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18世紀の音楽ホール事情

私は 音楽文化の中心が宮廷サロンから劇場・ホールに移る流れはヴァイオリンの改良を促進したと考えています。 その参考に当時の演奏会場の資料がほしかったのですが、さすがに1600年代のサロンや音楽ホールは ほとんど現存していないため 1700年代中頃に使用された音楽ホールの資料を 1985年に マイケル・フォーサイス氏( Michael Forsyth )が ” Buildings for Music “のタイトルで出版した書籍の翻訳版( 『 音楽のための建築 』1990年 長友宗重氏、別宮貞徳氏 共訳 / 鹿島出版会刊  )p.31 ~ p.49より引用させていただきたいと思います。

また引用のみでは分かりにくい可能性がありますので、私が 画像資料などを補足のためにつけ加えました。

それでは まず‥  18世紀のホールの大きさをイメージするために 比較対象として 東京オペラシティ コンサートホール( タケミツ メモリアル )の仕様表などをご覧ください。

東京オペラシティーオペラシティー コンサートホール 21.2m×47.15m ( 1階客席奥行 32.4m ) 天井最頂部まで 27.6m 満席時残響 1.9秒 - 1 L東京オペラシティーオペラシティー コンサートホール 21.2m×47.15m ( 1階客席奥行 32.4m ) 天井最頂部まで 27.6m 満席時残響 1.9秒 - A Lコンサートホール仕様

設計者 東京オペラシティ設計共同企業体 (株)NTTファシリティーズ・一級建築士事務所 (株)都市計画設計研究所 (株)TAK建築・都市計画研究所
音響設計協力 竹中技術研究所 音響コンサルタント レオ・ベラネク氏(コンサートホールのみ)
ホールサイズ 1階席:20.0m×41.1m(客席奥行 32.4m) 2階席:20.0m×47.15m 3階席:21.2m×47.15m
天井高 天井最長部まで27.6m ・平土間〜2階バルコニーまで 2.7m〜3.7m ・2階バルコニー 2.4m〜2.64m ・3階バルコニー 3.0m(平土間から12.6m)
天窓 自然光(不要であればシートで被う)
ホール客席数 1632席(車椅子席4席を含む) 1階席:974席 1〜12列フラット、13〜31列レベル差1m、1段 約5.5cm 2階席:バルコニー席数 330席、オルガン前席 26席(取り外し可能) 3階席:バルコニー席数 302席 座席表を見る
ステージ 間口 17.1m〜19.5m、奥行 9.0m、面積 162.6m2 ・素材 樺桜
張出舞台 1.9m張出(9m+1.9m=10.9m 奥行) 客席前列2列、63席減(1632-63=1569席)
残響 1.96秒(満席時)
NC値 20
内装材 ヨーロピアンオーク(壁面) *天然木。豊かな一次反射音(特に低音)を確保するため。
床気積 フローリング(楢) 15,500m3 (9.5m3/1人あたり)
楽屋 1階席:6室(A、B、C、D、E、F) A、Bにピアノ有り 2階席:4室[大楽屋 1、2(各50名程度)、G、H] Hにピアノ有り、アーティストロビー有り
音響室 調光室 ホール壁面にマイク、スピーカーのコネクター設置
ロビー 天井高 7.2m

東京オペラシティーオペラシティー コンサートホール 21.2m×47.15m ( 1階客席奥行 32.4m ) 天井最頂部まで 27.6m 満席時残響 1.9秒 - 2 L18世紀のコンサートホール Le2b927369601c4bf986397c7d82bdb3d

サントリーホール 概要
開場  1986年 10月 12日 ( 日 )   東京都港区赤坂  1-13-1
建築設計

佐野 正一 (株式会社安井建築設計事務所)
三宅 晋  (株式会社入江三宅設計事務所)
音響設計 永田 穂 (株式会社永田音響設計)
施工 鹿島建設株式会社

建築面積 2,909㎡
水平投影面積  1,925㎡
延べ面積 12,027平方メート、地上3階~地下2階
客席  2,006席 1階 858席/2階 1,148席
大ホール奥行 53.0m、幅  36.0m
舞台  250㎡、間口 21m/奥行 12m
天井までの高さ  3.5m ~  20.15m

The Esterhazy palace - Eisenstadt - B L

交響曲の父、弦楽四重奏曲の父 ともいわれる フランツ・ヨーゼフ・ハイドン (  Joseph Haydn,  1732-1809  ) は、1761年にエステルハージ家の副楽長となりアイゼンシュタットのエステルハージ居城とウィーンの宮殿で 活動しました。そして 1766年からは エステルハーザ城 (  Eszterháza  ) に移り1790年まで楽長として働きました。

また 1781年頃 ハイドンはモーツァルト (  Wolfgang Amadeus Mozart、1756-1791  ) と親しくなり、モーツァルトは1782年から1785年にかけて六つの弦楽四重奏曲( ハイドン・セット ) を 彼に献呈しています。

1790年にエステルハージ家のニコラウス侯爵が死去したために楽長を辞し、1791年と 1794年には ドイツ出身で1780年代初頭にロンドンに移り住んでいた ヴァイオリニストで 作曲家、そして指揮者で音楽興行師であった ヨハン・ペーター・ザーロモン (  Johann Peter Salomon,  1745-1815  ) の 勧めを受入れロンドン公演をおこない大成功をおさめています。

1990年刊  音楽のための建築  (  1985年マイケル・フォーサイス  ) p.31‥  『 ‥ 1791年から1792年、1794年から1795年にかけてのシーズンに、ここハノーヴァ・スクェア・ルーム ( 24.1m × 9.8m )でハイドンは、93番から101番までの “ザロモン交響曲( ロンドン交響曲 )”を指揮したのである。これらは特にこのコンサートホールのために書かれたもので、堂々たる成功をおさめた。

