私は 弦楽器はこのような技法で製作されたと考えています。

2014-10-23

The heat treatment of the cello table plate.


This is a classic technology.
It was used in the case of strong tree rings.

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現在でもこの動画のように 木材加工において火で焼き焦がす技術は受け継がれています。
ただしこれを弦楽器に用いようとすると加熱に伴う様々な変化をきちんと把握したうえで目的に応じた適切な熱処理技術が必要となります。

私はこの技術は下記のような多岐にわたる木材の利用のなかで経験則として確立したものと考えています。


火にかざすシーンは 3分36秒辺りからです。 ( 4分39秒 )

上写真は杉板の『 焼き杉 』板壁です。 これは防腐加工として表面が焦げる程度に焼きその後にススを落として磨き込んで艶を出すなどの加工をして土壁などの外側に被せて化粧壁として利用されていました。

また‥ 風雨にさらされる建築物では 焼いたまま使用することもあったようです。

  

今日ではめずらしくなりましたが 焼き杉は 伝統的な建物の外壁材でした。
杉板の表面を焦がして炭化状にしておくことで火を付きにくくして 耐火性能を高めることが出来たり、 雨風にさらされる外壁の耐久性を高めることが出来ることはかなり昔から知られていたようです。

それから‥この浮世絵は 葛飾北斎、歌川広重らと同時代に活躍した歌川国芳( 1797 – 1861 )が1831年頃( 天保2年 )に製作した「東都三ツ股の図」です。
隅田川の中州から深川方面を眺望する構図で 川にはシジミ取りの舟が浮かび、 手前の中州では舟底を焼く様子が描かれています。 これは虫害・腐食の防止のために船底の外側を火であぶる『 フナタデ 』作業です。

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サントリー白州醸造所の見学コース。ウイスキー樽の「リチャー」とよばれる再利用工程だそうです。

http://www.kagakueizo.org/create/other/426/

お琴の製作にも焼きいれ工程があります。 7分6秒あたりがそうです。これは 良い資料映像ですので 恐縮ですが 私は皆さんに 全編をご覧になることをお奨めしたいと思います。( 16分20秒 )

また 上の動画にもあるように琴や鼓、三味線などの胴内側には良い響きのために 綾杉彫りや 子持ち綾杉彫り、すだれ彫りなどの加工が施されています。

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そして、我らが樂弓の棹で施されている焼き入れ工程が意味していることを 改めて考えてみてはどうでしょうか。


Making a Violin Bow /  Bending the Stick( Reid Hudson )

Here Charles Bazin is cambering a stick. In Mirecourt the bowmakers would go to the bakery when they swept the coals out of the oven. They would fill an old ‘Marmite’ or Dutch oven with coals and use them for cambering. I use an old fashioned hotplate with an exposed element to give the same even heat but in other traditions an alcohol lamp is used as well.

       


This is a great photo of the archetier Joseph Arthur Vigneron.  Vigneron was born in Mirecourt and trained with his step father Claude Nicholas Husson.  His early work is indistinguishable from the work of his master.  In 1880 he relocated to Paris to work for Gand & Bernadel.  He remained in Paris until his death at the age of 54  It is said that Vigneron could easily make a bow a day.

The photo shows the 19th century bow maker surrounded by many tools that are familiar and useful to the contemporary maker.  In the background on the wall are hung a variety of chisels, files, and pliers.  The bench where he sits is well worn.  There is a groove on the side facing the camera that was probably used for bending sticks.  A few sticks are in progress on the bench.  To the right of his knee there is a model used to determine the head profiles and height.  In front of his right elbow you will see a small bucket with coals from the bakery.  On the coals there is a small glue pot filled with hide glue.  I chose this photo for this post for the bucket of coals.  These coals would have not only been used to heat the glue but also to heat the sticks for bending.  Contemporary makers use a variety of heat sources.  Alcohol lamps, heat guns (similar to hair dryers but much more powerful) and butane burners of the type used in chemistry lamps are the most common heat sources used today.

     
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ルネサンス終わりの 1500年代の中頃ヴァイオリンという楽器は生まれました。そして、その後改良が進み 1700年頃にはヨーロッパのあちこちで数多くの名器が作られました。ところが 1538年頃を始めとする ヴァイオリン製作で有名なイタリアのクレモナ派が 1817年のJ・B・チェルーティの没後に絶えてしまったように、 1800年代はじめには他の地域も衰退がはじまり 結局その悲しい状況が今日まで続くことになりました。 注)1
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ところで‥ この弦楽器製作技術の衰退期について細かく検証すると興味深い事実がいくつも出てきます。 これにより 私は弦楽器に関する技術の一部は 1900年初頭まで 継承されたと考えるようになりました。

そこでこの投稿では『 なぜ弦楽器などの製作技術は失われてしまったのか? 』という事を念頭に置いた上で、社会状況と技術伝承についてイメージしていただくために‥ ここからヴァイオリンなどの弓ネジについてのお話しをさせていただきたいと思います。

注)1 これは息子のモーツァルト(1756 – 91)が生まれた1756年頃に父であるレオポルト・モーツァルト(1719 – 1787)が出版した本(  ” Versuch einer Grundlichen Violinschule ” L.Mozart / 塚原哲夫訳・全音出版 )の第一節5ページに『  今日のバイオリン製作者が、仕事の仕上げに労を惜しむのは非常に残念なことです。(中略)彼らは、高さ、厚さ等々を全て目で決め、一定の原理を決して得ようとはしません。従って1人が成功しても、他は失敗するのです。これは音楽の美をそこなう邪悪です。』 とすでに1700年代半ばに未熟なバイオリン製作者が大勢いたことが記されています。

また1892年頃パリ音楽院でマルシックに学び1903年からベルリンの音楽大学教授で影響力が大きかったカール・フレッシュ(1873 – 1944)が 1923年頃出版した ” ヴァイオリン演奏の技法 / 佐々木庸一訳・音楽之友社 “ の2ページには 『  私たちが相変らず一七世紀と十八世紀のイタリー製楽器を唯一の頼りとし、十九世紀に作られた、立派な演奏用ヴァイオリンを殆んど持っていないのは、主としてヴィヨーム(J.B.Vuillaume 1798 – 1875)のせいである。彼は「蒸気乾燥」によって約三千の楽器を演奏用ヴァイオリンとして役に立たなくしてしまった。彼の崇拝者や模倣者が彼に真似て「蒸気乾燥」によって作った同数のヴァイオリンをこれに附け加えるなら、少なくとも六千の立派な、魅力のある外見を持った楽器が、ヴィヨームの偏見によって私たちの芸術のために使いものにならなくなった訳で、全く惜しいことをしたものである。ところでヴィヨームは彼の初期と後期に通常のヴァイオリンを作成した。それらは、すばらしい音を持っているだけに、彼の不幸な病癖のために私たちが蒙った損失をますます痛切に感ずるのである。』 と嘆いていたりします。

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【 アイレット幅についての考察 】

1935年頃製作されたネジ( German-made bow screw )と 現代の交換用ネジ

知られているように ヴァイオリンなどの弓は 例外はありますが‥ その初期からネジを用いて馬毛の張りを調節するものが用いられました。 それは スクリュー( Screw )とアイレット( Eyelet )と呼ばれています。 そして素材は 雌ネジのアイレットが 真鍮などの柔らかい金属で、雄ネジであるスクリューがそれより硬い 鉄などで製作されました。


このネジ部を検証してみると面白い事実がわかります。

私もヴァイオリン弓などの樂弓の修理経験を重ねるまで気づかなかったのですが‥  1900年代初頭までの名工が製作した弓は 楽器の響きを遮らないために『 ある程度 不安定になるように 』設計され製作されました。

例えばこれはオールド・ヴァイオリン弓のネジ部を製作時のアイレット幅より広いアイレットに交換して安定性が増すようにしてみればすぐに確認できると思います。

私は 1992年に演奏中にネジ山数段分ゆるんだ ヴィヨーム工房 ヴァイオリン弓( J.B. Vuillaume  1798 – 1875  )のオリジナル・アイレット( ネジヤマ 3~3.5本 )を 4.0mm 幅( ネジヤマ 6.0本 )に交換した時に気がつきました。
これは 所有者のヴァイオリニストが『 一応まだ音は出せるのですが‥ 。』と目前で演奏してくれたうえで『  フロッグがだいぶん ぐらつくようになってきたし、今日のように演奏中に緩んだら限界だと思うので交換して下さい。』とその場での修理依頼に対応したものでした。

