「 螺鈿紫檀五弦琵琶 」 700年 ~ 750年頃 ( 全長108.1cm、最大幅30.9cm )
この琵琶 が渡来した経緯は 不明な点も多いようですが、私は 奈良時代 ( 710年-794年 )に 多治比広成 ( たじひ の ひろなり : 大使 ) と、中臣名代 ( なかとみ の なしろ : 副使 ) が遣唐使として派遣された際に 唐の都 長安から奈良にもたらされたと考えています。
この「 螺鈿紫檀五弦琵琶 」には、ナットにあたる「乗絃」の上端である絃蔵端から 絃蔵底面にかけて 多数の掘削痕があります。
「 螺鈿紫檀五弦琵琶 」の 絃蔵端にある掘削痕
「 螺鈿紫檀五弦琵琶 」の 絃蔵底面の掘削痕
現在、この絃蔵に残っている掘削痕は、鼠歯錐 ( ネズミバキリ )によるものと考えられています。
鼠歯錐 ( = 鼠刃錐 ネズミバキリ )
なお、鼠歯錐は 篠笛に指穴をあけている上の写真と 同様な使い方がなされたと考えられます。
私は、これに着目しました。
そこで、まず絃蔵に残っているこれらの工具痕跡のうち 視認できる12個の掘削痕を、上画像のように着手した順番などを推測して赤円で示すことにしました。
因みに、この工具痕跡について宮内庁正倉院事務所が公開している「 正倉院宝物 ” 螺鈿紫檀五絃琵琶 “模造品作製事前調査 」の報告書の 16ページ 第八節に 以下の所見が書かれています。
『 ‥ちなみに、本品の絃蔵内部の掘り残しの底面には 鼠歯錐による掘削の痕が見られ、多少は研磨して均したことも判るのではあるが、装飾的な彫刻が施されるなど 頗る丁寧な作りになっている外面と比べると、いかにも仕事が粗い。 掘削する手間を必要最小限に抑えたことを 如実に物語っているのではないかと思われる。 』
この掘削痕 ( = 工具痕跡 ) を目にしたとき、この担当者に限らず 同様に考える方は多いと思いますが、私は 意図的に加工されたものと判断しました。
その根拠として、ヴァイオリンや チェロのヘッド裏に見られる “工具痕跡” についてお話しをさせてください。
Domenico Montagnana ( 1686-1750 ) Cello, Venezia 1739年
現代では 弦楽器の傷跡状の加工や 製作時の掘削痕などの多くが「 工具痕跡 」と呼ばれるようになりました。これはどうやら 刃物使いなどを失敗したと考えた方の命名のようですが、名工がこんな失敗をするでしょうか?
例えば 1739年に製作されたこのチェロヘッドの背中下側の “工具痕跡” に着目してみましょう。これは4番弦のペグ取り付け位置より少し下についています。
不思議なことに‥ このような “工具痕跡”は 製作された時期や 地域に制約されることなく、多数のオールド・ヴァイオリンや オールド・チェロに出現しています。
その具体例として、まず ドメニコ・モンタニャーナが 1742年に製作したチェロ・ヘッド後部を撮影した写真 ①を下に置きました。
その下の②は 先程の斜めから撮影された 1739年製もので、③は フランチェスコ・ルジェーリが 1695年に製作したとされているチェロの ヘッドです。
3台のチェロに共通するだけでも偶然ではないと理解していただけると思いますが、この位置に同じ ” 工具痕跡 ” をもつオールドの弦楽器はめずらしくありません。
① Domenico Montagnana( 1686-1750 ) Venezia Cello 1742年
② Domenico Montagnana( 1686-1750 )Venezia Cello 1739年
③ Francesco Rugeri( 1626-1698 )Cremona Cello 1695年
但し、すべてのオールド弦楽器にこの工具痕跡がついている訳ではありません。 下に別の例として4台のチェロをあげさせていただきました。
一見して分るように④の ベルゴンツィは上と同じ工具痕跡を もっていますが、⑤の工具痕跡は中央尾根の真上ですし、⑥と⑦の ガダニーニはジグザグを強くし中央尾根の高さを不連続面とすることで同じ効果が得られるように工夫してあります。
④ Carlo Bergonzi ( 1683-1747 ) Cello, 1731年
⑤ Domenico Montagnana( 1686-1750 )Venezia Cello, 1739年 ” The Sleeping Beauty ”
⑥ J. B. Guadagnini( ca.1711-1786 )Cello, ”Havemeyer ” 1743年頃
⑦ J. B. Guadagnini( ca.1711-1786 )Cello, 1777年 ” Simpson ”
下画像は、背面中央尾根のジグザグを確認していただくために試みとして ガダニーニが 1777年に製作したとされる この ⑦ チェロ の画像を横方向に延ばしたものです。
J. B. Guadagnini Cello, ” Simpson ” 1777年 水平方向5倍拡大
⑦ ( 原図 ) J. B. Guadagnini Cello, ” Simpson ” 1777年
それから、これらの画像を検証すると ヘッドのヒール ( Jaw or Head heel ) が円形ではなく 楕円を基本型としたかのように非対称とされていることが ご理解いただけると 思います。
私はこれを シターン ( Cittern ) などの “L字状断面のネック ”と類似したもので、 ヘッドのゆれ ( 運動 = 並進運動と回転運動 ) のうち 回転運動の要素を増やし ゆれる時間を長くする工夫であると考えています。
“Guarneri del Gesù” ( 1698-1744 ) Cello, Cremona 1731年
オールド・チェロでは ヘッド・ヒール部 ( Jaw or
Head heel ) を ガルネリが製作したとされる このチェロのように、明確な非対称で製作されたものも多いです。