Hanover Square Rooms ( 1774-1900 ) - A L
中でも94番ト長調《驚愕》( 1791年 )と100番ト長調《軍隊》( 1794年 )が素晴らしかった。ザロモン自身は四重奏の専門家で、ハイドンは1793年に ハノーヴァ・スクェア・ルーム ( 24.1m × 9.8m )で演奏するザロモンのために作品71と74の弦楽四重奏曲を書いた。 室内ではなくコンサートホール用に四重奏曲を書いたのはこれが初めてで、ハイドンがその目的とする建物に書法を合わせていることがよくわかる。 オーストリアの貴族のコンサートや 私的な家庭音楽会のために書いたのどかな、親しみのある四重奏曲に比べて、オーケストラ的といってもいいような響がし、構成は雄大で、一段と力強く、また< 公的 >な性格が感じとれる。

コンサートホールは、1794年2月25日付け『 ジェネラル・イブニング・ポスト 』 の記事によると、縦横24.1mと9.7m、高さは書かれていない。しかし、当時の図面を見ると、チプリアーニの絵を飾ったヴォールト天井は、高さおよそ6.7ないし8.5mと推定される。少なくとも一方の壁には窓があり、ゲインズボロその他の絵がかかっている。オーケストラ席は、初めルームの東端だったのが、後に西端に変更された。1804年に古代音楽演奏会がキングズ・シアターからハノーヴァ・スクェアに移った時、ロイヤル・ボックスが3つ東の端につくられた ( 建物は 1848年までガッリーニから年1,000ポンドで借りていた )。ステージは円形劇場風に高く傾斜が急で、視線に、したがって〈 音線 〉にも邪魔が入らない。

Hanover Square Rooms ( 1774-1900 ) - B L
ほぼ180㎡の場所に定員800席だから、たいへんな混み方だったと思われる。1792年のハイドンのための慈善コンサートには、なんと「1,500人が入場した」といわれている。満員状態での音の吸収は相当なもので、中音域の残響時間は1秒足らず、特に低音のレスポンスが低かっただろう。その結果、オーケストラの響きは明瞭で透明だが、音響効果は、今日最上とと思われるものよりずっとドライだったに違いない。

しかし、当時は素晴らしいと考えられていたらしく、1793年6月29日の『 ベルリン音楽新聞 』には次のような読者の投稿が掲載されている。   ザロモンのコンサートが行われたルームは、ベルリンのシュタート・パリス ( Stadt Paris ) と較べて、奥行きは同じようなものだが、幅は広く、きれいに装飾され、ヴォールト天井である。ホールの音は筆舌に尽くしがたいほど美しい。 ホールが小さいだけに、さぞや大きな音に聞えたことだろう。 特にハイドンが《 ロンドン交響曲 》のために使った「 大 」オーケストラではそうだったにちがいない( 1791年から92年にかけててのシーズンには35人編成、翌シーズンにはさらにクラリネットが2本追加‥ 37人編成 ‥された )。間口が狭いから、オーケストラがフォルテッシモで演奏すると、どの席も壁側から強い反射音を受け、空間的な拡がりの感じは申し分なかっただろう( 第1章で述べた空間的拡がり感のこと。弱音の場合は、ほとんど直接音しか耳に届かないから、そうならない )。

Almacks or Willis's Rooms - 1 1765年 Almacks Assembly Rooms -

Almacks or Willis’s Rooms   /   1765年
18世紀も末になると、ほかにも多くのコンサート・ルームがロンドンで使われていた。前述のアルマックはウィリス・ルーム( Willis’s Rooms  /  25.0m × 12.2m,  305㎡ ) と名を改め、1776年にはトマス・サンドビー( Thoumas Sandby )設計のフリーメンソンズ・ホールが開場して、数年古代音楽アカデミーの使用するところとなった。

The Crown and Anchor Tavern in The Strand London - 1
The Crown and Anchor Tavern 古代音楽アカデミーは1726年に声楽アカデミーとして設立され1792年まで続いた出色の音楽家集団で、以前は、18世紀に人気のあったもうひとつのコンサート会場居酒屋 「 王冠といかり 」( The Crown and Anchor Tavern   /   24.7m × 11.0m  , 271㎡ )で演奏していた。1772年にフランシス・パスカリ( Francis Pasquali )なる音楽家が建てたトッテナム・ストリートのコンサート・ルームが、1785年に改装拡張されたが、それは、ジョージ3世が古代音楽コンサート( 古代音楽アカデミーから分かれたもの )のパトロンとなり、この団体がそこで定期演奏をするようになったからである。

トッテナム・ストリート・ルームは、世紀の変わり目には人気が衰え始め、1794年に古代音楽コンサートは前の年にできた新しい、素晴らしいコンサートホールに移った。これは、ロンドンのイタリア・オペラ上演劇場であるキングス・シアターが再建され、1792年に開場していたところへ、その東側( ヘイマーケット側 )に合体するような形でつくられたものである。建築者はミハエル・ノヴォシエルスキ( Michael Novosielski )。
18世紀のコンサートホール L

ハノーヴァ・スクェア・ルームよりはるかに今日のコンサートホールに近い。 ザロモンはコンサート会場をキングス・シアター・コンサートホール (  29.6m × 14.6m,  433㎡  )に移し、ハイドンは最後の3つの交響曲、102番から104番までをこのホールで演奏するために書いた( 103番変ホ長調《 太鼓連打 》には、美しいソロの部分があるが、おそらくオペラ・コンサート・オーケストラの首席奏者、かの有名なジョバンニ・バッティスタ・ヴィオッティのために書かれたのである )。 ハイドンがこれらの作品のために用いた大オーケストラは―――交響曲102番は55人編成、103番と104番は59人編成―――大きさに較べて割合残響の多いホールと相まって、たっぷりとした力強い音を響かせ、せいぜいメゾフォルテくらいの演奏でも壁面からの反射音が耳に達したことと思われる。