時代物アイレットでしたので 嫌な予感はしたのですが 急ぎだった事とスクリュー、アイレットの在庫の関係で 私は一般的に使用されている交換用アイレットを 30分程でそのまま取り付けました。

それから確認のためにヴァイオリニストの方が試奏した直後に 私達は青ざめながら顔を見合わせました。 『 なぜでしょう‥?  ヴァイオリンの鳴りが悪くなりましたよね‥? 』 と彼が言い、『 はい‥。 私もそう思いました。』と 私は答えました。
そしてこの時に検討した結論が アイレット幅が広くなって安定しすぎたことで弓が ヴァイオリンの響きを減らしているので アイレットは元の幅に削って取り付けないといけないということでした。そして幸いなことに これによって元の響きは復活しました。
これは 私にとって衝撃的な出来事でした。
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さてもう少しネジ部の規格についてお話しをすると‥ アイレットの縦ネジ部( Shank )の直径は 2.9mmを中心として 2.7mm~3.4mmが一般的で 200年前も現在とそれほど違わなかったと思われます。

しかしアイレット雌ネジ部の幅は 1800年代末になると幅広のものが急速に普及していきます。
上写真の 1930年代にドイツで製作されたヴァイオリン弓のアイレット幅は 6.0mmで 私の取り扱ったものでは最も幅広タイプです。 そしてこの幅に雄ネジの10本のネジ山が対応しています。

この1930年代のドイツ弓フロッグの下に 交換用のネジセットを 2組ならべていますが、アイレット幅が 4.9mmは ネジ山が 8本で 4.1mm幅はネジ山が 6本に対応しています。 この新品のネジセットはドイツの発売元より世界中に出荷され一般的なものとして使用されています。

 

 


ところが 1880年以前は状況がまったく違います。 たとえば 下写真のように Joseph MEAUCHAND( c.1720 – 1775 )が製作した弓のアイレット幅は ネジ山 3本で、Jean – Jacques  MEAUCHAND( 1758 – 1817 )が同時期に製作したものは ネジ山が 2.5本に設定してあります。 そして これらの雌ネジ部の幅に着目してみるとアイレットの縦ネジ部( Shank )の直径より幅を狭くしてあることがわかります。


当然ですが‥弓は使用し続けるとアイレットや スクリューのネジ山が摩耗により”ネジ切れた状態 “となり空回りするようになります。 つまり幅が狭く対応するネジ山が少ないアイレットは おのずと使用できる期間が短く、おまけにフロッグ( Frog )のぐらつきを生みやすいという弱点をもっています。


例えば このスクリューは製作時のものと考えられますが 現在までの 89年ほどの間にアイレットとの接触部が磨耗しています。

アイレットやスクリューの磨耗は 空回りしたときと 下写真の Jean – Jacques  MEAUCHAND のヴァイオリン弓のようにフロッグとスティックの間に隙間が生じていたり、演奏中にフロッグが回るようにズレたりした時、そして馬毛の交換時に見つかります。


それでは  アイレット幅とネジ山の数についてもう少し具体例を見てみましょう。 下写真は樂弓製作者として最も有名なフランソワ・グザビエ・トゥルテ( François Xavier TOURTE  1748 – 1835 )が 1780年頃製作したものとされています。

このビオラ弓のアイレットは ネジ山が 4.5本です。



先にのべましたように 私は ヴァイオリンの近代奏法が完成した19世紀には ヴァイオリンの響きを阻害しないように ヴァイオリン・アイレットのネジ山は 2.5~4.5本が一般的だったと考えています。

そして念のために申し上げればこの時期のアイレットの例外規格としては下写真の 有名なトルテの兄であるレオナルド( Nicolas Léonard TOURTE 1746 – c.1807 )が製作したヴァイオリン弓のように、フロッグのアンダースライド部( Underslide )が最終的に普及した凹型ではなく凸型であるために‥ 構造的な理由によりネジ山 6本が採用されたケースなどがあげられます。




私はこれらの少数事例によりネジ山が多いアイレットは 18世紀にも製作可能であったことが証明されていることを‥ 幸いだと思っています。

本格的なアイレット交換修理の経験がある方は 皆さんご存じですが、スクリューのネジ山 2.5~4.5本に対応するように直径が 2.9mm程のアイレット縦ねじ部( Shank )よりアイレット幅を狭く削る作業は思った以上に難儀です。このことから私は偶発的にこの幅が選ばれた訳ではないと確信しています。










それから1900年頃までのヴァイオリン弓などのアイレットは不定形のものが用いられたケースがよく見られます。また フロッグの Shank 孔が垂直にあけていない弓も 名工が製作したもののなかに確認される事があります。




Stewart Pollens & Henryk Kaston with M.E.D.Laing   ” FRANÇOIS-XAVIER TOURTE  –  BOW MAKER ”   p37,  2001年.  MACHOLD RARE VIOLINS

近代樂弓を完成させたといわれているフランソワ・グザビエ・トゥルテ( 1748 – 1835 )が 1824年頃に製作したラベル入りで保存状態が良いこの弓に取り付けられたアイレット幅はおそらく ” ネジヤマ 3本 ” であったと私は推測します。
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.                                         【 Details of “Self-rehairing” Bows 】
.                              VUILLAUME Á PARIS ( D. PECCATTE  )violin bow
                                         JeanBaptiste VUILLAUME( 1798 – 1875 )

.     Paul Childs   –  ” The Bowmakers of The Peccatte Family  ”   1996年 /   N.Y. – U.S.A.

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余談となり恐縮ですが‥ そもそも ネジの歴史は 古代ギリシアのアルキメデス(  B.C.287年頃 – B.C.212年 )が考案したとされる螺旋構造を使用したアルキメディアン・スクリューが製作された時期以前にさかのぼるとされています。
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この発明は時を経て 16世紀半ばにはリヨン近郊のフォレや イングランドのミッドランド地方で木製旋盤を用いて家内工業的にネジが多数製造される状況にまでつながり、そうして製造されたネジは 時計や 銃、甲冑用のボルトなど多岐にわたって使用されるようになりました。


こうしたなかで 1586年には フランス国王シャルル9世( Charles IX of France  1550 – 1574 )の宮廷技術者 ジャック・ベッソン( Jacques Besson  c.1540 – 1573 )が半自動のねじ切り旋盤を製作してネジの製造技法を改善しました。 また 1760年にはミッドランド地方のジョブとウイリアムスのワイアット兄弟( Job and William Wyatt )が手で刃を動かしてねじを切る代わりにカッターで自動的にねじを切れるようにして、当時は数分かかっていた作業をわずか 6~7秒で作ることができるようにするという画期的なネジ製造法を開発し‥ 特許を取得するとともにバーミンガムの北郊にネジ製造工場を設立し効率的な製造を開始しました。

この工場は その後に経営を引き継いだ所有者が蒸気機関の活用など各種の改善を実施し大規模事業化されました。

また‥ねじ切り旋盤は 1770年頃にイギリスのラムスデン( Jesse Ramsden  1735–1800 )が木製旋盤の代わりにカッターの先端にダイアモンドを使用した金属製の旋盤を作り、さらに 1800年にはヘンリー・モーズリー( Henry Maudslay  1771-1831 )が それまでの旋盤をさらに改良し鉄鋼製のネジ切り用旋盤を開発しました。

そしてこれらの技術をもとに モーズリーはフランス人ブルネルと組み 1800年頃にポーツマスに世界初のほぼ完全に自動化された工場を建設します。この工場では精密な加工ができる旋盤が駆使され、これにより 1万分の1インチの精度のマイクロメーターが製作され( ‥!! )完成品のチェックに使用されました。こうして極めて精度が高いネジが普及していきました。