“Guarneri del Gesù” Cello, Cremona 1731年
そして、これは オールド・ヴァイオリンの場合でも言えると思います。
上にあげたチェロのように ヘッド・ヒール ( Jaw or
Head heel ) が 非対称なものは、このように博物館で展示されている有名なヴァイオリンでも 確かめられる訳ですから‥ 。
ただし、チェロと違って ヴァイオリンの場合は演奏中に親指が触れることがあるので、これを “摩耗”と思い込んでいる方が多いのも現実です。
しかし、カルロ・ベルゴンツィ ( 1683-1747 ) が何台か製作したヴァイオリンのように、”摩耗” 仕上げではなくヒール部分を工具で切り取ったかのような “工具痕跡”としてバランスを調整したヴァイオリンの存在が 非対称の意味を教えてくれます。
私は このように “工具痕跡”を大胆に使いこなせる カルロ・ベルゴンツィという弦楽器製作者は 偉大だと思います。
そして、パリで活躍した J.B.ヴィヨーム ( 1798-1875 ) も そのように考えたようです。彼は カルロ・ベルゴンツィ ( 1683-1747 ) が亡くなって80年程後に、下写真だけでも分かるような “積極的”なヴァイオリンを製作しています。
Jean Baptiste Vuillaume ( 1798-1875 ), Violin Paris 1830年頃
ただし‥ 念のために申しあげれば、私は このヴァイオリンが製作されるにあたっては ベルゴンツィの大胆さが ヴィヨームに”勇気”を与えてくれたと思っていますが、直接的に参考としたのは 下のストラディバリウスなどであった可能性も考えられます。
このレベルの判断には 詳細な計測データが必要ですが、残念ながら 現時点では そこまでは研究を進められませんでした。
それから ヴァイオリンの場合にも、先程 チェロの事例として指摘したような ヘッド下部の 工具痕跡や ジグザグを強くし中央尾根の高さを不連続面とした工夫をよく目にします。
Antonio Stradivari ( ca.1644-1737 ) Violin, 1733年
“The Prince Khevenhuller”
Antonio Stradivari ( ca.1644-1737 ) Violin, “Park” 1717年
Antonio Stradivari ( ca.1644-1737 ) Violin, 1733年
“Rode – Le Nestor”
Antonio Stradivari ( ca.1644-1737 ) Violin,
“The Red Diamond” 1732年
Antonio Stradivari ( ca.1644-1737 ) Violin, “Ex Bavarian” 1720年
Antonio Stradivari ( ca.1644-1737 ) Violin,
“Geraldine Morgan / Joachim” 1708年
Michele Deconet ( worked at Venice, 1722 – 1785 ) Violin, 1766年
Nicolò Amati ( 1596-1684 ) Violin, 1648年頃
Jacob Stainer ( ca.1619-1683 ) Violin, Absam bei Innsbruck 1668年
Giovanni Paolo Maggini ( 1580 – ca.1633 ) Brescia, ca.1620
J. B. Guadagnini ( ca.1711-1786 ) Violin, Turin 1775年
“Ex Joachim”
このように オールド・ヴァイオリンや オールド・チェロに 工具痕跡があったり不連続加工がしてある楽器が少なくないことを念頭に置くと、他の弦楽器であっても工具痕跡や 不連続加工などが 意図的である可能性を考える注意深さが必要だと 私は考えます。
さて‥ 冒頭にあげさせていただいた「 螺鈿紫檀五弦琵琶 」の 工具痕跡についての所見ですが、私は ガダニーニ ( J. B. Guadagnini ca.1711-1786 ) が 1743年頃製作したとされる チェロ ”Havemeyer ” と同じ工夫であると判断しました。
その根拠は、両者のジグザグした不連続の軸組が 一致していると考えられるからです。ここから それを提示しようと思います。
まず、このチェロヘッドの ジグザグした不連続面がつくる軸と「 螺鈿紫檀五弦琵琶 」の工具痕跡は、チェロは裏側からで 琵琶は表側からしか見れませんので、同一方向からの視線で比較するために チェロの画像を 左右反転し比較資料を作成しました。
そうして X線画像のようにした ガダニーニの チェロ画像と、「 螺鈿紫檀五弦琵琶 」のヘッド下部画像を並べました。
それから、両者を重ねて下画像のようにしました。これによって、ほぼ同じバランスでジグザグと蛇行している事が確認できると思います。
私は ガダニーニが製作したチェロのように、ヘッド背面にある中央尾根をジグザグ状の不連続面とした弦楽器が 多数存在していることを知っていました。
ですから、先日のことですが 宮内庁の公開資料で「 螺鈿紫檀五弦琵琶 」の絃蔵部にある鼠歯錐 ( ネズミバキリ )によると考えられる掘削痕を目にしたときには、本当に驚愕しました。
私事で恐縮ですが‥ 結果として「螺鈿紫檀五弦琵琶」に 弦楽器の奥深さを教えてもらったことにより ライフワークの守備範囲が、これまで ルネサンスのはじまりである( ダンテ Dante Alighieri 1265-1321 『神曲』完成 )1321年からとしていたのが‥ 一気に1000年以上も遡ることになりました。
そして、改めて 先人達の努力に敬意を感じました。
2019-10-05 Joseph Naomi Yokota