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● 弦楽器に用いられる”木材”について( 指板材の失敗例 )
“Hayden Sahl” Eisenstadt, 400席程 38.0m × 14.7m × H12.4m
1809年5月31日、ハイドン( Franz Joseph Haydn 1732-1809 )は、ナポレオン軍が占領する ウィーンにある自宅で亡くなりました。
“Wiener Musikvereinssaal” Vienna, 1680席 48.8m × 19.1m × H 17.75m 1870年竣工 / “Palais Garnier” Paris, 1979席 1875年竣工
“Royal Albert Hall” London, 7000席 1871年竣工 / “Leipzig Gewandhaus Hall” 1700席 1884年竣工
“Carnegie Hall” New York, 2804席 1891年竣工
18世紀後半になると 西欧社会の経済的繁栄にともない音楽世界でも巨大な演奏会場( 1778年 )や表現バリエーションが増え、演奏技術にも変化が求められるようになり、その状況に対応できる弦楽器や楽弓などの需要が拡大しました。
そのため 楽弓は バロック型からトランジション型( Transition bow )を経てモダン弓に到達するまで改良が続けられました。
この激動の時代に対応した楽弓の変化は急速で、丁度、”1世代”の30年刻み程でトレンドが移行していきます。
1770-1780 宮廷音楽に対応した楽弓 移行期型( Transition bow )
1800-1810 1800年 François Xavier Tourte( 1747-1835 ) は セーヌ川沿いの建物4階に工房を設立します。モダン弓の時代が確定しました。
1830-1840 1838年 Dominique Peccatte ( 1810-1874 ) は リュポーの工房を受け継ぎ独立しました。
1860-1870 1870年 François Nicolas Voirin ( 1833-1885 )は J.B.ヴィヨーム工房で名を成し、この年に独立しました。
1890-1900 Eugène Nicolas Sartory ( 1871-1946 ) 天才型だった彼は16歳で頭角を現すと、18歳の1889年に独立してその後は多数のメダル・ホルダーとなりました。
1920-1930 楽弓製作で “簡略化”が進み、製作技術の衰退が鮮明になりました。
最後が問題ですよね・・。そこで この投稿では、モダン弓の特徴が失われていく”簡略化”について考えてみたいと思います。
“トランジション型”
この時期の楽弓には ヘッドが特徴的な弓だけではなく、ヘッド部高の中点( 1/2 )位置の形状を 谷状加工などとしたものや、フロッグ部の工夫により”ねじり( twist )”を誘導したと考えられるものがそれなりの割合で存在します。
Jean-Jacques Meauchand ( 1758-1817 ) Violin bow, Mirecourt 1775年頃 & 1790年頃
また、 L字となっているヘッド尾根上部には、棹部の中央軸が交差するポイントに ピン・マークが確認できるようになります。
“モダン弓”
モダン弓の定義には、スティック設定や ヘアー・リボン幅などいくつかの要素がありますが、なによりもフェルールが組み込まれているかどうかが最重要です。
François Xavier Tourte( 1747-1835 ) Violin bow, “Passing in gold engraved R. Kreutzer”. 1790年頃
その モダン弓ヘッドは、スワン型からの流れを汲んだシルエットの弓も多いですが、詳細に観察すると トランジション型から引き継がれたかのように 谷状加工がなされている弓を多数見ることができます。
特に、ヘッド部尾根の中点マークと”ねじり”を誘導するS字形状は デジタル・カメラで接写すると 簡単に確認できると思います。
François Peccatte ( 1821-1855 ) Cello bow, Mirecourt 1850年頃
Dominique Peccatte( 1810-1874 ) Cello bow, 78.7g 1840年頃
Dominique Peccatte( 1810-1874 ) Violin bow, 1850年頃
François Nicolas Voirin ( 1833-1885 ) Violin bow, Paris 1870年頃
François Nicolas Voirin ( 1833-1885 ) Violin bow, Paris 1870年頃
Charles Nicolas BAZIN( 1847-1915 ) Cello bow, Mirecourt 1885年頃
François Xavier Tourte( 1747-1835 ) Violin bow, 1790年頃
François Xavier Tourte( 1747-1835 ) Violin bow, “Cramer model” 1774年頃
François Xavier Tourte( 1747-1835 ) Violin bow, “Cramer model” 1774年頃
私が楽弓を考察した結論ですが、 モダン弓の特質は ヘッド部の線分BD( 下図 )と フロッグ部 線分ACの中点位置( 線分 L1 – L2 )に 中央軸 が生じ、これが “節”として直線状に支えることで 馬毛が”腹”としての自由度を得ていることにあるのではないでしょうか。
もう少し詳しく言えば、モダン弓の原理は 上記の要素と、穏やかに演奏するときには この中央軸( 線分L1 – L2 )が 馬毛に丁度良い圧力を加え、演奏者が強い表現で弦楽器を鳴らしたいときには、下図の赤塗りで示した三角ゾーンが交互に “節”として機能するという多重モードにあると 考えることが出来ます。
また、これによって宿願とされていた・・ 馬毛の演奏可能部を飛躍的に長くすることが達成されました。
Nicolas Léonard Tourte ‘l’Ainé’ ( 1746-1807 )
François Xavier Tourte ( 1748-1835 )
François Lupot ( 1774-1838 )
Jean Pierre Marie Persoit ( 1783-1854 )
ところで 話はそれますが、 興味深いのは モダン弓開発段階での繊細な設計と製作において、オルレアン( Orléans ) 生まれのリュポーや 出生地が確定的でないトルテ兄弟など 少数の例外はあるものの、ミルクール( Mirecourt )出身の楽弓製作者達が・・当時の主要な弓製作者総数の90%程を占めていました・・大きな役割を果したということです。
【 Bow makers born in Mirecourt, France 】
Nicolas Duchaine I ( 1746-1813 )
Jean-Jacques Meauchand ( 1758-1817 )
Francois Jude Gaulard ( 1787-1857 )
Dominique Henry ( 1789-1854 )
Étienne Pajeot (1791-1849)
Nicolas Joseph Harmand ( 1793-1862 )
Jean-Baptiste Vuillaume ( 1798-1875 )
Nicolas Rémy Maire ( 1800-1878 )
Pierre Simon ( 1808-1881 )
Dominique Peccatte ( 1810-1874 )
François Peccatte ( 1821-1855 )
Nicolas Maline ( 1822-1877 )
Joseph Henry ( 1823-1870 )
Jean Adam “Grand Adam”( 1823-1869 )
Claude Charles Nicolas Husson ( 1823-1872 )