ハイドンがピアノからフォルテへの急激な飛躍を避けているのは、残響時間が長くてその効果が失われるからだろう。そのかわりに、たとえば102番冒頭のホルン、トランペット、弦のユニゾン( ハイドンがオーストリアに戻ってからは木管もこれに追加 )では、漸強、漸弱の記号を使って、ホール自体の音響に効果を委ねている。 その効果たるや、H.C.ロビンズ・ランドン( Robbins Landon)をしていわしめれば、「 うら寂しい、禁欲的な音 」に加うるに「茫漠たる空間、宇宙的孤独感を伴ったもの( おそらくは、それがハーシェルの大望遠鏡を通じて得たハイドンの永遠の観念 )」ということになる。

The Haydnsaal - Haydn s first Esterházy music room - Eisenstadt - A L
18世紀のヨーロッパ大陸では、公のコンサートに出かけるということはまだほとんど行われていなかった。上流階級の人たちは、裕福な好事家の私邸や数ある宮廷で開かれるなかばプライベートな音楽の集いに出るだけだったのである。宮廷の音楽施設の中でも贅を尽くしたもののひとつが、ヨゼフ・ハイドンのパトロン、エステルハージ家のそれだった。

1761年、ハイドンはオーストリア、アイゼンシュタットにあるエステルハージ居城(  Eisenstadt   )の副楽長に任命された。これは中世のとりでを、カルロ・マルティーノ・カルローネ と セバスティアーノ・バルトレットが 1663~1672年に宮殿に改造したものである。

The Esterhazy palace - Eisenstadt - 1 L
Haydn s first Esterházy music room - Eisenstadt 1766年 - 1 L

さらにハイドンは、ハンガリーのエステルハーザ城( Eszterháza  /  Fertőd  )に移り、そこに25年近くとどまった。 これらの居城のコンサートホールは、今でも一応昔のままの形で残っており、音響効果を直接体験できる点で、とりわけ興味がもたれる。

Prince Nikolaus Esterházy had a magnificent new palace constructed in Fertőd Hungary - A Lハイドン アイゼンシュタット 大ホール ( ハイドン ザール ) 1760 L18世紀のコンサートホール LThe Haydnsaal - Haydn s first Esterházy music room - Eisenstadt - 3 Lアイゼンシュタットの大ホール( 今の呼び名ではハイドン・ザール )は、ハイドンが作曲の対象としたコンサートホールの中では最も大きく、楽々400人を収容できる。部屋は長方形で、天井は彩色した折上げ、側壁沿いに深いニッチが並んでいて、両端には円柱に支えられた狭いバルコニーがある。奥行38.0m、間口14.7m、高さは12.4mとなっている。

ハイドンは初めてここでコンサートを開くに当たって、もとの石の床の上に木の床を張るよう注文をつけた( 今日も残っている )。おそらく、床が多少振動するような感じがほしかったのと、もうひとつは、低音域の大きな残響を減らしたかったためだろう。それでもなお、中音域の残響時間は満員時で1.7秒、低音域は2.8秒にのぼるし、部屋がいっぱいでなければ( 当初はそういうことが多かった )さらに伸びて、まるで教会近くなる。( 20世紀には、これくらいの残響時間は、2,000~3,000席のホールでは珍しくない )。

ユルゲン・マイヤー( Jürgen Meyer )が指摘しているが、1761年から1765年の間にこのホールで演奏するために書かれた数多くの交響曲は、すべて、ここの〈 ライブな 〉音響を意識していることがはっきりわかる。ホールの大きさの割に残響時間が長いことと、狭い壁側からの反射音が強いこととが両々相まって、フォルテの全合奏では音楽が全堂にみなぎるような強烈な印象を与える。交響曲第6~8番コンチェルト・グロッソ様式では、コンチェルティーノ( 独奏 )が分かれていて〈 段階的強弱法 〉( Terrassendynamik )が使われており、合奏の強音が独奏部分の弱音とみごとな対照をなす。この時代のハイドンが使った小オーケストラの音は、交響曲13、31、39、72番では、ホルンを4本にすることで強化される。13番の出だしのホルンなど、残響が長くて、ほとんどオルガンのような響きがする。

ハイドンは1796年以降にもまたコンサート用にアイゼンシュタットを使った。ニコラウス1世の後を継いだニコラウス2世がエステルハーザを離れてウィーンに行き、夏の間だけ古い一族の居城で過すことにしたからである。最後の6曲のミサのうち5曲の初演はこの大ホールで行われた。弦楽四重奏曲は、同じ階にある美しい小さな部屋で演奏された。

Prince Nikolaus Esterházy had a magnificent new palace constructed in Fertőd Hungary - A L

エステルハージ侯ニコラウス1世は、1762年に位を継いだあと、目もあやなロココ式の宮殿エステルハーザ城を建てた。その中には、大きなミュージック・ルーム、イタリア・オペラ用のオペラハウス( 1768年完成 )、マリオネット劇場( 1773年完成。洞窟のような仕上げで、壁やニッチには石や貝殻が貼ってある )、それに特別の音楽家の宿舎( 1768年 )もつくられていた。

この宿舎には外来のオペラ歌手や劇団員のほかにオーケストラのメンバーも泊まるのだが、外からの客があまりにも多いため、住み込みの楽士は、だいたいがウィーン出身なのに、妻の同伴を許されていなかった。実はこれがきっかけでハイドンはかの有名な《 告別 》交響曲を書いたのである。ここの大ミュージック・ルームで初演されたこの曲は、そろそろ楽士たちに休暇を与えていい頃ではないかと、ハイドンが侯爵にほのめかしたものだった。

1階のエントランスの部屋に置かれている時計 - 1 LPrince Nikolaus Esterházy had a magnificent new palace constructed in Fertőd, Hungary.    (  エステルハーザのエントランス時計  )

エステルハーザのミュージック・ルームは、1766年に完成した。ハイドンがかかわりをもつホールの中ではいちばん小さく、15.5m × 10.3m × 9.2m しかない。

