【 アントニオ・マリアーニ礼賛 】
私の記憶にのこる小さな庭があります。
その庭は松江城の堀脇にのこっている武家屋敷の奥にあります。
この家は39歳であった小泉八雲さんが暮らしたことで知られているとともに、この庭は 彼の『 日本の庭 ” In a Japanese Garden ” 』(『 知られぬ日本の面影 ” Glimpses of Unfamiliar Japan ” 』所収 )に登場します。
この家の北西側のちいさな庭に面した座敷の畳に座りこの庭をながめてみてください。
きっと‥ あなたも 幸せなこころもちになると思います。
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ところで 小泉八雲さんは ラフカディオ・ハーンという名前でしたが、そのミドル・ネームは彼が生まれたギリシャのレフカダ島からつけられたといわれています。
そして、そのレフカダ島はちいさな島ですが その沖で 歴史が大きく動いたため世界史にその名が記されています。
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その1538年の出来事は 『 プレヴェザの海戦 』と呼ばれています。
東ローマ帝国の衰退がすすんだ十五世紀にオスマン・トルコは支配地域をひろげていき 1453年についにコンスタンティノーブルを陥落させ東ローマ帝国( ヴィザンチン帝国 )を滅亡させます。
オスマン帝国はこの後も勢力範囲をひろげ この抗争の最終局面でヴェネツィア共和国、スペイン、ジエノヴァ共和国、教皇領などの艦船で結成された神聖同盟艦隊( ローマ教皇連合艦隊 )とオスマン帝国艦隊が イオニア海にあるレフカダ島沖で戦うことになります。
この “プレヴェザの海戦 “は神聖同盟艦隊側の敗北に終わり 以降はオスマン帝国が地中海の制海権を握ります。
この海戦の翌年である 1539年に イタリア最古のヴァイオリン製作者として知られる アンドレア・アマティ( Andrea Amati c.1505 – 1577 )はクレモナの木工や金細工職人が集中した地区で ” 島 ( isola )” とよばれた San Faustino に工房を設立します。
ポー平原の中央に位置するクレモナは ミラノから 80㎞、ブレッシアから 60㎞、トリノとヴェネツィアからおおよそ200㎞ほどに位置する古都です。
当時のクレモナは 1499年から1509年まで続いた ヴェネツィアの支配からミラノ公国の属領となり、 1513年から 1524年がスペイン王国、そして 1524年から 1526年までフランス王の支配を受け、その後 アンドレア・アマティが工房を設立してヴァイオリンなどを製作した時期より前の 1526年から孫のニコロ・アマティ( Nicolo Amati 1596 – 1684 )が亡くなってしばらく後の『 スペイン継承戦争( 1701 – 1714 )』までの長期間が スペイン王国領でした。
クレモナは『 スペイン継承戦争 』では1701年から1702年の『 クレモナの戦い 』でオーストリア軍に敗れるまでフランスが短期間支配したのちに 1707年にミラノまでの北イタリア やナポリなどをオーストリア軍が平定したことによりハプスブルク家の所領となります。
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激動の時代ですが とにかく 1539年は ヴァイオリン製作と音楽にとって『 輝かしい歴史 』の始まりを意味していました。
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ここで アンドレア・アマティが工房をかまえた当時をもう少し理解していただくために 1547年のハプスブルク家の支配地域地図を見てください。
オスマン帝国におされてすでに凋落が始っていますが ハプスブルク家は 神聖ローマ皇帝でスペイン国王であったカール五世( Karl Ⅴ. 1500年 – 1558年 : スペイン国王在位 1516 – 1556、神聖ローマ皇帝在位 1519 – 1556 )が在位していたこの時期に最大の支配地域をかかえます。
このカール五世は生涯にわたりフランス国王であるヴァロワ家( フランソワ一世とアンリ二世の父子 )との戦争を繰り返します。この両者がイタリアを巡って繰り広げた諸戦争は まずフランス・ヴァロワ朝 第9代国王であるフランソワ一世( François Ier de France 1494年 – 1547年 : フランス国王在位 1515年 – 1547年 )が 1515年に即位してすぐフランス軍をミラノに侵攻させ、1521年にはミラノ公国を支配するスフォルツァ家を追放することから始まります。
これは あの レオナルド・ダ・ヴィンチ( Leonardo da Vinci 1452年 – 1519年 )が 1516年にフランス王の居城である中部フランスのアンボワーズ城に隣接したクルーの館( Clos Lucé )に移り1519年にそこで亡くなったことでも記憶されている方も多いと思います。
このときは神聖ローマ皇帝カール五世が教皇レオ十世と結んでミラノを攻めたので、フランス軍はミラノから退去します。 この 1521年の北イタリアでの戦争から歴史では『 イタリア戦争 』とよばれています。
この両者の対立は後にイタリア全土を戦火に投じることになります。たとえば 1527年にはカール五世のドイツ人傭兵達が『 ローマ略奪 』とよばれる狼藉を働くなど 何度も戦争が断続的に発生し、 この状況は 1544年頃まで続きます。
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その間にもオスマン帝国は領土の拡大をつづけ 上の地図にあるように 1683年に最大領土を獲得するまでいたります。 その存在は長い期間にわたってハプスブルク家やそのほかの国々に脅威であり続けました。
そしてこの他にもカール五世は即位した直後から悩ましい大きな問題をかかえていました。マルティン・ルター( Martin Luther 1483年 – 1546年 )さんが 1517年にはじめた 『 宗教改革 』です。