François Nicolas Voirin ( 1833-1885 )
Jean Joseph Martin ( 1837-1910 )
Charles Nicolas Bazin ( 1847-1915 )
Charles François Peccatte ( 1850-1918 )
Joseph Arthur Vigneron ( 1851-1905 )
Louis Joseph Thomassin ( 1856-1904 )
Eugene Cuniot ( 1861-1910 )
Eugène Nicolas Sartory ( 1871-1946 )
モダン弓は、楽弓製作を”産業”としてみれば、”特異”とも言える歪な構造のなかで製作されていたと言えます。
ともあれ、1790年頃と推測されるモダン弓の登場は ベートーヴェン ( Ludwig van Beethoven 1770-1827 )以降の音楽世界に 多大な影響をあたえました。
この時期にトルテ弓を使用した演奏者では、クロイツェル ( Rodolphe Kreutzer 1766-1831 )や、チェリストのロンベルク ( Bernhard Heinrich Romberg 1767-1841 )などがすぐに思い浮かびます。
そして、ヴァイオリンの近代奏法を確立した パガニーニ ( Nicolò Paganini ( 1782-1840 ), “24 Capricci” 1820年出版 / 1828 Vienna, 1831 Paris, London. )も、1810年頃からの演奏活動では モダン弓を使用していたようです。
“Portrait du Violoniste Paganini” Jean A.D.Ingres 1819年
また、1795年の パリ音楽院( Conservatoire de musique )設立に貢献した ヴィオッティ ( Giovanni Battista Viotti 1755-1824 ) は、トルテ( François Xavier Tourte 1748-1835 )が 楽弓に フェルールを組み込む研究をしている時期に協力していたことが知られています。
バロック期からの主要な演奏者などを列記すると、蒼々たるものとなりますが、19世紀以降の音楽史においてモダン弓が果した役割は大きかったと思われます。
[ ● ヴァイオリン教側本など ● チェロ教則本など ]
Arcangelo Corelli (1653-1713 ) “Trio sonata” op.1, 1681年 / “Violin Sonatas” op. 5, 1700年 ●
Antonio Vivaldi ( 1678-1741 )
Johann Sebastian Bach ( 1685-1750 )
Giuseppe Tartini ( 1692-1770 )
Johann Georg Leopold Mozart (1719-1787 ) ●
Luigi Boccherini ( 1743-1805 )
Joseph Franz Weigl ( 1749-1820 )
Jean-Louis Duport ( 1749-1819 ) “21Etudes” ●
Antonín Kraft ( 1749-1820 )
Giovanni Battista Viotti ( 1755-1824 ) ●
Wolfgang Amadeus Mozart ( 1756-1791 )
■ 1770-1780 移行期型( Transition bow )
■ 1760年代後半 “Hayden Sahl” Eisenstadt, 400席程 38.0m × 14.7m × H12.4m
■ 1778年 ミラノ・スカラ座 ( Teatro alla Scala ) 竣工, 現在 2016席
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■ 1789年~1795年 フランス革命 / 1789年7月14日に始まり、ロベスピエールが処刑された直後の1795年8月22日に「共和国憲法」が制定されるまでの動乱期の総称。
■ 1803年~1815年 / ナポレオン戦争
■ 1800年 イギリスで最も重要な機械製造業者となる ヘンリー・モーズリー ( Henry Maudslay 1771-1831 )が ねじ切り旋盤を開発し頭角を現します。彼は 1829年に400馬力の当時世界最大の船舶用蒸気機関を製作しました。
■ イザムバード・キングダム・ブルネル(Isambard Kingdom Brunel 1806-1859 ) 1838年には、客船「グレート・ウェスタン」用の750馬力の蒸気機関を製造し、同船の大西洋横断を成功させました。また、1825年に着手したテムズトンネルを 1842年に完成させました。
テムズ川を潜る史上最初のトンネルとなったこの事業は、ブルネルが設計しましたが、モーズリー・サンズ・アンド・フィールド社が製造したシールドマシン無くしては、成り立たないものでした。また、この会社は 排水用の蒸気ポンプも提供しました。
■ 1826年には、イギリスのロバート・ホーが高速印刷機を開発し、大量印刷が効率的になり、さらに1843年には、ロータリープレスの発明により、新聞や雑誌の大量生産が可能となりました。この時期には、写真技術も発展し、写真を印刷物に取り込みやすくなったことも、新聞や雑誌、そして楽譜、教本などの普及に寄与しました。
■ 1834年 『新音楽時報( Die Neue Zeitschrift für Musik )』が ライプツィヒで、ロベルト・シューマン( 1810-1856 )らによつて創刊されました。シューマンは 1832年、ライプツィヒの「一般音楽新聞」に「諸君、脱帽したまえ、天才だ」としてフレデリック・ショパン( 1809-1849 )を紹介する投稿を書いたことが 知られているように、音楽評論家としてショパンや ベルリオーズ( 1803-1869 )といった新世代の才能を存分に称揚しました。
そのシューマンが 新音楽時報の主筆であったのは1843年までですが、1853年10月28日に「新しい道」と題する一文を発表し、当時20歳の ヨハネス・ブラームス( 1833-1897 )の才能を熱烈に称賛して、彼の名を広く楽壇に紹介し その後の音楽界に大きな影響をあたえました。
■ 1838年 蒸気船が初めて北大西洋航路に登場しますが、この時点で大西洋横断は およそ2週間かかりました。
1845年には スクリュー船が開発され、外輪船からスクリュー船へと移行します。また 1880年頃には電灯と冷凍庫が客船に導入され始め船内環境は各段に向上します。
そして1910年代、オリンピック級が登場し 客船は一気に5万総トンにまで大きくなります。最も有名なのが最初の航海で 1513人の犠牲者を出してしまった、1912年竣工のタイタニック号 ( 全長269.1m、46,328トン、速力23ノット ₌ 42.6km/h、旅客定員2,453人、乗員899人 )ですが、速力についていえば、1907年に登場したルシタニア号とモレタニア号が 25ノット以上を出しており、この両船は大西洋を5日以内で横断していたそうです。
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■ 1800年 François Xavier Tourte( 1747-1835 )
Ludwig van Beethoven ( 1770-1827 )
Rodolphe Kreutzer ( 1766-1831 ) 1795-1826 Conservatoire de musique, “42 études ou caprices” 1796年 ●
Bernhard Heinrich Romberg ( 1767-1841 ) “Violoncell Schule” 1840年 ●
Pierre Marie François de Sales Baillot ( 1771-1842 )
Jacques Pierre Joseph Rode ( 1774-1830 ) “24 caprices” 1819年●