また 1841年にはモーズリーの弟子であったジョセフ・ウイットウォース( Joseph Baronet Whitworth  1803-1887 )が ネジのさらなる大量生産技術を確立するとともに 多様なねじの形状を整理した上でネジ山の角度を55度とするなどの規格化を進めます。
この『 ウィットウォースねじ規格 』が 1901年には英国の国家規格 BS ( British Standards )にまで発展普及し現代のネジ規格の基礎となりました。


Screw making machine        1871年


Breguet  Frères & Cie. Lathe      1908年頃
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   Breguet  Frères & Cie.  Lathe      1908年頃

ネジはそのリード角に沿って 三角形、四角形などいろいろの断面で製造されその断面形状から三角ネジ、台形ネジ、角ネジ、のこ歯ネジなどと呼ばれており、それらの隣り合うねじ山の対応する2点間の距離はピッチとされています。 また現在 一般に用いられているネジは一条ねじで、これは1回転で1ピッチだけ進むように設計されています。


一条ねじが 1回転でピッチの分だけ進むのは1ピッチの間に 1条のらせんがあるためです( a )。 因みにリードとは ねじを1回転させたときに進む距離のことです。

このほかに 1ピッチの間に 2条あるいは3条のらせんがあるねじもあります( b )。
これを多条ねじと言い この場合のリードはピッチの条数倍となります。

オールド弓を使用したことがある演奏者の中にはお気づきの方も多いですが 1900年以前の名工が製作した ヴァイオリン弓やチエロ弓には ピッチが広いネジや 多条ねじがよく用いられました。

  
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因みに 日本には 1543年に種子島に漂着したポルトガル人の所有していた火縄銃とともにネジが伝来したとされています。

このとき藩命で銃を模造しようとした刀鍛冶 八板金兵衛( 1502 – 1570 )が自分の娘をポルトガル人に嫁がせてまでして‥ ネジの作成法を習得したとする伝説は有名ですね。
逸話はとにかくとして  1545年に八坂金兵衛が製造し種子島領主に納めた火縄銃の銃身端にある尾栓部の雄ネジと雌ネジが日本でつくられた最初のネジとされています。

こうして日本でもネジが製造されるようになったわけですが、残念ながらこの後に ネジ製造にとっての逆風が吹きます。 この国では天下統一によって戦国時代が終わり江戸時代となると泰平の世となったために火縄銃の需要は激減します。 また鎖国政策が250年以上にも及んだ事もネジの発達には痛手となり 結果として幕末まで ネジの歴史においての停滞期が続くことになりました。

そして この状況が動いたのは 1857年にヘンリー・モーズリー( Henry Maudslay  1771-1831 )が開発しジョセフ・ウイットウォース( Joseph Baronet Whitworth  1803-1887 )が改良したねじ切り旋盤が 徳川幕府に納入されてからのことでした。 これは 幕臣であった小栗上野介忠順が軍需用の目的に導入したもので、明治維新後もこの機械は横須賀軍工廠に移され活用されたそうです。

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私は 樂弓の製作技術を検証する上で重要な事実だと思っていますが ‥ 前述しましたように この間にヨーロッパではネジ製造技術は飛躍的な進歩を遂げました。

皆さんの記憶にとどめていただきたいのは‥ この投稿で取り上げさせていただいているフランスを中心とした樂弓の製作者達は ネジの製造技術が急激に発展した時代の真っただ中で弓のスクリューや アイレットを製作していたということです。
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アブラアム・ルイ・ブレゲ( Abraham Louis Breguet  1747–1823 )NO. 92
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アブラアム・ルイ・ブレゲ( 1747–1823 ) 1783年着手 – 1827年完成
NO. 160   マリー・アントワネット( Marie-Antoinette  1755 – 1793年10月16日 )
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Patek Philippe  –  Tiffany & Co.  1880年  ( gold pocket watch )

この状況が端的に確認できるのが 1755年にジャン=マルク・ヴァシュロン( Jean-Marc Vacheron )が 創業した ヴァシュロン・コンスタンタンや、 1875年にオドマール( Jules-Louis Audemars  1851 – 1918 )とピゲ( Edward-August Piguet  1853 – 1919 )が創業した オーデマ・ピゲ、そして 1839年に 2人のポーランド人アントニ・パテックとフランチシェック・チャペックによって創業された パテック・フィリップ( Patek Philippe )などのスイスの高級時計メーカーのムーブメントです。

たとえば 1900年にスイスで製作された パテック・フィリップ懐中時計のネジの精度をみてください。
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Patek Philippe  1900年

ところで‥ これらの精密な加工技術の粋である時計と一見して前時代的に見えるヴァイオリンなどの弓ネジとの関係を象徴しているのが、近代樂弓の父といわれるフランソワ・グザビエ・トゥルテ( 1748 – 1835 )であることをご存じでしょうか。

彼は 1748年にヴァイオリンと弓の製作者である父ピエールのもとに生まれました。
しばらくして兄レオナルドは弓製作の仕事にはいりますが 弟フランソワ・グザビエ・トゥルテは時計製作者の工房で働きはじめました。この時‥ 彼は8歳だったと伝えられています。

彼はこの‥ 時計製作の仕事を父親が亡くなる 1764年頃まで続けましたが、それ以降は兄と共に本格的に弓製作の仕事を開始し近代音楽史に影響をあたえるような多くの樂弓を製作しました。


下の写真は 2014年10月に 東京で開催された展示会で撮影したものです。
この時に出品されたフランソワ・グザビエ・トゥルテのヴァイオリン弓と その表示価格はこのようになっていました。

        
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先にものべましたように私は 名工は 楽器の響きを遮らないために『 ある程度 不安定になるように 』樂弓を設計し製作したと考えています。 それは 現代でもここにあげましたようにその状況証拠をそれなりの数量確認することができるからです。

こうして弓を観察した結果 私はアイレット幅が広がる端緒は ミルクールの製作者 フランソワ・バザン (  François Xavier BAZIN  1824 – 1865 )の工房にあったと考えています。

彼は下のヴァイオリン弓のように アイレットのねじ山が 5.5本もありねじが磨耗しにくくフロッグのぐらつきが出にくい弓を製作しました。

アイレット幅についての考え方は  François Xavier BAZIN ( 1824 – 1865 )が 1865年に病死したために 若干18歳で工房を引き継いだ息子の Charles Nicolas BAZIN Ⅱ ( 1847 – 1915 )が 踏襲しました。

Charles Nicolas BAZIN Ⅱはまだ若かったので 1970年代初頭まで 父の友人であった Claude Charles Nicolas HUSSON( 1823 – 1872 )の助言をうけながら樂弓製作家として認められるようになり、1867年に いとこであった Jeanne Emileと結婚し 3人の子供にめぐまれます。

彼のミルクールの工房は1893年頃から C.N.BAZINなどの刻印をいれた上質の弓を大量に生産します。これは彼が工房経営を息子のCharles Louis BAZIN( 1881 – 1953 )に渡した 1907年まで続きます。

下のカタログは BAZIN 工房が 1900年頃に発行したものですが 私には交換ねじのネジヤマ数がとても興味深かったです。

           
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下にこのカタログからピック・アップしましたが  No.93と No.94が それまでの標準タイプで ねじ山が 4.0本と4.5本の設定であることが分ります。



これに対して No.95 が BAZIN工房の『 一押し!』としてありねじ山が 7.0本もあります。
また‥ アイレットを『 硬い 』とうたっているところに 樂弓のネジ磨耗を意識していると読み取れます。


それから No.100と No.107 として 彼の父が採用した ねじ山数 5.5本タイプも販売していた事が確認できます。









10. 0   Made in Germany  /  Violin bow  1930年頃  アイレット幅 6.0mm
8.0      Replacement Screw Set   Violin bow  1990年頃  アイレット幅   4.9mm
6.0      Replacement Screw Set   Violin bow  2000年頃  アイレット幅   4.1mm

