ヴァイオリンの調整技法についてのお話しです。 ( part 5 – B )

 

ヴァイオリンにおける『 弦楽器調整技法 』について

 

 

下の写真はネックのバランスを見ていただくために指板上端( ナット部 )の中央部と サドル上の2本のテールワイヤー中央部との間に一直線に糸を張り写真を撮影しました。

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では ‥ まず このチェロのように『  ネックがバスバー側を向いていた場合  』のお話しから入りたいと思います。
私は この設定を意図的に選ぶ修理関係者も多いことから考えて、一定の評価を受けていると認識しています。 チェロでこの設定を選ぶと 新しい楽器でも C線、G線の鳴りが ” 低音の魅力  ” をもっていて奏者を惹きつけることができます。 しかし残念なことに この時にD線とA線の鳴り方が問題になります。 ネックの圧力軸がストレートに響胴の低音側を優先するために 高音側がエネルギー不足に陥ったりひずみが集まりレスポンスも悪く音量も小さくなってしまうことがよくあるからです。

 

ちなみに 今日 製作されているチェロはもともと使用されていたラウンド・タイプの指板よりも、 C線下にフラット面を設けたタイプが多数派となっています。 これはC線 とG線間の尾根状のエッジが指板の剛性を高めることでネックが響胴をゆらす力を増幅できる上に 指板とネックがつくる圧力軸が 指板の中央よりバスバー方向に結果として向くことで ネックが正中線にあわせて一直線とされていても『  ネックがバスバー側を向いていた場合  』とおなじようにC線やG線が 魅力的な低音を発生させやすくなるから ‥ と 私は思っています。

 

 

この時に指板の黒壇がきめが細かく重たい上質のものだと なおさらその効果が分りやすいと思います。 ただし重たい指板が響胴の設定とあわない場合は 細やかなニュアンスの表現が不鮮明となって単純化されてしまったり共鳴音が小さくなってしまうことがあります。これは下写真のような バロック仕様の指板が 意図的に軽やかにゆれるように工夫されていたことを知っていると なおさらイメージしやすいのではないでしょうか。

 

 

黒壇の比重は  1.0~ 1.2   くらいで、ヨーロピアン・スプルースや シトカ・スプルース ,  ジャーマン・スプルースなどのスプルースは およその比重 が  0.35~0.45 と考えていいと思います。

   

 

   

このタイプの指板は重量は軽いですが 激しく振動しますので その仕組みは弦の構造と類似していると私は思っています。

下の3枚の写真は 左からヴァイオリン・ドミナントA線 ( 青 )、D線 ( 緑 )、G線 ( 黄 )です。 フラット・ワウンドの2段巻きで外側の巻線はA線、D線がアルミニュームで G線がシルバーなのは公開されていますが内側の巻線の材料は公開されていません。 コアー( 芯材 )は現在 「 シンセティック・コアー 」とされています。

    

上で最初にあげた アメリカ・ダダリオ社のヴァイオリン弦のザイエックス ( Zyex )のように D線はフラット・ワウンドの2重巻きですが G線は フラット・ワウンドの外側巻線の内側に ラウンド・ワウンドの巻線があり、ドミナント弦の銀色と違い銅色をしているのがわかります。 この巻線の比重や硬さはどうでしょうか?

コアー( 芯線 )が ナイロンであれば比重は 1.02 ~ 1.14 と考えていいと思います。 これに対し巻線の金属は軽いタイプとして比重 2.7 位のアルミニウムや 比重 4.5 位の チタン、そして比重が5以上の重金属、例えば 鉄 (  7.86 )、マンガン ( 7.2 )、クロム ( 7.19 )、銅 ( 8.92 )、鉛 ( 11.34  )、金 ( 19.3 )、銀 ( 10.5 )、白金 ( 21.45 )、タングステン( クロム元素 / 19.3 )などの利用が考えられます。『  注)これらの比重は一般値と思って下さい 。』

ところがやっかいなことに 実際によく使用されるのは硬さなどの関係で合金や金属間化合物がほとんどです。その上に 紛らわしいことですが 彫金などの業界では 「 銀 ( シルバー )」と表示されていてもよく見ると AgCu = 99.99% ( フォー・ナイン )などと表示している合金を「 銀 」と呼びならわしています。絃のメーカーも使用する巻き線にこういう合金類を使用している場合がよくありますので正確な検証はむずかしいですが 私は コアーと巻線の比重差が振動特性をおおきく左右していると思っています。
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バロック型の指板の場合には スプルースを土台にすると比重が 0.4 位の軽やかな芯の外側に 比重が 1.1 程の黒壇がくみあわせてあることでゆれが強くできるのです。
このように 合成型の指板は組み合わせられた材質特性の『 差 』と 『 外側( 表面 )』が重いことが重要だといえると思います。

 

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指板の方向とその圧力軸のゆれかたは オールド・ヴァイオリンの場合には表板アーチの関係で なおさら重要となります。 それらの特徴である 高めのアーチ( ドーム )には 強い剛性がありますので 『  極端にネックがバスバー側を向いていた場合  』には急激に表板の疲労が進行することがあるからです。 そして限界に達した瞬間に 下のヴァイオリンのように 表板の高音側( ロワーブロック右側 )が 『 バン‥ !! 』といった派手な音とともに割れてしまったりします。

 

 

 

上写真の『  ネックがバスバー側を向いているオールド・ヴァイオリン  』 の表板アーチ( ドーム )は 20.4mm あります。 私は幸いなことにこのヴァイオリンの表板 高音側( テールピース右側 )の割れが ” イナズマ ” 状態にはいった瞬間に立ち会っていませんが 針葉樹の板がこの裂け方をするときは強い衝撃音を伴っていたのは間違いないと思います。

 

またアーチが高いタイプで 極端に『  ネックが魂柱側を向いていた場合  』に 大きいバスバーが入っていると 下の写真のようにバスバー下端ゾーン(  ブロック左側  )が『 つり合いの破れ 』により破損することがあります。

 

今日では弦楽器を取り扱う人のあいだでもヴァイオリンは『 乾燥割れ 』が入りやすいと言われているようですが 実際は湿度変化などで割れがはいることは 非常に稀( まれ )です。
私の29年間の経験では新品のヴァイオリンとチェロで 3台程ありましたが、そのほかの数多い割れは『 落下 』などの事故か 歪み( ひずみ )などによる疲労破壊だけでした。

つまり『 事故 』を除外した場合には‥ 極論すると 新品をのぞきほとんどの場合で『 ヴァイオリンは鳴らさないと割れは( 疲労破損 )は起こりません。』と言えると私は思っています。

しかしオールド・ヴァイオリンによくある アーチが高いヴァイオリンは高性能な設計で、結果として『 アソビ 』が少なくしてあるためにバランスが不調和な状態で使用すれば短期間で 『 疲労 』が進行することがあるようです。 それと、アイロニーなことですが演奏能力が高ければ高いほど響胴を激しく動かしてしまうために分かりやすい結果がでてしまいます。

 

このようにネックと指板がうみだす圧力軸は ヴァイオリンの響き方や安定性におおきな影響をあたえています。 これは ヘッド、ネックと指板、そして響胴の軸組みに関する基本設計が反映しているためと考えることが出来ます。

 

そして これが分っているとヴァイオリンの調整技法の幅がひろがりますので ここからその事例をすこしずつあげてみたいと思います。 まず最初は 『  指板とネック接合部つけ根の切り込み加工  』についてのお話しです。

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【  弦楽器調整技法     No. 1  ” プレッセンダー・カット ”   】

ヴァイオリンなどに使用される指板は 重たい黒壇が使用されています。
因みに 私の工房で仕入れ状態で在庫しているヴァイオリン指板の重さは平均 95.0g です。これを削って指板は製作されますので その重さはまちまちです。

参考として指板の影響を最小限にする設定で製作した私の自作ヴァイオリンに取り付けた 指板の重さ パーツ無し重量( 弦や駒、テールピース、ペグ、魂柱、エンドピンを はずしヴァイオリン本体だけの重量を計測しました。)と 指板がそれにしめる割合、それから ネック部重量 ( = ネック+ナット+指板  )とパーツ無し重量にしめる割合を下に書きだしてみました。それから 最後にあげたヴァイオリンは 部品の重さと全体にしめる割合の詳細も書きだしました。

41.3 g – 333.6 g ( 12.3 % )
46.2 g – 338.8 g ( 13.6 % )
56.5 g – 349.7 g ( 16.1 % ) – 119.2 g ( 34.0 % )
37.7 g – 305.0 g ( 12.3 % )
58.0 g – 324.8 g ( 17.8 % ) – 113.8 g ( 35.0 % )
46.8 g  – 312.0 g ( 15.0 % ) – 102.9 g ( 32.9 % )
53.0 g – 320.0 g ( 16.5 % )
58.0 g – 325.0 g ( 17.8 % ) – 135.5 g ( 41.6 % )
58.5 g – 305.0 g ( 19.1 % )
57.0 g – 318.0 g ( 17.9 % ) – 114.5 g ( 36.0 % )
60.0 g – 328.0 g ( 18.3 % ) – 119.4 g ( 36.4 % )

58.0 g – 332.0 g ( 17.4 % ) – 124.3 g ( 37.4 % )
表板 69.2 g ( 20.8 % ) – 側板 51.6 g ( 15.6 % ) – 裏板 86.9 g ( 26.2 % )
全重量 431.5 g – パーツ無し本体 332.0 g ( 76.9 % ) – CROWSONあご当て 61.5 g ( 14.3 % ) – 他パーツ 38.0 g ( 8.8 % )

