モダン弓の製作方法が “簡略化”された時期と、その後について

前投稿ページ
●  弦楽器に用いられる”木材”について( 指板材の失敗例 )

“Hayden Sahl” Eisenstadt, 400席程  38.0m × 14.7m × H12.4m
1809年5月31日、ハイドン( Franz Joseph Haydn 1732-1809 )は、ナポレオン軍が占領する ウィーンにある自宅で亡くなりました。


 “Wiener Musikvereinssaal” Vienna, 1680席 48.8m  ×  19.1m × H 17.75m  1870年竣工  /  “Palais Garnier” Paris,  1979席 1875年竣工

“Royal Albert Hall” London, 7000席 1871年竣工  /  “Leipzig Gewandhaus Hall” 1700席 1884年竣工

“Carnegie Hall” New York,  2804席 1891年竣工

18世紀後半になると 西欧社会の経済的繁栄にともない音楽世界でも巨大な演奏会場( 1778年 )や表現バリエーションが増え、演奏技術にも変化が求められるようになり、その状況に対応できる弦楽器や楽弓などの需要が拡大しました。

そのため 楽弓は バロック型からトランジション型( Transition bow )を経てモダン弓に到達するまで改良が続けられました。

この激動の時代に対応した楽弓の変化は急速で、丁度、”1世代”の30年刻み程でトレンドが移行していきます。

1770-1780  宮廷音楽に対応した楽弓 移行期型( Transition bow )

1800-1810  1800年 François Xavier Tourte( 1747-1835 ) は セーヌ川沿いの建物4階に工房を設立します。モダン弓の時代が確定しました。

1830-1840  1838年  Dominique Peccatte ( 1810-1874 )  は リュポーの工房を受け継ぎ独立しました。

1860-1870  1870年  François Nicolas Voirin ( 1833-1885 )は J.B.ヴィヨーム工房で名を成し、この年に独立しました。

1890-1900  Eugène Nicolas Sartory ( 1871-1946 ) 天才型だった彼は16歳で頭角を現すと、18歳の1889年に独立してその後は多数のメダル・ホルダーとなりました。

1920-1930  楽弓製作で “簡略化”が進み、製作技術の衰退が鮮明になりました。

最後が問題ですよね・・。そこで この投稿では、モダン弓の特徴が失われていく”簡略化”について考えてみたいと思います。

“トランジション型”

この時期の楽弓には ヘッドが特徴的な弓だけではなく、ヘッド部高の中点( 1/2 )位置の形状を 谷状加工などとしたものや、フロッグ部の工夫により”ねじり( twist )”を誘導したと考えられるものがそれなりの割合で存在します。

Jean-Jacques Meauchand ( 1758-1817 ) Violin bow,  Mirecourt  1775年頃 & 1790年頃

また、 L字となっているヘッド尾根上部には、棹部の中央軸が交差するポイントに ピン・マークが確認できるようになります。

“モダン弓”

モダン弓の定義には、スティック設定や ヘアー・リボン幅などいくつかの要素がありますが、なによりもフェルールが組み込まれているかどうかが最重要です。

François Xavier Tourte( 1747-1835 ) Violin bow, “Passing in gold engraved R. Kreutzer”.  1790年頃

その モダン弓ヘッドは、スワン型からの流れを汲んだシルエットの弓も多いですが、詳細に観察すると トランジション型から引き継がれたかのように 谷状加工がなされている弓を多数見ることができます。

特に、ヘッド部尾根の中点マークと”ねじり”を誘導するS字形状は デジタル・カメラで接写すると 簡単に確認できると思います。

François Peccatte ( 1821-1855 ) Cello bow,  Mirecourt  1850年頃

Dominique Peccatte( 1810-1874 ) Cello bow,  78.7g  1840年頃

Dominique Peccatte( 1810-1874 ) Violin bow, 1850年頃

François Nicolas Voirin ( 1833-1885 )   Violin bow, Paris  1870年頃

François Nicolas Voirin ( 1833-1885 )   Violin bow, Paris  1870年頃

Charles Nicolas BAZIN( 1847-1915 ) Cello bow,  Mirecourt  1885年頃

François Xavier Tourte( 1747-1835 )  Violin bow, 1790年頃François Xavier Tourte( 1747-1835 ) Violin bow, “Cramer model” 1774年頃