■ Nicolò Paganini ( 1782-1840 ) “24 Capricci” 1820年出版 ● / 1828 Vienna, 1831 Paris, London
Nicolas-Joseph Platel ( 1777-1835 )
Friedrich Dotzauer ( 1783-1860 ) “113 Studien” Klingenberg 1837年 ●
Louis Spohr ( 1784-1859 )
Georg Hellmesberger ( 1800-1873 )
Charles-Auguste de Bériot ( 1802-1870 )
Adrien-François Servais ( 1807-1866 )
1830~1860年 世界の大改変期、または”大混乱期”
■ 1828年 イグナーツ・ベーゼンドルファーが ウイーンに ベーゼンドルファー・ピアノ社 “BÖSENDORFER Klavierfabrik “を創設。
■ 1830年 ベルリオーズ ( 1803-1869 )《幻想交響曲》が初演。
【 1855年改訂版 】
■ 1835年 メンデルスゾーン ( 1809-1847 )が、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に就任します。
■ 1814年~1850年 バルブの発明により、ナチュラル・ホルンが次第にバルブ付きのフレンチ・ホルンに置き換えられました。
■ 1831年~1847年 ベーム式フルートが発明され普及が始まります。 Theobald Böhm ( 1794-1881 )
■ 1843年 ベーム式クラリネットが開発されました。Hyacinthe E. Klosé ( Louis Auguste Buffet / jeune (
■ 1855年 オーボエ / コンセルヴァトワール式 ( Conservatoire system )が普及しました。 Frédéric Triebert ( 1813-1878 )
■ 1844年 ベルリオーズ ( 1803-1869 ) 「管弦楽法」出版
【 1855年 補訂版 】
■ 1853年 フリードリヒ・ヴィルヘルム・カール・ベヒシュタインが ベルリンに ベヒシュタイン・ピアノ 社 “C. Bechstein Pianofortefabrik” を創業。
■ 1853年 ヘンリー・E・スタインウェイが ニューヨークに “Steinway & Sons”社を創業。
■ 1830年~1850年 英国において 1830年に開設されたマンチェスター・リヴァプール鉄道にはじまる鉄道開設ブームがおこり、1850年までに営業開始した旅客鉄道のイギリス国内総延長は およそ9656km に達しました。
また、アメリカでも 1830年にボルチモア – メリーランド州エリコット間に旅客鉄道が開業し1850年には国内総延長が13,700kmを超え、1869年にはユニオン=パシフィック鉄道の東西路線がつながり最初の大陸横断鉄道が完成したことで国内総延長は79,000kmを超えました。
ドイツにおいては 1835年に最初の鉄道が開業し、1838年にベルリン – ポツダム間、1839年にはライプツィッヒ – ドレスデン間が開通し1840年頃には総延長469kmとなり、1871年には10,000kmを超えました。ロシアでは、1851年にペテルスブルク – モスクワ間が最初の鉄道開業でした。そして1891年にはシベリア鉄道( 9,000km )が着工されました。これは1913年に開業しました。因みに、日本の鉄道開業は 新橋駅 – 横浜駅間で、1872年のことでした。
■ 1851年7月14日 パガニーニが演奏に用いていたとされる「グァルネリ・デル・ジェズ」 “イル・カノーネ( Il Cannone ) 1743年”が、ジェノヴァ市に引き渡されました。
Nicolò Paganini( 1782-1840 ) died in Nice on May 27, 1840 : in the will drawn up in 1837 he had ordered that the instrument be left to his hometown, Genoa, “So that it may be preserved in perpetuity”. The events surrounding the legacy were, however, complex and concluded only on July 14, 1851, with the delivery of the instrument by Baron Achille Paganini( 1825-1895 ), son of the maestro, to the then mayor of Genoa.
フランス帝国とサルデーニャ王国の間で締結された「プロンビエールの密約 ( 1858年 )」で、ニースと サヴォイア地域がフランスに引き渡されるまでの地図
■ 1848年~1871年 1815年のウィーン議定書で ジェノヴァ共和国を併合したトリノを事実上の首都とするサルデーニャ王国が主導してミラノ、ヴェネツィアに反乱が起こり、イタリア統一運動( リソルジメント )が本格化し、1859年の第2次イタリア独立戦争を経た 1861年に南イタリアに「イタリア王国」が確立され、そのままサルデーニャ王国と合併します。そして、1866年には ヴェネツィアを併合、その後 1871年に教皇領であったローマを占領し、サルデーニャ国王 ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世( 1820-1878 / 在位1849-1861 )が統一イタリアの国王( 在位1861-1878 )として正式にローマを首都として定め、近代国家であるイタリア王国が成立しました。
■ 1851年5月1日~10月15日 第1回万国博覧会であるロンドン万国博覧会がハイド・パークで開催されました。会場として建設されたクリスタル・パレスは 長さ約563m、幅約124mの規模で、1850年7月30日に着工され、1851年1月に完成しました。有料入場者数は 141日間で 6,039,000人におよびました。
■ 1852年 大統領であったルイ・ナポレオンは 前年にクーデターを起こし、独裁体制である「第二帝政」を確立し、皇帝ナポレオン三世( Napoléon III 1808-1873 )として即位します。
■ 1853年7月8日 ペリー提督の艦隊( 4隻 )が浦賀沖に来航し、次いで1854年には横浜沖に再来航( 9隻 )しました。これにより 1858年に日米修好通商条約が結ばれました。
■ 1857年頃 前所有者が判然としない 1743年製「グァルネリ・デル・ジェズ」ヴァイオリンが 英国に出現しました。そして購入者である John Tiplady Carrodus( 1836–1895 )が リサイタルなどで使用したことで、このヴァイオリンは”キャロダス ( Carrodus )”と呼ばれるようになりました。
J.T. Carrodus( 1836–1895 ) was an English violinist.
He had the advantage of studying between the ages of twelve and eighteen at London and Stuttgart, with Wilhelm Bernhard Molique( 1802-1869 ). On 1853, Sir Michael Costa got him engagements in the leading orchestras. He was a member of the Covent Garden opera orchestra from 1855. He made his debut as a solo player at a concert given on 22 April 1863 by the Musical Society of London.