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これら12台のヴァイオリン指板の重さの平均値 52.6 g で パーツ無し重量が 324.3 g でした。 そして 私のヴァイオリン 7台のネック部重量平均 118.5 g ( 327.0 g – 36.2 % ) となります。 これは 私の自作ヴァイオリンの重量423.8 g とした時には指板(  52.6 g  )がヴァイオリン全体に対して 12.4 % をしめていることを意味します。

比較のために あご当てを 61.5 g とした場合の他のヴァイオリンの重量を下にあげてみました。

上記のヴァイオリンの平均重量の 461.5 g という値は ヴァイオリンの重さとしては 妥当なところだと思います。ちなみに私が製作しているヴァイオリンは 下に参照としてあげた 1735年製の ガルネリ・デル・ジェス ” Plowden ” のような 410 g ~ 450 g タイプです。

私はオールド・ヴァイオリンを 重さで2グループに別けるとすると  軽いタイプが  410 g ~ 450 g で、重いタイプが 450 g ~ 490 g と区別するのが適当と考えます。

このガルネリ ” Plowden ” は 32.4 g のあご当てを取り付けて 411.4 g のヴァイオリン として使用されているようですが 比較のために あご当てを 61.5 g とした場合は 440.5 g となります。

 Zygmuntowicz  /  Strad 3D    violin w/o chin rest chin rest
Plowden Guarneri del Gesu (1735) 379 g                   32.4 g

 

それから 2011年にパルマ( Parma, Italy ) で開催された ”  Joannes Baptista Guadagnini  fecit Parma ferviens Celsitudinis Suae Realis  /  Published by   Elisa Scrollavezza  &   Andrea Zanre  ” の展覧会資料集の 233ページから J.B.ガダニーニの重量計測値にあご当てを 61.5 g としたヴァイオリン総重量をいくつか下に書きだしてみました。

J.B. GUADAGNINI  violin   1742年    Piacenza  ” Franzetti ”     –  443.0 g
J.B. GUADAGNINI  violin   1753年頃  Milan       ” Curci ”         –  438.5 g
J.B. GUADAGNINI  violin   1758年    Milan       ” Burmester ”  –  424.1 g
表板重量   62.0 g  –  裏板重量 77.0 g

J.B. GUADAGNINI  violin   1763年      Parma      ” Lamiraux ”   –  438.5 g
J.B. GUADAGNINI  violin   1767年    Parma      ” Hottinger ”   –   436.7 g
J.B. GUADAGNINI  violin   1770年    Parma      ” Levine ”        –  446.0 g

上記の6台の J.B. ガダニーニ ヴァイオリン平均重量は 437.8 g となります。

このように ネック部分と胴体の重さの比がおよそ1対2という割合であることからも『  ヴァイオリンは ” 響胴 ” として 実際に空気を振動させる胴体と 指板を含めたネック部の関係が重要な楽器です。』といえると思います。

それからヴァイオリンが誕生し発達した 16世紀から17世紀にかけて製作されたほかの弦楽器が『 ねじり 』などによってネックのゆれが響胴に対して複雑な『 応力 』をくわえるように工夫されていることからも ヴァイオリンの設計思想にそれがとり込まれたと推測することが出来ます。
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これらの条件設定のうちでも特に指板を重くした 現代型のヴァイオリンでは 重心となる a. の位置とその両端の工夫は響きに直結します。
その典型を 私が ” プレッセンダー・カット ” と呼んでいる 下写真にあるように ネック端部 (  指板重心 )の指板に切れ込みをいれてその揺れをコントロールする技術にみることができます。


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ヴァイオリンのネック部と指板は コレルリ( Arcangello Corelli  1653-1713 )さんの時代から19世紀末にかけて大きく変遷しました。

コレルリはイタリア・ボローニャ近郊に生まれて 少年期にボローニャでヴァイオリンを学び 1670 年代に ローマに移って教会のヴァイオリニストとなった人です。そしてその後に 宮廷音楽家となって有力な貴族の後押しを受け 彼らの宮廷楽団のために作曲家、指揮者として生涯を終えました。 ところで バロック時代の作曲家は概してたくさんの作品を遺しているものですが コレルリの現存する作品は必ずしも多くはありません。 今日に伝えられたのは 48曲のトリオソナタ( 作品 1∼4 )、 12曲のヴァイオリンソナタ ( 作品5 )、12曲の合奏協奏曲 ( 作品6 )、これにあと一曲の序曲だけです。 これは彼の遺言によって、上記以外の未出版のものは廃棄されたためと伝えられています。
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晩年のコレルリは演奏活動の第一線から引退して合奏協奏曲の作曲に専念したと言われています。「 合奏協奏曲 」は コンチェルティーノ ( 独奏楽器群 … たとえばヴァイオリン2台とチェロ1台そしてチェンバロが入った「 トリオ・ソナタ 」の編成です。)と リピエノ ( 合奏群 … 音量や和音を補強するための弦楽合奏のことです。)が対置されて演奏される協奏曲のことです。 コレルリの合奏協奏曲の場合は コンチェルティーノ は2台のヴァイオリンとチェロが担当します。この形式はコレルリの発案ではないのですが、晩年に推敲を重ねたことにより どの曲も完成度が高いものとなっていて 気品がある美しいものになっています。 こうして12曲からなる合奏協奏曲集の作品6は 彼の遺作となって 亡くなった翌年の 1714 年に出版されたそうです。
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さてオールド・ヴァイオリンは 当然 バロック・ヴァイオリンだった訳ですから ネックと指板は製作時期と製作者の考えで個体差がありますので 参考データとして 1998年に BRITISH VIOLIN MAKING ASSOCIATION が ロンドンで開催した ”  400 YEARS OF VIOLIN & BOW MAKING IN THE BRITISH ISLES  /  The Catalogue of the 1998 Exhibition  ” の 403ページより 製作時の状況を留めていると考えられる10台のヴァイオリンのネックと指板データを下にあげさせていただきます。

ネック部の長さ( ナットまで )  :   厚さ

表板端からナットまでのネック部の長さは現代型は 130.0 mm な訳ですが この10台のバロック・ネックを持つヴァイオリン達は 122.0 mm ~ 134.0 mm で 平均値が 128.7 mmとなっています。 私の経験では これらを ヘッド・エンドにナットを設定する現代型の位置でネック長さとして計測するとおそらく 123.0 mm ~ 127.0 mm位の設定になっているのではないかと思います。

私はバロック・ヴァイオリンの振動弦長設定で重要なネック長さとナット位置は 音響上の理由で 指板の重心位置が強く意識されて選ばれたと考えています。

ちなみに上の10台では 指板をふくむネック部の厚さは最薄部が  17.6 mm ~22.8 mm で平均 20.3 mmとなっていて、最厚部が 21.8 mm ~ 28.0 mm の 平均 25.2 mm と現代型より厚くなっています。 私は 指板上面のカーブ半径が現代型の 42.0 mm 設定と違い バロック・バイオリンは 51.0 mm ~ 52.0 mmと比較的に平坦となっているのは ネック断面を『 逆おにぎり型 』の形状とすることで 『 剛性 』を高めて 指板を含んだネック部の圧力軸を明確にして響きをコントロールする目的があったためと考えています。

これらのことから 私は 現代型の設定は ネックの厚さは音響上の条件を考慮したうえで 最薄部が 17.1 mm で 最厚部が 19.8 mm くらいが望ましいと考えています。

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指板 長さ  :    幅

さて 指板の長さをこの10台でみると 216.0 mm ~ 262.0 mm となっていて 平均 254.0 mm です。 私は ヴァイオリンの指板は初期に 213.0 mm ~ 215.0 mm くらいが製作され、それがすこしづつ変更されて 最終的に現代型の 268.0 mm ~ 270.0 mm にたどり着いたと思っています。

指板の幅については 上記の10台がナット側 22.0 mm ~ 26.3 mm で平均  23.7 mm で 駒側端が 38.6 mm ~ 44.0 mm の平均 41.9 mm です。

バロック期の指板幅はトレンドの見きわめが難しいですが 私は ナット側が 23.0 mm ~ 25.5 mm で指板端が 40.0 mm ~ 42.0 mm くらいを標準と考えています。 ちなみにクレモナのストラディヴァリの型紙は 指板長さ 213.0 mm で幅が 25.5 mm の 40.0 mm となっているようです。

これらのことから 私は現代型のヴァイオリン指板は 270.0 mm – 23.0 mm –  42.0 mm が基本だと思っています。

 


下の写真は参考のために 1990年にヴェネチアで開催された  ” STRUMENTI MUSICALI DELL’ISTITUTO DELLA PIETA DI VENEZIA ” の展覧会カタログより引用させていただきました。

展示番号   No. 5      violin    1715年頃製作

ネック 長さ        126.0 mm
振動弦長         321.5 mm
指板端 高さ        11.0 mm
駒高さ            27.5 mm
指板 長さ         202.0 mm
指板 幅     24.0 – 40.0 mm


展示番号   No. 1      violin    1690年頃製作

ネック 長さ        137.0 mm
振動弦長         332.0 mm
指板端 高さ        16.5 mm
駒高さ            32.0 mm
指板 長さ         249.0 mm
指板 幅     21.7 – 42.0 mm