François Xavier Tourte( 1747-1835 ) Violin bow, “Cramer model” 1774年頃

私が楽弓を考察した結論ですが、 モダン弓の特質は ヘッド部の線分BD( 下図 )と フロッグ部 線分ACの中点位置( 線分 L1 L2 )に 中央軸 が生じ、これが “節”として直線状に支えることで 馬毛が”腹”としての自由度を得ていることにあるのではないでしょうか。

もう少し詳しく言えば、モダン弓の原理は 上記の要素と、穏やかに演奏するときには この中央軸( 線分L1 – L2 )が 馬毛に丁度良い圧力を加え、演奏者が強い表現で弦楽器を鳴らしたいときには、下図の赤塗りで示した三角ゾーンが交互に “節”として機能するという多重モードにあると 考えることが出来ます。

また、これによって宿願とされていた・・ 馬毛の演奏可能部を飛躍的に長くすることが達成されました。

Nicolas Léonard Tourte  ‘l’Ainé’ ( 1746-1807 )
François Xavier Tourte ( 1748-1835 )
François Lupot ( 1774-1838 )
Jean Pierre Marie Persoit ( 1783-1854 )

ところで 話はそれますが、 興味深いのは モダン弓開発段階での繊細な設計と製作において、オルレアン( Orléans ) 生まれのリュポーや 出生地が確定的でないトルテ兄弟など 少数の例外はあるものの、ミルクール( Mirecourt )出身の楽弓製作者達が・・当時の主要な弓製作者総数の90%程を占めていました・・大きな役割を果したということです。

【 Bow makers born in Mirecourt, France 】

Nicolas Duchaine I ( 1746-1813 )
Jean-Jacques Meauchand ( 1758-1817 )
Francois Jude Gaulard ( 1787-1857 )
Dominique Henry ( 1789-1854 )
Étienne Pajeot (1791-1849)
Nicolas Joseph Harmand ( 1793-1862 )
Jean-Baptiste Vuillaume ( 1798-1875 )
Nicolas Rémy Maire ( 1800-1878 )
Pierre Simon ( 1808-1881 )
Dominique Peccatte ( 1810-1874 )
François Peccatte ( 1821-1855 )
Nicolas Maline ( 1822-1877 )
Joseph Henry ( 1823-1870 )
Jean Adam “Grand Adam”( 1823-1869 )
Claude Charles Nicolas Husson ( 1823-1872 )
François Nicolas Voirin ( 1833-1885 )
Jean Joseph Martin ( 1837-1910 )
Charles Nicolas Bazin ( 1847-1915 )
Charles François Peccatte ( 1850-1918 )
Joseph Arthur Vigneron ( 1851-1905 )
Louis Joseph Thomassin ( 1856-1904 )
Eugene Cuniot ( 1861-1910 )
Eugène Nicolas Sartory ( 1871-1946 )

モダン弓は、楽弓製作を”産業”としてみれば、”特異”とも言える歪な構造のなかで製作されていたと言えます。

ともあれ、1790年頃と推測されるモダン弓の登場は ベートーヴェン ( Ludwig van Beethoven 1770-1827 )以降の音楽世界に 多大な影響をあたえました。

この時期にトルテ弓を使用した演奏者では、クロイツェル ( Rodolphe Kreutzer 1766-1831 )や、チェリストのロンベルク ( Bernhard Heinrich Romberg 1767-1841 )などがすぐに思い浮かびます。