キャロダス( 1836–1895 ) は ベルンハルト・モーリック( 1802-1869 )に指導を受けた英国のヴァイオリニストです。なお、師であるモーリックは、 ルイ・シュポーア( Louis Spohr 1784-1859 )らに指導を受け、1825年に23歳の若さでシュトゥットガルト宮廷楽長兼コンサートマスターとなり、1849~1866年にはロンドンに拠点を移し活躍した人でした。
Guarneri del Gesù ( Bartolomeo Giuseppe Guarneri 1698-1744 )
Violin, “Carrodus” 1743年
John Tiplady Carrodus ( ca.1855~1895)
W.E. Hill & Sons 1895
Major C. E. S. Phillips 1895/1909
W.E. Hill & Sons 1909
Dr. Felix Landau (Berlin) 1909/31
Margaret Abraham 1949
Ossy Renardy 1955
Henry Hottinger (New York) 1965
Rembert Wurlitzer Inc. 1965
Dr. Ephraim P. Engleman (San Mateo, California) 1976
David L. Fulton 2003/07
Anonymous 2007
■ 1855年 Jean-Baptiste Vuillaume ( 1798-1875 )が “Messiah violin, 1716″を Luigi Tarisio ( 1796-1854 )の遺族から購入したとして、店の ガラスケースに入れ展示をはじめました。
■ 1838年 Dominique Peccatte ( 1810-1874 )
Ferdinand David ( 1810-1873 )
Christian Heinrich Hohmann ( 1811-1861 ) “Praktische Violinschule” 1850年以前 ●
Heinrich Wilhelm Ernst ( 1814-1865 )
Camillo Sivori ( 1815-1894 )
Heinrich Ernst Kayser ( 1815-1888 ) “36 Studies Op.20”, 1848年 ●
Jakob Dont ( 1815-1888 ), Vienna / “24 Etudes and Caprices” Vienna, 1849年頃 ●
Henri Vieuxtemps ( 1820-1881 )
Carlo Alfredo Piatti ( 1822-1901 )
Lisa Barbier Cristiani ( 1827-1853 )
Josef Hellmesberger” Sr.” ( 1828-1893 )
■ 1857年恐慌 アメリカで生じた金融危機で、アメリカ全土が大打撃を受けました。
■ 1861年~1865年4月9日 アメリカ南北戦争、1865年4月14日フォード劇場でリンカーン大統領が暗殺されました。
■ 1863年 “Ford’s Theatre” Washington D.C . 改築再開場 → 1865年4月14日
■ 1864年 “Steinway Hall” New York( 14th Street in Manhattan ) 竣工 2000席程
■ 1870年 “Wiener Musikvereinssaal” Vienna 竣工, 1680席 48.8m × 19.1m × H 17.75m 竣工
■ 1871年 “Royal Albert Hall” London, 7000席程 竣工
■ 1875年 “Palais Garnier” Paris, 1979席 竣工
■ 1884年 “Leipzig Gewandhaus Hall”, 1700席 竣工
1860~1890年 器楽の展開期
演奏会が開催できるホールがたくさん開場し、演奏家も増加して 聴衆が演奏を聴く機会も多くなり、”練習曲集”や”教則本”など演奏を向上させるテキスト出版も盛んに行われ、グランドピアノやアップライトピアノも劇的に普及するなどの社会変化により 器楽に親しむ底辺人口が急速に拡大していきました。
■ 1870年 François Nicolas Voirin ( 1833-1885 )
Joseph Joachim ( 1831-1907)
Henryk Wieniawski ( 1835-1880 )
Joseph Werner ( 1837-1922 )
“Practical Method For Violoncello”op.12, Köln / P.Tonger 1882年 ●
David Popper ( 1843-1913 ) “40 etudes, Op.73” 1901-1905年 ●
Pablo de Sarasate ( 1844-1908 )
Jan Hřímalý ( 1844-1915 ) “International Standard Etudes for Violin”●
Leopold Auer ( 1845-1930 )
Henry Schradieck ( 1846-1918 )”The School of Violin Technics Complete” 1899 〇
Martin Pierre Joseph Marsick ( 1847-1924 ) “Eureka!, New Mechanism to “Get Your Fingers On” Op.34, 1905年 ●
August Emil Daniel Ferdinand Wilhelmj ( 1845-1908 )
Adolph Brodsky ( 1851-1929 )
Otakar Ševčík( 1852- 1934 ) Op.1 “School of Violin Technique” 1881年 / Op. 8 “Changes of positions and preparation for practicing scales in three octaves”1895年 ● / Op. 9 “Preparation for Practicing Double Fingerings” Bosworth, 1901年 / Op. 11 “School of Intonation of the Left and Right Hands Simultaneously, 17 volumes” Harms, New York 1922年 ●
Alwin Schroeder ( 1855-1928 ) “170 Foundation Studies”
Eugène-Auguste Ysaÿe ( 1858-1931 )
Jenő Hubay ( 1858-1937 )
Julius Klengel ( 1859-1933 ) “Technical Cello Studies” 1902-06年 ●
■ 1877年 トーマス・エジソン( Thomas Alva Edison 1847-1931 ) は 世界初の音を記録・再生する円筒式蓄音機「フォノグラフ」を開発しました。
■ 1887年 エミール・ベルリナーは円盤式蓄音機「グラモフォン」の製作に成功し、1895年 これらを販売するためにBerliner Gramophone を設立します。これはのちにビクタートーキングマシン社と 英グラモフォン( 現・英EMI、英HMV )となります。
■ 1880年 William Ebsworth Hillと4人の息子達が「 W. E. Hill & Sons」を設立しました。
〇 1904年 G&T で録音された Pablo de Sarasate ( 1844-1908 )の演奏録音 “Zigeunerweisen”
〇 1912年 Eugène-Auguste Ysaÿe ( 1858-1931 )の録音資料
Violin : Eugène-Auguste Ysaÿe ( 1858-1931 ) / Piano acc. : Camille Decreus ( 1876-1939 ) ① Wieniawski : Mazurukas Op.19 ② Ysaye : Reve D’enfant Op.14 ③ Kreisler : Caprice Viennois Op.2 ④ Wagner : Albumblatt in G ⑤ Schubert ; Ave Maria / Recorded December 1912, New York from SYMP-SIUM 1015 Record
〇 Lucien Capet ( 1873-1928 ) also worked closely with bowmaker Joseph Arthur Vigneron ( 1851-1905 ) to develop a Lucien Capet model bow ( Modele Lucien Capet was often stamped on such bows). Vigneron’s concept/design for these bows was a sort of rounded triangular cross section, which added stability to the bow ( Lower center of gravity ).