コレルリの時代に ヴァイオリンは上の写真にあるようなネック部や指板設定で演奏に使用されていました。これは下写真のように モーツアルト(  Wolfgang Amadeus Mozart  1756 – 1791  )の時代まで続きました。

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しかし ニコロ・パガニーニ ( Nicolo Paganini  1782 – 1840 )の時代に ネック部と指板の設定は 重い黒壇を積極的に使用する設定へと変化していく事となりました。

イタリア・ジェノヴァ 生まれの パガニーニは ナポレオンの妹のエリーザ・バチョッキ ( Elisa Baciocchi )が 1805年にトスカーナ大公妃として設けたルッカの宮廷における独奏者として演奏活動をはじめます。

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1827年7月12日( 木曜日 )プログラム

そしてナポレオンが失脚するとパガニーニは独奏者としての活動をはじめました。彼は 1809年より北イタリアからはじめた演奏会の開催場所をイタリア全土にひろげ、1828年にはウィーンで成功させ ついでプラハそしてドイツ各地で開催した後の 1831年には 3月から4月にかけて有名なパリ・デビューを成功させ 5月にロンドンに渡り翌年にかけて イギリス、スコットランド、アイルランドでも大成功をおさめました。

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1831年4月17日( 日曜日 )

彼の積極的な演奏活動は 1834年9月まで続けられ 多くの聴衆が鮮烈な印象を持つこととなりました。 パガニーニはこのヴィルトーソとしての演奏活動によって ” 近代バイオリン演奏技法 ” を完成させた人物として 記憶されました。
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この時期に 上写真の ピエトロ・ジャコモ・ロジェーリ( Pietro Giacomo Rogeri  1675  – 1735 )が 1715年頃に ブレッシア( Brescia ) で製作したとされるヴァイオリンのように 数多くのヴァイオリンのネック部に改良が加えられバロック・ヴァイオリンのネック、指板設定から モダン・ヴァイオリン設定へと改変する流れが確立しました。

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このネックと指板の近代化は オールド・ヴァイオリンのほとんどで実行されました。

たとえば下写真のヴァイオリン・ネックは 1900年代初頭に切り落とされて継ネックされたストラディヴァリウスのものです。 このヴァイオリンは ストラディバリウス ” Soil ” と呼ばれている 1714年に製作されたもので ユーディ・メニューイン(  Yehudi Menuhin  1916 – 1999  )さんが 1950年から1986年まで使用し その後はイツアーク・パールマンさん(  Itzhak Perlman 1945 –   )が使用しているので有名です。

これは現在クレモナの Stradivari Museum に展示してありますが、わずかな例外を除いてほとんどの名器のオリジナルネックは全部または一部が切り落とされ失われました。
このときに指板も同じ運命をたどりました。

http://musei.comune.cremona.it/PostCE-display-ceid-4.phtml

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柳材 (  およその比重  :   ポプラ  0.4~0.45  /  ばっこ柳 0.4~0.55  /  しだれ柳 0.5~0.6  )

黒壇 (  およその比重  :   1.0~ 1.2    )
楓材 (  およその比重  :   0.65~ 0.7  )
象牙 (  およその比重  :   1.85~1.9   )
スプルース(  ヨーロピアン・スプルース ,  シトカ・スプルース ,  ジャーマン・スプルース  /   およその比重  :   0.35~0.45  )

この中で象牙が黒壇よりかなり重いことは 特記すべきことだと思います。
古楽器をながめると 象牙のこの特質がかなり意識されて部材や あるいは管楽器のように本体としてまで利用されていますので 検証してみると細やかな工夫が発見できるのではないでしょうか ‥ 。

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Willow (  Specific gravity of approximately  :   poplar  0.4~0.45  /  S.bakko 0.4~0.55  / Weeping willow 0.5~0.6  )
Ebony (  Specific gravity of approximately  :   1.0~ 1.2    )
Maple (  Specific gravity of approximately   :  0.65~ 0.7  )
Ivory   (  Specific gravity of approximately  :   1.85~1.9   )
Spruce(  European spruce ,  Sitka spruce ,  German spruce  /   Specific gravity of approximately  :   0.35~0.45  )

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このネックと指板の交換技術が普及した結果 ‥ 現代の弦楽器工房では 下の写真のようにネックの幅や厚さを変更する必要を感じた場合に オリジナル・ヘッドを保持して改変できるため継ネック(  Neckgraft  )が 多用されるようになりました。

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継ネックで交換修理するために切り落とされたネック写真。

 

ところで 私は 指板のゆれをご存じない方に ついてはミュンヘン近郊の街 シュトックドルフ(  Stockdorf , München GERMANY  )に弦楽器工房を構える Martin Schleske さんの ホームページを見ることをお奨めしています。

彼のホームページでは 1870年頃  Wieniawski が弾いていたことで知られているだけでなく‥ たとえば 1968年から 72年までは Pinchas Zukerman さんが使用したりするなどの輝かしいストーリーをもっている 1712年製の ストラディヴァリウス  ” Schreiber ” を研究した貴重なグラフィック動画を見ることが出来るからです。

http://www.schleske.de/en/our-research/introduction-violin-acoustics/modal-analysis/animation.html
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このグラフィック動画は横方向に対して縦方向を拡大( 100倍位だと思います。)してあるので指板のゆれは一目了然です。 下の画像のように 409hz 、512hz、680hz、768hz、889hz 指板が ねじれながら揺れている様子が確認できると思います。

また その他の周波数帯では指板が 『 手招き 』をするようにゆれているのが 私にはとても興味ぶかいです。 ヴァイオリンの指板は近代化の過程で製作当時の状態が失われたものが多く 検証がとても難しいですが 、私は 指板の長さが変更されていった歴史は演奏上の都合だけではなく音響上 この『 手招き 』運動をとり込みきらびやかな高音を実現する意図の結果だと考えています。

古( いにしえ )の弦楽器製作者はこれらの動きを十分把握してヴァイオリンを製作したようで‥ 当時のヴァイオリンをよく見ると下の写真のように指板先をV字型にカットしてあったり指板の厚みをG線側とE線側で変えることでゆれを誘導してあったり、バロック・ヴァイオリンの指板のように意図的にネック端部の指板を加工することで 指板のゆれが響胴に対して不要な応力をくわえないように工夫したあとを見ることが出来ます。

            

私が ” プレッセンダー・カット ” と呼んでいる 下写真にあるように ネック端部 ( 指板重心 )の指板に切れ込みをいれてそのゆれをコントロールする技術は この 1835年製のプレッセンダがトリノで製作した ヴァイオリンのように製作当時のネックと指板がオリジナル状態で保存されていないと確認できませんので意外と知られていないようです。

ちなみにこの ” プレッセンダー・カット ” はG線側だけに入れられています。
これは実験してみるとすぐに理解できるとおもいますが 空中に突き出している指板が ネック側の圧力軸より すこしE線側にむいた圧力軸で響胴 をゆらすことで高音を鳴りやすくするとともに、指板の 『 手招き 』運動をサポートして 1000hz 以上の高音域を明瞭化するための工夫と私は考えています。

これは特にネックと指板が ヴァイオリンのG線側を向いていてA線とE線の音量が極端に不足気味などの時に有効であるのと、指板上面を演奏条件を考慮して基準面( Horizontal )に対して 左( A線側)上げで設定するチェロと違い 右( G線側)上げで製作されるヴァイオリンは 指板をそのままの厚さでつくるとG線側が重くなり圧力軸がネックがG線側を向いたのと類似した状況になりがちですので その場合のバランスをとるのに有効な方法となります。

 

この ジョバンニ・フランチェスコ・プレッセンダ( Giovanni Francesco Pressenda   1777-1854 )は 19世紀のヴァイオリン製作者して トリノ( Torino )で ヴァイオリンなどを製作し モダン・イタリーの先駆者として 弟子のジュゼッペ・ロッカと共に高い評価を受けています。
私は 近代型のヴァイオリンの成立に ガダニーニや ガリアーノとともにプレッセンダーも重要な役割をはたしたと思っています。

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【  弦楽器調整技法     No. 2  ” 右振りネックとあご当てのコンビネーション ”   】

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ヴァイオリンの失われた技術の検証にとって写真は重要です。

とくにあご当ての変遷を確認するのには 撮影時期の特定につながる場合が多いので  私は注意深くあつかうことにしています。 それは ヴァイオリンにとってあご当ては 『 後付け部品  』としての性格があるために 過去に撮影された写真のほとんどが あご当てをはずして撮影されていて あご当てを付けた状態の写真は 非常に少ないからです。

長くなり恐縮ですが あご当ての時代考証のために ここで 写真について黎明期から整理しようと思います。

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写真技術の歴史は 1839年に 数学者で 物理学者としても 光学や創成期の電磁気学に大きく寄与するとともに 天文学者で政治家でもあった フランソワ・アラゴ( François Jean Dominique Arago  1786 – 1853 )が 自然科学アカデミーと芸術アカデミーの合同会議の席上で発表した時期にさかのぼれます。

写真の発明宣言は ニセフォール・ニエプス( Joseph Nicéphore Niépce  1765 – 1833 )がおこない彼が 1825年に撮影した下の写真 『  Un cheval et son conducteur( 馬引く男 )』は世界最古の写真として有名です。彼は自分の技術を『  太陽で描く 』という意味の『 ヘリオグラフィ( héliographie )』と呼んでいたそうです。