3.0      Joseph MEAUCHAND ( c.1720 – 1775 ) Violin bow    1775年頃
2.5      Jean – Jacques  MEAUCHAND ( 1758 – 1817 ) Violin bow    1775年頃
4.5      François Xavier TOURTE dit TOURTE le jeune ( 1748 – 1835 ) Viola bow 1780年頃
3.5      Nicolas Léonard TOURTE ( 1746 – c1807 ) dit TOURTE l’aîné Violin bow 1780年頃
6.0      Nicolas Léonard TOURTE ( 1746 – c1807 ) TOURTE l’aîné  Violin 1785 ~ 1790年頃
3.0     Louis Simon PAJEOT ( c.1759 – 1804 ) Viola bow   1785 ~ 1790年頃
4.5      Nicolas Léonard TOURTE ( 1746 – c1807 ) dit TOURTE l’aîné  Viola bow 1790年頃
2.5     Nicolas DUCHAINE Ⅱ( 1772 – 1840 )  Violin bow   1790 ~ 1800年頃
4.0     François LUPOT Ⅱ ( 1774 – 1838 )  Violin bow  1800 ~ 1810年頃
4.0     François Jude GAULARD ( 1787 – 1857 )  Cello bow  1820 ~ 1825年頃
4.0     Nicolas Joseph HARMAND ( 1793 – 1862 )  Violin bow   1830年頃
4.0     Claude Joseph FONCLAUSE ( 1799 – 1862 )  1830年 ~ 1835年頃
3.5     Jacob EURY ( 1765 – 1848 ) Violin bow  1835 ~ 1840年頃
4.0     Jean ADAM ( 1767 – 1849 )  Violin bow  1835 ~ 1840年頃
4.0     Étienne PAJEOT ( 1791 – 1849 )  Violin bow  1835 ~ 1840年頃
4.0     Dominique PECCATTE ( 1810 – 1874 ) Viola bow  1838 ~ 1840年頃
5.5     François Xavier BAZIN (  1824 – 1865 )  Violin bow 1845年頃
3.0     François PECCATTE ( 1821 – 1855 )  Cello bow  1845 ~ 1847年頃
3.0     Jean – Baptiste VUILLAUME (  François PECCATTE ) Cello bow  1845 ~ 1850年頃
3.5      Charles Joseph Théodore GUINOT ( 1809 – 1877 ) Violin bow 1845 ~ 1850年頃
3.0     Joseph GAUDE (É)( 1818 – c.1881 )  Violin bow  1850年頃
3.5     Georges Eugène URY – Clément EULRY ( 1821 – 1900 )  Cello bow  1850年頃
3.0     François PECCATTE ( 1821 – 1855 )  Violin bow 1853 ~ 1855年頃
4.5     Pierre SIMON ( 1808 – 1881 )  Cello bow  1855年頃
4.5     Nicolas Rémy MAIRE ( 1800 – 1878 )  Cello bow  1855 ~ 1860年頃
4.0     Jean-Baptiste VUILLAUME ( 1798 – 1875 )  Violin bow 1860 ~ 1865年頃
3.0     Jean-Baptiste VUILLAUME ( Atelier MALINE )  Violin bow   1870年頃
4.5     Jean Joseph MARTIN ( 1837 – 1910 )  Violin bow  1880年頃
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8.5     Charles Nicolas BAZIN Ⅱ ( 1847 – 1915 )  Cello bow   1900年頃
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4.0     Charles Nicolas BAZIN Ⅱ ( 1847 – 1915 )  Violin Screw set  No.93      1900年頃
4.5     Charles Nicolas BAZIN Ⅱ ( 1847 – 1915 )  Violin Screw set  No.94      1900年頃
7.0     Charles Nicolas BAZIN Ⅱ ( 1847 – 1915 )  Cello Screw set    No.95      1900年頃
5.5     Charles Nicolas BAZIN Ⅱ ( 1847 – 1915 )  Violin Button set  No.100   1900年頃
5.5     Charles Nicolas BAZIN Ⅱ ( 1847 – 1915 )  Cello Button set  No.107     1900年頃

8.0     Joseph Alfred LAMY   dit LAMY Père ( 1850 – 1919 )  Violin bow  1885 ~ 1886年頃
7.0     Joseph Alfred LAMY   dit LAMY Père ( 1850 – 1919 )  Violin bow  1886 ~ 1890年頃
8.5     Charles François PECCATTE ( 1850 – 1918 )  Viola bow  1895年頃
8.5     Charles François PECCATTE ( 1850 – 1918 )  Violin bow   1895 ~ 1900年頃
7.0
     Louis Émile Jérôme THIBOUVILLE-LAMY / JTL ( 1833 – 1902 )  Vn bow 1900年頃
6.5     Louis Émile Jérôme THIBOUVILLE-LAMY / JTL ( 1833 – 1902 )  Vn bow 1910年頃
6.5     Louis Joseph MORIZOT / MORIZOT Père ( 1874 – 1957 )  Vn bow  1920 ~ 1925年頃
8.0    W.E. Hill & Sons  /  W. R. Retford ( 1875 – 1970 )  Violin bow  1925 ~ 1930年頃

このようにアイレットねじ部の『 安定化 』は 1900年以降に一気に進行した訳ですが‥ もし楽弓製作者が それまでの規格の意味にもうすこし留意していれば状況は変わったのかもしれません。

ねじ部のお話しの最後に このスローモーション動画( 42秒 )をみてください。


この動画で分るように 楽弓には弦を引っかける馬毛が ” 程良く弦を放す状況が求められています。私はこれを重要なことだと思っています。

そして検討した結果‥  1900年代初頭までの樂弓製作者は この馬毛からの『 弦放れ現象 』がスムーズにくり返されることが上質な弦振動につながることを理解したからこそ 、最小限の安定をもたらすアイレット規格を採用したと私は考えるようになりました。

さてここで このアイレット規格のお話しのまとめとして『 なぜ弦楽器などの製作技術は失われてしまったのか? 』について私見をのべたいと思います。

社会状況と技術伝承について論じるわけですが この場合も私はバザン工房の事例が適当と考えています。 父親である François Xavier BAZIN ( 1824 – 1865 )と息子 Charles Nicolas BAZIN Ⅱ ( 1847 – 1915 )は 23歳の年齢差で、 1907年に工房を引き継いだ Charles Louis BAZIN( 1881 – 1953 )とニコラ・バザンは 34歳の年齢差だったそうです。

つまりバザン工房では 父親フランソワ・バザンが 41歳で病死したとはいえ、孫との年齢差はわずか 57歳でした。私はこの事例は 産業革命による分業化による中心技術のリレーション不全と、『 更なる工業化への指向 』による混乱事例と捉えています。

世代( Generation )間の技術伝承には『 気付き 』のために『 徹底的な模倣 』が教育的に重要な役割をはたすことは一般に知られていますが、疾風怒涛の時代がそれをゆるさなかった‥ という事かもしれません。

ともかく 悲しいことですが、私の認識では サルトリーなどの一部の例外をのぞき 1900年代初頭以降の樂弓は、それ以前に名工が製作した楽弓とくらべてヴァイオリンの響きを少し遮る傾向が特徴となってしまいました。

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幸せなことに最近ではヴァイオリンやチェロの表板、裏板の非対称形状画像を容易く見れるようになりました。 たとえば アン・アキコ・マイヤースさんが使用している、現在‥ 世界で最も高価なヴァイオリンとされる 1741年製のグァルネリ・デル・ジェス(  Guarneri del Gesù )の表板と裏板アーチの等高線画像は公開されています。

これにより このヴァイオリンが かなり複雑な不定形( 非対称形状 )であることが理解できると思います。

 

Anne Akiko Meyers has been given exclusive lifetime loan of the most iconic violins ever created. The ‘Ex-Vieuxtemps’ Guarneri Del Gesu, dated 1741. Meyers plays with the Orpheus Chamber Orchestra in Carnegie Hall and Mason Bates’ new violin concerto with the Pittsburgh Symphony Orchestra, led by Leonard Slatkin. Filmed on December 1 and 7, 2012.