これは 1556年の退位の際に両親から受け継いだスペイン・ネーデルラント関係の地位と領土は全て息子のフェリペ二世に譲り、父方の祖父から受け継いだオーストリア・神聖ローマ皇帝位とオーストリアの領土は弟のフェルディナント一世に継承させ、ハプスブルク家をスペイン・ハプスブルク家とオーストリア・ハプスブルク家に分化してまで安定をはかろうとしたにもかかわらず新教徒の拡大をおさえることが出来なかったことからもわかります。
具体例でそれをみてみるとカール五世が 死去して( 1558年 )まもない 1568年にライン川河口のスペインの支配地域のネーデルラントで『 八十年戦争 』と呼ばれる独立戦争がはじまりました。 これは休戦協定 ( 1609年 – 1621年 )あけの『 三十年戦争 』( 1618年 – 1648年 )の終結でオランダが独立を勝ち取ることにより最終的に終結しました。ただこれに先立ち 北部7州は 1581年に宣言を決行していて1609年頃には事実上 『 ネーデルラント連邦共和国 』が成立するなどローマ教皇支持のハプスブルク家の所領から新教徒を支持する地域が分離独立する活動がヨーロッパのいたるところで発生しました。
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Andrea Amati( c.1505 – c.1579 )Violin c. 1560~65 ” King Charles IX of France ”
このヴァイオリンは フランス国王アンリ二世( 第10代フランス王 Henri II de France 1519年 – 1559年 : 在位 1547年 – 1559年 )の王妃 で 『 三人のフランス王( フランソワ二世、シャルル九世、アンリ三世 )の母后 』である立場を利用し摂政として権勢をふるった カトリーヌ・ド・メディシス( Catherine de Médicis 1519年 – 1589年 )が 、
早世した兄フランソワ二世を継いで10歳でヴァロワ朝第12代フランス王に即位した息子シャルル九世( Charles IX de France 1550年 – 1574年 : 在位 1561年 – 1574年 )の宮廷のために
アンドレア・アマティ( Andrea Amati c.1505 – c.1579 )に 38台製作させ( Vn. – 24 , Va. – 6 , Vc. – 8 ) 1566年頃ベルサイユに納めさせた 弦楽器のうちの一台です。
このヴァイオリンの裏板には君主の鎧が描かれており、側板には王妃 カトリーヌ・ド・メディシスのモットーといわれている文章( ” QVO VNICO PROPVGNACVLO STAT STABITQUE RELIGIO ” 『 慈愛と正義とをもって我、武装せずに立ち向かわん。 』)が ラテン語の金文字で描かれています。アンドレア・アマティにとって カトリーヌ・ド・メディシスと スペイン国王 ・フェリペ 二世( Felipe II 1527年 – 1598年 : 在位 1556 – 1598、1580年からはフィリペ1世( Filipe I )としてポルトガル国王を兼務。 )は重要なお客さんだったようです。
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この時期に『 宗教改革 』で苦しんだのは 神聖ローマ皇帝カール五世( スペイン王カルロス一世 )と戦った フランス・ヴァロワ家の場合も同じと言っていいでしょう。
フランスでは 1562年から1598年まで続いた宗教戦争『 ユグノー戦争 』が知られています。因みに、ユグノー( huguenot )とは フランスのカトリック側がプロテスタントをさして呼んだ蔑称です。
最初は 1562年にカトリック側の中心人物ギーズ公によるヴァシーでのユグノー虐殺事件( ヴァシーの虐殺 )が契機となり 内乱状態が発生しました。そして休戦と再戦を繰り返しながら事態は悪化して 1572年にはついにカトリック側がフランス全土でユグノー数千人を虐殺した 『 サン・バルテルミの虐殺 』が起こってしまいました。
これらの事件は宗教上の対立であるとともに、ブルボン家( プロテスタント )や ギーズ家( カトリック )などフランス貴族間の覇権争いでもありました。 こうしてフランス国内が泥沼化していった 1588年にアンリ二世の四男で、兄が亡くなった 1574年にヴァロワ朝第十三代フランス国王となっていた アンリ三世( Henri III 1551年 – 1589年 : 在位 1574 – 1589 )は強硬手段に出てギーズ公アンリを暗殺します。
これを知った病床の母、カトリーヌは息子の愚行を嘆きつつ程なくして死去しました。
カトリーヌの死の8ヶ月後にアンリ三世はカトリック修道士に暗殺されついにヴァロワ朝は断絶します。
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こうしてフランスではユグノーの盟主であったナバラ国王( King of Navarra )アンリ四世が ( Henri IV 1553年 – 1610年 : 在位 1589 – 1610 )即位してブルボン朝が興ります。彼はフランス国王およびナバラ国王( 在位 1572 – 1610 )となりました。 ただしパリではカトリックの勢力が強くプロテスタントの王が受け入れられなかったため 1593年にアンリ四世はサン・ドニ大聖堂で司祭の祝福を受けてカトリックに改宗したのち、 1594年 シャルトル大聖堂で正式に成聖式( 戴冠式 )をおこないました。そして最終的に 1598年に 『 ナントの勅令 』を発してプロテスタントに一定の制限の下での信仰の自由を認めたことによりフランスにおいての宗教戦争は終結しました。
この後 アンリ四世は戦争によって疲弊したフランスの再建のために活発に動きました。たとえば 日本では『 関ヶ原の戦い 』がおこった 1600年に 彼は再婚をします。
相手は マリー・ド・メディシス( Marie de Médicis 1575年 – 1642年 )でした。
のちに彼女はフランス国王ルイ十三世の母となるわけですが、アンリ四世にとっては 国家再建のためにフィレンツェの名門メディチ家からの巨額の持参金が重要だったといわれています。
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現在ルーブル美術館のリュシュリー翼三階の『 ルーベンスの間 』に展示されているこの絵画群は バロック期のフランドルで活躍した画家で外交官だった ルーベンスが マリー・ド・メディシスから 建設中であった新居であるリュクサンブール宮殿を飾るため二年間という契約で依頼され制作された連作絵画です。ひとつの絵の大きさは 縦 4m ( 394cm )× 横 3mで それらが マリー・ド・メディシスの生涯を物語るように 二十四枚並べられています。