聴衆が200人ほどで 満員の時、残響時間は中音域で1.2秒、低音域で2.3秒である。ということは、アイゼンシュタットよりもずっと短いわけで、そのドライで澄んだ音は、今日のリサイタル・ホールの状況に匹敵する。ハイドンのオーケストラは、アイゼンシュタット時代と同じ大きさだったが、その音は全く異なり、ほとんど室内楽のような感じだったと想像される。

これまたマイヤーの見解だが、このルーム特有の音響は、ハイドンの作曲書法に反映されている。たとえば、交響曲57番の最終章ペルペトゥウム・モービレはプレスティッシモ( できる限り速く )と指定されているが、残響時間の長いルームではぼやけてしまうだろうし、67番の緩徐楽章の末尾で全弦楽器がコル・レニョ( 弓の木部を使う奏法 )で演奏するパッセージは、非常に音が小さいから、聴衆はよほどオーケストラに近く座れない限りはかばかしい印象を受けられない。

エステルハーザで書かれた交響曲の多くが2つの版で出ていることも重要な意味をもっている。ひとつは、野外を含め他の会場での演奏用にトランペットとティンパニーを使ったもの、もうひとつは、親近感のある音響を持つミュージック・ルーム用にこれらの楽器を抜いたものである。

Prince Nikolaus Esterházy - New palace constructed in Fertőd Hungary - 1 L130ヘクタール Prince Nikolaus Esterházy had a magnificent new palace constructed in Fertőd, Hungary - A L

ロンドンのコンサートホールについて見たとおりで、大陸の公共コンサートホールも、宮殿のホールに較べて仰々しいところがはるかに少ない。ドイツに最初の公共コンサートホールが建てられたのは、ようやく1761年のこと。ハンブルグのコンツェルトザール・アウフ・デム・カンプで、ハンブルグは当時イギリスの影響を強く受けていた。このホールのことはほとんどわからないが、ごく簡素な建物だったと推定しなければなるまい。

Leipzig Gewandhaus concert room - 1 L
次なる重要な発展は、1781年、ライプツィヒのゲバントハウスに有名なコンサートホールが建てられたことだった。 ハンブルグと同じくライプツィヒも、長年、楽士を雇っていて、町や教会の祝日には音楽を演奏させ( トーマス教会でJ.S.バッハの作品を演奏したのはこういう楽士である )、時には公会堂の塔から音楽を流したこともあった。しかし、本来の公共コンサートは、ライプツィヒもほかほドイツの都市と同じく、コレギウム・ムジクム( 音楽学校 )、あるいは学生その他からなるアマチュアの音楽協会が先鞭をつけた。ライプツィヒには宮廷がなく、主として商業と大学の町で( ゲーテやフィヒテはここで教育を受けた )、活発な音楽伝統をもっていた。

1700年頃、コレギウム・ムジクムが2つ設立された。そのひとつの創立者が作曲者ゲオルク・フィリップ・テレマンで、彼のあとを追って J.S.バッハが校長になった。コンサートはコーヒーハウスで行われた―――イギリスの居酒屋コンサートと軌を一にする。 1743年に私的な音楽協会が結成され、フランクフルトに現存する類似のものと同じ名前で、グローセス・コンツェルト( 大コンサート )と呼ばれた。16人のメンバーは、だいたい町議会の楽士である。最初はメンバーの私邸でコンサートを開いていたが、やがてビュール川沿いの三白鳥亭に部屋を借りてそこへ移った。

ヨハン・フリードリッヒ・ライヒャルト( Johann Friedrich Reichardt )が1771年に、その部屋について「 大きさは並の居間ぐらい、一方に奏者のための木のやぐらが組まれ、反対側は高い木の桟敷で、観客ないし聴衆が長靴をはき、かつらを着けずにやってくる 」と述べている。 コンサートは木曜日に開かれ、冬は毎週、夏は隔週―――今でもそれは変わらない―――であった。 七年戦争でプロイセンがザクセンを侵略し、グローセス・コンツェルトの活動は中断した。理由はもうひとつあって、コンサート・ルームに隣接する三白鳥亭の一部が壊れたのだった。1762年に再開され、フルート奏者でバス歌手のヨアン・アダム・ヒラー( Johann Adam Hiller )が指揮者に指名された。

1766年にライプツィヒの劇場が設計され、それにコンサートホールも組み込まれていたので、もっと立派な会場を求める必要もいよいよ満たされるかと見えたのだが、結局コンサートホール抜きで建てられてしまった。 1780年、市長ミュラーは、市議会を説得して、ゲヴァントハウス、つまり「 織物商ホール 」の2階の図書室をコンサート・ルームに改造することに同意させた。設計者はライプツィヒの建築家ヨハン・フリードリッフ・カール・ダウテ( Johann Friedrich Carl Dauthe )で、その後まもなくライプツィヒのニコライ教会の内装を美しく模様替えしたことでも有名な人物である。

コンサートホールは1781年に完成した。 旧ゲヴァントハウスは( 「 旧 」と後に呼ばれるようになったのは、それに替えてつくられたノイエス[ 新 ] ・ゲヴァントハウスと区別するため )、1894年に取り壊されたが、その平面図、部分図を書き、構造も記録された。ライプツィヒし歴史博物館には、内部を印象深く描いた小さな水彩画が現在も残っている。

Leipzig Gewandhaus Concert hall - 2 L

ホールは両端が曲面をなす長方形で、23.0m × 11.5m × 7.4m 。壁は柱形とパネルの効果を出すように、初めは彩色されていた。天井は縁が折上げの平天井で、人物をまじえた空の景色のフレスコ画で飾られている。描いた人は、ライプツィヒ・デザイン絵画建築学院の校長アダム・フリードリッヒ・エーサー( Adam Friedrich Oeser )だった( ゲーテは彼の学生 )。