Eugène Nicolas Sartory ( 1871-1946 ) Violin bow ,”L.Capet modele”
Eugène Nicolas Sartory ( 1871-1946 ) Violin bow ,”L.Capet modele”
■ 1891年 “Carnegie Hall” New York, 2804席 竣工
■ 1906年12月21日 レジナルド・フェッセンデン( 1866-1932 )は、マサチューセッツ州 ブラントロックの実験局で無線通話の実験を開始しました。そして 同年12月24日、フェッセンデンは ①ヘンデル作曲「クセルクセスのラルゴ」のレコード演奏、②「O Holy Night」の自身のバイオリンの演奏と歌唱、③「聖書のルカの福音書第2章の一節」の朗読を送信しました。
当時、一般の家庭には受信機はなかったので、この放送は沿岸を航行する船舶の無線技師たちによって受信されました。これが世界初のラジオ放送となりました。
“BrantRock RadioTower” ブラントロックに設置された高さ128mの無線塔
■ 1920年代には ピックアップや真空管アンプ( 増幅器 )などを備えた電気式蓄音機が実用化されました。
■ 1924年 ウェスターンエレクトリック社の H.C.ハリソンが、レコードの電気録音法の特許を取得しました。そして この 1920年代にはコンデンサー・マイクと、リボン・マイクが使用されるようになりました。
コンデンサー・マイクは1916年にベル研究所のエドワード・クリストファーが発明し、1924年にはWESTERN ELECTRICが最初のコンデンサー・マイク、361を製品化しています。そして1928年にドイツのNEUMANNも CMV3を発売しました。
また、リボン・マイクは1920年代初頭にドイツで開発され、1924年にSIEMENSがELM 24として製品化したのち、アメリカのRCAが1929年に77Aを開発し発展させました。
〇 1926年録音 Fritz Kreisler ( 1875-1962 ) : Violin / Leo Blech (1871-1958) Conductor / Berlin State Opera Orchestra ( Staatskapelle Berlin ) Rec. December 1926, Berliner Singakademie
〇 1928年録音 “Capet Quartet”( 1898-1928 ) / Lucien Capet ( 1873-1928 )
1890~1920年 器楽の隆盛期
日本でも 演奏会が増え、蓄音機の普及もあり 西洋音楽の大衆化が進行しました。
少し話はそれますが… 大正という時代は1926年12月25日に終わります。 その3週間前の 12月2日に 30歳となっていた宮沢賢治 ( 明治29年1896~1933 昭和8年 )は花巻から チェロを持って上京しました。22歳頃にレコードを聞くことではじまった西洋音楽へのこだわりは28歳頃にはビオラなどの楽器を準備した上で器楽合奏の練習に励むとともに、 レコード・コンサートを何回も催すなど賢治の生活のなかで重要な役割を果たし始め、当時の地方都市では考えられない枚数のクラッシック音楽のレコードを収集するなど熱のこもったものでした。
上の写真でネクタイをしている大津三郎さんは この当時 1926年10月に発足したNHK交響楽団の前身となる『 新交響楽団 』でトロンボーン奏者をやっていました。そして上京した宮沢賢治は彼らが事務局としていた 銀座・数寄屋橋のピアノ販売店『 塚本商行 』2階の練習場を訪ね 懇願の末、上写真に写っている荏原の大津さん宅で早朝 6時半から 3日間の チェロの特訓をうけることとなりました。大津さんは 1896年8月生まれの宮沢賢治の 4歳年上でした。
■ 1925年 “日本青年館( 初代 )” Tokyo, Japan 竣工。後にNHK交響楽団となる”新交響楽団”の本拠地とされました。2000席
■ NHK Symphony Orchestra, Tokyo
1926年10月5日に”新交響楽団”の名称で結成し、ドイツからジョセフ・ローゼンストックを専任指揮者として迎えました。演奏活動は、1927年2月20日の第1回演奏会に始まり、第2次大戦中も中断することはありませんでした。
この写真は 宮沢賢治が練習場をたずねてから 2年 4ヶ月程後の 1929年4月に日本青年館で撮影されたもので、指揮者を2年間務めた ヨーゼフ・ケーニッヒ( 前列中央 )による最後の演奏会のものです。
トロンボーン・パート右側が 37歳の大津さんで ケーニッヒ さんの左側が 近衛秀麿さん、 指揮者の譜面台右側にチェロを構える 26歳の斎藤秀雄さん、1st ヴァイオリン3プルト裏に 同じく26歳の鷲見三郎さんなどが見えます。
この頃 花巻で宮沢賢治は 稗貫農学校の教師を退職してはじめた 『 羅須地人協会 』が頓挫し 1928年12月に発病した急性肺炎がなかなか治癒せず療養しながら 1924年ころ執筆をはじめた 『 銀河鉄道の夜 』の原稿の改筆や『 セロ弾きのゴーシュ 』の執筆を続けていたと考えられます。
■ 1900 Eugène Nicolas Sartory ( 1871-1946 )
Lucien Capet ( 1873-1928 ) “Superior Bowing Technique” 1916●
Fritz Kreisler ( 1875-1962 )
Pablo Casals ( 1876-1973)
“Carl Flesch” Flesch Károly ( 1873-1944 ) “The Art of Violin Playing” 1923-28年 / “Das Skalensystem” 1926年 ●
Max Rostal ( 1905-1991 ) ●
Jacques Thibaud (1880-1953 )
George Enescu ( 1881-1955 )
Guilhermina Suggia ( 1885-1950 )
Mischa Elman ( 1891-1967 )
Joseph Szigeti ( 1892-1973 )
Efrem Zimbalist ( 1889-1979 )
Alexander Yakovlevich Mogilevsky ( 1885-1953 )
Anna D. Bubnova-Ono (1890-1979 ) “小野アンナ音階教本” ●
Demetrius Constantine Dounis ( 1893-1954 ) “The Artist’s Technique of Violin Playing” 1921年
1929年10月24日 “暗黒の木曜日( Black Thursday )” → “世界恐慌”に突入する。
〇 1935年録音 Jascha Heifetz ( 1901-1987 ) : Violin / John Barbirolli ( 1899-1970 ) : Conductor / London Philharmonic Orchestra / Rec. March 18, 1935, London
〇 1938年録音 Pablo Casals ( 1876-1973) “Bach Cello Suite No 5 in C minor, BWV1011” / Rec. June,13,1938 Paris
1920~1950年 器楽製作の混乱期
■ 1920-1930 楽弓製作技術の衰退が始まる
下記の演奏家が選んだ楽弓は、19世紀にフランスで製作されたものに加え Paul Jombar ( 1868-1936 )Violin bow、Emil Miquel ( 1852-1911 ) Violin bow、Eugène Nicolas Sartory ( 1871-1946 ) bowなどの比較的新しいフランス弓、それに Hermann Richard Pfretzschner ( 1857- 1921 ) bow、Franz Albert Nurnberger (1826-1894 ) bowなどのドイツで製作された弓、 ロシアの製作者 Nicolaus Kittel ( 1805-1868 ) Violin bow、そして James Tubbs ( 1835-1921 )、W.E. Hill & Sons ( 1880-1936 )bow、Panormo Cello bowなどの英国製楽弓などと様々ですが、 ほとんどが1920年以前に製作された楽弓を使用しました。
これは、1920年以降に製作された楽弓の性能が相対的に劣化したことが反映した現象です。
Jascha Heifetzas ( 1901-1987 )
Emanuel Feuermann ( 1902-1942 )
Zino Francescatti ( 1902-1991 )
Gregor Piatigorsky ( 1903-1976 )
Ivan Galamian ( 1903-1981 )
Nathan Milstein ( 1904-1992 ) 1950-1965年に録音した Bach“Solo a Violino senza Basso accompagnato”が有名です。
William Primrose ( 1904-1982 )
Pierre Fournier ( 1906-1986 )
David Oistrakh ( 1908-1974 )
Szymon Goldberg ( 1909-1993 )
Paul Tortelier ( 1914-1990 )
Pina Carmirelli ( 1914-1993 )
Yehudi Menuhin ( 1916-1999 )
Henryk Szeryng ( 1918-1988 ) 1967年 Bach “Solo a Violino senza Basso accompagnato”のレコード録音が知られています。
Antonio Janigro ( 1918-1989 )
Isaac Stern ( 1920-2001 )
Arthur Grumiaux ( 1921-1986 )
Ivry Gitlis ( 1922-2020 )
Roberto Michelucci ( 1922-2010 )
János Starker ( 1924-2013 ) 1965年 “An organized method of string playing ( Violloncello exercises for left hand )”● 1950年 シュタルケルは Kodály Zoltán ( 1882-1967 ) が1915年に変則的調弦法 ( スコルダトゥーラ )を用い作曲した”Sonate pour violoncelle seul” 作品8 のレコード録音で多くの人に影響をあたえました。
Nikolaus Harnoncourt ( 1929-2016 )
Josef Suk ( 1929-2011 )
Igor Oistrakh ( 1931-2021 )
Félix Ayo ( 1933-2023 )
Anner Bylsma ( 1934-2019 )
Iona Brown ( 1941-2004 )
Natalia Gutman ( 1942- )
Jacqueline du Pré ( 1945-1987 )
Hilary Hahn ( 1979- )
1804年 Napoléon Bonaparte( 1769-1821 ) “Emperor” 1804~1814, 1815.