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【 マリー・ド・メディシスの生涯 】 1622年 ~ 1625年
『 マリー・ド・メディシスのマルセイユ上陸 』
Sペーテル・パウル・ルーベンス( Peter Paul Rubens 1577年 – 1640年 )作
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こうしてフランス・ブルボン朝初代国王として アンリ四世が活動していたさなかの 1610年に 彼は狂信的なカトリック信者によって暗殺されてしまいました。
これにより マリー・ド・メディシスは 八歳半で王位を継いだ息子ルイ13世( Louis XIII 1601年 – 1643年 : 在位 1610 – 1643 )の摂政として フランス王政の重責を背負ったのです。
こののちフランスでは マリー・ド・メディシスがアンリ四世の融和政策を転換し あからさまなカトリック擁護に傾いたために息子の国王との対立が深まりました。
この結果 1617年には息子の命令により 母である彼女がブロワ城に幽閉されるなどの( 1619年に脱出。)事件がおこり権力闘争が表面化することになりました。 そして残念なことに、 これらの混乱もあいまって 一旦おさまりかけた宗教対立は フランス全土で再燃してしまいました。
【 大航海時代 】 S 私は ヴァイオリンの誕生には ” 大航海時代の到来 ” の影響を見逃すことはできないと考えています。 スペイン国王の命を受けて 西回り航路開拓をめざしたマゼラン( Ferdinand Magellan 1480年 – 1521年 )は 1519年に セビリャから 5隻の船に 265名の乗組員を乗せて出発しました。 翌年、南アフリカ大陸南端のマゼラン海峡を通過して太平洋を横断し、グァム島に立ち寄り 1521年にフィリピン諸島に到着しました。 SS 知られているように ここでマゼランはフィリピン中部のマクタン島住民の争いに加担し殺されました。 しかしその後 部下であったエルカーノが ビクトリア号ただ1隻で航海を続け 1522年についに セビリャに帰港し” 世界周航 ” を果たしました。 これは 地球が球体であることを実証した偉業でした。 困難な航海をのり越え帰ってきたのは 18名だったといわれています。 S S |
今日、ヴァイオリン製作で知られる イタリア・クレモナに その少年達が立ち寄ったのは
1585年 7月18日と伝えられています。
それはイベリア半島の付け根に位置するナバラ王国( Navarra )にあるサビエル城で生まれた フランシスコ・ザビエル( Francisco de Xavier 1506年 – 1537 叙階 – 1552年12月3日 )が 1549年8月15日に鹿児島に上陸して日本にキリスト教を伝えてからから 三十六年後にあたり、この旅の目的地であるローマで 教皇グレゴリウス十三世に謁見 ( 1585年3月22日 )がかない、その帰途でヴェネチア、ヴェローナ、ミラノ などの諸都市訪問の旅をしているときの出来ごとでした。
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私にとって興味深いのは天正遣欧少年使節一行がクレモナに滞在した時に 四人とほぼ同年齢のクレモナ生まれで 1587年には世俗マドリガーレの最初の曲集を出版し、1590年には マントヴァ公国の宮廷に仕え その後 ヴェネツィアのサン・マルコ寺院の楽長を歴任しヴェネツィア音楽のもっとも華やかな時代の一つを作り上げたルネサンス期の大作曲家で あるとともに、ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者で歌手でもあった クラウディオ・モンテヴェルディ( Claudio Giovanni Antonio Monteverdi 1567年 – 1643年 )が 彼らと会ったかどうか‥ ということです。
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客観的に考えればこの時彼らがクレモナに立ち寄った要因は クレモナ出身でこの後の 1590年に ローマ教皇グレゴリウス14世 ( Gregorius XIV 在位 1590年 – 1591年 )となるクレモナ大司教 ニコロ・スフォンドラート( Niccolo Sfondrato 1535年 – 1591年 )がいたからだと思われます。
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因みに使節一行が訪れた クレモナ大聖堂の楽長は 1581年からイタリア後期ルネサンス音楽の作曲家で オルガン奏者のマルカントニオ・インジェニェーリ ( Marc Antonio Ingegneri 1547年 – 1592年 )が務めていました。
そして意味深いことに インジェニェーリ は モンテヴェルディの作曲の師でもあったのです。
ニコロ・スフォンドラートも、そして 当然ですが インジェニェーリも 総じて音楽の熱心な後援者となり、音楽を通じて町の名声を高めたといわれている人達ですから 私は個人的には天正遣欧少年使節一行とモンテヴェルディが 語らうくらいのとりなしがあったと想像しています‥ 。
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それから 天正少年使節が日本に持ち帰った楽器はスペインのアルカラで贈られたものが多かったようですが、私は すくなくとも ヴィオールはクレモナで作られたものだったと考えています。
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ローマ教皇の謁見の翌年( 1586年 )アウグスブルクで出版された使節の肖像版画。
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右上で王冠を手にしているのが 正使(主席)伊東マンショ、左上で手袋を手にするのが同じく正使 千々石ミゲル、右下が副使の中浦ジュリアン、左下が原マルチノ、上中央が使節に同行した ディオゴ・メスキータ神父といわれています。(京都大学図書館蔵)