そして、ヴァイオリンの近代奏法を確立した パガニーニ ( Nicolò Paganini ( 1782-1840 ), “24 Capricci” 1820年出版 / 1828 Vienna, 1831 Paris, London. )も、1810年頃からの演奏活動では モダン弓を使用していたようです。

“Portrait du Violoniste Paganini”  Jean A.D.Ingres 1819年

また、1795年の パリ音楽院( Conservatoire de musique )設立に貢献した ヴィオッティ ( Giovanni Battista Viotti 1755-1824 ) は、トルテ( François Xavier Tourte 1748-1835 )が 楽弓に フェルールを組み込む研究をしている時期に協力していたことが知られています。

バロック期からの主要な演奏者などを列記すると、蒼々たるものとなりますが、19世紀以降の音楽史においてモダン弓が果した役割は大きかったと思われます。

Arcangelo Corelli (1653-1713 ) “Trio sonata” op.1, 1681年 /  “Violin Sonatas” op. 5, 1700年
Giuseppe Tartini ( 1692-1770 )
Johann Georg Leopold Mozart (1719-1787 )
Luigi Boccherini (1743-1805 )
Jean-Louis Duport (1749-1819 )
Joseph Franz Weigl ( 1749-1820 )

Antonín Kraft ( 1749-1820 )
Giovanni Battista Viotti ( 1755-1824 )
Wolfgang Amadeus Mozart ( 1756-1791 )
– – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – –
Ludwig van Beethoven ( 1770-1827 )
Rodolphe Kreutzer ( 1766-1831 )  1795-1826 Conservatoire de musique, “42 études ou caprices” 1796年
Bernhard Heinrich Romberg  ( 1767-1841 ), Münster – 1790 Bonn
Pierre Marie François de Sales Baillot ( 1771-1842 )
Jacques Pierre Joseph Rode ( 1774-1830 )
Nicolò Paganini ( 1782-1840 )  “24 Capricci” 1820年出版 / 1828 Vienna, 1831 Paris, London
Louis Spohr ( 1784-1859 )
Georg Hellmesberger ( 1800-1873 )
Charles-Auguste de Bériot ( 1802-1870 )
Adrien-François Servais ( 1807-1866 )
Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy ( 1809-1847 )”Viola Sonata,c-moll Q .14″, 1824年
Ferdinand David ( 1810-1873 )
Heinrich Wilhelm Ernst ( 1814-1865 )
Jakob Dont ( 1815-1888 ), Vienna / “24 Etudes and Caprices”
Henri Vieuxtemps ( 1820-1881 )
Carlo Alfredo Piatti ( 1822-1901 )
Lisa Barbier Cristiani ( 1827-1853 )
Joseph Joachim ( 1831-1907)
Henryk Wieniawski ( 1835-1880 )
Pablo de Sarasate ( 1844-1908 )
Leopold Auer ( 1845-1930 )
August Emil Daniel Ferdinand Wilhelmj ( 1845-1908 )
Eugène-Auguste Ysaÿe ( 1858-1931 )

1804年 Napoléon Bonaparte( 1769-1821 )  “Emperor” 1804~1814, 1815. 

ところで、それらを社会情勢と照らし合わせると、ロマン派音楽が繁栄する真っ只中の1848年には、ナポレオン戦争後を定めた ウィーン体制の崩壊がはじまり、ヨーロッパの不安定化が進んでいたことが分ります。

たとえば イタリアでは 1861年にヴィットーリオ・エマヌエーレⅡ世がイタリア統一をおこない、プロイセンは、鉄血宰相ビスマルク( 1815-1898 )の指揮のもとクルップ社の鉄鋼製品( 鉄道、大砲 )を用い 1866年の普墺戦争に勝利します。そして、1867年に 北ドイツ連邦として領土を拡大しました。

1870年9月2日 普仏戦争
[ 投降したナポレオン3世とビスマルクの会見 ]

その後の 普仏戦争により、ノイシュヴァンシュタイン城を 1871年頃に竣工させたルートヴィヒⅡ世( 1845-1886 )の バイエルン王国( Bavaria )や、フランス領だったアルザス・ロレーヌを併合してドイツ帝国が成立します。