Leipzig Gewandhaus Concert hallb - 1 Lホールは座席数400( ただし、あとの章で述べるとおり、19世紀に収容能力がふやされた )。座席は壁側と平行に並べてあるので、聴衆は互いに向き合うことになる( この配置は、建物のある間終始変わらなかった )。そしてその両端は高いボックス席になっている。オーケストラの舞台は50ないし60人の奏者を載せることができ、床の約1/4を占めて、わずかに高くつくられ、前に手すりが設けてある。

旧ゲヴァントハウスは、1835年から1847年までメンデルスゾーンが指揮者だった間、音響の良さでとりわけその名をとどろかせていた。そして、今日にいたるコンサートホール設計の歴史の中でも、最高の位置に位する最初のホールという栄誉を担ってい
る。  ( 引用終了 )

この 初代ゲヴァントハウス 大ホールは 1842年の改修により1000席を超える座席数で運用され続け多くの演奏に寄与し、オーケストラが 新ゲヴァントハウス( 下写真 )に移った後の 1894年に役割を終え取り壊されたそうです。

Gewandhaus konzertsaal 1900年頃
新ゲヴァントハウス・コンサートホール 1900年頃

さて、最後に少し整理しておきたいと思います。

  • 1996年  Tokyo Opera City   C.H.  47.15m  × 21.2m  (  H27.6m  )
    1986年  Suntory Hall  ( 1,925㎡ ) 53.0m  × 36.0m  (  H 20.15m )1774年  Hanover Square R. ( 235㎡ ) 24.1m  ×  9.8m  (  H 8.5m  )
    1776年  Willis’s Rooms  (  305㎡  ) 25.0m  × 12.2m
    1772年  The Crown & Anchor  ( 271㎡ )   24.7m  × 11.0m
    1763年  Haydn Saal ( Eisenstadt )  38.0m  ×  14.7m  (  H 12.4m )
    1766年  Eszterháza (  Fertőd )  15.5m  ×  10.3m  (   H  9.2m  )
    1781年  Leipzig Gewandhaus   23.0m  ×  11.5m   (  H  7.4m  )
  • 1761年~1765年   Haydn Saal   ( Eisenstadt )       16編成
    1766年~1774年   Eszterháza  ( Fertőd  )    18編成
    1775年~1780年             22編成
    1781年~1784年             29編成
    1791年~1792年   Hanover Square Room     35編成
    1794年~1795年   Rooms,  London        37編成
    1795年                         Concert Hall           55編成
    1795年         King’s Theatre,  London   59編成

このように 1700年代後半のオーケストラの様相を交響曲の父、弦楽四重奏曲の父 ともいわれる ハイドン (  Joseph Haydn,  1732-1809  ) でたどりながら、『 音が媒質である空気の疎密波であり、その空間がどういう反射や 減衰につながる条件を有するかが‥ 響きを決定する。』ことを考えあわせれば、私達にも理解できることが少なくないと思います。

現在、私が理解しているホールの特質は 天井、床もふくめた 壁と人間がいる位置の関係性( 距離・反射特性 )に尽きるということです。これは 客席での音場感はいうまでもないことで‥ 現代のホールは多目的のゆえに 直接音には頼りきれない構造であることが多いために 反射音は ステージ上の演奏者にとっても重要な情報となっており、それが 演奏のクオリティーにも大きな影響をあたえているからです。

結局、 私達は音楽史において現在も 試みの途上にいると言えるのではないでしょうか。歴史上はじめて市民のための音楽ホールとして 1781年に開場した ゲヴァントハウスの大ホールが およそ500席ほどで その多くの座席が中央を境に 両側の壁を背にして向かい合って座る設定ではじめられた段階から、室内楽やオペラ、交響曲 果ては教会音楽にまでに対応しようと多目的化が急激に進みリスクを取ったことで 音樂的な調和を妨げかねない空間がたくさん建設された現代の状況などにより私はそう感じます。

ただ‥ 私は 音楽空間の歴史の浅さにくらべて おそらく数千年におよぶ歴史を受け継ぎ音楽的な響きを創造する特殊な技術者として生まれた作曲家が 、多くの不都合な条件を克服し 深淵の淵を感じさせるような響きの時間・空間を出現させてくれたことには心から感謝しています。

また聴衆にとって18世紀のホールが理想的な音響空間でなかったとしても、音楽的な依り代として音楽ホールがはたした役割は大きかったという事実に私は 感慨を覚えます。

私はこのように音楽に関係した歴史を紐解くこと‥  たとえば ゲヴァントハウス管弦楽団を1835年から急逝した1847年まで 指揮していたメンデルスゾーン( 1809- 1847 )が、同じ建物に生まれた幼馴染であり 自らが指導する管弦楽団のコンサートマスターである ダヴィット( Ferdinand David, 1810-1873 )と共に 1844年 に あのヴァイオリン協奏曲( op.64 )を初演したというような事実に たとえようもない喜びを感じます。

ここまで概略として音楽ホールの歴史をたどってきましたが、最後に ご存じな方も多いように ゲヴァントハウスの後を引き継ぐようにオーストリア の首都ウィーンに『 ウィーン楽友協会大ホール』が建設されたことに触れておきたいと思います。

ウィーンで最初の本格的な音楽ホール建設は 1831年のことでした。しかし このホールは定員が700人と手狭でしたので、1860年代以降のウィーン改造の際に計画されたことにより 1870年にウィーン楽友協会の建物が竣工しました。

この建物にある ウィーン楽友協会大ホール ( Großer Saal グローサーザール )は  1,680席で シューボックス型と呼ばれる直方体の空間を持ち、板張りの床、格天井、バルコン、カリアティード( 女人像柱 ) 、そして床下、天井裏の空間により理想的な音響が得られているとされています。

ここでは‥  たとえば 1872年から1875年まで ブラームスが ウィーン・フィルハーモニー交響楽団の指揮をつとめるなど、音楽における歴史が数多く 生まれたことで私たちに記憶される事にもなりました。

