化学者、幾何学者、技師、医師、物理学者であったと言われています。

私は ヴァイオリン製作にとってこの科学アカデミー会員に唯一の外国人であるクリスティアン・ホイヘンス( Christiaan Huygens  1629 – 1695 )がいた事が幸いだったと考えています。
彼はオランダの数学者、物理学者で 天文学者でもあったわけですが、『 ナントの勅令 』が廃止される 1685年までパリで研究活動を続けた後に故郷のハーグに戻り最後まで研究を続けたそうです。

ホイヘンスさんはすでに 1657年頃には『 振り子時計 』を発明していましたが、パリ時代の1675年には『 世界初の機械式時計 』の製作や『 空気望遠鏡 』の開発、そして 1678年には波動の波面形状を包絡面で説明する『 ホイヘンスの原理 』を提唱します。
これには多くの楽器製作者が刺激を受けたと考えられます。

そしてこの状況を 1687年にアイザック・ニュートン( Isaac Newton  1642 – 1727 )が『 自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』によってもう一段進めました。

因みに私の作業机の前には 北の丸公園の科学技術館で ¥630 で買ったこのオブジェが置いてあります。

これは『 ニュートンの揺りかご ( Newton’s cradle ) 』といわれる実演装置です。
ニュートン( 1642 – 1727 )が『 プリンキピア 』で公表した ニュートン力学のうち 運動量保存の法則と力学的エネルギー保存の法則 そして作用と反作用などが視認できることで知られています。

ファイル:Newtons cradle animation book.gif

そして 過去を紐といて検証した結果、私はこの歴史上の出来事のなかでヴァイオリンが誕生し成長するのに 物理などの科学の進歩が 『  影の立役者 』として大きな役割を担ったと考えるにいたりました。 S SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSS† S S たとえば 十二世紀末ころには羅針盤が発明され長期の航海が可能となり、その後の 1492年の コロンブスによる 『  アメリカ大陸 発見  』や 1522年の マゼラン達による『  世界周航  』が達成されました。 それから 諸説ありますが 1608年にオランダ・ミッテルブルフの眼鏡職人ハンス・リッペルスハイ(  Hans Lippershey  1570年 – 1619年  )による 『  オランダ式望遠鏡  』の発明も大きかったと思います。  これは 翌年の1609年に ガリレオ・ガリレイが自作したその望遠鏡で月のクレーターを観測することにつながりました。 彼は土星の耳を発見するとともに木星をまわる4つの星も発見し、それが 木星を中心に 4つ星が 行き来する様子を観測したことに繋がりました。それによって彼は太陽系の縮図というべきものを見いだしました。人間の宇宙観を地球中心の天動説から地動説へと大転換する原動力となったのは、こうした初期の望遠鏡による星の観測がはたした役割は大きかったようです。 S S しかし宗教上の問題もあり‥‥たとえば『  地動説  』をとなえたコペルニクス(  1473年 – 1543年  )ですら生前はその論文の出版をみとめなかったといわれています。そしてコペルニクス理論の啓蒙普及に一役かったブルーノ( 1548年 – 1600年 )は マゼラン達による『  世界周航  』から78年も経っていたのに 1600年におこなわれた宗教裁判で火刑となりました。

S S また、ガリレオは 1633年の第二回異端審問の有罪判決によりアルチェトリに幽閉されてしまいました。彼はこの事態を予見していたようで本格的にコペルニクス支持のために『  太陽黒点論  』を刊行した 1613年に ” 異端審問 ” のわざわいから二人の娘を守るために修道院にいれた事実が 彼の決心の重さを伝えています。 こうして彼は覚悟の上で1616年の宗教裁判を(  第一回異端審問所審査  )受けたといわれています。

S こののちも 有名な『  気圧  』に関する公開実験である『  マグデブルクの半球実験  』を 1654年にレーゲンスブルクにおいてフェルディナンドⅢ世達の目の前でをおこなったオットー・フォン・ゲーリケ (  Otto von Guericke   1602年 – 1686年  )ですら実験報告書の出版は8年の期間をあけた 1662年まで待ったのは広く知られています。 これにいたっては マゼラン達による『  世界周航  』から 140年も経過していました。 S S