また 1842年にアヘン戦争に勝利したヴィクトリア女王( 1819-1901、在位 1837–1901 )のイギリスも、植民地拡大をすすめ大英帝国を構築し繁栄します。

こうして帝国主義を国是としたヨーロッパ列強( ドイツ、イギリス、フランス、イタリア、オーストリア、ロシア )が世界地図を分割していったことで1914年に開戦した第一次世界大戦( 1914-1918 )にまで至ります。

ドイツ領時代の 1905年のアルザス・ロレーヌ地方

アルザス・ロレーヌ地方は『ヴォージュ山脈とライン川の間にある地方』ですが、ミルクール( Mirecourt )は この地図のように ヴォージュ山脈の西側の山麓に位置していますので戦争の度に被害を受けました。

この地図も 1919年にドイツが第一次世界大戦で敗れ、アルザス・ロレーヌ地方がベルサイユ条約によってフランスに再編入されたことで過去の遺物となったものです。

マジノ線ジークフリート線は 特に南部においては 10km程度の間隔で向き合っています。ミルクール( Mirecourt )は ナンシー( Nancy )の南約40kmm、メッス( Metz )の南約90km、ストラスブール( Strasbourg )まで 120kmです。

そのような時代背景から考えると、楽弓製作において ミルクールという街の役割が大き過ぎる歪な状況下で、普仏戦争以降の戦争もふくめて 地勢的な条件が災いし、その間である1873年~1896年の”大不況”でも痛めつけられ、最後に 第一次世界大戦の荒波まで被ったことが 楽弓製作の急激な衰退に繋がったように思えます。

さて ここで、本題に戻ります。
1920-1930  楽弓製作で “簡略化”が進み、製作技術の衰退が鮮明になりました。]

これに関しては、バザン一族の末裔である ルイ・バザン( Louis Bazin 1881-1953 )工房の仕事がそれを如実に象徴していると 私は思っています。

彼は 父親が他界した 1915年頃に工房を移転し、多数の職人を雇って規模拡大に着手しましたが、第一次世界大戦で招集されて製作活動の中断を余儀なくされました。

そして、1918年に兵役から復員すると 製作活動を再開し、新たに大勢の職人を雇い、1921年頃には大量の注文に応じるようになりました。

しかし、彼の工房で製作された弓はこの頃から、ヘッド幅が広くされ、フロッグやフェルールから繊細さが失われるなどの変化が現れ始めます。

Louis Bazin( 1881-1953 ) Violin bow, Branded “P. Beuscher” ( 59.5g ) 1930年頃

当時 ルイ・バザン工房で働いていた職人は、 A.JACQUEMIN、E.JACQUEMIN、L.DUMONT、A.COUTURIEUX、R.RICHAUME、A.BOURGEOIS、J.BONTEMPS、A.HUSSON などで、第一次大戦に徴兵され一時中断を挟んだため、工房の職人は殆ど入れ替わってしまいました。

こうして、ミルクールの近くで 対ドイツ戦用地下要塞”マジノ線”の突貫工事をやっていた 1927年から1936年頃には、ミルクールの弦楽器産業の衰退が鮮明となり、ルイ・バザン工房においても1936年頃には工房の職人が4人にまで減ってしまったそうです。

この変遷を、当時に製作された弓達で具体的に観察してみましょう。

まず、モダン弓では 馬毛を弦に接触させるのがヴァイオリンとチェロでは逆であることに対応して 正面から見た”S”字型加工 ( “S” shaped ridge )された尾根線の中点より上部 ( スティック側 )が 傾斜させてあるので、その角度設定を調べます。