それから140年以上経過していますが その名声は衰えることなく、結果として このホールは 各国で音楽ホールを建設する 場合に 必ずといってよい程 残響などの要素が参考とされるようになり現在に至っています。

私は このホールが現代の音楽ホールの原型そのものと信じていますので その存在に心より感謝しています。

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以上、長文にお付き合いいただきありがとうございました。

2016-7-21     Joseph Naomi Yokota

弦楽器の鑑定について

● 本物の弦楽器を見分ける方法

1.   “オールド弦楽器” の 特徴について
2. コーナー部差異の検証実例
3. パティーナ( Patina ) 加工について


4.   表板、裏板のふちの特徴を知るには


5.  ヴァイオリン属と 改変の歴史

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  Niccolò Paganini ( 1782-1840 )
1827年7月12日( 木曜日 )プログラム

イタリア・ジェノヴァ 生まれの パガニーニは ナポレオンの妹のエリーザ・バチョッキ( Elisa Baciocchi ) が 1805年にトスカーナ大公妃として設けたルッカの宮廷における独奏者として演奏活動をはじめます。

そしてナポレオンが失脚するとパガニーニは独奏者としての活動をはじめました。彼は 1809年より北イタリアからはじめた演奏会の開催場所をイタリア全土にひろげました。

その後の 1828年にはウィーンでも成功をつかみ、ついでプラハ そしてドイツ各地で開催した後である 1831年には 3月から4月にかけて有名なパリ・デビューを成功させ 5月にロンドンに渡り翌年にかけて イギリス、スコットランド、アイルランドでも大成功をおさめました。

 

 

 

1848年  :  ウィーン体制が崩壊しヨーロッパの不安定化が進みます。

たとえば イタリアでは 1861年にヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がイタリア統一をおこない、プロイセンは 鉄血宰相ビスマルク( 1815-1898 )の指導のもとクルップ社の鉄鋼製品( 鉄道、大砲 )を背景として 1866年の普墺戦争に勝利して 1867年に北ドイツ連邦に領土を拡大します。

そしてその後 の普仏戦争により 1871年には ワーグナーを擁護するとともにノイシュヴァンシュタイン城を建設させたルートヴィヒ2世( 1845 – 1886 )のバイエルン王国( Bavaria )やフランス領だったロレーヌ・アルザスを併合してドイツ帝国が成立しました。

また 1842年にアヘン戦争に勝利したヴィクトリア女王( 1819 – 1901 、在位 1837 – 1901 )のイギリスも植民地拡大をすすめ大英帝国を構築し繁栄します。 こうして帝国主義を国是としたヨーロッパ列強( ドイツ、イギリス、フランス、イタリア、オーストリア、ロシア )が世界地図を分割していったことで『 諸戦争を終わらせる戦争( War to end wars )』と言われた1914年の第一次世界大戦( 1914 – 1918 )が発生することになりました。

 

正しさを競うと戦争が起きますが、美しさを競うと感動が生まれ、人が幸せになります。奇異な表現かもしれませんが・・ 私は、古の弦楽器制作者が究極に求めたものは  “The violin is a singing instrument, not a stringed instrument.” ということではないかと思っています。

そして彼らの思想の根底をながれていたのは、「美」や「調和」「利他の心」であったと信じています。

しかし、残念ながら それは1800年代の半ばを境とするかのようにして薄れていったようです。

STRADIVARI’S FABLED “MESSIAH” THREE CENTURIES ON: THE MOST CONTROVERSIAL VIOLIN IN HISTORY?

It was donated to the Ashmolean Museum in 1940 by the firm of W.E. Hill & Sons to become a benchmark for future makers.


The world’s most valuable violin? The Messiah Stradivarius
0:57 ” 1716 ‥ It is the only as new Stradivarius ‥”

Violin   1854年頃

●  Eugène-Auguste Ysaÿe ( 1858-1931 ),  Liège / 1886 ‘Royal Conservatory of Brussels’  / 1918 Cincinnati  /  Brussels :   Violinist

●  Jenő Hubay ( 1858-1937 ),  Pest / Berlin / Paris / 1882 Brussels / 1886 Hungary, ‘Budapest Quartet’ / Hubay’s main pupils Joseph Szigeti.   :   Violinist

▶  1870年  Großer Musikvereinssaal( Wien )1680席,  48.8m  ×  19.1m  (  H 17.75m  )

1861年 Wilhelm I ( 1797 – “1861 – 1888”  / “Deutscher Kaiser 1871 – 1888” ) : Otto von Bismarck ( 1815 – 1898  / “Eiserner Kanzler 1862 – 1890″ )

▶  1870年9月2日 普仏戦争
[ 投降したナポレオン3世とビスマルクの会見 ]

Napoléon III ( 1808-1873 / 1848 -“1852 -1870” )

▶  1884年  Neues Concerthaus – “Leipzig Gewandhaus ”

 

 

 

Violin   1854年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

● 響胴の観察ポイント


Hendrik Jacobs (1639-1704)     Violin,  Amsterdam 1690年頃

真の意味で‥ 完成度が高いヴァイオリンなどの弦楽器は その響きと操作性を達成するための工夫がなされています。

そこで 私は、ヴァイオリンや チェロで それを「 識別 」する際には 響胴低音側の 肩口から観察をはじめます。

Giovanni Battista Ceruti ( 1755-1817 )
Violin “Ex Havemann”,  Cremona 1791年

Giuseppe Antonio Rocca ( 1807-1865 )
Violin, Torino  1845-1850年頃

Giuseppe Leandro Bisiach ( 1864-1945 )
Violin,  Milano 1910年

Nicolas Lupot ( 1758-1824 )
Violin,   Paris  1807年

その参考例として 4台のヴァイオリンを並べましたが、観察ポイントは 下図の 点A、点Bの辺りです。

では、拡大写真でご覧ください。

そして これらのポイントは、チェロにおいても検証が可能です。

Domenico Montagnana ( 1686-1750 )
Cello,  Venezia  1733年頃

Old Italian Cello,  1680-1700年頃
(  F 734-348-230-432 / B 735-349-225-430 / Stop 403 / ff 100  )