公開日: 2013/01/24
‘Vieuxtemps’ Guarneri Del Gesu Returns To The Concert Stage…

 


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.このヴァイオリンの裏板パフリング部のくぼみには多数の工具痕跡が入っています。

あまり知られていないようですが ヴァイオリンやチェロは想像以上に複雑な形状で製作されました。そして‥ その複雑な不連続面を設定する座標として多数の軸線が用いられ、エッジ部のいくつかのポイントはとくに 可動性をあげるために彫り込みがなされたりしました。 因みに上写真のチェロ裏板に私が用いた補助線は60本で、これは外側の座標としてだけでなく内側を削る際の座標もかねています。

それから私は弦楽器の裏板のミゾ状の加工を いつも「おにぎり」を握る手組で説明しています。表板の年輪方向がその右手だとすると直交方向の動きを受け持つ左手の要素を裏板のカールを利用した洗濯板状の彫り込みがサポートするイメージです。

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This is the cello.
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The height of the arch  –  31.8mm
741.0mm / 356.5mm / 239.5mm / 448.0mm
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Coordinate axes. The basic technology of the 17th century.


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オールド・ヴァイオリンなどの弦楽器に見られる凹凸は楽器の表面をそっと撫でてもわかりますが 一番簡単なのがデジタルカメラで胴体の一部を光らせた写真を何枚も撮ることです。

考古学で古代に石に彫られたものの風化しかけたレリーフや 野外に放置されて彫られた文字が不鮮明な碑文を写真撮影するのに 石碑の真横から強い光をあてて凹凸を浮かび上がらせて撮る方法があります。 ヴァイオリンなどでも撮影用の光が表板の面にたいして真横から差し込むようにすると意外と簡単に凹凸が写ったりします。

       

例として左の写真と同じヴァイオリンを 私の工房で撮影した右の写真とくらべてみてください。 このヴァイオリンはガルネリ家の礎となったアンドレア・ガルネリが製作しました。 イタリア・クレモナの高価な名器ですから 専門のスタジオで資料写真として左の写真は撮影されました。注)1

楽器写真の常識として表面の光っている場所は白くなって楽器が見えないゾーンになってしまうのでそれを避けるために四隅からライトをあてて撮影されています。 色調などをみるためには こうして撮影した写真も重要なのですが このライティングでは立体的形状はほとんど見えません。 そこでヴァイオリンの凹凸が写るように撮影したのが右の写真です。 重要なことですから繰り返しますが 撮影時の光線が違うだけで同じヴァイオリンです。 私はこのような写真で名器の特徴を読み切ることをお勧めしています。

注)1  この写真は 東京・銀座の㈱日本弦楽器 佐藤輝彦さんにご協力いただきました。
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Walter Hamman が 1964年に出版した “ Italian violin makers ” の132ページにあるTommaso Carcassi  が 1786年にフィレンツェで製作したヴァイオリンの写真もアーチの立体的形状がわかりやすくて良いと思います。  上左写真の向かって右側上部をみると立体的な組み合わせとして設計し彫りだされたことが見てとれますし、右側下部にもキズ がつきにくい窪みの底である谷線 に沿って焼いた工具でつけられた焼痕が 点々と続いています。こういう写真が撮影できると‥ 弦楽器の研究も進みやすいと思います。
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しかし残念ですが‥ 習熟するまでは ハンマー・ブックにあるような完璧な写真はなかなか撮れません。

参考として私の工房で10年以上前に撮影した Lorenzo Carcassi( worked 1737–1775 )が製作した ヴァイオリン“ ex Steinberg ” 1757年の写真を2枚あげてみました。 この楽器は 1920年頃から1960年代に ニューヨークやベルリンで ストラディヴァリや デル・ジェズなど多くの名器を販売した楽器商の Emil Hermannの コレクション・ブックの74ページに掲載されています。
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これは前出の Tommaso Carcassiと同じくハイ・アーチでつくられた名器です。 私は 左F字孔外側部の大胆な” 焼痕( キズ状加工 )”が彼の力量の高さを示していると思っています。 因みにテールピースに隠れるゾーンに調整痕跡が入れてありますが、参考のためにこの部位の調整が大胆にほどこされているチェロの写真をならべておきました。
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さて‥ 話は少しそれますが‥  私はヴァイオリンの演奏で最初の重要な人物はアルカンジェロ・コレッリ Arcangelo Corelli( 1653-1713 )だと思っています。

彼は Bolognaから約40㎞ほど Ravenna方面に行った Fusignanoの出身で 13歳である1666年にボローニャに移り1670年には わずか17歳でアカデミア・フィルアルモニカに入る事を認められ、1675年にはローマの 聖ジョバンニ・ディ・フィオレンティーニ教会の主席ヴァイオリン奏者となり 演奏活動を終えた5年後の 1713年にローマで亡くなりました。そして、ご承知のように彼が作曲し厳選して残した “ ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ集 ”などのすばらしい音楽は今日でも演奏されています。

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ボローニャはヴァイオリンの演奏でそうであったように、弦楽器製作でも重要な役割を果たしました。 そしてこの街で楽器作りに貢献したのが Giovanniと Carloの Tononiです。

この写真のヴァイオリンは Carlo Tononi( worked 1675 , Bologna.  1717-1730 Venezia )が 1705年に Bologna で製作したものです。 凹凸写真の参考として 4枚の写真を並べさせていただきました。
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それからミラノの名工 Carlo Antonio Testore ( 1693-1765 )が 1740年頃製作した このヴァイオリンの表板はアーチが 20.5mmです。  膨らみがミディアム・ハイ・アーチくらいになると立体的特徴がメリハリをもって製作されているために凹凸が確認しやすいと思います。
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また‥ 度々話がそれて恐縮ですが‥ ヴァイオリンなどの弦楽器の製作技術は18世紀後半にはヨーロッパ北方地域の都市コペンハーゲンまで伝わっていました。  この地域はリューベックを中心都市としたハンザ同盟の衰退がはじまった 1470年以降 事実上カルマル同盟の下( 1397-1523 デンマークとノルウェー、スウェーデンの同盟  )デンマーク王国の支配地域でした。

しかし 1523年にスウェーデンが独立し1626年にはドイツ30年戦争 に介入するも敗退、また1645年のスウェーデンとの戦争のあとは小国に転落し 1807年のナポレオン戦争にはフランス側として参戦し影響力をさらに落とし1814年にはキール条約などでノルウェー支配がスウェーデンに移ると歴史の舞台の中央に戻ることはありませんでした。

しかし音楽史の上ではいくつも興味深いことがありました。 たとえばドイツのバロック音楽の始祖であるハインリヒ・シュッツ( 1585-1672 )は1609年にヴェネチアで学んだのち 1617年から1656年までドレスデンの宮廷楽長でしたが、途中の1633年から35年にはデンマーク宮廷楽長を兼務するなど生涯のうち3度にわたりデンマーク宮廷楽団を指導しています。

それからバッハに影響をあたえたブクステフーデ( 1637 – 1707 )はデンマークに生まれ1668年まで暮らし、その後亡くなる 1707年までリューベックの教会でオルガニストを務めたことが知られています。このようにデンマーク国王が音楽を庇後したことから多くの伝承があるのですが、困ったことに弦楽器製作に関しては 1752年にデンマークに生まれた ヨルト( Andreas Hansen Hjorth  1752 – 1834 )が 1795年からコペンハーゲンで宮廷楽器製作者となったことぐらいしか記録がみあたりません。しかし、時々驚くほど優れた弦楽器が見つかります。 写真の楽器は KSH  Holm が 1791年にコペンハーゲンで製作したチェロの表板です。 製作者についてはそれ以外不詳ですが楽器としてのクオリティは名器レベルに達していると思います。


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弦楽器のアーチにみられる複雑な立体的形状は剛性の差を利用するために設けられています。 これはアーチのみにとどまらずに このプレッセンダーのように 縁部のわずかな厚さの差までもが技術として取り込まれていたりします。ですから写真を撮影してこれらの加工痕跡を確認するためには注意深さが必要だとおもいます。

       
Giulio Cesare GIGLI   ( worked at Rome, 1730 – 1762 )   violin




Carlo Antonio Testore  ( Milan1693 – 1765 )  violin  1740年頃製作
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この写真は私が Facebook でリンクしているイスラエルのヴァイオリン製作者のウォールからシェアーさせていただきました。彼が手にしたハイアーチのオールド・ヴァイオリンの 撮影された角度がよかったために みごとに裏板エンドブロック部の立体的形状をみることができまます。

