これは 私が大切にしている新聞記事です。
「 過去へ 」と題されたこの記事の終わりには
そう考えると、私たちの日常はだんだん貧しくなっているようにも思える。極端な例では、あの輝かしい音を響かせるバイオリンの名器は、18世紀からあと二度と私たちの手から生まれなくなった。今後、あの音は失われてゆくだけだ。と書かれています。
ジャーナリストであり西洋音楽史の研究者でもある 梅津時比古さんは、現在 桐朋学園大学学長でもあるようですが、私はこの記事を目にした時には 「流石!」と思いました。
私 自身も ルネサンス末期の1500年代中頃に誕生した ”オールド・ヴァイオリン” は 1650年から1750年頃ヨーロッパ各地で盛んに製作されたものの、 1800年頃にはその製作者が激減し‥ ついには絶えてしまったと考えていたからです。
私は1984年から この仕事に身を投じましたが、そこは真作、贋作が入り乱れた大混乱の渦中でした。
光が見えないと感じる・・その苦しみの中で、私は「ソリチュード ( Solitude )」を立ち位置とすることをいつしか学びました。
英語には「孤独」が二種類あります。一人ぼっちのさびしさを抱えた「ロンリネス ( Loneliness )」と、一人でもさびしくはない「ソリチュード ( Solitude )」ですね。
今では、私が憧れる美しい響きが生み出された過去の世界と一人で向かい合い、その孤独のなかで心が静かに満たされてゆく「ソリチュード」に生きる幸せが与えられたことに感謝しています。
「ソリチュード」は、ヴァイオリン製作に限らず、過去の豊かな世界からのめぐみを受けるための入り口であると思います。
最上の思考は独りの時に生まれ、最悪の思考は混乱の中で生まれる。
The best thinking has been done in solitude. The worst has been done in turmoil. Thomas Edison ( 1847-1931 )
大理石
Mordente third compass 1584年
Compasses draw circles 1754
ところで・・・ 古代ギリシア・古代ローマでは、人体の理想的な比率を『 カノン 』と表現していたそうです。 彫刻専攻の学生だった頃の話ですが、プロポーションに関する歴史を調べていてその言葉が 目にとまりました。
そして、私は この時期に ヨーロッパを中心とした西洋世界において、神の『 摂理 』に近づくために、プロポーションは『 自然物の比率 』として その概念が大切に受け継がれていた事を知りました。
それは、古代ギリシア・古代ローマの頃から 少なくとも4700年以上におよび、ルネサンス期にはその総括がおこなわれたようです。
その歴史をふり返ると、ヨーロッパを中心とした西洋世界の思想史には 古代から繰り返された国家間の戦争や迫害、それに疫病の大流行が 色濃く反映していると思われれます。
疫病の大流行は、西暦1520年頃の天然痘による死者数 約5600万人や、ペストによる被害としては、西暦165年~180年頃 ローマ帝国領域で 死者数 約500万人、西暦541年~542年にかけては 東ローマ帝国で死者数 およそ 3000万~5000万人、そして、西暦1347年~1351年の大流行時に 死者数は 2億人に達し、西暦1600年頃のペスト流行でも死者数 約300万人と・・・ 甚大な被害がもたらされました。
その後は 多少なりとも対策が進んだことで、被害規模は都市や地域レベルとなりますが、ヨーロッパで最後の大流行とされる 1720年~1722年の マルセイユの大ペスト渦だけでも 9万~12万人の死者数であったと推計されているそうです。
その真っただなかで生涯を送った人々、たとえば・・ ヴァイオリン製作者として名高い アントニオ・ストラディバリ ( 1644年頃~1737年 ) は 両親がペスト渦をさけるために避難していた滞在先で誕生したことで正確な生年が不明となり、アイザック・ニュートン ( 1642年~1727年 )も 、1665年から1666年にかけてペストの流行により ロンドンから故郷のウールスソープに戻っていた期間に万有引力など『 ニュートンの三大業績 』を着想したことが知られているように、ほぼ同年齢であった 彼らを理解するためには、ペスト渦をくぐり抜けながらの人生であったことに留意する必要があると思います。
神の代弁者である教皇・クレメンス6世 ( 1291-1352/在位1342-1352 )は神に祈って赦しを乞うたが、それでペストが鎮まることはなかった。教会は結局、実効的な施策を打ち出すことができなかった。クレメンス6世はついに万策尽き、1348年 教皇庁があったアヴィニヨンから避難してしまう。疫病が教会の人間を避けて感染することなどという奇跡はないのだ。人々が直視を避けていた教会権力の存在意義と疑念が、ペストを契機にして白日のもとに曝されてしまったのである。
1378年-1417年 大シスマ 教会大分裂
ヨーロッパを中心とした西洋世界が 度重なる戦乱や迫害、ペストなど様々な困難に直面するなかで、死と終末を思う緊迫感の中で 多くの人々が 敬虔な生き方のなかに救いをもとめました。
これらの信仰活動は「 デヴォツィオ・モデルナ “Devotio moderna”(新しき信仰)」と呼ばれました。
その精神がもっともよく表されたのが、デューラーが生れる少し前に刊行され “聖書に次いで 2番目に多く出版された本” という呼称も持っている『イミタツィオ・クリスティ ( De imitatione Christi ) 』すなわち「 キリストにならいて 」という信心書です。
“The Imitation of Christ” ( It was written in 1469 at the Carthusian monaste. )
この信心書には 黙想と祈りを通して神にいたる道が説かれ、 デヴォーションとして、信仰的な生活を歩むことが勧められています。そして、この概念は 当時のカトリック信徒に広く受け入れられ 『 祈り 』の根幹として用いられました。
( Devotionとは 「誓願により身を捧げる」を意味するラテン語 Devotio が語源で「神への信仰、敬虔」を意味しています。)
デューラーの『 1500年の自画像 』は、当初から物議をかもしたそうです。しかし、デューラーの生涯を検証すれば、キリストの似姿としての自画像は傲慢からではなく「 神は自らに似せて人間を創造し(旧約聖書の記述)、芸術の才能は神から授かったものである。」というような 彼の立ち位置が理解できるのではないでしょうか。
私は、デューラーが制作した『 1500年の自画像 』は、デヴォーションとして、神への感謝などを表明した作品であると思っています。
“Praying Hands”, pen-and-ink drawing 1508年頃
ともあれ‥ デューラーは 31歳であった1502年に父親 Albrecht Dürer ( 1427-1502 ) を看取り、それが一段落した 1505年~1507
2021-7-17 Joseph Naomi Yokota