Antonio Stradivari (ca1644-1737 )
Violoncello,   “Stauffer – Ex Cristiani”   Cremona  1700年

ヴァイオリンや チェロの響を生みだす響胴は木製の箱ですから、共鳴現象を誘発する 表板などの瞬間的な「 緩み 」は、正中線を挟んだ左右の非対称性や 弦の張力差による「 ねじり 」により発生していると考えられます。

私が 表板低音側の 点A、点B としたポイントは 裏板側の軸が回り込むための加工で、完成度が高い弦楽器であれば “意図的” な痕跡を確認できます。

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つり合いという現象

私は ルネサンス期の1500年代中頃に誕生した ”オールド・ヴァイオリン” は 1650年から1750年頃ヨーロッパ各地で盛んに製作されたものの、 1800年頃にはその製作者が激減し‥ ついには絶えてしまったと考えています。

そして その状況は、イタリアの ヴァイオリン博物館に遺された ストラディヴァリの木型( モールド )や、型紙などの製作補助具の扱われ方が象徴していると思っています。

これらは、最近も新しい器材を用いた丁寧な再計測がおこなわれており 考古学的な資料としては大切にされてはいますが、実際の弦楽器製作には それほど活用されていません。

ストラディバリウスなどの “オールド・ヴァイオリン”の名器は、音の立ち上がりが俊敏で 倍音の響きがとても良く、指板上だけではなくフラジオレットなども含めて指向性を持った響が作り出せます。そして演奏者自身の耳でも 音程や響きの輪郭が捉えやすく、弾き方によったヴァリエーションが工夫しやすいため豊かな色彩感を生みだすことが可能です。

そのような “オールド・ヴァイオリン”ですので、弦楽器製作者や演奏者にその特質について尋ねると『 音が生みだせる 』という要素に意識が向きがちのようです。

しかし、私の結論は違いました。
私は “オールド・ヴァイオリン” の特質は 端的に言って『 演奏者が随意に音を止められる 』という操作性こそにある思っています。

1700年代の弦楽器製作者にとって、演奏時に レスポンスが良いことはとても大切で、その探求は 最終段階で『 音の始末が良い‥ 』という高難度の演奏が生みだせる操作性能にまで至ったと考えられるからです。

この仮説で 重要な意味をもつのが、ストラディヴァリが 弦楽器を製作するために使用した木型( モールド )や、型紙などに製作時の基準として刻まれた 印しや括弧、あるいは 同心二重括弧 (  Concentric double parenthesis ) などの読み解きです。

Stradivari’s moulds

Form G  Length  347  UB  161  CB  103  LB  201

Antonio Stradivari made his violins by utilising a thick ca.14 mm wooden mould or ‘form’, to which the four C-bout corner blocks, together with the top and bottom blocks, were lightly glued, and around which the thin lengths of rib were shaped and then strongly glued to the blocks. Simplistically, once all the glue had dried, the ‘garland’ of blocks and ribs could be carefully detached from the inner mould, and the front and back plates could then be attached to the garland to create the soundbox. Although Stradivari’s moulds, made of walnut wood, have varying lengths, widths and proportions, these variations are often by no more than a few millimetres and sometimes the difference between a particular measurement on one mould and the same measurement on another is just one millimetre; for example, the three bout-width measurements of the P mould, and those of the PG mould, are identical, while the body lengths differ by just one millimetre: P mould 343.5 mm; PG mould 344.5 mm (Stewart Pollens’s measurements).

Almost all the moulds bear identifying letters, inked or incised in block capitals: for example, the letters P, S, and T, G, PG, and MB. Because there are so few extant documents known to be written in Stradivari’s hand, it is not certain which, if any, of these mould letters were drawn by him. Some of the moulds have dates, also inked or incised into the surface of the wood: the mould marked SL is dated  November 9, 1691 (incised), and one of the two moulds marked S is dated September 20, 1703. The two B moulds are dated June 3, 1692 and December 6, 1692 (both incised), while the PG mould is dated June 4, 1689 (also incised).

弦楽器の音響メカニズムは難解ですが、これらを少し読み解くとすれば‥ まず、上図の点 P が “オールド・ヴァイオリン “の裏板にみられる『 セントラル・ピン 』とほぼ一致するという状況証拠から、点 P を 裏板におけるつりあいの中心点として印されていると考えることができます。

Jacob Stainer ( ca.1617-1683 )  Violin,   Absam ( Tirol )

Underneath the parchment covering the center joint of the back of the violin by Jacob Stainer, five marking points are hidden.Their distance from the lower end of the body can be measured precisely.

ヤコブ・シュタイナーによる このヴァイオリンの裏板では、中央部を縦に覆う羊皮紙の下に、5つのマーキングポイントがあります。余談ですが  現在では、それらと響胴の下端からの距離は正確に測定されています。

Nicolò Amati ( 1596–1684 )  Violin,   “The Brookings”   1654年

“Guarneri del Gesù”  /  Bartolomeo Giuseppe Guarneri ( 1698-1744 )

また、グァルネリ・デル・ジェズ や ニコロ・アマティのヴァイオリンのなかには 裏板中央部のピンだけが埋め込んであるものが見られるので、それは『 セントラル・ピン 』、『 背部ピン ( Dorsal Pin ) 』と呼ばれています。裏板の表面に達するまで円錐状の穴を穿った上で、埋め込まれた木片は 皆さんにとっても興味深いのではないでしょうか。