私の知る限り、上写真のようにチェロ弓は 右側に 2.0°程傾斜させたものが多いようです。

そして、これが ヴァイオリン弓やビオラ弓だと 左側に 2.0°程傾斜させることを選んだと考えられます。

Louis Bazin( 1881-1953 ) Violin bow, Branded “P. Beuscher” ( 59.5g ) 1930年頃

ところが、この 1930年頃のルイ・バザン( 1881-1953 )工房の弓では、正面から見た尾根線の 中点より上部 ( スティック側 )は1.7°程 傾斜させてあると識別できますが、下部の尾根線は ほぼ消失しています。

Louis Bazin( 1881-1953 ) Violin bow, Branded “P. Beuscher” ( 59.5g ) 1930年頃

このように、この時期にミルクールの工房で製作された弓は モダン弓設定条件の一部から変質していきました。

ですから ヘッド尾根線が”簡略化”されたこの弓においても、モダン弓のように 中心軸に対するネジリ角度が ヘッド端で 2.3°程で製作されているなど、そのまま踏襲された条件設定を いくつも見いだすことが出来ます。

因みに、モダン弓では 下のトルテ弓のように、ヘッドと対をなすフロッグ部の馬毛が空中に出る端部の 傾斜角度では 2.0°程が 多用されていると、私は 考えています。

このトルテ弓は、フェルールの組み込み線では 軸線に直交 ( )しているようですが、馬毛側の上端では 2.0°傾斜で、下端面が成す角度は 1.0°という設定になっているようです。

 

François Xavier Tourte( 1747-1835 ) Violin bow, 1825年頃
“$ 288960” sets world record auction price. ( 5 November, 2015 )

このような細やかさはモダン弓全般、つまりミルクールの製作者だけではなく 他の地域 、例えば ヤッシャ・ハイフェッツ ( 1901-1987 )が愛用した ロシアの弓製作者、ニコラウス・キッテル ( 1805-1868 ) の弓などでも見ることができます。

Nikolai KITTEL ( 1805-1868 )  Cello bow,  St.Petersburg  1860年頃

1860年頃とされる この弓では、フェルールの組み込み線が 軸線の直交線より 1.5° 程傾斜しているようですが、馬毛側の上端では 0.9°傾斜で、下端面が成す角度は という設定が選ばれています。

回転軸となる 内部のアイレットのフロッグ長における分割位置が知りたくなる設定ですね。

これを 1930年頃のルイ・バザン( 1881-1953 )工房の弓で確認すると、フェルールの組み込み線は 軸線の直交線から 2.0° 程傾斜させてあり、馬毛側の上端も 2.0°傾斜で、下端面が成す角度は 1.2 °でありながら スライド端は という設定となっていました。

これは、モダン弓でよくみられる 傾斜角度設定ですから、納得できます。

Louis Bazin( 1881-1953 ) Violin bow, Branded “P. Beuscher” ( 59.5g ) 1930年頃

ミルクールの有名工房であったバザン家の工房は 個人事業が拡張されたものでしたので、”簡略化”も、このようにゆっくりと進行しました。

しかし、ミルクールで1800年代末から既存メーカーの合併により形成され、機械化のみならず 楽器製作では プレス加工による大量生産方式まで導入し、分数バイオリンからコントラバスにいたるまで膨大な量の製品を世界中に輸出した “Thibouville-Lamy”社の場合は急激に”簡略化”がおこなわれました。

これを推進したのは”Thibouville-Lamy”社の経営者達で、1900年代初頭が ACOULON Pére、1908年からは Emile BLONDELET、そして1913年からは Emile ACOULONであったそうです。

“Jérôme Thibouville-Lamy”  Violin bow,  Mirecourt  1920~1930年頃

その”簡略化”の様子を、J.T.L.社で 1920年~1930年頃に製作されたと考えられる 59.5gのヴァイオリン弓で観察してください。

 

Jérôme Thibouville-Lamy”   Violin bow,  Mirecourt  1920~1930年頃

この弓は、正面から見た尾根線の 中点より上部 ( スティック側 )は2.0°程 傾斜させてあるようですが、下部は判断が難しいので 中点から垂線を破線で書き込みました。