S 17世紀末期、ジェノヴァで製作された携帯用望遠鏡。 子牛革(vellum)製の筒、角製の部品、ガラスレンズで構成されています。   National Maritime Museum, LondonS S S この間にも世界はどんどん変化していきました。  たとえば 1674年頃には 外洋艦船に 最新型の『 携帯用望遠鏡 』が導入されました。 はじめはオスマン・トルコ が軍事用に艦船に使用したため 他国は対抗できず、これにより たとえば 1692年4月の時点でヴェネツィアの保有艦数はゼロとなるほどの影響をあたえました。  しかし、その後ヨーロッパ各国にもこの『 携帯用望遠鏡 』が普及し、これによりマスト上での遠距離監視が可能になり 海上交通の状況が以前よりはるかに安全になりました。

     

これは、なかなか難しい設問で いまだに仮説から一歩も前進できません。
残念ながらもう少し研究が必要なようです‥。

ごめんなさい。 Part 5 は仕事が忙しいために書きかけです。
ここから近日中に書き込む予定にしています。

S                                                                           †

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こういう単純な系ですとエネルギーの移動に特別な感慨は湧かない方が多いと思いますが ヴァイオリンくらい複雑なシステムの場合はどうでしょうか?


それから 私はフローリングの部屋で 4本足のキャスター・チェアーにも” 運動 “について教えてもらいました。  ある日 『ドカッ‥』と腰かけた瞬間に 私は大転倒しました。 背中から床にたたきつけるように倒れていく私の目には床から空中に飛び上がるキャスター・チェアーがスローモーションのように映っていました。


おそらく真横から見ていたらバトン・トワリング( シャフトの両端のおもりは大きい方がボール、小さい方はティップと呼ばれる。ボール・ティップは大きさが異なるために重心(バランスポイント)はシャフトの中心から少し外側にある。

 

オールド・ヴァイオリンは 表板や裏板の片側が平らな弦楽器より『 剛性 』が高くなるというリスクに近い条件を取り入れて誕生しました。 当然ですが これにより得られる『 響き 』が目的 ですから 十八世紀末まで 弦楽器製作者は『 動かない場所 』と『 動く場所 』が機能するように繊細な感覚でなんとかバランスを取りながら製作を続けたと 私は考えています。

( 『 剛性 』とは 応力に対しての変形しにくさを表したもので、 板厚の場合 厚くすると剛性は高くなると言います。また構造体の場合は立体的形状によっても剛性は変化します。当然ですが形状を複雑にすることで剛性は高くなります。断面が長方形の場合、部材の断面積が同じであれば、断面の高さをより大きくした方が剛性は高くなります。 )

“Base” is unstable.  At this time the pair has become a place “vibrate” is …  (  1分 16秒  )

http://www.youtube.com/watch?v=tlYIyKic3w8&feature=player_embedded メトロノームによる同期現象       “Synchronization of metronomes”

    

http://www.youtube.com/watch?v=DD7YDyF6dUk&feature=related           (  1分 51秒  )

これは クリスティアン・ホイヘンス( 1629 – 1695 )さんが発見した現象で『 引き込み現象 ( pull in ) 』または『 同期現象 』と言われています。

スタインウェイは 1859年12月20日に『 OVER STRUNG SCALE(交差弦)』に関する特許を取得しました。それまで平行に張られていた弦を斜めに交差させたもので 当時製造されたピアノの鉄骨にはすべて上写真のように記されたそうです。

『 交差弦 』の配弦を ヤマハのグランド・ピアノで見て下さい。これにより重要な四分割振動が容易となりました。


これはクレモーナ古文書館( Archivio di Stato di Cremona )に保管されているニコロ・アマティの肉筆署名( 抜粋 )だそうです。
私は このサインには 当時使用されたサインの類型を越えたイメージを ニコロ・アマティ( Nicolo Amati  1596 – 1684 )が込めていたと思っています。

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もしあなたが‥ オールド・ヴァイオリンと呼ばれている 1800年以前に製作された楽器を演奏することになったら どういう事がおこるでしょうか?