ファイル:Nicéphore Niépce Oldest Photograph 1825.jpg
Nicéphore Niépce Oldest Photograph   1825年

( この写真は 2002年3月21日にサザビーズに出品され 44万3000ドルで落札されました。)

彼が 1833年に脳卒中で亡なったのちに その研究は ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール( Louis Jacques Mandé Daguerre  1787 – 1851 )に引き継がれて ダゲレオタイプ( 銀板写真 )となって1839年に実用的な技術として完成しました。 そしてその後の研究によって 最終的には露光時間を数分にまで抑えることに成功し肖像写真の撮影が容易な時代を迎える事になりました。

ファイル:Daguerre jemayall 1848.png

Daguerre jemayall   肖像写真    (  1848年  ティッソン : Thiesson  )

ダゲールが発明したダゲレオタイプ( 銀板写真 )は 一般の人々でも製作可能な設備や装置により実用的な撮影時間と、撮影した映像の定着保存技術のすべて実現させたことが重要でした。 ダゲールは当時のフランスを代表する科学者 フランソワ・アラゴに この写真技術への支援を求めたところ、アラゴはその有益性を認めてこれをフランス政府に推挙したのです。

フランス政府はこの技術を公益のために無条件で公表することを決定し ダゲールへ補償として終身年金を支給するとともに その写真技術を一般に公開しました。この結果として 銀板写真技術は 19世紀のなかばに世界中へ急速に普及していきました。

ただ厳密にいえば 1835年のイギリスの タルボット(  William Henry Fox Talbot  1800 – 1877 )や ブラジルの ヘルキュール・フロレンスなどの主張もあり だれが発明者かについては意見がわかれているようです。

こうして普及が始まった写真技術ですが 1840年代には ネガ・ポジの原理ではなく ダゲレオタイプによるものが ほとんどでした。これは紙ではなく金属板の上に写されたものでしたので 当然 一点だけのものでした。その上 初期には撮影のためには 数十分間にわたってポーズをとり続ける必要がありました。

しかし当時の中産階級には熱烈に受け入れられ 1848年には ダゲレオタイプのスタジオが 56ヶ所も出現し 1860年にはダゲレオタイプの写真家が 207人もいたと言われています。

注) この投稿文には 1988年6月に東京都庭園美術館で開催された写真展 『  パリ・街・人    –   アジェと カルティエ・ブレッソン  』の展覧会カタログ p24 の写真史研究家 アンドレ・ルイエ氏の文章の多くを引用させていただいています。

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このころ日本にも写真技術に関する書籍が輸入されました。
そして これに刺激を受けたのが 1858年から オランダの軍医メーデルフォールト( Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort  1829 – 1908 )に長崎の医学伝習所の中に新設された舎密試験所で化学を学んでいた上野 彦馬( 1838 – 1904 )と堀江鍬次郎 ( 1831 –  1866 )でした。 彼らは 湿板写真術に関する蘭書を 研究し感光剤に用いられる化学薬品の自製をおこないました。

こういった時代の流れの結果 ‥  1859年には長崎に来日した スイス人のプロ写真家であるピエール・ロシエ(  Pierre Joseph Rossier  1829 – 上海に出国 1860 )に上野 彦馬さん達は 直接 写真技術を学ぶことが出来ました。 そして 江戸でも 研鑽を積んだ上で 1862年に長崎で日本最初の写真スタジオ『 上野撮影局 』を開設したのです。

写真の初期はこういった状況でしたが  1855年に開催された万国博覧会のころから ダゲレオタイプは いわゆる ” 写真 ( ネガから紙に焼き付けられたもの )” に その座をゆずります。

この時期である 1854年半ばに ディスデリ( André-Adolphe-Eugène Disdéri   1819-1889 )は パリの繁華街に豪奢なアトリエをかまえ 1857年ころまでには有名な『 名刺判 』の特許を取得します。 これはステレオスコープからヒントを得た 4つのレンズに差し込み型のプレート・ホルダーを付けたものでした。つまり ディスデリは写真の大量生産の第一歩を踏み出した人物の1人と言えます。

このほかにも 彼が 1854年 12月に設立した株式会社は 1855年の万国博覧会のすべての展示品の撮影許可を取りつけるなど 写真の普及に大きな影響をあたえます。


ナポレオン三世のカート・デ・ヴィジット

また 他のプロのスタジオも ダゲレオタイプから 湿板写真法に移行しながら大規模化します。
たとえば 『 ナポレオン3世の写真家 』と呼ばれたメイエール・エ・ピエルソン(  Leopold  Ernest  Mayer  &  Pierre  Louis  Pierson  )が 『 写真工場 』と呼ばれる大規模スタジオ を開設したことが知られていますし、ナダール(  Gaspard-Felix Tournachon  1820 – 1910  )は 1854年に 湿式コロジオン法で写真を撮影するスタジオを開設し繁盛しました。
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Atelier Nadar 35BoulevardDesCapucines  1860年

上写真は 1860年にキャプシーヌ大通りに移転した ナダールの写真スタジオです。
ここには多くの有名人が肖像撮影に訪れたほか、あの『  第1回印象派展  』もここで開催されました。


1886年5月    Franz Liszt   by Nadar

これらの状況を撮影枚数でみると 1842年に レールブールは年間 1500点のダゲレオタイプによるポートレートを撮影しましたが ディスデリのスタジオは 1862年に一日で 2400枚の肖像写真を撮影したと伝えられています。
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Jean Baptiste Vuillaume   (  1798 – 1875  )

さてここで この頃パリで 著名な楽器商となっていた J.B. ヴィヨームのことをお話ししておきます。

彼は 1828年頃にパリ(  46 Rue Croix des Petits-Champs, Paris  )に工房を設立し 1839年と 1844年の博覧会で金メダルを獲得したころから評価が上がり続け 1851年のロンドンで開催された 第1 回万国博覧会と 1855年のパリ万国博覧会でも金メダルを獲得するとともに この年にレジオン・ド・ヌール勲章も授与され成功の絶頂期を迎えていました。

その パリでは 1839年頃には写真スタジオを設立していた ダグロン(  René Prudent Patrice Dagron  1819 – 1900  )が 1852年にマイクロフォト写真( コロジオン・フィルム )をスタンホープレンズで拡大して見せる仕掛けを発案していました。

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ヴィヨームは 1859年頃から1871年の普仏戦争まで この ダグロンと提携しヴァイオリン弓のフロッグのアイ部に空洞を設け 中にマイクロフォトを組み込み 手前にスタンホープレンズをセットして 反対側から光をいれると 写真があかるく拡大される仕掛けを施したヴァイオリン弓をプロデュースします。
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JEAN BAPTISTE VUILLAUME, A SILVER-MOUNTED VIOLIN BOW, PARIS, CIRCA 1860. The round stick stamped VUILLAUME A PARIS, the ebony frog fitted with a Stanhope picture lens surrounded in pearl, the silver and ebony adjuster, weight 58.5 grams

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写真は ヴィヨーム自身が椅子に座ったものと 上の写真のポーズなど いくつかのバリエーションがありました。 またこの時期のヴィヨーム工房の弓は シャルレ・ペカット( Charles Peccatte )とピエール・シモン(  Pierre Simon )そして F.N. ボワラン ( François Nicolas Voirin )などが製作を担当したと言われています。

アンティークの世界では この仕掛けは『 スタンホープ 』と呼ばれます。ヴィクトリア中期にクリスタル素材のスタンホープレンズとマイクロフォト技術が開発されたことによって ピンの頭ほどのマイクロフォト写真に 宗教画などを撮って、それを拡大して見せる仕掛けが可能になったために1850年代から 1920年頃にかけて盛んに製作されました。

 

この仕掛けの源流は レーウェンフック(  Antoni van Leeuwenhoek1632 – 1723  ) の顕微鏡に行きつきます。 彼はオランダ・デルフトの科学者で 歴史上はじめて顕微鏡を使って微生物を観察し 1680年にロンドン王立協会会員にむかえられた『 微生物学の父 』とも称せられている人です。 また同郷で同年、同月生まれで且つ世界的に有名な画家 ヨハネス・フェルメールの遺産管財人であるとともに フェルメールの有名な絵画『 天文学者  』1668年製作、『 地理学者 』1669年製作のモデルであったと推測されている人物です。

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 SS  レーウェンフックの顕微鏡

Antoni van Leeuwenhoek  1632年10月24日 – 1723年8月26日
Johannes Vermeer     1632年10月31日 – 1675年12月15日

こうして写真技術は 1870年から 1914年にかけての最初の成熟期をむかえます。

そのため この時期に流行したポートレートや、 1851年に第一回が開催され 大成功をおさめたために 1929年のバルセロナ万国博覧会 までの80年間だけでも22回にもわたり開催さた『 国際博覧会 』の関連の写真などもあわせると当時を検証するのに十分な量の写真が残されることになりました。

 

開催地 開催会期 特記事項
 【1800年代】  
ロンドン 1851.05.01-1851.11.11 ロンドン万国博覧会  (  第1回国際博覧会  )      この万博は通称「 大博覧会 The Great Exhibition  」とも呼ばれていて 25カ国が参加しました。
当時のイギリスはビクトリア女王の時代です。このため 女王の夫君アルバート公の活躍で開催にこぎつけたといわれています。
その中心はロンドンのハイドパークで開かれた万国博覧会の会場として建てられた建造物であるクリスタル・パレスでした。
ジョセフ・パクストンの設計。鉄骨とガラスで作られた巨大な建物で プレハブ建築物の先駆ともいわれています。
パクストンの設計では長さ約563m、幅約124mの大きさだったそうです。 終了後 シドナムに移設されました。
クリスタル・パレス(水晶宮)  Kristallpalast    Sydenham 1851  ( 1936年焼失 )
ファイル:Kristallpalast Sydenham 1851 aussen.png
ニューヨーク 1853.07.14-1854.11.01 米国初の国際博覧会
パリ 1855.05.15-1855.11.15 仏初の国際博覧会 始めて万国博覧会と称されました。
      