上部にある 棹の中心軸 ( central axis of the Rod )を示す窪みが、まだ 一定の製作原理を基に作られたことを示しています。

しかし、この弓の製作者が ヘッド中点の回転軸に対してどれだけの意識を向けたかについては疑問が残ります。

“JÉRÔME THIBOUVILLE-LAMY FIRM” ( 1861-1968 ), Mirecourt  1900年

“JÉRÔME THIBOUVILLE-LAMY FIRM” ( 1861-1968 ), Mirecourt  1900年

1900年頃の J.T.L.社のカタログでも分るように、高度な性能を持つモダン弓製作と、手頃に購入できる”製品”としての弓製作では相容れないのは当然だったのかもしれません。

ここで働いた製作者の氏名リストの一部を見るだけでも、1900年代初頭の時代性が分る気がします。

List of bowmakers who worked for the brand J.T.L..

BARBE Pierre Auguste – 1906 and 1911;
BARJONNET Georges Emile – 1943;
BEAUJARD Auguste – 1870;
BERNARD Auguste Marcel – 1913;
CARDOT Charles Ernest – 1926;
CHARPENTIER Henry Paul – 1870;
COLLIN Jean Baptiste – 1870;
CONTAL Charles FOURRIER – 1901;
CUNIOT Nicolas Charles – 1870;
DELPRATO Antonie – 1901;
DUMONT Auguste Joseph – from l 1921 until 1936;
GILLET Louis René – from 1906 to 1911;
GRAND ADAM Nicolas – 1901 and 1906;
GRADCOLAS Paul Charles Eugène – 1911;
GRANCLAIRE Maurice Lucian – 1926;
HUSSON Charles Eugène Louis – dal 1901 al 1931;
HUSSON Mars Auguste – 1901;
JACQUEMIN Edgard Léon – 1901;
LABERTE Charles Francois Joseph “Gazon” – 1870;
LAPIERRE Marcel Charles 1921 e 1923;
MALINE Jean Joseph – 1870;
MANGENOT Marcel Charles – 1945;
MARTIN Jean Joseph – 1870; MATHIEU Jean – 1931;
MELINE Fourier Joseph Paul – 1911 and 1921;
MILLOT Nicolas Joseph – 1870;
PIROUE Georges – 1926;
REMY Camille Joseph – 1931;
RENAUDIN Charles Stéphane – 1901 and 1906;
RENAUDIN Jaques – 1870;
RENGGLY Joseph Antoine – from 1901 until 1926;
THOMMASIN Nicolas Francois Joseph.

“JÉRÔME THIBOUVILLE-LAMY FIRM” destroyed by bombing. Mirecourt  1940年
そして この会社も、世界恐慌や 戦争の爆撃被害などで経営が立ち行かなくなり清算されました。

興味深いことは、ミルクールと同じように、ドイツのマルクノイキルヒェン( Markneukirchen )と ミッテンヴァルト( Mittenwald )でも、地域の基幹産業として楽器や弓製作が栄えた歴史を持っていますが、楽弓製作ではミルクールと同じように”簡略化”が進行したということです。

例として、1873 年にパリで J. B. ヴィヨーム( 1798-1875 )の最後の弟子となり、修行を終えて1880 年にマルクノイキルヒェンに工房を設立した Hermann Richard Pfretzschner (1857-1921)の 後継者達の弓を見てください。

“PFRETZSCHNER” Violin bow ( 59.1g )  Markneukirchen, 1930~1940年頃

ヘルマン( Hermann Pfretzschner 1876-1958 ) と ベルトルト( Berthold Pfretzschner 1889-1983 )のフレッチナー兄弟は、1914年に偉大な父から工房を受け継ぎ、ドレスデン( Dresden )のショップとマルクノイキルヒェンの工房をフル稼働させて、数多くの弓や楽器を製作、販売しました。