 

幸せな出会いにより あなたはオールド・ヴァイオリン特有の とにかくすばらしい音色に‥うっとりしてしまう程 ヴァイオリンの響きの虜になりこれまでと打って変わった生活が始まります。

そして弾き込むほどに‥ 例えば、すばらしい音の立ち上がりのおかげで右手の自由度があがったり、音の輪郭が明瞭な鳴り方のおかげで和音に関するいくつもの発見があり心が浮き立つ時間がふえたりします。

ところが ‥ 楽器によってタイミングは違いますがしばらく鳴り続けたヴァイオリンが ある日 突然に鳴らなくなります。 もちろんオールド・ヴァイオリンのすべてがそうなる訳ではありませんが 響胴のふくらみが大きいヴァイオリンでは そういうことがよくあります。

これはオールド・ヴァイオリンの設定が調和していないことが主な原因と考えられます。

オールド・ヴァイオリンは共鳴胴が明瞭な響きをうみだすために高いアーチを採用するとともに、表板や裏板の幅などを工夫して複雑なジョイント角度の設定がなされています。 このためバランスがとれていない状態で鳴らすと表板や裏板と側板の接合部‥ とくにブロック脇などがすぐに はがれます。

S          ヴァイオリンのはがれ修理

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私の経験では A∼Dのブロック脇のほかにもE∼Hのコーナー・ブロックの先端部や M∼Pのアッパーとロワー・バーツ部は要注意箇所です。 そして これらのはがれに気がつかないで使用を続けると I∼L部のはがれに到ることがあります。この段階では それまで辛うじて鳴り続けていたE線の美しい響さえも消滅してしまいます。

 

このような響胴のはがれは 前項(  part 4  )であげさせていただいた『 駆動系 』の不全が影響している場合が多いようです。

ヴァイオリンは 響胴内の空気を振動させるために エネルギー( Energy )を供給する弦の揺れから振動板のところまで それをスムーズに伝える仕掛けが組み込まれています。私は これを『 駆動系  』と呼んでいます。そして この 駆動系は 『 たて、よこ、ななめ( ねじり ) 』 の3系統にわけることができます。

S 恐縮ですがおさらいとして『 駆動系 』の『 たて 』と『 よこ 』を上のトレブル・ヴィオールでもう一度見て下さい。 ヴァイオリンもふくめたこの形状の楽器は 弓で鳴らすと弦がC部とD部に圧力をくわえるのと同時にA部とB部がおされます。そしてモードが反転してC部とD部が離れる力がはたらくとA部とB部もおなじく遠ざかる動きをします。

これは 上のように 逆にティシュ・ペーパーの箱でA部とB部分を指で変形させても同じことが起こります。 指でA部とB部に圧力をくわえるのと同時にC部とD部が近づく動きをするので、それを横から見ると平行だったC部とD部が 『 ハの字形』となるのが確認できます。

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ヴァイオリンを含めた多くの弦楽器は 下図のように指で押されて膨らんだ ティッシュペーパーの箱の表板中央ゾーンに駒をたてて 表板が膨らむ動きを E部とF部にふりわけて響胴が共鳴しやすいように変形していると私は考えています。

このときにA部とB部のそばの適当な位置にカッターなどで 6 ~ 7cm のまっすぐな切れ込みを二筋入れて指で圧力を加えてみてください。 指の圧力に対して『 閉断面 』と『 開断面 』では劇的な 違いがあることが理解していただけると思います。

 

” ニスのひび割れ ”

上写真は裏板へりが側板の動きによって引っ張られ コーナー・パフリング部から割れた英国製チェロです。

そして下写真は 私の工房の顧客の方が 1970年に歯科大学のオーケストラに入る時に新品で購入された カール・ヘフナー社製のチェロを、 私の工房で 2006年に撮影したものです。

昔のカール・ヘフナー社製品は塗装が厚くその上に硬いという特徴をもっていました。 このチェロの塗装にも 土台の ” 木材 “が弾きこみによって動いた痕が ” ニスのひび割れ ” として残っています。 私はこのニスひびは A部とB部分が F字孔にむけて倒れ込むように動いた跡と考えています。つまりこれは『 よこの駆動系 』が動いた痕跡といえると思います。

また このチェロのネックブロック部側板に生じたニスひび割れを下の写真で観察すると、 ネックを中央に 『 X 』 字型に入っているのが見えると思います。 これは弦の揺れによって ネックが胴体をねじった痕跡と考えられます。 私はこの上下ブロック間でねじり変形をおこす仕組みを 3つの『  駆動系 』のひとつとして『 ななめの駆動系 』と呼んでいます。