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こうしてヨーロッパでは使節一行にとって幸せな時間がながれました。
しかし帰路についた彼らはこののちに運命の残酷さを知ることになります。
少年達がキリシタン大名である豊後の大友宗麟( 1530 ~ 1587 )、肥前・大村の大村純忠( 1533 ~ 1587 )そして 肥前・島原の有馬晴信( 1567 ~ 1612 )のローマ教皇に対する使者として長崎を出港した 1582年2月20日 以降も時代は立ち止まっていませんでした。
遣欧少年使節一行がインドのゴアに到着した 1587年 に長崎では 大村純忠が そして豊後では大友宗麟が相次いで死去します。
そして 1587年7月には ついに 豊臣秀吉によるバテレン追放令が発布されました。
日本でキリシタン排斥の動きが進行していた 1590年7月21日に使節団は 長崎に帰港します。 しかし 謁見の許可がなかなか下りず 1591年3月3日になってやっと 聚楽第において豊臣秀吉に謁見がかない、そこで西洋音楽の( ジョスカン・デ・プレの曲といわれています。 )御前演奏をしたと伝えられています。
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非常に残念なことですが これらの活動もキリシタン排斥の動きをとめることは出来ませんでした。 この出来事からまもなくして 彼ら四人にも 峻烈な迫害が加えられます。
- 伊東マンショ Mancio c. 1569年 – 1612年(正使) 大友宗麟の名代。
宗麟の血縁。日向国主の孫。後年 司祭に叙階。1612年長崎で 潜伏中に死去。 - 千々石ミゲル Miguel c. 1569年 – ( 1633年 ? )(正使) 大村純忠の名代。
純忠の甥、晴信の従兄弟。信教による身内の苦難を耐えきれず1601年に棄教。 - 中浦ジュリアン Julião c. 1568年 – 1633年( 副使 )後年 司祭に叙階。
彼は 1633年に長崎で『 穴づり』の拷問によって殉教しました。 - 原マルティノ Martinão c. 1569年 – 1629年(副使)後年 司祭に叙階。
彼は迫害に遭ったことによる病により 1629年 追放先のマカオで死去します。
こうして日本のキリシタン弾圧は激しさを増し 1580年にイエズス会が島原半島の有馬に設置し 第一期生のなかから ” 天正少年使節 ” がえらばれた 『 セミナリオ 』も いく度にもわたる移転のはてに長崎のセミナリオ ( 1612年 ~ 1614年 )を最後に途絶えました。
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そして 1637年12月11日最後の大規模な一揆となった『 島原の乱 』が勃発します。 この反乱は 1638年4月12日終結させられ原城の籠城者のほぼ全員が ( 正確な人数は不明ですが、私は 27,000 ~ 37,000人 であったと思っています。)戦闘と飢えと鎮圧後におこなわれた処刑で命を落とします。
そしてこの国では江戸時代をとおして徹底した迫害がおこなわれたため ヨーロッパから運ばれてきた西洋楽器や 印刷機などの文物のほとんどが失われてしまいました。
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知られているように日本のキリスト教徒 ( 隠れキリシタン )の存在に世界が気がついたのが S『 島原の乱 』から230年ほどたった幕末の1864年に長崎で 『 信徒発見 』が( 長崎の大浦天主堂を浦上在住の信者が訪ねてきたことをさします。) あってからでした。
しかしこの国ではキリスト教はいまだ禁教でしたのでこの時に信仰を告白した信者は投獄や拷問によって棄教を迫られたり全国に配流されるなどの大規模な弾圧にあいました。
この明治政府によるキリスト教弾圧は諸外国の非難・批判を招き 1873年( 明治6年 )の江戸幕府以来つづいていた『 キリシタン禁教令 』の廃止につながりました。
‥‥ 合掌 。
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十六世紀から十七世紀、そして十八世紀初頭にかけてのヨーロッパでは 先にふれた 『 イタリア戦争 』、『 ユグノー戦争 』のほかにも戦争があいつぎ、とくに十七世紀はヨーロッパに戦火がなかった年は100年間でたったの4年程だけであったといわれています。
大きな騒乱だけでも次のような状況でした。
1521年 – 1544年 イタリア戦争
1524年 – 1525年 ドイツ農民戦争
1546年 – 1547年 シュマルカルデン戦争
1562年 – 1598年 ユグノー戦争
1568年 – 1648年 八十年戦争 ( オランダ独立戦争 )
1618年 – 1648年 三十年戦争
1642年 – 1649年 清教徒革命
1648年 – 1653年 フロンドの乱
1652年 – 1654年 第一次英蘭戦争
1655年 – 1660年 スウェーデン・ポーランド戦争
1664年 – 1667年 第二次英蘭戦争
1667年 – 1668年 フランドル戦争
1672年 – 1674年 第三次英蘭戦争
1672年 – 1678年 オランダ戦争
1675年 – 1679年 スウェーデン・ブランデンブルク戦争
1688年 – 1697年 アウクスブルク戦争
1690年 – 1697年 ウイリアム王戦争
1700年 – 1721年 北方戦争
1701年 – 1714年 スペイン継承戦争
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1713年の『 ユトレヒト条約 』によるヨーロッパの勢力図
( 茶色はイギリス、青はフランス、黄色はスペイン、緑はオーストリア、橙はサヴォイア、深緑はブランデンブルク=プロイセン )
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このなかでは最大の規模で戦われたのが 『 三十年戦争 』で、戦場となったドイツは 壊滅的な被害をこうむったことが伝えられています。