ロンドン 1862.05.01-1862.11.1 日本の遣欧使節団が視察します。
パリ 1867.04.01-1867.11.03 パリ万国博覧会  (  第2回国際博覧会  )                    日本からは「幕府」「薩摩」「鍋島」が出品しました。
      
ウィーン 1873.05.01-1873.10.31 オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーン中心部にあるリングシュトラーセ内の プラーター公園で開催されました。
日本政府としての最初の公式参加 でした。        また 岩倉使節団も1873年(明治6年)6月にこの博覧会を見学しました。
ファイル:Japanese pavilion in Expo 1873.jpg
Japanese pavilion in Expo 1873
フィラデルフィア 1876.05.10-1876.11.10 米国独立100周年
パリ 1878.05.01-1878.11.10 パリ万国博覧会   (  第3回国際博覧会  )   アレキサンダー・グラハム・ベルの電話機や、トーマス・エジソンの蓄音機や自動車が出品さました。
ファイル:Panorama des Palais.JPG
会場風景。
セーヌ川を挟んで右はシャイヨー宮とトロカデロ広場(  現在のシャイヨー宮は1937年万博の時に改造されたものです。)があり
左がシャン・ド・マルス(現在エッフェル塔が立っています。)です。
      
メルボルン 1880.10.01-1881.04.30   
バルセロナ 1888.04.08-1888.12.10   
パリ 1889.05.05-1889.10.31 パリ万国博覧会  (  第4回国際博覧会  )  フランス革命100周年 エッフェル塔が建設されました。
( エジソンの白熱電球で初の夜間照明が設置されました。 )
ファイル:Construction tour eiffel5.JPG
建設中のエッフェル塔(1888年8月21日撮影)
      
シカゴ 1893.05.01-1893.10.30 コロンブスの新大陸発見400年 空中観覧車
ブリュッセル 1897.05.10-1897-11.08   
      
 【1900年代】  
パリ 1900.04.15-1900.11.12 パリ万国博覧会   (  第5回国際博覧会  )   会場として グラン・パレとプティ・パレが建てられました。
また ロシア皇帝ニコライ2世の寄付によりセーヌ川両岸を結ぶアレクサンドル3世橋が架けられました。
それから エッフェル塔にエスカレーターが設置されて話題となるとともに  地下鉄、動く歩道も人気をあつめました。
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ベル・エポック( Belle Époque  :  良き時代  )S
厳密な定義はありませんが 主に19世紀末から第一次世界大戦勃発( 1914年 )までのパリが
繁栄した華やかな時代とその文化を回顧して用いられる言葉です。19世紀中頃のフランスは
普仏戦争に敗れ、パリ・コミューンが成立するなどの混乱が続き 第三共和制も不安定な政治体
制でした。
しかし 一方で 19世紀末までには産業革命も進み 都市の消費文化が栄えるようになりました。
1900年の第5回パリ万国博覧会はその一つの頂点とされています。
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https://www.facebook.com/pages/Belle-%C3%89poque-Europe/124762957488?sk=photos_albums#!/media/set/?set=a.124774857488.126571.124762957488&type=3
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https://www.facebook.com/media/set/?
set=a.124774857488.126571.124762957488&type=3#!/photo.php?fbid=10151284786397489&set=a.125887332488.127312.124762957488&type=3&theater

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https://www.facebook.com/pages/Belle-%C3%89poque-Europe/124762957488?sk=photos_albums#!/media/set/?set=a.152107777488.142919.124762957488&type=3
セントルイス 1904.04.30-1904.12.01 ルイジアナ買収100周年
リエージュ 1905.04.27-1905.11.06 ベルギー独立75周年
ミラノ 1906.04.28-1906.10.31   
      
ブリュッセル 1910.04.23-1910.11.07  
  l’exposition universelle organisée à Bruxelles en 1910
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http://sd2cx1.webring.org/l/rd?ring=collectpc;id=13;url=http%3A%2F%2Fusers%2Etelenet%2Ebe%2Fexpo1910%2F

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さてここで 私が 写真資料の重要さを再認識したお話しをさせていただきます。

下の写真は 私の工房の顧客の方が所有している  1910年頃に ミラノで  レアンドロ・ビジャッキ(  Giuseppe Leandro Bisiach   1864 – 1945  )が製作したヴァイオリンです。

これは所有者の方が 23年程前に 当時 ‥ 一般的に認識されているレアンドロ・ビジャッキ作 ヴァイオリンの販売価格の2倍くらいの値段で購入されたものです。

私はこのヴァイオリンの調整を依頼された 18年程前に 所有者の方からこのヴァイオリンは 1910年に ブリュッセルで開催された万国博覧会にイタリアから出品されたもので ゴールド・メダルを受賞したヴァイオリンとの説明を受けるとともに その趣旨が記述された レアンドロ・ビジャッキの鑑定書を受け取ったというお話しは聞いていました。

とにかく目の覚めるようなすばらしいヴァイオリンですので このヴァイオリンが調整に来るたびに計測したりして楽しんでいましたが 製作されて 100年程経っている楽器なので 製作当初の状況が 確認しづらくなっていたのが 悩みのタネでした。

たとえば このヴァイオリンは すでに購入時には ローズウッドのオーバー・テールピース型のあご当てが取り付けられていて現在もそれが使用されています。 しかし エンドピン左側ゾーンに あご当てのコルクがすこし付着していて過去に HILL やDRESDEN 、  KAUFMAN、 TEKA などのタイプが取り付けられていた事は分りますが どの型なのか特定のしようがありませんでした。 それから 私はこのヴァイオリンは ニスの『  景色  』や『  キズ  』は製作時に そう仕上げたのではないかと推測していましたが 証明する手立てがありませんでした。

私にとってのこれらの悩みは少し前にインターネットで 1910年のブリュッセル万国博覧会の写真を検索していて この レアンドロ・ビジャッキが製作したヴァイオリンの写真が出てきたことで 一気に解決しました。下の方にその 1910年に撮影された写真をあげておきましたが  KAUFMAN 型のあご当てが テールピースから 20 mm 程離れた位置に取り付けられています。 ヴァイオリンの痕跡と一致していましたが ‥ この取り付け位置は現在ほとんど選ばれていないので 私は 写真で確認するまで 半信半疑だったのです。

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このヴァイオリンには 1910年の製作時に ロンドンの ヒル商会( W.E. HILL & SONS )の二本足金具のあご当てが取り付けられていました。

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Sこの 1910年のブリュッセル万国博覧会の写真と 2012年に私の工房で撮影した写真をつき合わせると 指板の左右表板の『  演奏キズ  』や 表板C型部センター・バウツ付近の『  弓の打撃痕  』や それ以外のへりについている『  キズ  』も製作時の加工によるもので、裏板やヘッドのニスが剥がれている『  景色  』も製作時に加工された証拠となると思います。

ちなみにブリュッセル万国博覧会は 1910年 4月23日から 11月7日までベルギーの首都ブリュッセルで開催された国際博覧会で 会期中に 1300万人が来場したそうです。
この博覧会にイタリアから出品されたレアンドロ・ビジャッキ(  Leandro Bisiach  1864 – 1945  )が製作したヴァイオリンのラベルには 1910年にミラノで製作したと書かれています。 これはおそらく 4月からの万国博覧会出品のために前年にはあらかた完成していたヴァイオリンに このラベルを貼って仕上げたものと 私は推測します。

この写真に出会う前に私は ペグボックスの頬(  Cheek of pegbox  )から飛び出たペグ先端を4本とも切り取りましたが ‥ まさか初めからとは考えもしませんでした。
現在このヴァイオリンは 駒と魂柱はどちらか判然としませんが ‥ あご当てが替えられ アジャスターが取り付けられ ペグ先端がカットされた以外はミント・コンディションで使用されています。

私は現在このヴァイオリンを 100年前の『  標準型  』として参考にしています。
ネックや指板の規格など とても興味深い設定となっていますので 私が計測した数値を下にあげておきたいと思います。

Giuseppe Leandro Bisiach   /    violin   1910  Milano

表板 サイズ          351.0 mm  –  165.2 mm  –  107.6 mm  –  205.0 mm アーチ  17.0 mm
裏板 サイズ          351.5 mm  –  165.7 mm  –  107.6 mm  –  204.6 mm   アーチ  16.6 mm
ネック長さ      129.0 mm
ストップ          192.5 mm
ネック高さ( 表板からトップ・エッジまで )  E-side  6.2 mm  :  G-side  6.5 mm
SSSS SSS (  指板エッジまで  )                  E-side 10.1 mm  :  G-side 10.5 mm
ネック厚さ  17.0 mm  –  20.2 mm
指板端の高さ(  表板から  )   17.9 mm
指板                23.1 mm  –  42.3 mm  –  266.5 mm
ナット(  1-4 スペース )     16.3 mm
サドル           34.5 mm( 7 – 20.5 – 7  )、H 5.0 mm( 1.0 )、D 5.5 mm
F字孔間       39.4 mm
F字孔長さ    L 68.5 mm  –  R 69.0 mm
ボタン           20.9 mm  –  H 12.3 mm
側板 Eサイド    N 28.2 mm  –  28.8 mm  –  C 29.4 mm  –  C 29.3 mm  –  29.4 mm
側板 Gサイド    N 28.3 mm  –  28.2 mm  –  C 29.2 mm  –  C 29.4 mm  –  29.4 mm
ヘッド      106.5 mm (  38.0 mm  –  68.5 mm  )
アイ       39.5 mm
ペグ・ホール位置  N-side 16.0 mm  –  14.0 mm  –  23.5 mm  –  13.0 mm
パーツ無し重量     374.0 g