 

この参考例として下に 上写真のチェロとおなじようにネックが胴体をねじった痕跡が生じた 1997年 に南ドイツ、ミッテンバルトで 製作されたチェロの写真をあげておきます。 この写真は製作されて12年後の 2009年に撮影しました。

当然ですが この『 ななめの駆動系 』の ” ねじり ” は 上下ブロックゾーンの動きにより生じていますので 反対側のロワーブロック側にも痕跡を残すことがあります。 下のビオラのエンドピンホールからのニスひび割れは このために入りました。

 

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さてここまでニスのひび割れ写真を何枚か挙げました。 私事ですが この『  ニスのひび割れ  』を観察することで 響胴の動きがよめるようになったのは  2003年 9月29日 16:45頃からです。

それは 2週間前まで 11歳の長女が使っていた 1/2サイズのヴァイオリンを 7歳の二女が使いたいと言い張ったので 、その準備として 弦などの交換を検討するために 工房の入り口に立ってこのヴァイオリンを私がチェックしている時のことでした。

        

風もなく空が晴れわたったおだやかな夕方で 私が立っている工房の入り口には まだ日差しがさしこんでいました。

そのときニスのひび割れが 『 キラッ ! 』と蜘蛛の糸のように光ったのが 私の目にとびこんできたのです。 それで私は このヴァイオリンの表板と側板にはいった ニスのひびを確認してみました。 はじめは 『  なるほど。 分数ヴァイオリンでも フルサイズとおなじ入り方をするんだ‥‥ 。』と思いながら観察していたのですが、 当時 私が記憶していた他の事例とあまりにも合致していたので 『  これは‥ もしかして‥ ! 』と思ったときに 私の顔色は変ったと思います。

それまでニスのひび割れを特に重大なことと思っていなかった私でしたが、このときニスのひび割れを観察していて ヴァイオリンの表板側の振動モードとそれが きちんと繋がったのです。 私はこのとき『  ヴィジョンが降りてきた‥‥ 。』感覚につつまれながら太陽光線がヴァイオリンにあたる角度を変化させながら観察して、もう一度 頭にうかんだ ヴァイオリンの振動モードに誤りがないかを検討しました。

その最中のことです。  私が表板側と側板に気をとられてよくみていなかった 裏板がレイヤー映像のように頭のなかに浮かんだのです。 『  表板がこう振動して側板はブロックによって こう動き‥ということは裏板のここら辺りにこういう形状のニスひびが‥‥ 。』と 私は ひとりごとを呟きながら‥ 裏板を見るために ヴァイオリンをひっくり返しました。

いまでも その瞬間をときどき思い出します。 とにかく感動しました!  私が予測したとおりの形状の小さなニスひび割れが 裏板の推定した位置に 入っていたのです。

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上の写真は その翌日( 2003年9月 )に 400枚ほど撮影したものの一部です。

下図は この 1/2サイズのヴァイオリンに入ったニスひび割れを資料として残すために、私が 2005年に太陽光線の照射角を変化させながらひび割れを一本づつ確認し、それを記録ノートにスケッチしたものです。

私は ヴァイオリンは木組みや木伏技法を駆使して左右差など‥『 対(つい) 』としのバランスに留意しブロックや側板の規格を選ぶとともに、F字孔はもちろん ヘッドと響胴そして 表板と裏板の関係、などに繊細な設定をしたことですばやいレスポンスと残響を実現し、『 ねじり 』により空洞共鳴の端緒を生み出すしかけと高機能のサウンド・ホールによって豊かな音色を実現した弦楽器だと考えています。

その『 響 』は4本の弦の振動を効率よく利用することで生み出されていますが、特に弦の左右のグループ間の張力差は 直接的に響胴のネジリに関与しているので工夫がし易いと思っています。

これを下の写真のドミナントとゴールドブロカット0.26E線で見てみましょう。

(  これらの張力値は一般値として出版物などから引用させていただきました。なお、個体差がありますので この数値はおおよその値としてお考えください。)

上図に白文字で書き込んでありますが皆さんおなじみの トマスティーク・インフェルド社のヴァイオリン弦 ドミナントはその袋の開口部に設計張力が印刷されています。 それは G線 4.4㎏、D線4.1㎏、A線 5.5㎏ となっていてゴールドブロカット0.26 E線には表示がありませんが 約 7.5㎏といわれています。