この戦争による人口減少例を都市名であげてみると、およそ全人口のうち半減したのが プランデンブルク、ザクセン、バイエルンで、60~70%程の人口が失われたのが メクレンブルク、ポンメルン、ヘッセン、プファルツ、ヴュルテンベルクなどといわれています。
この他にも たとえばボヘミア ( ベーメン )の人口は 1618年の170万人から1654年の93万人に減少したとされ、また南ドイツ最大の都市だったアウクスブルクは 1600年には4万5000 人の人口を擁していたそうですが、1635年には人口 1万6000 人程までに減少してしまったそうです。
南ドイツの他の都市では ニュルンベルクでは 50%減少し、 ミュンヘンでは 60%、カウフボイレン( Kaufbeuren )では 75%と推計されています。それからフランス東部で ドイツに隣接している中世のブルゴーニュ伯領であるフランシュ・コンテ地域では 1635年∼ 1644年にかけての戦争による荒廃のために 人口の 50%から75%が失われたといわれています。 このような戦争状況のなかでは生き抜くのにも困難なことが多く本当に厳しい時代であったようです。
それからこの時期の社会問題でわすれていけないのが 『 飢餓 』と 『 疫病 の大流行 』です。 近世はいわゆる『 小氷河期 』と時期的に重なるそうで 1550年から1850年には寒い冬と雨の多い夏が多かったといわれています。ことに 1585年以降は、今日まで経験したうちでも最悪の気候 ( 冬 も夏も寒く、それに加えて夏と秋は雨の多い気候。 )だったそうです。ヨーロッパ全域を襲った最悪の飢饉の一つがまさにこの時期に発生しています。 被害は 1594年から1597年がピークであったと伝えられており、この時期ヨーロッパの大部分の地域で大雨と農作物の不作がつづき 特に 1595年の飢饉は悲惨であったと記録されています。
そして『 ペスト( 黒死病 )』などの『 疫病の大流行 』は まず十四世紀なかばに発生したことが知られています。 このときは 1348年 ∼ 1351年にかけてコンスタンティノープルをはじめ、キプロス、サルデーニャ 、コルシカ、マジョリカ等の地中海の主要都市、さらにマルセイユ、ヴェネチア等の港町にまず上陸して、翌年に入るとアヴイニヨン、フイレンツェそして イングランドまで広がり、その次の年にはスウエーデンやポーランドも浸食し 1351年にはロシアにまで達したそうです。
この流行ではヨーロッパの総人口8000万人のうち、その約三分の一にあたる2500万人が 犠牲となったといわれています。
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悲しいことに このときの大流行をきっかけとして、ペストはいわば風土病化してヨーロッパの地に根を下ろし、 それ以後18世紀にいたるまで何度もくりかえし発生しまた。
とくに 17世紀にはヨーロッパの各地 で頻発したことが記録されています。アムステルダムでは 1622年から1628年にかけてペストが毎年 発生して 3万5000人程が死亡し、パリでは 1612年、1619年、1631年、1638年、1662年、1668年 ( 最後の流行 )にペストが流行して大きな被害がでました。ロンドンでは 1593年から1664年にかけて、そして 翌年の1665年にペストが 5回も流行し 死者の合計はおよそ 15万6000人におよんだと言われています。
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当時のヨーロッパの人口の研究データによるとイタリアの人口は、1600年から1650年にかけて 1330万人から1150万人に減少しその後増加して1700年までに1340万人になり、
スペインの人口は 1587年から92年の 768万人から 1646年∼50年の525万人に減ったのち1712年∼17年には700万人にまで回復したとされています。
またこの時期のヨーロッ パで最大の人口を擁していた フランスでは 20%以内の幅での変動を含みながらも比較的安定していて十七世紀半ばの人口数はおよそ2300万人くらいと言われています。
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アンドレア・アマティ( Andrea Amati c.1505 – c.1579 )さんがヴァイオリンを製作した時代とその後のヴァイオリン製作者達の生活状況を知るために その時期の ” 歴史 ” を書き出してみましたが、社会環境がすさまじく激動していたことがご理解いただけると思います。
こうしてヨーロッパでは 『 人口 』のデータでみると停滞が長期間 続きましたが、 1740年頃から 人口拡大がはじまり十八世紀後半は ヨーロッパ全域で 人口は安定的に増加していく展開となります。
この社会変化( 安定化 )にともなって十八世紀後半になると ヴァイオリン製作に関する記録は克明に残される状況となり‥‥ 今日に至ります。
Giovanni Paolo Maggini ( 1580 – c.1632 )cello Brescia c.1610
この写真は17世紀の弦楽器製作のお話しをするために 2006年に オークション会社 Sotheby’s と Cozio Publishing が出版した ” FOUR CENTURIES OF VIOLIN MAKING – Fine Instruments from the Sotheby’s Archive ” の 391ページより ジョヴァンニ・パオロ・マッジーニ( 1580年頃 ∼ 1632年頃 )が 1610年頃制作したとされるチェロのヘッド写真を引用させていただきました。
Mattio Goffriller label( 1670 – 1742 ) Viola Venezia 1727年頃
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さて、ここまでヴァイオリンが誕生したといわれる 十六世紀の ヨーロッパや日本の社会状況とその後の社会変化について追って来ました。これは、現代において 一六世紀から一七世紀前半に製作されたヴァイオリン族の残存数はごくわずかで、その限られた資料からヴァイオリンが誕生した 頃のオリジナル楽器の特徴を論じるためにはどうしても彼らヴァイオリン製作者が生きた時代と環境を理解しておく必要があると考えたからです。