このように、器楽世界と社会情勢を照らし合わせると、ロマン派音楽が繁栄する真っ只中の1848年には、ナポレオン戦争後を定めた ウィーン体制の崩壊がはじまり、ヨーロッパの不安定化が進んでいたことが器楽にも影響していたことが分ります。
たとえば 、プロイセンは、鉄血宰相ビスマルク( 1815-1898 )の指揮のもとクルップ社の鉄鋼製品( 鉄道、大砲 )を用い 1866年の普墺戦争に勝利します。そして、1867年に 北ドイツ連邦として領土を拡大しまし、イタリアでは 1871年にヴィットーリオ・エマヌエーレⅡ世がイタリア統一戦争の勝者となりました。
1870年9月2日 普仏戦争
[ 投降したナポレオン3世とビスマルクの会見 ]
その後の 普仏戦争により、ノイシュヴァンシュタイン城を 1871年頃に竣工させたルートヴィヒⅡ世( 1845-1886 )の バイエルン王国( Bavaria )や、フランス領だったアルザス・ロレーヌを併合してドイツ帝国が成立します。
また 1842年にアヘン戦争に勝利したヴィクトリア女王( 1819-1901、在位 1837–1901 )のイギリスも、植民地拡大をすすめ大英帝国を構築し繁栄します。
こうして帝国主義を国是としたヨーロッパ列強( ドイツ、イギリス、フランス、イタリア、オーストリア、ロシア )が世界地図を分割していったことで1914年に開戦した第一次世界大戦( 1914-1918 )にまで至ります。
ドイツ領時代の 1905年のアルザス・ロレーヌ地方
アルザス・ロレーヌ地方は『ヴォージュ山脈とライン川の間にある地方』ですが、ミルクール( Mirecourt )は この地図のように ヴォージュ山脈の西側の山麓に位置していますので戦争の度に被害を受けました。
この地図も 1919年にドイツが第一次世界大戦で敗れ、アルザス・ロレーヌ地方がベルサイユ条約によってフランスに再編入されたことで過去の遺物となったものです。
マジノ線とジークフリート線は 特に南部においては 10km程度の間隔で向き合っています。ミルクール( Mirecourt )は ナンシー( Nancy )の南約40kmm、メッス( Metz )の南約90km、ストラスブール( Strasbourg )まで 120kmです。
そのような時代背景から考えると、楽弓製作において ミルクールという街の役割が大き過ぎる歪な状況下で、普仏戦争以降の戦争もふくめて 地勢的な条件が災いし、その間である1873年~1896年の”大不況”でも痛めつけられ、最後に 第一次世界大戦の荒波まで被ったことが 楽弓製作の急激な衰退に繋がったように思えます。
さて ここで、本題に戻ります。
[ 1920-1930 楽弓製作で “簡略化”が進み、製作技術の衰退が鮮明になりました。]
これに関しては、バザン一族の末裔である ルイ・バザン( Louis Bazin 1881-1953 )工房の仕事がそれを如実に象徴していると 私は思っています。
彼は 父親が他界した 1915年頃に工房を移転し、多数の職人を雇って規模拡大に着手しましたが、第一次世界大戦で招集されて製作活動の中断を余儀なくされました。
そして、1918年に兵役から復員すると 製作活動を再開し、新たに大勢の職人を雇い、1921年頃には大量の注文に応じるようになりました。
しかし、彼の工房で製作された弓はこの頃から、ヘッド幅が広くされ、フロッグやフェルールから繊細さが失われるなどの変化が現れ始めます。
Louis Bazin( 1881-1953 ) Violin bow, Branded “P. Beuscher” ( 59.5g ) 1930年頃
当時 ルイ・バザン工房で働いていた職人は、 A.JACQUEMIN、E.JACQUEMIN、L.DUMONT、A.COUTURIEUX、R.RICHAUME、A.BOURGEOIS、J.BONTEMPS、A.HUSSON などで、第一次大戦に徴兵され一時中断を挟んだため、工房の職人は殆ど入れ替わってしまいました。
こうして、ミルクールの近くで 対ドイツ戦用地下要塞”マジノ線”の突貫工事をやっていた 1927年から1936年頃には、ミルクールの弦楽器産業の衰退が鮮明となり、ルイ・バザン工房においても1936年頃には工房の職人が4人にまで減ってしまったそうです。
この変遷を、当時に製作された弓達で具体的に観察してみましょう。
まず、モダン弓では 馬毛を弦に接触させるのがヴァイオリンとチェロでは逆であることに対応して 正面から見た”S”字型加工 ( “S” shaped ridge )された尾根線の中点より上部 ( スティック側 )が 傾斜させてあるので、その角度設定を調べます。
私の知る限り、上写真のようにチェロ弓は 右側に 2.0°程傾斜させたものが多いようです。
そして、これが ヴァイオリン弓やビオラ弓だと 左側に 2.0°程傾斜させることを選んだと考えられます。
Louis Bazin( 1881-1953 ) Violin bow, Branded “P. Beuscher” ( 59.5g ) 1930年頃
ところが、この 1930年頃のルイ・バザン( 1881-1953 )工房の弓では、正面から見た尾根線の 中点より上部 ( スティック側 )は1.7°程 傾斜させてあると識別できますが、下部の尾根線は ほぼ消失しています。
Louis Bazin( 1881-1953 ) Violin bow, Branded “P. Beuscher” ( 59.5g ) 1930年頃
このように、この時期にミルクールの工房で製作された弓は モダン弓設定条件の一部から変質していきました。
ですから ヘッド尾根線が”簡略化”されたこの弓においても、モダン弓のように 中心軸に対するネジリ角度が ヘッド端で 2.3°程で製作されているなど、そのまま踏襲された条件設定を いくつも見いだすことが出来ます。
因みに、モダン弓では 下のトルテ弓のように、ヘッドと対をなすフロッグ部の馬毛が空中に出る端部の 傾斜角度では 2.0°程が 多用されていると、私は 考えています。
このトルテ弓は、フェルールの組み込み線では 軸線に直交 ( 0° )しているようですが、馬毛側の上端では 2.0°傾斜で、下端面が成す角度は 1.0°という設定になっているようです。
François Xavier Tourte( 1747-1835 ) Violin bow, 1825年頃