.弦楽器は特に裏板、表板を含めたブロック部の立体的形状が その響きにおおきな影響をあたえます。  オールド・ヴァイオリンを観察する場合には この部分の加工を確認することをお勧めします。


Nicola Gagliano ( 1675-1763 )     Napoli 1725年頃製作


Nicola Gagliano ( 1675-1763 )     Napoli 1725年頃製作
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Va  ” Zuckerman ”  416mm
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Antonio Stradivari ( 1644 – 1737 )    violin  “Alsager”  

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また‥『 オールド・バイオリン 』が製作された時期には 裏板のネックブロック部を上写真の左から2番目の楽器にみられるように節として強化する加工技術もありました。

             
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この技術はコントラバスの大きさになると確認しやすくなります。

 

    

     

ベルリンの博物館に展示されている弦楽器とおなじように中央部の剛性が高くなるように裏板ネックブロック部の立体的形状が工夫されているのがご覧になれると思います。

この加工は下写真の 1794年に製作された チェロ・ピッコロの裏板ネックブロック部にも施されていました。

Joseph  KLOTZ  ( 1743-1809 )   1794年製作  ” Violoncello piccolo”
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アーチの高さにもよりますが『 オールド・バイオリン 』の時代の弦楽器には 下写真のチェロのように表板ネックブロック部にも複雑な立体的形状をとり入れたものが いくつも製作されました。
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Old Italian Cello   1700年頃製作
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私はこのチェロの裏板側の立体的形状もすばらしいと思います。
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Old Italian Cello
F   734 – 348 – 230 – 432
B   735 – 349 – 225 – 430
stop 403  –  ff 100


Klotz family  Cello  /   Mittenwald  c.1760~90

Joan Carol Klotz    1709-1790
Michael  Klotz      w. 1753-86

弦楽器の裏板のミゾ状の加工( 洗濯板状の彫り込み )については響胴の振動を無作為加工によって誘導しようとしたと解釈されている方も多いと思いますが、私は その位置、角度、深さ( 強さ )を検証してみるとほぼすべてが意図的な条件設定によって彫り込まれていると解釈すべきだと思います。


Jascha Heifetz  violin  –   Guarneri del Gesù
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Antonio Mariani    violin  1649年頃製作    Pesaro, Italy
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Antonio Mariani    violin  1649年頃製作  Pesaro, Italy


Giuseppe Guarneri del Gesù    ”Ole Bull” 1744年
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J.B. GUADAGNINI   Violin  /  Turin   ” ex Joachim ”  1775年



HELLSTEDT Workshop Violin  (  Stockholm  )     /   1770年頃製作
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Andrea Guarneri ( 1623 – 1698 )    /  violin  Cremona 1658 年

 
https://www.facebook.com/pages/Giuseppe-Tumiati-Liutaio/130889193594940?fref=photo#!/photo.php?v=919504911400027&set=vb.130889193594940&type=2&theater

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Andrea Guarneri ( 1623 – 1698 )    /  violin  Cremona 1658 年




Andrea Guarneri ( 1623 – 1698 )    /  violin  Cremona 1658 年

今日 グァルネリ・デル・ジェズ( Guarneri del Gesù )と通称されるバルトロメオ・ジュゼッペ・グァルネリ( 1698 – 1744 )を含め 5人の弦楽器製作者を輩出したグァルネリ家の礎を築いたアンドレア・グァルネリ( Andrea Guarneri 1626 – 1698 )は ニコロ・アマティの直弟子として ヴァイオリンの研究を進めた弦楽器製作者です。

現代では孫の名声の陰に隠れる評価しか得ていない初代ですが 、私はグァルネリ・デル・ジェスの技術は アンドレア・グァルネリの研究がもとになっていると考えています。

  
Guarneri del Gesù   violin  1741年  The ‘Ex-Vieuxtemps’

これは下にあげさせていただいた 1740年頃 に製作された グァルネリ・デル・ジェズのF字孔とアンドレア・グァルネリ ( 1623 – 1698  )が 1568年に製作したヴァイオリンの同じ部分を比較していただければ皆さんにも同意していただけるのではないかと思います。
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Guarneri del Gesù ( 1698-1744 )    Violin  Cremona 1740年頃製作

Guarneri del Gesù ( 1698-1744 )    Violin  Cremona 1740年頃製作

これらの写真で撮影時の光線角度が合わないと凹凸が写らないのが ご理解いただけると思います。 私はオールド・ヴァイオリンの場合は太陽の位置を考慮して時間と場所を選び2~3回に分けて 600枚程撮影しています。

こうして弦楽器の凹凸が確認できる写真を撮影したら、次はそれを分析します。
たとえば このヴァイオリンの左側F字孔はこうなっています。
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写真で THE BASE Lとしてある壁状の” 節 “は、F字孔のはるか上から THE NICK と書きいれてあるところまで真直ぐ下りて来ています。  因みに そのピークは THE BASE Lの矢印の場所です。 F字外側が下に突き出したゾーンのつけ根には の場所に針で入れた” 焼痕 “が 8ヶ所入っていて一列にきれいに並んでいます。 このラインはF字孔下端の突き出した部分がはげしくゆれるための ” 節 ” の役割をはたしていると私は考えています。( なお白点は見やすいように補助として入れました。)

なおこの左F字孔の写真も 前出の1740年頃 の ” グァルネリ・デル・ジェズ( Guarneri del Gesù )” の左F字孔と比較することを私はおすすめします。

また、このヴァイオリンには『 不思議な場所 』にエクボ状の窪みがあります。
右隣のストラディヴァリ 1716年 ” Oppenheim ” にもこの位置に節がおかれています。

  

 


Mattio Goffriller  /  violin 1702年 Venetia, Italy
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以前、私のホームページ投稿でもふれましたが 弦楽器を見る時にスジ状のキズ を確認することも大切だと思います。 そこで‥ これを Matteo Goffriller が1702年にヴェネチアで製作したヴァイオリンで確認してください。

右側F字孔の外側中央にスジ状のキズが見えると思います。 私は これをこの楽器の製作時に入れられたものと考えています。 これは次の撮影時の光線角度をあわせた写真を見ていただければ すぐに納得していただけると思います。
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この写真で見えるように「キズ」に見えたスジは傷が最も付きにくい窪みの底にあたる” 谷線 ” に入っています。 この状況は当然ですが偶発的なものでないと理解していただけると思います。 このように スジ状のキズ は製作者がどのように 響を整えようとしたかを知るよすがとなる場合が多いと思います。
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念のために申し上げれば このF字孔の加工技術は Matteo Goffriller ( 1659 – 1742 )の独自のものではありませんでした。 その証拠として Walter Hamma が 1986年に出版した Violin-makers of the German School from the 17th to the 19th century  の vol.Ⅱの125ページに掲載されている Johann Adam Popel ( Ende 17.- Anfang 18.)のビオラの写真を貼っておきます。 これは ミュンヘン郊外のBruck出身で Markneukirchenで弦楽器を作ったと言われている製作者が Bruckで1664年に製作したものとされています。

この楽器の右側F字孔に2本の” スジ状のキズ “が入っているのは Matteo Goffriller と 同じ考えによるものだと私は思います。

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前出の Carlo Antonio Testoreが 1740年頃に製作したヴァイオリンにも右側 F字孔 内側に ” スジ状のキズ “があります。


この写真で ” スジ状のキズ ” は ” 谷線 “として刻まれていることがご理解いただけると思います。  私の経験では このような高度な技術を駆使して製作された弦楽器は どれもすばらしい響を持っていました。
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さて 、ヴァイオリンなどのキズ痕といえば ‥  私は『 オールド・バイオリン 』の真贋をみるときには必ず裏板のセンター・バーツ上部の工具痕跡を確認します。 ここには下写真の アントニオ・ストラディバリが 1716年に製作したとされる ” Oppenheim ”や、1719年製作の ” Rayssac “のような加工が加えられていることがあるからです。