そして 過去を紐といて検証した結果、私はこの歴史上の出来事のなかでヴァイオリンが誕生し成長するのに 物理などの科学の進歩が 『 影の立役者 』として大きな役割を担ったと考えるにいたりました。
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たとえば 十二世紀末ころには羅針盤が発明され長期の航海が可能となり、その後の 1492年の コロンブスによる 『 アメリカ大陸 発見 』や 1522年の マゼラン達による『 世界周航 』が達成されました。 それから 諸説ありますが 1608年にオランダ・ミッテルブルフの眼鏡職人ハンス・リッペルスハイ( Hans Lippershey 1570年 – 1619年 )による 『 オランダ式望遠鏡 』の発明も大きかったと思います。 これは 翌年の1609年に ガリレオ・ガリレイが自作したその望遠鏡で月のクレーターを観測することにつながりました。
彼は土星の耳を発見するとともに木星をまわる4つの星も発見し、それが 木星を中心に 4つ星が 行き来する様子を観測したことに繋がりました。それによって彼は太陽系の縮図というべきものを見いだしました。人間の宇宙観を地球中心の天動説から地動説へと大転換する原動力となったのは、こうした初期の望遠鏡による星の観測がはたした役割は大きかったようです。
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しかし宗教上の問題もあり‥‥たとえば『 地動説 』をとなえたコペルニクス( 1473年 – 1543年 )ですら生前はその論文の出版をみとめなかったといわれています。そしてコペルニクス理論の啓蒙普及に一役かったブルーノ( 1548年 – 1600年 )は マゼラン達による『 世界周航 』から78年も経っていたのに 1600年におこなわれた宗教裁判で火刑となりました。
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また、ガリレオは 1633年の第二回異端審問の有罪判決によりアルチェトリに幽閉されてしまいました。彼はこの事態を予見していたようで本格的にコペルニクス支持のために『 太陽黒点論 』を刊行した 1613年に ” 異端審問 ” のわざわいから二人の娘を守るために修道院にいれた事実が 彼の決心の重さを伝えています。
こうして彼は覚悟の上で1616年の宗教裁判を( 第一回異端審問所審査 )受けたといわれています。
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こののちも 有名な『 気圧 』に関する公開実験である『 マグデブルクの半球実験 』を 1654年にレーゲンスブルクにおいてフェルディナンドⅢ世達の目の前でをおこなったオットー・フォン・ゲーリケ ( Otto von Guericke 1602年 – 1686年 )ですら実験報告書の出版は8年の期間をあけた 1662年まで待ったのは広く知られています。
これにいたっては マゼラン達による『 世界周航 』から 140年も経過していました。
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17世紀末期、ジェノヴァで製作された携帯用望遠鏡。 子牛革(vellum)製の筒、角製の部品、ガラスレンズで構成されています。 National Maritime Museum, LondonS
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この間にも世界はどんどん変化していきました。 たとえば 1674年頃には 外洋艦船に 最新型の『 携帯用望遠鏡 』が導入されました。 はじめはオスマン・トルコ が軍事用に艦船に使用したため 他国は対抗できず、これにより たとえば 1692年4月の時点でヴェネツィアの保有艦数はゼロとなるほどの影響をあたえました。 しかし、その後ヨーロッパ各国にもこの『 携帯用望遠鏡 』が普及し、これによりマスト上での遠距離監視が可能になり 海上交通の状況が以前よりはるかに安全になりました。
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私はヴァイオリンの誕生と発達には ガリレオ・ガリレイ( 1564~1642 )が “音” は空気の粗密波が鼓膜に達したときに生じる感覚であるとし、メルセンヌ( 1588~1648 )がその伝わる速度を計測し オランダのホイヘンス( 1629~1695 )が 1678年に公表 ( 1690年出版 )した『 ホイヘンスの原理 』によって振動波を ” 素元波 “や ” 包絡面 “によって捉えることで分析研究を飛躍的に進め ニュートン( 1643~1727 )が 『 ニュートン力学 』によって ”音” やその他の波の現象を説明するのに大きな成功をおさめたことが寄与したと考えています。
それから、私はこの時期のヴァイオリンには 後世にドイツの生理学者で物理学者でもあった ヘルムホルツ( 1821~1894 )が すでに公知化されていた気柱共鳴 ( 管が波長と一定の関係になった場合の共鳴で定常波による。)とは別に 気室と胴が共振することで特定の周波数の音が継続する現象に着目し ヘルムホルツ・オシレータ ( ヘルムホルツ発振器 ‥‥ 空気がバネに近い役割をし共鳴器の特性と合う周波数を中心に共鳴音が残る。 )と呼んだ原理が音のクオリティをあげる技術としてヴァイオリンに取り入れられていた可能性が高いと考えています。
私は この技術により十八世紀前半には ヴァイオリンは『 135音程 』( 当時はこの領域まで使用されていませんでしたがパガニーニにより近代奏法が完成された後に使われるようになって、ヴァイオリンの基本性能がこれに対応できることは実証されています。)
の『 音高輪郭 』の明瞭化がすすみ 高度な和音コントロールが可能な弦楽器として 『 完成 』することにつながったと思っています。
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恐縮ですが この投稿はここまでです。
続きはこれから下の書きかけ部分のつぎに MENU が表示してあります。
よろしくお願い致します。
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ごめんなさい!