“$ 288960” sets world record auction price. ( 5 November, 2015 )
このような細やかさはモダン弓全般、つまりミルクールの製作者だけではなく 他の地域 、例えば ヤッシャ・ハイフェッツ ( 1901-1987 )が愛用した ロシアの弓製作者、ニコラウス・キッテル ( 1805-1868 ) の弓などでも見ることができます。
Nikolai KITTEL ( 1805-1868 ) Cello bow, St.Petersburg 1860年頃
1860年頃とされる この弓では、フェルールの組み込み線が 軸線の直交線より 1.5° 程傾斜しているようですが、馬毛側の上端では 0.9°傾斜で、下端面が成す角度は 0°という設定が選ばれています。
回転軸となる 内部のアイレットのフロッグ長における分割位置が知りたくなる設定ですね。
これを 1930年頃のルイ・バザン( 1881-1953 )工房の弓で確認すると、フェルールの組み込み線は 軸線の直交線から 2.0° 程傾斜させてあり、馬毛側の上端も 2.0°傾斜で、下端面が成す角度は 1.2 °でありながら スライド端は 0°という設定となっていました。
これは、モダン弓でよくみられる 傾斜角度設定ですから、納得できます。
Louis Bazin( 1881-1953 ) Violin bow, Branded “P. Beuscher” ( 59.5g ) 1930年頃
ミルクールの有名工房であったバザン家の工房は 個人事業が拡張されたものでしたので、”簡略化”も、このようにゆっくりと進行しました。
しかし、ミルクールで1800年代末から既存メーカーの合併により形成され、機械化のみならず 楽器製作では プレス加工による大量生産方式まで導入し、分数バイオリンからコントラバスにいたるまで膨大な量の製品を世界中に輸出した “Thibouville-Lamy”社の場合は急激に”簡略化”がおこなわれました。
これを推進したのは”Thibouville-Lamy”社の経営者達で、1900年代初頭が ACOULON Pére、1908年からは Emile BLONDELET、そして1913年からは Emile ACOULONであったそうです。
“Jérôme Thibouville-Lamy” Violin bow, Mirecourt 1920~1930年頃
その”簡略化”の様子を、J.T.L.社で 1920年~1930年頃に製作されたと考えられる 59.5gのヴァイオリン弓で観察してください。
Jérôme Thibouville-Lamy” Violin bow, Mirecourt 1920~1930年頃
この弓は、正面から見た尾根線の 中点より上部 ( スティック側 )は2.0°程 傾斜させてあるようですが、下部は判断が難しいので 中点から垂線を破線で書き込みました。
上部にある 棹の中心軸 ( central axis of the Rod )を示す窪みが、まだ 一定の製作原理を基に作られたことを示しています。
しかし、この弓の製作者が ヘッド中点の回転軸に対してどれだけの意識を向けたかについては疑問が残ります。
“JÉRÔME THIBOUVILLE-LAMY FIRM” ( 1861-1968 ), Mirecourt 1900年
“JÉRÔME THIBOUVILLE-LAMY FIRM” ( 1861-1968 ), Mirecourt 1900年
1900年頃の J.T.L.社のカタログでも分るように、高度な性能を持つモダン弓製作と、手頃に購入できる”製品”としての弓製作では相容れないのは当然だったのかもしれません。
ここで働いた製作者の氏名リストの一部を見るだけでも、1900年代初頭の時代性が分る気がします。
List of bowmakers who worked for the brand J.T.L..
BARBE Pierre Auguste – 1906 and 1911;
BARJONNET Georges Emile – 1943;
BEAUJARD Auguste – 1870;
BERNARD Auguste Marcel – 1913;
CARDOT Charles Ernest – 1926;
CHARPENTIER Henry Paul – 1870;
COLLIN Jean Baptiste – 1870;
CONTAL Charles FOURRIER – 1901;
CUNIOT Nicolas Charles – 1870;
DELPRATO Antonie – 1901;
DUMONT Auguste Joseph – from l 1921 until 1936;
GILLET Louis René – from 1906 to 1911;
GRAND ADAM Nicolas – 1901 and 1906;
GRADCOLAS Paul Charles Eugène – 1911;
GRANCLAIRE Maurice Lucian – 1926;
HUSSON Charles Eugène Louis – dal 1901 al 1931;
HUSSON Mars Auguste – 1901;
JACQUEMIN Edgard Léon – 1901;
LABERTE Charles Francois Joseph “Gazon” – 1870;
LAPIERRE Marcel Charles 1921 e 1923;
MALINE Jean Joseph – 1870;
MANGENOT Marcel Charles – 1945;
MARTIN Jean Joseph – 1870; MATHIEU Jean – 1931;
MELINE Fourier Joseph Paul – 1911 and 1921;
MILLOT Nicolas Joseph – 1870;
PIROUE Georges – 1926;
REMY Camille Joseph – 1931;
RENAUDIN Charles Stéphane – 1901 and 1906;
RENAUDIN Jaques – 1870;
RENGGLY Joseph Antoine – from 1901 until 1926;
THOMMASIN Nicolas Francois Joseph.