私は『 オールド・バイオリン 』にみられるこの工具痕跡は弦をはって響きを確かめる最終工程で施されたと考えています。 それは響胴の構造から考えて裏板中央側の剛性が高くしてあるアーチ部と中の空気を振動させるためにゆれることが必要なへり部分の駆動性の向上が目的と推測できるからです。


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この工具痕跡はクレモナのみではなく例えば上写真の ローマで弦楽器製作をおこなった Giulio Cesare GIGLI( worked at Rome, 1730 ~ 1762 )が 1740年に製作したヴァイオリンでも確認できますし、下写真のクレモナとブレシアで活躍した G. B. Rogeri  の製作したヴァイオリンでも確認できるものがいくつもあるように17世紀から18世紀にかけての弦楽器製作の名工によるヴァイオリンでは珍しくありません。


This photo you can see Rogeri’s slightly fuller arching, taking influence here from the Brescian school. This is unlike his teacher Nicolo Amati’s work, which contrastingly shows a wider channel and a more pinched arching. — Florian Leonhard Fine Violins

私の経験では この工具痕跡はアーチがへり部分ギリギリまでせまっているオールド弦楽器によく見られました。

https://www.facebook.com/#!/photo.php?fbid=618932694803400&set=a.326370747392931.88499.325883950774944&type=1&theater


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この 1692年製作のヴァイオリンは G. B. Rogeriが Bresciaに移る前の Cremona 時代のようですね。

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私はこの投稿の冒頭で弦楽器の複雑な立体的形状は軸組みの工夫によって彫りだされたと申しあげました。 そこで ここからはその軸組み考察の基本としてF字孔間をむすぶ補助線のお話しに入りたいと思います。


【  F字孔間水平軸の傾斜  】

それではヴァイオリンF字孔の傾きのコンビネーション事例を見てみたいと思います。 下図の中央の線はアッパーとロワーの幅の中間位置をむすんだもので、横線は ヴァイオリンをぶらさげた状態での水平位置( 0° )から右上がりが( - )マイナスで、右下がりが( + )プラス‥度と表示しています。

      
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私にとって どれも興味深い楽器達ですが 特に 1679年に製作された ストラディヴァリの ” ねじれ ” を計算した( 表板年輪がハッキリ右回りとなっています。)上で製作された『 静かにみえる‥。』 でも本質は能動的な設定のF字孔バランスが好きです。 これは両F字孔の小丸穴部が埋めてあったりして 製作時の『 苦闘』がシノバレル‥ 彼のヴァイオリンとしては めずらしい” 様式 ” を越えた積極性が感じられるものです。

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このように オールド・ヴァイオリンには F字孔が非対称であることや、表板あるいは裏板のジョイントや年輪によって生じる軸の角度が それぞれの楽器ごとに違うという特徴があります。  そこで‥ この点についてもう少し詳しくみてみたいと思います。
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【  ヴァイオリンの” 木組み技術 ” と ” 木伏技術 ” について  】

ストラディヴァリ( Antonio Stradivari c.1644 – 1737 )が製作した名器の中でも装飾入りヴァイオリン ” Sunrise ” は特に有名です。 このヴァイオリンは 1677年頃製作されたと考えられていますが 非常に特徴的なつくりとなっています。 装飾はもちろんですが‥ 例えば表板は 通常左右2枚の板を接ぎ合わせて製作されますが、名器 ” Sunrise ” は一枚板を用いて最上の仕上げで完成されています。


ストラディヴァリ以外にも 表板に一枚板を使用した名工はそれなりにいますが どれも特別と言っていいほど力がこもった楽器として仕上がっています。 上写真の カルロ・アントニオ・テストーレ( Carlo Antonio Testore 1693 – 1765 )さんが 1740年頃ミラノで製作したヴァイオリンも 表板が見事な一枚板で作られています。

このヴァイオリンの表板はサドルの位置で 中央  a に位置する年輪を一本選び赤線でトレースすると b の位置に到達することから 材木が反時計回りにされていることがわかります。これは家にたとえれば柱にあたる6個のブロック配置とライニング、ネック、そして裏板材の特性を意識してねじれがスムーズに生じるように工夫したもので 木工の世界では ” 木組み技術 ” と呼ばれています。

このように一枚板で完成度の高いヴァイオリンを製作するには 木理( 材木の特性 )を把握する特別な能力が必要となります。 このため一般的にヴァイオリン族では表板に 二枚の板を接着し特性を整えたものが使用されています。これは ” 木伏 ” とよばれています。

私は オールド・ヴァイオリンは この表板の継ぎ目( ジョイント)も『 最良のネジレ 』を目的として 設定されていると思っています。 この例として下に三つのタイプをあげました。

      

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上左側に多数派の ” 左回り型( 反時計回り型 )” の例として Nicola Gagliano ( 1675 – 1763 )が 1725年頃製作したヴァイオリンをあげました。 これは 0.4度左回しで作られています。中央に ” 右回り型 ” として その息子であるガリアーノ兄弟( Giuseppe Gagliano 1726 – 1793 , Antonio Gagliano 1728 – 1805 )が 1754年に製作したヴァイオリン写真を置きました。 これはジョイントが右に0.6度回してあります。

そして その右側には ジョイントを中央より右側においた ” 完全非対称型 ” として Barak Norman 工房で 1700年頃に製作されたビオラをあげました。 これはジョイントを非対称に置いただけでなく 0.5度 左回しにしてあります。
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Viola is Mr. Pinchas Zukerman is using.   (416mm body length)

私はさきほど オールド・ヴァイオリンは響を生みだすために『 ななめの動き( ネジレ )を誘導する設定 』がされている趣旨のお話しをしましたが、ジョイントや年輪を調べてみると ほとんどのオールド・ヴァイオリンで こういう設定がされているのが 確認できると思います。

                                                                           †

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さて、ここで究極の ” 木伏技術 ” の例を ご紹介したいと思います。 まず 1998年にロンドンで Peter Biddulph さんが出版した 25台のジュゼッペ・ガルネリ( 1698 – 1744 )の原寸大写真集 ” Giuseppe Guarneri del Gesu “の 161ページを参考資料として挙げさせていただきます。

タイトルが ” Dendrochronologies of Twenty-five Violins by Giuseppe Guarneri del Gesù “ Measurements and Analysis by Dr. Peter Klein となっています。 これは ピーター·クラインさんが 担当して25台の ガルネリ・デル・ジェスのヴァイオリン表板を年輪年代学により研究した結果が記載されているものです。



現代ではヴァイオリンを製作する場合‥ 材木のスプルースを上からみて放射状に切断して、 その板の外側どうしをジョイントすることで左右対称の木組みが なされているために表板の年輪は左右で違ったとしても数本以内で製作されています。

ところが ピーター·クラインさんのこの研究では、 これら25台のガルネリ・デル・ジェス( ロワー・バーツ部での左右の年輪合計は 131本から 260本です。)のうち 16台が ジョイントされた左右の年輪数が 10本以上( 10 ~ 63本 )も違うことが指摘されています。

これに ” 年輪年代学 ” の材木の時代考証をあわせて考えると ガルネリ・デル・ジェスは 積極的に木理を工夫した ” 木伏技術 ” によって左右が非対称の振動板を製作したと‥ 推測できると思います。

私も 表板がジョイントされたオールド・ヴァイオリンの年輪などを調べたことが何度もありますので あきらかに左右の材木が違う組み合わせで製作されたヴァイオリンなどを何台も知っています。 客観的に考えれば 一枚板で『 柾目( まさめ )』だけでなく『 板目( いため )』の木取りをした弦楽器がいくつも残っているのですから なんの不思議もないはずですが、19世紀あたりからの ” 習わし “を学んだ 『 専門家 』には頭が痛い技術です。

私はジュゼッペ・ガルネリは強いネジレを生み出すためにピーター·クラインさんが指摘したように 表板に用いた左右の板は 木理を考慮して別々の時期に伐採された木材をジョイントして準備した ” 疑似的な一枚板 ” を愛好していたと思っています。

 

もうひとつ ” 木伏技術 ” の好例を 1990年に Brescia で出版された ” Gasparo da Salò e la liuteria bresciana tra Rinascimento e Barocco ” Flavio Dassenno / Ugo Ravasio の57ページより引用させていただきました。