楽器作りが忙しくなって 続きを書きこむ時間がしばらく取れそうにありません。
仕事の状況が少し落ち着きましたら また続きを再開したいと思います。
横田 直己
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Gasparo Bortolotti detto da Salò ( 1540年5月20日 – 1609年4月14日 )ガスパロ・ボルトロッティ
Giovanni Paolo Maggini ( 1580 – c.1632 )ジョバンニ・パオロ・マッジーニ
1499年頃 ジョバンニ・レオナルド・ダ・マルティネンゴ リュート製作工房を開設
1510年頃 弟、ジョバンニ・アントーニオ・アマティ誕生
1630年 クレモナにペストが流行
アントニオ・アマティ ( c.1537 – )
ジェロラモ・アマティ ( c.1540 – 1630 )
フランチェスコ・ルッジェーリ ( c.1620 – )
アンドレア・グアルネリ ( 1623 – 1698 )
カルロ・ベルゴンツィ ( - 1747 )
製作者兼演奏家 ジョバンニ・マリア・チローニ ( Giovanni Maria Cironi 1590~1595年 にクレモナに居をかまえる。1624年没 )1610年申請書記録 E.Santoro ” Antonius Stradivarius, Cremona, 1987年 )
1526年の戸籍調査で Andrea Amati ( c.1505 – 1577 )とAntonio Amati ( c.1510 – )が ジョバンニ・レオナルド・デ・マルティネンゴ ( Giovanni Leonardo De Martinengo 1471~1476年頃の生まれ。1509年ころカトリックに改宗。1499年 Porta Pertusio,Cremona に店を開く。)の工房に徒弟としてはいる。彼ら兄弟は ゴッタルド・アマティの息子と考えられるそうです。1534年にアマティ兄弟は独立。1539年 アマティ兄弟は ” 島 ( isola )” とよばれた San Faustino, Cremona に工房を設立。
” バーレス・アーチバック の コントラバス ”
” フラットバック の コントラバス ”
ドイツ・フランクフルト歌劇場管弦楽団、第1首席コントラバス奏者の野田一郎さんをご存知でしょうか? 野田さんは楽器特性を注意深く考察して演奏のバリエーションとして取り入れられている演奏家だと私は思っています。
野田さんの奏法(野田メソード)については 彼に影響を受けた 奥田治義さんのホームページをごらんください。そこに私が感じていることが端的に書かれていました。
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少し抜粋させていただきます。
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【 ‥‥ 私は音楽にとって大切な要素として、次の4点を常に心がけている。 1:メロディ 2:リズム 3:ハーモニー 4:トーンの4点である。 1~3 については言うまでもないだろう。 故に私にとって1番重要な要素は 4のトーンであると言うことも可能だろう。 トーンとは音色であり、ニュアンスである。 私は その音色・ニュアンスにこそ、その音楽家の良心が顕れると考えている。 http://b3a4s4s.web.fc2.com/07okuda/noda-method.htm 】
コントラバスの裏板にはバーレス・アーチバックと フラットバック ( 2枚板接ぎ合せと 単板のふたつに分類できます。 )があります。 コントラバス奏者である野田さんは その他に ヴィオラ・ダ・ガンバ と ヴィオローネ奏者もやっています。 ですから野田さんのブログには 下に引用させていただいたように フラットバックの数種類の楽器画像がでています。
http://ichironoda.exblog.jp/11832470/
下左写真のヴィオラ・ダ・ガンバのように フラットバックのコントラバス裏板内側には 下中央と下右写真のようにクロスバーやプレートが入っています。
一方 バーレス・アーチバックのコントラバス裏板は、ボールバックの リュートや マンドリンほどでないにしても下右写真のように アーチをつけることで 動かないゾーンを確保して表板の振動を明確にすると共に、その強度を利用してクロスバーが無くてもバランスが取れるように工夫したものです 。
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そもそも これらの弦楽器、たとえば トレブル・ヴィオールや ヴィオラ・ダ・ガンバや コントラバスは下右のティシュ・ペーパーの箱を変形させたように動いて 共鳴音を生み出す仕組みになっているようです。
また、2枚板を接ぎ合せたフラットバックの楽器は 点Eの動きをスムーズにするために 点Gで 2枚の板を接続したり曲げて角度をつける工夫がされていると思っています。 S S
この他に 重要なことをもう一つあげておくと、私は 響胴の表板や裏板の幅は下に書いたように 【 表板優先型 】と 【 裏板優先型 】があると考えています。
私は こういったことから フラットバックの響胴を持つ弦楽器は 裏板を振動しやすくすることで低音域を強化する考えによって製作されたと考えています。 フラットバックにすると 下の箱写真で底にあたる部分( 裏板 )がサイドや表板の動きの影響が最少限で 『 広い振動板 』 として震えやすくなるのがイメージできると思います。
オールド・ヴァイオリンの裏板の ジョイントの位置取りに着目してみましょう。 例としてイギリス・王立音楽院コレクションカタログとして2000年 David Rattray さんが出版した ” Masterpieces of Italian Violin Making ( 1620~1850 )- Important Stringed Instruments from The Collection at The Royal Academy of Music ” の 31 と 35 ページを引用させて頂きました。
両方のヴァイオリンとも アンドレア・ガルネリ Andrea Guarneri ( 1626~1698 ) が制作したもので 左側が1665年で 右側が1691年 注)1 とされています。 そしてよく見ると左側のジョイントは少し時計回りで 右側は 反時計回りに位置取りがしてあります。
注)1 この Andrea Guarneri ( 1626~1698 )の 1691年は 1997年に 一月程の間 私の工房にいました。 このヴァイオリンは ロンドンの W.E.Hill & Sons より1931年に出版された 有名なガルネリ・ファミリーの研究書である ” The Violin-Makers of the Guarneri Family ( 1626-1762 ) Their Life and Work ” の 13ページに写真が掲載されている名器です。 強い右下がり型のアイを持つスクロールで 非対称型の意味を教えてくれた 『 ありがたいヴァイオリン』 でした。この期間に私の工房で嫁ぎ先を決められず泣く泣くお返ししましたが 、それから3年程たったある日届いた David Rattray さんが出版した ” Masterpieces of Italian Violin Making ( 1620~1850 )- Important Stringed Instruments from The Collection at The Royal Academy of Music “ のページをめくっていて 『 あっ! 』と思わず叫びました。 当時、私は 『 あの子はどこにいったんだろう…。』 と 考えては寂しい思いをしていましたので 感激の再会に思えたのです。 個人的には イギリス 王立音楽院コレクションに入って良かったと思っています。