 

これを『 ねじり 』の動きが見えやすいように低音弦と 高音弦の 2本ずつのグループとして考えると G線、D線側が 8.5㎏ で A線、E線側が 13.0㎏ ですのでヴァイオリン左右の張力差は 4.5㎏ もあることがわかります。

 

もし上図のヴァイオリンにトマスティーク・インフェルド社の ヴィジョンのE線( 8.0㎏ )を張れば 張力差は 5.0㎏となり、ゴールドブロカット 0.27 E線( 8.5㎏ )にすると 張力差は 5.5㎏ に達します。 私は ヴァイオリン・ショップで ドミナント、ゴールドブロカット 0.27 E線の組み合わせが多用されたのは この組み合わせがもつ『 ねじり力 』( 張力差 )によって生み出される ” 響き “が評価されたためだったと思っています。

 

 

こうした弦楽器に関する研究の結果、私はヴァイオリンのレゾナンス( 共鳴音 )の発生メカニズムを次のように考えるようになりました。

ヴァイオリンの響胴は ねじり変形を生じさせる設定により、たとえば『 G線を弾くと‥ 』まずブロック端 ①と ブロック端 ②がネジレながら表板を押します。 これにより①、②の白色矢印部が尾根状に変形し剛性が高くなります。 注釈)1   尾根状加工 その結果 この方向にスムーズに圧力が加えられます。この時 ① によりバスバー上端が押しあげられたことと ② によりバスバー下端ゾーンが押し下げられたことによって最低音を担当する表板左下部( BASSゾーン )は大きく窪み、次に位相が逆転するタイミングで大きく膨らむ変化( 上下動 )をくりかえしながら共鳴ゾーンに『 ゆるみ 』または『 あそび 』が生まれ‥ これがF字孔へりが発生させた空気振動によって共鳴を誘引する端緒となり‥ 多種類のレゾナンスが生じるように設計し完成された。

S

注釈)1    尾根状加工 オールド・ヴァイオリンの表板には 尾根状に変形し剛性が高くなった圧力軸を誘導するためにアーチを非対称とするとともに、エンドブロック右側ゾーンが尾根状とされているものがたくさんあります。

    

たとえば上写真の Mattias Klotz ( 1656 – 1743 )が1700年頃に製作したヴァイオリンがそうです。 エンドブロック右側ゾーンが尾根状で、その線上には ●点の場所 8ヶ所に” 焼痕 “が入っています。

また Carlo Tononi( worked 1675 , Bologna.  1717 – 1730 Venezia )が 1705年に Bologna で製作したこのヴァイオリンもそうです。

  

エンドブロック右側ゾーンに尾根線と谷線で意外と複雑に” 節 “が構成されているのが見えると思います。

それから Carlo Antonio Testore ( 1693 – 1765 )が 1740年頃製作したヴァイオリンにも尾根状の加工がされています。 このヴァイオリン表板はアーチが 20.5mmです。  前出の Mattias Klotzが1700年頃作ったヴァイオリンもそうですが、膨らみがミディアム・ハイ・アーチくらいになるとこういった工夫がされている場合が多いようです。

ヴァイオリンの複雑な設定はまだ続きます。 ここでエンドブロックの左側ゾーンの窪みを見て下さい。これはサドル左側からF字孔の方へのびる尾根状部とセットになっています。そして このゾーンが上手に窪まないと大変なことになります。

昨日のことですが 私は 23年前に販売したチェロの修理をしました。 それは競合型破損の典型的なものでした。

表板がサドル左端の位置から割れています。 これはよくある破損ですが ‥ この1989年にドイツで製作されたチェロはバスバーが子供の遊具であるシーソーのようにゆれるのが上手くいきませんでした。

これは


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重要弦の振動は、基音の整数倍の倍音が乗った周波数構成になります。 膜を叩いた場合、その振動形態は一つではありません。 弦の振動なら反射端は両端2ヶ所ですが、 膜の場合周りの固定部がすべてぐるっと反射端です。 そのため、発生する定在波は弦と違って整数倍になりません。

では、これらのモードが具体的にどのような周波数関係になっているのでしょうか。 上図でわかるように振動の節(変位がゼロの部分)は、 直径方向の線分、または同心円上の線として現れます。 面積も長さも整数倍でなく、それぞれのモードの固有値も整数倍になりません。