私は このチェロの表板の 『 焼キズ 』はガスパロ・ダ・サロ( c.1542 – c.1609 )さんが製作したときに 響きの調整で加工したものだと考えています。 特に斜めにいれられたスジ状の焼キズには スプルース材の特性をより複雑化して意図した響きを実現しようという強い意志を感じます。 私はこれも最高レベルの 『 木伏技術 』のひとつだと思っています。


【  ヴァイオリン裏板の” 木理 “とジョイント  】

ここで オールド・ヴァイオリンの特徴のひとつである 裏板の ジョイントの位置取りに着目してみたいと思います。  この参考例としてイギリス・王立音楽院コレクションの資料集として 2000年 に David Rattray さんが出版した ” Masterpieces of Italian Violin Making ( 1620 – 1850 )- Important Stringed Instruments from The Collection at The Royal Academy of Music  ” の 31 と 35 ページを引用させて頂きました。

 

両方のヴァイオリンとも アンドレア・ガルネリ Andrea Guarneri ( 1626 – 1698 ) が製作したもので 左側が 1665年の製作で 右側が1691年 注)1  とされています。 この写真をよく見ると左側のヴァイオリンのジョイントは少し時計回りにしてあり、 右側は 反時計回りに位置取りがしてあることがわかります。

どこの国でも優れた木工職人は技術上の奥義( おうぎ )を問われると 『  それは木のくせを読み切り活かすことです。』と答えます。

私はオールド・ヴァイオリンの製作においても 同じことが留意されたと考えています。 裏板について言えば もともと樹木はネジレながら縦に成長しますので木取の段階で木理が慎重に検討されます。それから2つの選択支について考えられます。

それは ジョイント加工によって木材に意図的なバランスを生じさせる ” 木伏技術 ” を用いるか、もうひとつの方法である 一枚板のくせを読み切って ” 木組み ” で調和させる技法を選択するかです。

ここで余談ですが‥ これらをヴァイオリンで観察するときに ジョイント型は意図的に組まれているのが容易に判断できますが 一枚板の場合は 年輪を目で追っても傾きが判然としないことが よくあります。 この一枚板のくせを読み切る助けとなるのが 裏板のひび割れです。

     

年輪や ” 杢( もく )” そして柾目方向の” 符( ふ )” などの 木理がわかりにくい 一枚板の裏板でも ひび割れが一筋入っているだけ木組みが判断しやすくなります。
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上左側は 横山進一さんが撮影し1986年に学研より出版された ”The Classic Bowed Stringed Instruments from the Smithsonian Institution ” の23ページより 1679年に制作されたストラディヴァリウス “ Parera ” の裏板写真を引用させて頂きました。 裏板は一枚板ですが 軸が 6.9度程 反時計まわりにしてあり、表板が 2.9度程 回転してあるので 表板と裏板の角度差は 4.0度 のようです。  このヴァイオリンは軸を大きく回転させた 好例なので覚えておいていただきたいと思います。

      

このストラディヴァリウスのように積極的な年輪の傾きがみえれば判断は簡単なのですが、残念ながらほとんどのオールド・ヴァイオリンはその右側の二枚の写真ような注意深い観察が必要な組み方がされています。 上中央の写真は Nicola Gagliano ( 1675 – 1763 )が 1725年頃製作したヴァイオリンの裏板ですが 、少し反時計回りにした上で 中央より向かって少し左側にジョイントが位置づけられています。 そして右側に同じようにほんの僅か反時計回りでジョイントを中央より左側 ( ボトムでガリアーノはジョイントがセンターライン右 1.2mmで 右側のオールドヴァイオリンはセンターライン左 3.4mmとなっています。)に設定されたヴァイオリン写真を並べました。

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また‥ 私は この英国製ヴァイオリンのような木組みも興味深いと思っています。

    

 

 

【  エンドピン ホールにより生じる軸  】

オールド・ヴァイオリンでは エンドピンホールが開けてある側板の高さは 29mm から32mm ほどですから標準値を 31mm とすると その中央より 2~3mm上を中心としてエンドピン ホールが開けてある場合が多いようです。

           
これを見るには多少の知識が必要ですからそこからお話ししたいと思います。


ここで ヴァイオリンの ”疲労破壊” の お話をします。 現在 その原因を 強度不足と思い込んだ方が増えましたが 、ほんとうは ① ヴァイオリンのバランスが不調和の状態で鳴らしたことにより表板に歪がたまり変形が進み ② エンドピン・ブロックと側板の接着部が上からエンドピンに向けて剥がれていくか割れが入るかしてブロックが不安定となり ③ 弦の張力でブロックと一諸にエンドピンが傾き側板にヒビを入れ ④ 枠の支えが弱くなったために表板の歪がより増え大きな割れが入る。という ” 逆ぞリ型破損 “がその典型です。 上写真のエンドピンホールの左右のひび割れもそうして入りました。
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難しいのが 下写真のように元の側板が裏板側で 少なくとも2ミリは削られている 『 ホリゾンタルが失われた楽器 』 です。  こういう修理がなされている場合は状況をつかむために採寸したうえでの検討が必要となります。

このようなサドル位置を右側にずらした痕跡は例えば下の KSH  Holm が 1791年にコペンハーゲンで制作したチェロのオリジナルブロックに残る 黒壇サドル・ベース位置のように弦楽器の修復担当者は よく目にしますが 外見のみで判断するのはかなり注意深さが必要かもしれません。

 

  

参考資料として ニュルンベルグの 「 ドイツ・ナショナル ミュージアム 」収蔵の オリジナル状態の Leopold Widhalm( 1722 ~ 1786  )の1757年製ヴァイオリンのX線画像を見てください。 エンドピンブロックの縁にサドルが右側にずらした位置で取り付けられているのが確認できます。

また 彼が 1769年に製作したヴァイオリンもサドルは右側にずらしてありました。


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私はこのようなことから‥ オールド・ヴァイオリンなどの弦楽器は 表板や裏板のジョイントまたは木理と上下ブロック位置によって生じる軸に加え、エンドピンとサドルそして ネック、指板の工夫 、開断面としてのF字孔、そして複雑な立体的形状をもった表板と裏板のアーチ などによって多数のゆれ軸を設定することで豊かな音色を実現したと考えています。
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この多数のゆれ軸を組みあわせる加工技術は 下の Joseph Benedikt GEDLER ( 1755 – 1830 )のように特殊な加工までうみだしました。
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GEDLER, Joseph Benedikt (I) Born 1755, died 1830 Füssen Germany. Son and pupil of Johann Anton Gedler, above. Preferred the Stainer model, but well-made and with no unnecessary exaggeration. Scrolls slightly inferior. Varnish generally dark, thin, and opaque.

 

Joseph Benedictus Gedler / Lauten- und Geigen Macher / in Fuessen 1786 [Hamma I]

 

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【  F字孔にみられる段差  】



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因みにこれらのことを踏まえて 私が製作しているチェロの幅は” 仮の垂直基準面 “から アッパー・バーツで左側が 170.0mm で右側が 177.0mmとなり右側が 7.0mm幅広で、センター・バーツも右側が 1.0mm、ロワー・バーツが右側が 2.0mm幅広で、裏板の幅もアッパー・バーツは左側 177.5mmの右側 179.0mmで 右側が 1.5mm 幅広、センター・バーツも右側が 0.5mm、ロワー・バーツも右側の幅が 2.0mm広くしてあります。

そしてこの響胴のネック軸となるブロック中央を通る垂直基準面は” 仮の垂直基準面 “から ネック・ブロック中央が右側に5.8mmずれた位置で ロワー・ブロック中央が左側に 8.0mmの位置になるように設定しました。

表板と裏板の関係は全長が 745.5mm – 741.0mm で表板が 4.5mm 長く、アッパー・バーツは347.0mm – 356.5mm で表板が 9.5mm 幅が狭く、センター・バーツは 243.0mm – 239.5mmで表板が 3.5mm 幅が広く、ロワー・バーツは 449.0mm – 448.0mm で表板が 1.0mm の幅広となっています。


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N. YOKOTA

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