どこの国でも優れた木工職人は技術上の奥義( おうぎ )を問われると 『 それは木のくせを読み切り活かすことです。』と答えます。 オールド・ヴァイオリンも 同じことが留意されました。 裏板について言えばネジレながら縦に成長した木を使用しますので まず2つの選択支があります。 それは ジョイント加工によって木材に意図的な釣り合いを生じさせる “木伏”の応用で、もう一つが 一枚板のくせを読み切って “木組み” で調和させる技法です。 ジョイント型は一見して響胴のネジレが意図的に組まれているのが読めますが問題は一枚板です。 年輪を目で追っても傾きが判然としない楽器が多いからです。 この一枚板のくせを読み切る助けとなるのが ひび割れです。
年輪や杢( もく )そして柾目方向の符( ふ )などの 『 木理 』がわかりにくい 一枚板の裏板でも ひび割れが一筋入っているだけで製作者が考えた木組みがいきなり読めるようになります。 私はそうして材木の組み合せ方を教えてもらいました。 製作するためにはこれは大事な知識ですが ここでは”響”を見分けるための14ヶ所めのチェツク・ポイントとしては 『 裏板のジョイントまたは年輪が傾けてあるかを見てください。』で十分でしょう。 例として下に三枚の画像をあげておきます。
左側は横山進一さんが撮影し1986年に学研より出版された ”The Classic Bowed Stringed Instruments from the Smithsonian Institution ” の23ページより 1679年に制作されたストラディヴァリウス “ Parera ” の裏板を引用させて頂きました。 一枚板ですが 軸が反時計まわりにしてあるのが分かり易いヴァイオリンです。 そして これは軸を最大に傾けた良い例なので覚えておいて下さい。 このストラディヴァリウスのように積極的に軸と動きが仕掛けてあれば話は簡単なのですが、残念ながらほとんどのオールド・ヴァイオリンは次の二枚の写真ような注意深い観察が必要な組み方がされています。 中央の写真は Nicola Gagliano ( 1675~1763 )が 1725年頃制作したヴァイオリンの裏板ですが 少し反時計回りにした上で 中央より向かって少し左側にジョイントが位置づけられています。 そして右側に同じようにほんの僅か反時計回りでジョイントを中央より左側 ( ボトムでガリアーノはジョイントがセンターライン右 1.2ミリで 右側のオールドヴァイオリンはセンターライン左 3.2ミリの差はあります。)に設定されたヴァイオリン写真を並べました。
ヴァイオリンの ” 響 ” で重要なのが ネックの向きです。
左側の 1525年頃と 右側1607年の リラ・ダ・ブラッチオを見てください。 注)1
5本の演奏弦の左外にある2本は響胴の ネジレを増やすために取り付けられています。 ネックはもともと R側を向いていますが 2本の ” レゾナンス弦 ” の張力をあげるとネックがより R側を向くこととヘッドが激しく揺れることで 響胴が出す低音域の明瞭感がふやせます。 ヴァイオリンはこれらの要素を踏まえて誕生しました。
オーストリア・チロル地方 Absamの弦楽器製作者である Jacob Stainer( 1617~1683 )がヴァイオリン製作を語る上で重要であるのは先にふれましたが、彼の考えを指摘するためにヴィオラ・ダ・ガンバ ( Bass Tenor )の写真を Walter Hamma 編で1986年に出版された “ Violin-makers of the German School from the 17th to the 19th century ” のvol.Ⅱの339ページより引用いたしました。
ネックの下端がしっかり中央より 少しR側を軸( 白線 )として揺らすように合わせてあり アッパー・バーツのクロスバーも軸を意識して配置してあります。 その上 ネックと側板の両側接合部の ” アソビ ” の豊かさは 私には少しショックに思えました。
因みに Jacob Stainer( 1617~1683 )の Viola da gamba ブロック 注)2 の写真を参考のために下左側 にあげておきました。 それから3枚の中央に 16世紀にイタリアで製作されたリュートのブロック部 注)3 の写真もあげました。 シュタイナーの ヴィオラ・ダ・ガンバと同じく ネックの下端 ( ライン )と垂直の軸 ( 白線 )が中央より2.3度 R側に向けてあります。 それから右側は オックスフォードのAshmolean Museum のコレクション・カタログ第33項 注)4 より17世紀にイタリアで製作された シターン を参考に挙げました。 シターンのネック断面は 「 L字型 」 で胴体を正面から見たときに中心より R側を軸 ( 赤矢印 )として揺らすように作られています。
チェック項目の5つめで紹介しました Carlo Antonio Testore ( 1693~1765 )が1740年頃制作した表板が一枚板のヴァイオリンです。 この表板の特性をみるためにサドルの位置で “ 中央 ” a に位置する年輪を一本選び赤線でトレースしたのが下の赤線 a-bです。 このヴァイオリンの表板材が少しだけ “反時計回り”なのは ネックが揺らす軸と合せたからだと考えられます。 下の図のように ネツク部中央の ● “針痕”から 左回り 1.6度 で白線をひくと年輪と並行で 7個の●にある “針痕”をつなぐ『 軸線 』があらわれます。
さきに触れましたがイタリア語 Liutaio やフランス語 Luthierである リュート製作者がヴァイオリンを製作しました。 当然同じ軸組みでヴァイオリンは ゆたかな ” 共鳴音 ” を持つ弦楽器として完成しました。
13ヶ所めのチェック・ポイントは ” ネックが 少し右側 ( R側 )を向いているでしょうか?” です。 なお 左側 ( L側 )を向いていると3番、4番線が 『 歌います 』が1番線の鳴りが悪くなります。 現代型でよく見られますが 中央揃えは胴体の” 共鳴音 ” をかなり止めてしまうので避けたほうが賢明です。
注)1 左側写真は1979年重版の ” The Hill Collection of Musical Instruments – in the Ashmolean Museum , Oxford ” First published 1969 David D. Boyden の 第8項の Giovanni Maria of Brescia , made in Venice , c.1525 よりの引用で、右側写真は 2006年に出版された ” The Emil Hermann Collection ” Part Ⅰの10ページより Girolamo Amati Ⅰ( 1561~1630 )が 1607年に制作した Lira da Braccioです。
注)2 2003年にウィーンで開催された ” Jacob Stainer – kayserlicher diener und geigenmacher zu Absam ” Rudolf Hopfner による展覧会カタログの 110ページより引用しました。
注)3 1993年にボローニャで開催された ” Strumenti musicali europei del Museo Civico Medievale di Bologna ” John Henry van der Meer より 出品番号 97 の写真を引用しました。
注)4 1979年重版の ” The Hill Collection of Musical Instruments – in the Ashmolean Museum , Oxford ” First published 1969 David D. Boyden の第33項より引用いたしました。