Giuseppe Leandro Bisiach  (  1864 – 1945  )
Milano  /  Antoniazzi workshop  c. 1886 ~ 1890  /  Milano  /
1916 ~ 1918 or 1920  Siena   /  1922 ~ 1945  Milano
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さて‥ 長文となり 恐縮ですが ここでヴァイオリンのあご当てが出現するまでの状況を把握するために ヴァイオリン奏者の歴史を列挙させていただきます。

17世紀のヴァイオリニストとしては、まず M.カザッティ( 1620 – 1677 )そしてヴィオローネなどの弦楽器奏者で歌手でもあり作曲家でもあったジョバンニ・バティスタ・ヴィターリ( Giovanni Battista Vitali  1632 – 1692 )、その息子で “シャコンヌ”で有名なトマソ・アントニオ・ヴィターリ( Tomaso Antonio Vitali 1663 – 1745 )などがあげられますが、何と言っても大きな存在はアルカンジェロ・コレッリ( Arcangelo Corelli  1653 – 1713 )だと思います。

コレッリはボローニャで学びローマを中心に演奏家、作曲家として活躍したことで知られています。 そして彼の薫陶をうけたのが ジョヴァンニ・バッティスタ・ソミス( Giovanni Battista Somis  1686 – 1763 )、フランチェスコ・ジェミニアーニ( Francesco Geminiani  1687 – 1762 )、ピエトロ・アントニオ・ロカテッリ( Pietro Antonio Locatelli  1695 – 1764 )で、コレッリからローマで指導をうけた後に トリノやパリ、ナポリやロンドン、そしてアムステルダムなどで ヴァイオリン演奏技術の普及につとめました。

そして直弟子ではありませんが ジュゼッペ・タルティーニ( Giuseppe Tartini  1692 – 1770 )もコレッリに大きな影響をうけたと考えられます。 タルティーニはダブルストップのトリルのため難易度の高い曲とされるソロ・ヴァイオリンソナタ ” 悪魔のトリル( Devil’s Trill sonata ) ” の作曲者として有名ですね。
彼は弟子の ピエトロ・ナルディーニ( Pietro Nardini  1722 – 1793 )を コレッリのヴァイオリン・ソナタ集 作品5 を使って指導したといわれています。

このコレッリのヴァイオリン・ソナタ集はイタリアで出版されたのちにオランダやイギリスでも出版されヨーロッパの全域でヴァイオリン演奏の重要な教材として普及していったと伝えられています。

その後の系譜をもう少しあげてみると コレッリ門下のソミスは ガエターノ・プニャーニ( Gaetano Pugnani  1731 – 1798 )を育て、プニャーニは ヴィオッティ( Giovanni Battista Viotti  1755 – 1824 )を育て、ヴィオッティは ピエール・ローデ(  Jacques Pierre Joseph Rode  1774 – 1830 )、ピエール・バイヨー( Pierre Marie François de Sales Baillot  1771 – 1842 )、ベリオ( Charles-Auguste de Bériot  1802 – 1870 )らを育成しました。

この後 ローデは ベーム( Joseph Böhm  1795 – 1876 )を、ベームはヨーゼフ・ヨアヒム( Joseph Joachim  1831 – 1907 )を、ヨアヒムは レオポルト・アウアー( Leopold Auer  1845 – 1930 )を、アウアーは ヤッシャ・ハイフェッツ ( Jascha Heifetzas  1901 – 1987 )や エフレム・ジンバリスト( Efrem Zimbalist  1889 – 1985 )を育て、ジンバリストは フィラデルフィアのカーティス音楽院で 1928年から指導をはじめ  1941年から1968年までカーティス音楽院の院長を務めました。

また ヴィオッティの指導を受けたベリオは演奏旅行の後 1843年よりブリュッセル音楽院のヴァイオリン教授を務めて “フランス・ベルギー(フランコ・ベルギー)楽派 ” の創始者として有名になりました。

ベリオの門下からは アンリ・ヴュータン( Henri François Joseph Vieuxtemps  1820 – 1881 )が育ちました。 彼は 1846年から1851年まで ロシア皇帝ニコライ1世の宮廷音楽家と帝室劇場の首席演奏家に任命されてサンクトペテルブルクに定住し、1849年には自らのヴァイオリン協奏曲 第1番をここで世界初演して絶賛され 翌年にはパリ初演も成功させました。この時期に ヴュータンは教師としてペテルブルク音楽院ヴァイオリン科の繁栄の基礎を固めた事が知られています。 この後  帰国したヴュータンは 1871年にブリュッセル音楽院の教授に就任して ウジェーヌ・イザイ( Eugène-Auguste Ysaÿe  1858 – 1931 )を指導します。

イザイはベルギーのリエージュに生まれリエージュ音楽院とブリュッセル音楽院に学び、同郷のセザール・フランク( César-Auguste-Jean-Guillaume-Hubert Franck  1822 – 1890 )が 1886年に作曲したヴァイオリン・ソナタや 24歳で夭逝した ルクー( Guillaume Lekeu  1870 – 1894 )が 彼の依頼で 1892年に作曲し献呈したヴァイオリン・ソナタの初演と エルネスト・ショーソン( Ernest Chausson  1855 – 1899 )が ヴァイオリンと管弦楽(もしくはピアノ)のための作品として書いた ” 詩曲 作品25 ” など多くの作品の初演をおこなったことで知られています。

また作曲家としてのイザイは 1924年に バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータを強く意識した無伴奏ヴァイオリン・ソナタ作品27が特に有名でそれらによって現代のヴァイオリニストにも影響をあたえています。

たとえば イザイの最後の弟子として有名なヤッシャ・ブロツキー( Jascha Brodsky  1907 – 1997 )にカーティス音楽院で10歳から17歳まで指導を受け、1997年のデビューアルバムである『 バッハ:無伴奏ソナタ・パルティータ集  』により世界中で知られる事となったヒラリー・ハーン( Hilary Hahn 1979 –   )までをイザイの系統と考える方は多いと思います。

総括すると‥ これらのヴァイオリニスト達はコレッリから続く系譜とみる考えを、私はある意味 ‥ 正しいと思っています。

 

それから 1600年代に生まれたヴァイオリニストとして‥ そして作曲家として コレッリと並んで重要なのが ヴェネツィアを中心に活躍した ヴィヴァルディ( Antonio Lucio Vivaldi  1678 – 1741 )です。
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アントニオ・ヴィヴァルディは ヴェネツィアに生まれ幼時より父親にヴァイオリンの指導をうけ、司祭に叙階された 1703年( 25歳 )にピエタ慈善院付属音楽院 の音楽教師に就任するとともに、 500曲以上の協奏曲や 73曲のソナタ、室内楽曲、シンフォニア、オラトリオや宗教音楽そしてオペラなどの作曲をしたバロック期の作曲家として知られています。

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さてここで本題に戻ります。
ヴァイオリンのあご当ては ルイ・シュポーア(  Louis Spohr   1784 – 1859  )さんの没後である 1860年に出版された彼の自叙伝などから 1810年から1820年にかけての時期に 彼が使用しはじめたことで普及し現在に至ったと考えられています。

つまり ヴァイオリンは 1540年から 1550年頃にかけて あご当てをつけない状態で誕生して 1820年頃までの 270年間ほどの期間をあご当てを使用しない状態で演奏され、その後 190年間ほど工夫しながら あご当てを伴った状態で今日に至った歴史を持っています。

これらは 実際に鳴らしてみれば分ることですが ‥ 感覚的にはあご当ての有無により ” ヴァイオリン ” という名称は『  特性が異なる2種類の弦楽器 の総称  』と言えなくもないと私は思っています。
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この 黒壇製 あご当ての重量は 28.8 g です。

  

  

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さて上の写真は 19世紀後半の英国製 あご当てを 私の工房で撮影したものです。
これは『  ヒル型  (  Hill  Model   )』と呼ばれています。

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19世紀前半に ロンドンでヴァイオリン製作とオールド・ヴァイオリンなどの販売を手掛けていた ヘンリー・ロッキー・ヒル(  Henry Locky  HILL  1774-1835  )の工房はその息子 (   William Ebsworth HILL  1817 – 1895  )が受け継ぎ 1800年代後半には ヴァイオリン製作よりイタリアの名器の鑑定並びにヴァイオリンの修理で名をはせるようになります。 このヒル家の4代目にあたる W.E. ヒル には4人の息子がいました。ウイリアム・ヘンリー、アーサー・フレデリック、アルフレッド・エブスワース、ウォルター・エドガー(  William Henry  1857 – 1927 ,  Arthur Frederick  1860 – 1939 ,  Alfred Ebsworth  1862 – 1940 ,   Walter Edgar  1870 – 1905  )です。