実際には3次元の箱の中の振動を考えなくてはいけないが、3次元の振動は図に書きにくいので、その前に2次元の振動を図 示しながら考えていこう。2次元の場合、空間座標をx,yの二つとすると、この二つのそれぞれの方向についてnx個、ny個の腹ができているような波を考えることができる。図で表すならば 下のようになります。

nx=1,ny=1

nx=2,ny=1 nx=1,ny=2 nx=2,ny=2 図ではn=2までを書いたが、実際にはn=∞まで、任意の数を取ることができる。そして、現実に起こる振動はこれらの振動(振動モード等と呼ばれる)の適当な和である。

実際に起こる振動はこれらのうちのどれかというわけではなく、いっせいに起こる。実現するのはいくつかの波の重ね合わせである。古典力学的に考えれば、波のエネルギーは任意の値をとることができるので、いろんな振幅の波の足し算が実現可能である。右の図は(nx,yy)= (3,5)の波と(nx,ny)=(2,4)の波の重なった状態である。

注)このグラフィック画像は File translated from TEX by TTHgold, version 3.63. On 21 Apr 2005, 10:26. より引用させていただきました。 http://www.phys.u-ryukyu.ac.jp/~maeno/qm/qm2.html

私は  a. ゾーンの ニスひび割れは これにより生じ、b. ゾーンと c. ゾーンのニスひび割れは b. 側より c. 側の方が間隔が狭く入っていることから アッパーブロックが中央方向ではなく 主としてE線側よりのゾーンに圧力を加えたと痕跡と考えています。 これにより中音域( MIDRANGE )を担当するこのゾーンも共鳴音を発生させていると推測しています。

( 『 剛性 』とは 応力に対しての変形しにくさを表したもので、 板厚の場合 厚くすると剛性は高くなると言います。また構造体の場合は立体的形状によっても剛性は変化します。当然ですが形状を複雑にすることで剛性は高くなります。断面が長方形の場合、部材の断面積が同じであれば、断面の高さをより大きくした方が剛性は高くなります。 )

私の経験では ヴァイオリンの表板などの『 板状部 』が本来バランスよく振動すべき設計となっているのに

 

私は 冒頭にあげさせていただいた ” 表板と裏板のアーチ( ドーム )の計測値 ” などにみられる挑戦的な『 高さ 』と『 差( コンビネーション ) 』にもその痕跡がみられると考えています。S

S オールド・ヴァイオリンを細かく調べてみると『 剛性 』についていえば 構造的な条件を越えて 張力が加えられた状況の『 みかけの剛性 』が きちんと把握された上で ヴァイオリンの基本設計がされたと考えられる状況証拠がいくつも出て来ます。これは後ほどふれようと思いますが驚愕するような かなり繊細なレベルの仕掛けになっています。

S この他にも十八世紀末までに製作された弦楽器は 現代のことばでいえば 『 ねじり剛性、サン・ブナンねじり定数( ねじり変形に対する回転剛性係数 )、せん断弾性係数( 横弾性係数 )、ヤング率 』 などの諸要素についても十分意識されていると私は考えています。  その上で ヴァイオリンの響胴はF字孔をあけることで『 開断面 』とし 『 閉断面 』の形状よりこの部分を中心にねじり剛性を低くすることで高音域が確保してあったり、基礎構造を見ると『 箱 』というより『 中空楕円断面 』としての特性を持たせてあると感じます。

S S これらのことから 私は オールド・ヴァイオリンの発音システムは『 競合型 発音システム 』となっていて、その調整には 『 競合状況 』を分析して その『 調和 』ポイントを選ぶように設計されたと考えています。

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S それから下に 英国の『 ロイヤルアカデミー・コレクション 』資料集から表板と裏板のアーチ( ドーム )の計測値をならべてみました。

S 注) このX線画像は 2011年にパルマ( Parma, Italy ) で開催された ”  Joannes Baptista Guadagnini  fecit Parma ferviens Celsitudinis Suae Realis  /  Published by   Elisa Scrollavezza  &   Andrea Zanre  ” の展覧会資料集より 201、206、207ページより引用させていただくとともに その計測値を 195、232、233ページから引用させていただきました。

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