“PFRETZSCHNER” Violin bow ( 59.1g )  1930~1940年頃

その工房で製作されたこの弓は、尾根線の中点より上部 ( スティック側 )は 2.2°程 左傾斜となっており、中点より下部は 先ほどの 1920年~1930年頃の J.T.L.社製 ヴァイオリン弓と 同様な加工がなされているように思えます。

Dominique Peccatte( 1810-1874 ) Bow ” Left-right composition” Paul Childs  –  The Peccatte family 1996 /  P113

また このフレッチナー弓フロッグは、フェルール端が 2.0°程傾斜させてある他に、パール・アイ位置が左右ずれている資料( “ねじり”設定と推測できます。)として、左右合成で作成されたペカット弓資料画像のように、パール・アイ同士を結ぶ角度が右側に5.4°傾斜させてあります。

このように観察していくと、J.T.L.社製の楽弓とおなじく”簡略化”した設定で製作されたことが理解できると思います。

“PFRETZSCHNER” Violin bow ( 59.1g )  1930~1940年頃

さて、 ここまでモダン弓の変遷をたどってきましたが、最後に “その後”である・・ 現代の楽弓を眺めてみましょう。

高性能であるモダン弓を源流としながら、時間の経過とともに生じた“簡略化”の流れは、”ネジリ”設定を消失させ、結果として 私達は “対称設定”に引き寄せられています。

“ARCHET A TOKIO☆”  Viola bow ( 70.4g )  2021年

“ARCHET A TOKIO☆”  Viola bow ( 70.4g )  2021年

“ARCHET A TOKIO☆”  Viola bow ( 70.4g )  2021年

この弓はアマチュア向けとして製作されたものですが、検証を容易にするために “白いスジ状”に光らせたエッジ線が、不連続面としてカットされていることを証してしているように、高度な彫りだし技術で作られています。

しかし、残念なことにネジリ不足で ヘッド部と フロッグ部の中点位置に“節”として直線状に支える中央軸 はありません。

まあ、性能は 販売価格のヒエラルキーそのままといったところです。

“ARCHET A TOKIO☆”  Viola bow ( 70.4g )  2021年

一般論として言えば、現代弓は モダン弓の”写し”として製作されていない限り、”簡略化”により 性能が評価しにくい・・ 難点が多いものがほとんどだと思います。

弦楽器市場では 1900年以前のモダン弓で 定評があるものを基準に、性能を考慮したうえで販売価格が決められていますから、このように”簡略化”された弓でも 問題とされてはいません。

ですが、モダン弓のなかでも 相対的に新しい・・ たとえば 1910年~1920年頃に製作された サルトリー( Eugène Nicolas Sartory 1871-1946 )弓でも 良好なものでしたら ¥3,000,000-以上で販売されているように、優れた楽弓は高価です。