彼らは協力して 1887年に 38 New Bond Street, London  に「 ヒル商会(  W. E. Hill & Sons  /  1887–1992  )」を設立しストラディヴァリやガルネリなどの名器の販売や鑑定で実績を残します。 そして 1895年頃には同じ通り沿いの 140番地に移転し( 下の写真です。 ) さらに多くの名器をあつかいました。

また この時期に  W. E. Hill & Sons は 新作楽器販売やヒル・ブランドの弓の製作販売も積極的におこなった上にケースの製造販売や あご当てなどのパーツ類の製造と販売なども手がけたことで ヴァイオリンをとりまく環境の改善におおきく貢献しました。

W. E. Hill & Sons のペグなどのパーツが取り付けられた ストラディヴァリウスなどのオールド・ヴァイオリンは現在でもたくさん残されていますが ほとんどが この時期に取り付けられたもののようです。
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The facade of the Hills’ shop  at 140 New Bond Street, London.   c.1895

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さてここで W. E. Hill & Sons のあご当てが取り付けられた有名な ガルネリ・デル・ジェズ(  Joseph Guarneri del Gesu  )が 製作したヴァイオリンのお話しをさせていただきます。

下の写真は 1877年に撮影されたもので ヴァイオリニストのイオシフ・コテック(  左  :  Iosif Iosifovich Kotek  1855 – 1885  )とチャイコフスキー (  Peter Ilyich Tchaikovsky   1840 – 1893  )の肖像写真だそうです。
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コテックは音楽院でチャイコフスキーから理論を学んだ ヴァイオリニストですが ‥ なんといっても彼がメック夫人(  Nadezhda von Meck   1831 – 1894  )のサロンで演奏した『  ワルツ・スケルツォ  』 によってメック夫人からの年金( 1877 ~ 1890 )がもらえるようになったということもあってチャイコフスキーは大変信頼していたといわれています。

この写真が撮影される2年前に チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番(作品23)は ハンス・フォン・ビューローの演奏で大成功をおさめ ヨーロッパ各地で演奏されるようになっていましいたが、 この年( 1877年 )の アントニーナ・イワノヴナと結婚の失敗(  5月婚約、7月6日結婚  )などにより チャイコフスキーはモスクワ川で自殺を図るほど精神的に追い詰められていた状況でした。

     

このためチャイコフスキーは 1877年 10月からレマン湖畔のクラランに静養のため滞在し ここを拠点にイタリア旅行に出かけるなどの日々を送っていました。 このクラランに1878年の4月にイオシフ・コテックは 3年ほど前にパブロ・デ・サラサーテが初演して大成功を収めた エドゥアール・ラロのヴァイオリン協奏曲第2番《スペイン交響曲》ニ短調作品21の譜面を携えて訪問します。

チャイコフスキーはこの『スペイン交響曲』に刺激を受けて 早速 ヴァイオリン協奏曲に着手し コテックのクララン滞在中の 1ヶ月ほどの間にこれを書き上げたそうです。

そしてこのヴァイオリン協奏曲は 当時ロシアで最も偉大なヴァイオリニストとされていたペテルブルク音楽院教授の レオポルト・アウアーに送られますが アウアーは楽譜を読むと演奏不可能として初演を拒否してしまいます。


S     Adolph Brodsky     1891年撮影      in New York

この結果 チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の初演は 1881年12月4日に この写真のロシア人ヴァイオリニストである アドルフ・ブロツキー(  Adolph Brodsky  1851 –  1929  )の独奏により ハンス・リヒター指揮の ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で行われました。

この初演は酷評を受けますが ブロツキーは それにひるむことなく様々な機会にこの作品をとりあげ続け それにより次第にこの作品の評価があがっていきました。
このため チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲は普及に尽力した恩人アドルフ・ブロツキーに献呈されています。

そして 初演を断ったアウアーも後にはこの作品を演奏するようになり 弟子の ジンバリストや ハイフェッツ 、エルマンなどにこの作品を指導し ‥ 彼らが名演奏を繰り広げることで 『  四大 ヴァイオリン協奏曲  』と呼ばれるまでに評価が高まりました。
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このアドルフ・ブロツキーはウィーン音楽院に学び ヨーゼフ・ヘルメスベルガー( Joseph Hellmesberger )が率いる ヘルメスベルガー四重奏団のヴァイオリニストでした。

彼は 1883年にライプチヒ音楽院教授に就任し 1884年には四重奏団を結成します。 このころ ブロツキーのクリスマス晩餐会で ブラームスとチャイコフスキー、グリーグが出逢ったことで 特にチャイコフスキーとグリーグの間で互いへの尊敬と友情が芽生えるきっかけとなったとの逸話が残っています。

それからブロツキーは 1891年には アメリカに渡り ニューヨーク交響楽団と チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を演奏するなどの活動の後 1895年に マンチェスター王立音楽大学の教授にまねかれイギリスに渡り大学教授の仕事と ハレ管弦楽団の指揮者、そして ブロッキー四重奏団での演奏活動を続けたのちに 1929年にマンチェスターで 亡くなります。

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アドルフ・ブロツキー氏は  1735年製の ガルネリ・デル・ジェズ(  Joseph Guarneri del Gesu  )の名器  ”  Lafont  ” を使用していました。 この ”  Lafont  ”  という呼び名は 所有していたフランスのヴァイオリニストの シャルル・フィリップ・ラフォン(  Charles Philippe Lafont   1781 – 1839  )に因んでつけられたものです。

ラフォンは クロイツェル(  Rodolphe Kreutzer  )とローデ(  Pierre Rode  )に指導を受けた ヴィオッテイ系統のヴァイオリニストとして歴史に名を残しています。そして 余談ですが 現在このガルネリは 1991年から ナイジェル・ケネディ(  Nigel Kennedy   1956 – )さんが使用しています。

下の写真は 1895年頃マンチェスターで撮影された この 1735年製の ガルネリ・デル・ジェズ  ”  Lafont  ” です。

当然ですが E線もガット弦が張られていて あご当ては アドルフ・ブロツキーのイニシャルがデザインされた『  HILL型  』のあご当てが取り付けられています.
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SSS                                                                                                                               1895年頃撮影

あご当てに関しては写真があるだけで検証できますので とても助かります。

        

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この ヒル型足金具あご当ては重量が 42.6 g です。

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ごめんなさい。この投稿はここから先が書きかけです。
Part 5 – A を書きすすめ その後ここから先を再開する予定です。
よろしくお願い致します。

それから少し話はそれますが ‥  実際にヴァイオリンに関しては 分らなくなってしまった事がたくさんありますので写真で確認できても理由がわからない事がいくつかあります。
そのひとつが 『 弦の巻き方 』で 弦を一本だけペグボックスから飛び出させて巻くやり方が 150年間くらい継承されたのですが、現在はその理由を正確に答えられる人がいなくなってしまいました。


『パガニーニの肖像』(1819)
ドミニク・アングル(  Jean-Auguste-Dominique Ingres   1780 – 1867  )

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神童の誉れ高くニッコロ・パガニーニに一人だけ弟子入りを許されたヴァイオリニストとして名を遺して       “J.B.Vuillaume 1834 ”


 

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Pablo de Sarasate was born Pablo Martin Melton Sarasate y Navascuez, the son of a local military bandmaster in the Spanish town of Pamplona, where each July brings the Fiesta de San Fermín and its notorious “running of the bulls.” Sarasate demonstrated musical talent very early and began violin lessons at age five. Making his concert debut at eight, Sarasate went to Madrid to study with violinist Manuel Rodriguez Sáez. The boy proved a sensation at the court of Queen Isabel II.

end this chapter XIII with this not-so-known small Pablo Sarasate (why has not the typical mustache, why many know him) “on 23 March 1854 he made his first performance at the Teatro Real and in May the following year played for Chata mom, who (Elizabeth II) decides to grant a pension to continue his studies in Paris.

When Sarasate was 12, he and his mother set out for Paris on a journey meant to advance his skills on the violin. But the mother expired of a heart attack on the train en route, and Sarasate himself was diagnosed with cholera. Upon recovery, Sarasate was sent on to Paris; finally he auditioned successfully for Jean-Delphin Alard, violin instructor at the Paris Conservatoire. After five years of study with Alard, Sarasate won the Conservatoire’s annual first prize. Thus was launched one of the most exciting and enduring violin careers of the nineteenth century.

Several of the works written for Sarasate have become staples of violin repertoire, including Lalo’s Symphonie espagnole and F minor Concerto, Saint-Saëns’ Introduction and Rondo Capriccioso and his First and Third Violin Concerti, Bruch’s Second Violin Concerto and the Scottish Fantasy.

Sarasate made nine phonograph records in 1904, when he was 60. It is easy to hear from them what made Sarasate such an exciting performer; four decades as a touring concert artist had dimmed his powers very little. Though Sarasate had basically retired to a villa in the seacoast town of Biarritz, France, by 1890, he continued keep his chops up, and performed at the Fiesta de San Fermín every year in his hometown of Pamplona. At his death from bronchitis in 1908 at age 64, Sarasate was in possession of two Stradivarius violins; one was bequeathed to the Paris Conservatoire, and the other the Conservatory of Madrid. The remainder of Sarasate’s possessions was left to Pamplona, which has erected a museum in his memory.