“JÉRÔME THIBOUVILLE-LAMY FIRM” destroyed by bombing. Mirecourt 1940年
そして この会社も、世界恐慌や 戦争の爆撃被害などで経営が立ち行かなくなり清算されました。
興味深いことは、ミルクールと同じように、ドイツのマルクノイキルヒェン( Markneukirchen )と ミッテンヴァルト( Mittenwald )でも、地域の基幹産業として楽器や弓製作が栄えた歴史を持っていますが、楽弓製作ではミルクールと同じように”簡略化”が進行したということです。
例として、1873 年にパリで J. B. ヴィヨーム( 1798-1875 )の最後の弟子となり、修行を終えて1880 年にマルクノイキルヒェンに工房を設立した Hermann Richard Pfretzschner (1857-1921)の 後継者達の弓を見てください。
“PFRETZSCHNER” Violin bow ( 59.1g ) Markneukirchen, 1930~1940年頃
ヘルマン( Hermann Pfretzschner 1876-1958 ) と ベルトルト( Berthold Pfretzschner 1889-1983 )のフレッチナー兄弟は、1914年に偉大な父から工房を受け継ぎ、ドレスデン( Dresden )のショップとマルクノイキルヒェンの工房をフル稼働させて、数多くの弓や楽器を製作、販売しました。
“PFRETZSCHNER” Violin bow ( 59.1g ) 1930~1940年頃
その工房で製作されたこの弓は、尾根線の中点より上部 ( スティック側 )は 2.2°程 左傾斜となっており、中点より下部は 先ほどの 1920年~1930年頃の J.T.L.社製 ヴァイオリン弓と 同様な加工がなされているように思えます。
Dominique Peccatte( 1810-1874 ) Bow ” Left-right composition” Paul Childs – The Peccatte family 1996 / P113
また このフレッチナー弓フロッグは、フェルール端が 2.0°程傾斜させてある他に、パール・アイ位置が左右ずれている資料( “ねじり”設定と推測できます。)として、左右合成で作成されたペカット弓資料画像のように、パール・アイ同士を結ぶ角度が右側に5.4°傾斜させてあります。
このように観察していくと、J.T.L.社製の楽弓とおなじく”簡略化”した設定で製作されたことが理解できると思います。
“PFRETZSCHNER” Violin bow ( 59.1g ) 1930~1940年頃
さて、 ここまでモダン弓の変遷をたどってきましたが、最後に “その後”である・・ 現代の楽弓を眺めてみましょう。
高性能であるモダン弓を源流としながら、時間の経過とともに生じた“簡略化”の流れは、”ネジリ”設定を消失させ、結果として 私達は “対称設定”に引き寄せられています。
“ARCHET A TOKIO☆” Viola bow ( 70.4g ) 2021年
“ARCHET A TOKIO☆” Viola bow ( 70.4g ) 2021年
“ARCHET A TOKIO☆” Viola bow ( 70.4g ) 2021年
この弓はアマチュア向けとして製作されたものですが、検証を容易にするために “白いスジ状”に光らせたエッジ線が、不連続面としてカットされていることを証してしているように、高度な彫りだし技術で作られています。
しかし、残念なことにネジリ不足で ヘッド部と フロッグ部の中点位置に“節”として直線状に支える中央軸 はありません。
まあ、性能は 販売価格のヒエラルキーそのままといったところです。
“ARCHET A TOKIO☆” Viola bow ( 70.4g ) 2021年
一般論として言えば、現代弓は モダン弓の”写し”として製作されていない限り、”簡略化”により 性能が評価しにくい・・ 難点が多いものがほとんどだと思います。
弦楽器市場では 1900年以前のモダン弓で 定評があるものを基準に、性能を考慮したうえで販売価格が決められていますから、このように”簡略化”された弓でも 問題とされてはいません。
ですが、モダン弓のなかでも 相対的に新しい・・ たとえば 1910年~1920年頃に製作された サルトリー( Eugène Nicolas Sartory 1871-1946 )弓でも 良好なものでしたら ¥3,000,000-以上で販売されているように、優れた楽弓は高価です。
そして、需要に対して 供給される高性能の楽弓が ごくわずかという状況が変わらない限り、価格が低下することは望めません。
“FINKEL – D. ERNST” Cello bow, Brienz 2021年
しかし 希望につながるのが、現代弓でも このチェロ弓のように、 偶発的であったとしても 優れた弓が希に製作されることがあるということです。
このチェロ弓は 私が2年程前に販売した スイスの “FINKEL – D. ERNST”のチェロ弓です。
フィンケル弓 価格改定のお知らせ
旧価格(税込み) | 新価格(税込み) | |
VN 8r Finkel-Atelier | ¥110,000 | ¥143,000 |
VN 12r Lefin | ¥137,500 | ¥187,000 |
VN 14r W. Ernst | ¥176,000 | ¥231,000 |
VN 140r Sartory Mod. | ¥220,000 | ¥286,000 |
VN 160r F.C. Neuveville | ¥253,000 | ¥330,000 |
VN 170r M. Fischer | ¥308,000 | ¥418,000 |
VN 180r D.S Finkel | ¥308,000 | ¥418,000 |
VA 41r Finkel-Atelier | ¥115,500 | ¥154,000 |
VA 400r Lefin | ¥148,500 | ¥198,000 |
VA 44r W. Ernst | ¥209,000 | ¥275,000 |
VA 440r Sartory Mod. | ¥264,000 | ¥352,000 |
VA 450r F.C. Neuveville | ¥297,000 | ¥396,000 |
VA 460r M. Fischer | ¥352,000 | ¥462,000 |
VA 490r D.S. Finkel | ¥352,000 | ¥462,000 |
VC 60r Finkel-Atelier | ¥121,000 | ¥165,000 |
VC 300r Lefin | ¥165,000 | ¥214,500 |
VC 330r D. Ernst | ¥253,000 | ¥330,000 |
VC 340r Sartory Mod. | ¥297,000 | ¥385,000 |
VC 350r F.C. Neuveville | ¥352,000 | ¥473,000 |
VC 360r M. Fischer | ¥407,000 | ¥539,000 |
VC 380r D.S. Finkel | ¥407,000 | ¥539,000 |
昨年価格改定がありましたので、現在の日本国内での標準価格は上記のとおりです。
“FINKEL – D. ERNST” Cello bow ( 80.2g ), Brienz 2021年
“FINKEL – D. ERNST” Cello bow ( 80.2g ), Brienz 2021年
この弓は 一応、トルテ・コピーでしょうが “簡略化”されていますので、事実上 このスイス・メーカーの独自モデルとなっています。
“FINKEL – D. ERNST” Cello bow ( 80.2g ), Brienz 2021年
この弓メーカーは、製作本数も多く、供給量も安定していますので 性能についても 一定の歩留まりが成立しています。
なのに・・ この弓は その予定性能をはるかに越えており、6ピース箱から 取り出した瞬間に、ヘッド部と フロッグ部の中点位置に“節”として直線状に支える中央軸 があるのがすぐに分りました。
販売標準価格 ¥330,000- の群れのなかに ¥800,000~¥1,000,000-の弓が 紛れ込んでいる感じでした。なにかの間違いではないかと心配になり、 刻印などを 何度も確認しました。
“FINKEL – D. ERNST” Cello bow ( 80.2g ), Brienz 2021年
翌日に チェロ弓を 発注されたお客さんに 当然ですが、即決で販売しましたが、ちょっと狐に抓まれたような経験でした。“FINKEL – D. ERNST” Cello bow ( 80.2g ), Brienz 2021年
この仕事に40年ほど従事していますが、このように 新作弓で抜きん出たものに出会うのは 10年に1度くらいのものだと思います。
そして この弓のおかげで、弓の性能や『定価』ってなんだろう?と深く考える学びがありました。
私は、現代においても 楽弓に関する詳細な検証がすすめば、再びモダン弓の性能を持つ優れた弓の製作は可能となるのではないかと考えています。
その扉は、私が モダン弓の特質と考える、ヘッド部の線分BDと フロッグ部 線分ACの中点位置に中央軸 が “節”として機能するように製作すること、つまり 真の意味でモダン弓の設定を『写す』ことにあると思っています。
Method book “Violoncell Schule”, 1839年著 / Bernhard Heinrich Romberg ( 1767-1841 )
なお、楽弓の中央軸に関しては チェリストのロンベルクが 1840年に出版した”チェロ奏法”に出ている下図のように、いくつかの設計パターンはあったようです。
1840年頃の書籍に オープン・フロッグでチェロ弓が紹介されており興味深いものですが、同様な未知の資料が これからウェブで共有され 検証がすすむことは 期待できると思います。
ともあれ、私は弦楽器製作者ですので 弓に関してはお役にたてませんが、楽弓製作者のみなさんの ご健闘を祈っています。
この投稿はここまでです。
2023-11-05 Joseph Naomi Yokota
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