そして、需要に対して 供給される高性能の楽弓が ごくわずかという状況が変わらない限り、価格が低下することは望めません。

“FINKEL – D. ERNST”  Cello bow,  Brienz 2021年

しかし 希望につながるのが、現代弓でも  このチェロ弓のように、 偶発的であったとしても 優れた弓が希に製作されることがあるということです。

このチェロ弓は 私が2年程前に販売した スイスの “FINKEL – D. ERNST”のチェロ弓です。

フィンケル弓 価格改定のお知らせ

旧価格(税込み) 新価格(税込み)
VN 8r Finkel-Atelier ¥110,000 ¥143,000
VN 12r Lefin ¥137,500 ¥187,000
VN 14r W. Ernst ¥176,000 ¥231,000
VN 140r Sartory Mod. ¥220,000 ¥286,000
VN 160r F.C. Neuveville ¥253,000 ¥330,000
VN 170r M. Fischer ¥308,000 ¥418,000
VN 180r D.S Finkel ¥308,000 ¥418,000
VA 41r Finkel-Atelier ¥115,500 ¥154,000
VA 400r Lefin ¥148,500 ¥198,000
VA 44r W. Ernst ¥209,000 ¥275,000
VA 440r Sartory Mod. ¥264,000 ¥352,000
VA 450r F.C. Neuveville ¥297,000 ¥396,000
VA 460r M. Fischer ¥352,000 ¥462,000
VA 490r D.S. Finkel ¥352,000 ¥462,000
VC 60r Finkel-Atelier ¥121,000 ¥165,000
VC 300r Lefin ¥165,000 ¥214,500
VC 330r D. Ernst ¥253,000 ¥330,000
VC 340r Sartory Mod. ¥297,000 ¥385,000
VC 350r F.C. Neuveville ¥352,000 ¥473,000
VC 360r M. Fischer ¥407,000 ¥539,000
VC 380r D.S. Finkel ¥407,000 ¥539,000

昨年価格改定がありましたので、現在の日本国内での標準価格は上記のとおりです。

“FINKEL – D. ERNST”  Cello bow ( 80.2g ),  Brienz 2021年

“FINKEL – D. ERNST”  Cello bow ( 80.2g ),  Brienz 2021年

この弓は 一応、トルテ・コピーでしょうが “簡略化”されていますので、事実上 このスイス・メーカーの独自モデルとなっています。

“FINKEL – D. ERNST”  Cello bow ( 80.2g ),  Brienz 2021年

この弓メーカーは、製作本数も多く、供給量も安定していますので 性能についても 一定の歩留まりが成立しています。

なのに・・ この弓は その予定性能をはるかに越えており、6ピース箱から 取り出した瞬間に、ヘッド部と フロッグ部の中点位置に“節”として直線状に支える中央軸 があるのがすぐに分りました。

販売標準価格 ¥330,000- の群れのなかに ¥800,000~¥1,000,000-の弓が 紛れ込んでいる感じでした。なにかの間違いではないかと心配になり、 刻印などを 何度も確認しました。

“FINKEL – D. ERNST”  Cello bow ( 80.2g ),  Brienz 2021年

翌日に チェロ弓を 発注されたお客さんに 当然ですが、即決で販売しましたが、ちょっと狐に抓まれたような経験でした。“FINKEL – D. ERNST”  Cello bow ( 80.2g ),  Brienz 2021年

この仕事に40年ほど従事していますが、このように 新作弓で抜きん出たものに出会うのは 10年に1度くらいのものだと思います。

そして この弓のおかげで、弓の性能や『定価』ってなんだろう?と深く考える学びがありました。

私は、現代においても 楽弓に関する詳細な検証がすすめば、再びモダン弓の性能を持つ優れた弓の製作は可能となるのではないかと考えています。

その扉は、私が モダン弓の特質と考える、ヘッド部の線分BDと フロッグ部 線分ACの中点位置に中央軸 が “節”として機能するように製作すること、つまり 真の意味でモダン弓の設定を『写す』ことにあると思っています。

Method book “Violoncell Schule”, 1839年著 / Bernhard Heinrich Romberg ( 1767-1841 )

なお、楽弓の中央軸に関しては チェリストのロンベルクが 1840年に出版した”チェロ奏法”に出ている下図のように、いくつかの設計パターンはあったようです。

1840年頃の書籍に オープン・フロッグでチェロ弓が紹介されており興味深いものですが、同様な未知の資料が これからウェブで共有され 検証がすすむことは 期待できると思います。

ともあれ、私は弦楽器製作者ですので 弓に関してはお役にたてませんが、楽弓製作者のみなさんの ご健闘を祈っています。

 

 

この投稿はここまでです。

 

2023-11-05       Joseph Naomi Yokota

 

●  弦楽器に用いられる”木材”について( 指板材の失敗例 )

●  ヘッドの尾根( ridge )中点位置に印された “中央軸ポイント”です。

●  高性能のオールド弓は “twist ” しています。

●  “不安定( 自由度 )”によって得られる豊かさについて

●  “S”字型尾根の画像は “DX”に繋がると思います。