         


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1912年撮影   Eugene Ysaÿe と Camille Decreus のレコーディング風景
(  コロンビア・スタジオにて  )

現代の私達はトーマス・エジソン( Thomas Alva Edison   1847 – 1931 )が 発明した 蝋管式蓄音機 (  1877年に発表、88年改良型を発売。)や、ドイツからアメリカに移民し 1887年には円盤式蓄音機『 グラモフォン 』を作り 1895年にはその製造・販売のために ベルリーナ・グラモフォン社を設立したベルリナー( Emil Berliner 1851 – 1929 )が発明した円盤型蓄音機のおかげで 過去の巨匠たちの演奏を偲ぶことが出来ます。

例えばこれらの録音技術( 蓄音器 )の黎明期‥ つまり 1900年から1920年頃までの時期に録音されたものでは パブロ・デ・サラサーテ( 1844 – 1908 )、ウジェーヌ・イザイ ( 1858-1931 )や ヤン・クーベリック ( Jan Kubelík  1880 – 1940 )そして ヨーゼフ・ヨアヒム ( 1831 – 1907 )などが知られています。
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この時期には録音を再生するための機器も次々と発売されます。
たとえばアメリカではじまった本格的な製造・販売活動により、イギリスでは 1897年に エミール・ベルリナーから ウィリアム・バリー・オーウェンと トレヴァー・ウィリアムスが特許を取得して 英グラモフォン社を設立しました。

蓄音機から聞こえてくるご主人さまの声( His Master’s Voice )に耳を傾けるニッパー君を描いたイラストは、英グラモフォン社のトレードマークとして有名ですね。
ただし現代ではその英グラモフォンが自社製品を販売するために販売店として 1921年にロンドンに開店した ” HMV ” のほうがなじみがある方が多いかもしれません。

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私は 蓄音器の音声は再生スピードのコントロールが難しいといつも感じますが 、1926年に クライスラーが バッハの無伴奏ソナタ 第一番からアダージョを録音したものを良好に再生している映像が  Youtube にアップされていますので 下にリンクを貼らせていただきました。

Fritz Kreisler performing the Adagio from Bach’s Violin Sonata No. 1 for Victor (HMV) in 1926.

http://www.youtube.com/embed/tA2V2JHczLE?rel=0

 

 

    

1914年6月28日 オーストリア=ハンガリー帝国皇帝の世継だったフランツ・フェルディナント大公が ボスニアの首都サラエボで暗殺されました。
オーストリアのレオポルト・ベルヒトルト外相は懲罰的な対セルビア戦を目論んで 7月23日にセルビア政府に10箇条のいわゆるオーストリア最後通牒を送付して48時間以内の無条件受け入れを要求しました。

その後 オーストリアはセルビアの条件付き承諾に対し納得せず 7月25日に国交断絶、7月28日にセルビアに対する宣戦布告が行われました。

この第一次世界大戦は 1919年1月18日からおこなわれたパリ講和会議で正式に合意するまで続きました。


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ごめんなさい書きかけです。

 

        

ジエラルド・クローソン( Gerald Crowson )は 25年以上に渡ってイギリスであご当てやペグなどの高級パーツを製作しているフィッティング・メーカーです。
ヴァイオリンのあご当てでは上写真の 上質ツゲ材で製作された ガルネリ・モデルのヒル型金具(  Guarneri model Chinrest  /  Two piece – Silver Clamp  )が ストラディヴァリウスやガルネリなどによく用いられています。

 

この続きは 『 ヴァイオリンの調整技法についてのお話しです。 ( part 7 ) 』 に移ります。

http://www.jiyugaoka-violin.com/2015/archives/32538

 

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『 ヴァイオリンの調整技法についてのお話しです。 ( part 1 ) 』 はこちらです。

http://www.jiyugaoka-violin.com/2015/archives/31638

 

 

List of compositions by Otakar Ševčík Op.1, School of Violin Technique -Book 1: Exercises in 1st Position (1881) …

-Book 2: Exercises in the Exercises in the 2nd, 3rd, 4th, 5th, 6th, and 7th positions. (1881) -Book 3: Exercises on the shift combining the various positions. (1881) -Book 4: Exercises in double, triple, and quadruple stoppings, pizzicato, and harmonics. (1881) Op.2, School of Bowing Technique  -Book 1 (1892) -Book 2: School of Bowing Techniques (1892) Op.3, 40 Variations – from the Violin Studies (1892) -Supplement for Op. 2, and exercises for bowing in an easy style. -Hanuš Trneček’s Accompanied Piano, 1898. Leipzig: Bosworth & Co.. -Max Kaempfert’s Accompanied Violin Part, 1910. Leipzig: Bosworth. -L. R. Feuillard’s Transcription for the Violoncello, 1904. Leipzig: Bosworth. Op.4, Expansion of the Fingers, 1999. (This work remained in manuscript until compiled and introduced by Prof. J. Folty ́n of the Prague Conservatoire in 1999). Prague: ARCO IRIS. -41 examples, and the stretching of the 2nd , 3rd , and 4th fingers. Op.5, Preparation for 24 Etudes or Caprices, Op.35, by Jakob Dont (1912) (This work also remained in manuscript until it was later revised by J. Kocian.) Op.6, Violin School for Beginners (1904) -Seven books of exercises based on the half tone system, including the Little Ševčík, and the melodic notes as the supplement for Op. 6, 1909. -1 – 5: Exercises in the 1st position. -6: Exercises preparatory to the 2nd, 3rd, and 4th positions. -7: 5th position, combining the various positions. Op.7, Violin Studies – Preparation for Trill Exercises and Development in Double Stopping (1898) Leipzig: Bosworth. -1. Exercises in the 1st position. -2. Exercises in the 2nd , 3rd, 4th, 5th, and 6th positions. Op.8, Changes of Position and Preparatory Scale Studies in 3 Octaves, (1892). Leipzig: Hug Committee. -Haider and Helen Boyd’s transcription for the violoncello, (1930). Leipzig: Bosworth. Op.9, Preparatory Exercises in Double-Stopping for the Violin (1898). Leipzig: Bosworth. -Exercises in seconds, thirds, fourths, sixths, octaves, tenths, and harmon- ics. -L. R. Feuillard’s Transcription for the Violoncello, (1909). Leipzig: Bosworth. Op.10, 6 Czech Dances and Airs for violin and piano (1898–1903). Leipzig: Bosworth. -1. The girl with blue eyes (dedicated to J. Kubelík). = Holka modrooka -2. When I used to come to you (dedicated to J. Kubelík). -3. Untitled (dedicated to J. Kubelík). -4. Fantasy -5. Bˇretislav -6. Furiant (dedicated to J. Kubelík) -Op.10a, Czech Dance No. 7 (accompanied piano), 1928. Benátky, J. Stožický ́. Dedicated to J. Kocian. Op. 10 and 10a were based on national songs and popular social songs in Czechoslovakia. Op.11, School of Intonation on an Harmonic Basis for Violin in 14 parts, 1922. New York: Harms. Op.12, School of Double Stopping (manuscript). Op.13, School of Arpeggios and Modulations (manuscript). Op.14, School of Chords (manuscript). Op.15, School of Flageolets (Harmonics) and Pizzicatos (manuscript). Op. 12 — Op. 15 together School for Virtuosos. (The Ms. for this book was submitted in 1921 to the publishing firm of Harms in New York, but in fact was never published, even though Ševčík was paid for it.) Op.16, School of Interpretation for the Violin, (1929–1932) in 2 parts, Brno:Oldřich Pazdírek. -Part 1, 1-30, Introduction to Solo Playing -Part 2, 31-50, Introduction to Virtuoso Playing Op.17, Elaborate Studies on Wieniawski’s 2nd Violin Concerto, 1929. Brno: Oldřich Pazdírek. Op.18, Analytical Studies for Concerto in D, Op. 77 by J. Brahms, 1931. Brno: Oldřich Pazdírek. Op.19, Elaborate Studies and Analysis bar to bar to P. I. Tchaikovsky Op.35 Concerto in D Major, 1931. Brno: Oldřich Pazdírek. -About Op.19, the famous violinist David Oistrakh (1908–1974) said: Otakar Ševčík is proposing studies not only for managing technical difficulties of the Concerto but also for mastering the rhythmical harmony of the performance. This is especially important while performing the Concerto with orchestral accompaniment. A lot of attention is paid to these studies, and also to the exactness and logic of dynamic nuances of performance. (1947) Op.20, Elaborate Studies and Analysis of Paganini Allegro Concerto No.1, (1932). Brno, Oldřich Pazdírek. Op.21, Analytical Studies for Concerto in e, Op. 64 by F. Mendelssohn, 1931. Brno: Oldřich Pazdírek. -Op. 16 — Op. 21 cover two violin parts and the piano score. Op.22, Change of Positions in Single and Double Stoppings (manuscript). Op.23, Chromatics in all positions (Manuscript) Op.24, Left Hand Pizzicato with Simultaneous Right Hand Arco Technique (manuscript). (released only recently) Op.25, Studies on the Cadenza for Brahms’ Concerto by Joachim, (1929). Berlin: Simrock. (1929), rev. Ossip Schimirlin Op.26, Analytical Studies for Etudes-Caprices by R. Kreutzer, (1932-1933). Brno Oldřich Pazdírek. -Four books of exercises. -Unnumbered: Analytical Studies for Concerto in a, Op. 53 by Antonín Dvořák (manuscript). (The copyright of this Ms. is owned by Simrock, Berlin.)

 

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