Nicolò Amati ( 1596–1684 )  Violin,   “The Brookings”   1654年

さて、弦楽器の音響メカニズムの読み解きでは『 セントラル・ピン 』以外にも、下図のように 『 同心二重括弧 』から同心円を導きその中心に点 C を置き 点 P との距離の意味や、コーナーブロックとの関係を検討することもできます。

Antonio Stradivari ( ca.1644-1737 )  Violin,  “San Lorenzo”  1718年

また、それらの モールド と対応している可能性がある楽器‥ この ヴァイオリン製作用木型 “Form G” の場合は、1718年製の ストラディバリウス “San Lorenzo” などと照らし合わせて 駒位置や 魂柱位置の条件設定も学ぶことも可能です。

 

しかし 残念なことに、 現代では このような 音響システムに関する研究はおざなりにされ、”販売”を目的とした “製品”としての “現代ヴァイオリン”が盛んに製作されています。

そのような昨今ですので、ヴァイオリンネック材として ヘッド部がこの状態まで加工されたものを インターネットを検索することにより、私たちは ¥5,000 以下で購入出来たりします。

まあ‥ 機械加工のものや「工場制手工業」タイプなど出来はいろいろユニークですが‥ 。

また、下写真の製作学校系の人達のように、敢えてネック部が全体価格の20%だと換算すると ヘッドを削りあげた状態でそれが おおよそ¥100,000 を超えると考えられる製作者も 大勢います。


しかし残念なことに 音響上の特性において、この両者にほとんど差はないのではないかと 私は思っています。

そこで まずこの点に関する資料として、 レオポルト・モーツァルト著の書籍( 翻訳版 )を紹介させてください。

レオポルト・モーツァルト( 1718-1787 )は 息子のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが誕生した年である 1756年の秋に『 Versuch einer gründlichen Violinschule( ヴァイオリンの基礎的入門の試み ) 』を出版しました。

この書籍は 日本でも 塚原晢夫氏が翻訳したものが 全音楽譜出版社から1974年に『 バイオリン奏法 』として出版されています。

ところがこの翻訳底本は 1951年に出版されたクノッカーの英語版の改訂版であったため、私たちの間では ながらく原典版の翻訳が待ちのぞまれていました。

そうして時が経ちましたが‥‥、 今年5月に 同じ全音楽譜出版社から 原典版である「初版」がついに レオポルト・モーツァルト『 ヴァイオリン奏法 』新訳版( ISBN978-4-11-810142-2  C3073  ¥3800E )として出版されました。

これは音楽学の久保田慶一氏が 初版( 1756年 )、第2版( 1770年 )、第3版( 1787年 )、第4版( 1800年 )などを検証した上で 「初版」を底本として翻訳したものだそうです。

献呈文に続く「はじめに」の部分に書かれたあいさつ文の署名は
” ザルツブルク、1756年7月26日 モーツァルト “ となっており、そのあとに『 ヴァイオリン奏法への導入 』として 第1節が  『 弦楽器、とりわけヴァイオリンについて 』のテーマで 7項目に分けて並べられていて(本文 P.1~P.11)、 全文は 295ページです。

[  Small size violin of Wolfgang Amadé Mozart  ]
Andreas Ferdinand Mayr  1746年頃
Worked for the Salzburg Court ( 1720-1764 ).

少し長くなりますが、18世紀半ばの弦楽器製作を考証するために この翻訳本の一部をここに引用させて頂きたいと思います。

【  第1節    弦楽器、とりわけヴァイオリンについて  】

第3項目

Füssen trained maker.  

(中略)‥‥  ヴァイオリン製作者は、カタツムリのような優雅な曲線や 巧みに彫られたライオンの頭などを最後に装着して、楽器を完成させる。

彼らは楽器本体よりも こうした装飾にしばしば手間をかけるのだ。そのためにあろうことか、ヴァイオリンは 外面的な虚飾という、俗に言うごまかしの犠牲になってしまうのである。


Salzburg,  1713年

 

Ole Bull ( 1810-1880 ) Violin / West Norwegian Museum of Decorative Art

鳥を羽でもって、馬をブランケットでもって評価する人は、きっとヴァイオリンも、色艶やニスの色でもって判断して、本体部分の状態を詳しく調べたりはしないであろう。

またこのような人たちすべてが、頭脳ではなく、 見た目 を判断基準にしているのである。ぼさぼさ髪のカツラをかぶったところで、生身の人間の頭がよくならないのと同じように、美しく彫られたライオンの頭がつけられても、ヴァイオリンの音はよくならないだろう。

こうは言っても、多くのヴァイオリンは見た目のよさだけで評価されるのである。身なりのよさや 金を持っているだけで、そして華やかで巻き毛のカツラをかぶっているだけで、多くの人々は、やれ学者だの、助言者だの、医者だのと思ってしまうのである。

それにしても、私は何の話をしているのだろうか!うわべの見かけだけで判断してしまう習慣を嫌うあまり、脱線をしてしまったようだ。

第5項目

とりわけ嘆かわしいことは、今日の楽器製作者たちが、自分たちの仕事に対して あまり努力していないことである。注( 3 )

では何が必要なのだろうか? ひとりひとりが 自分なりの考えや 想像で仕事をしていて、楽器の諸部分についての確かな基準を持っていないのだ。

例えば、側板が低い場合には、胴は高く湾曲させなくてはならない、しかし反対に、側板が高くても、表板を少しだけ湾曲させて高くするだけで、音の通りがよくなる

【  所有者の依頼により 側板の高さを増やした事例  】

注( 3 )
楽器製作者は今日でも たいていは生活のために仕事をしている。ある点で彼らは批判されるべきではないだろう。それというのも、人々はいい仕事を求めるが、それに対して多くを支払おうとしないからだ。

―― 要するに、音は側板の高さからは それほど悪い影響は受けないという原則を、ヴァイオリン製作者は 経験から得ているわけである。

さらに裏板となる木は 表板の木より強くなくてはいけないこと、そして表板も裏板も周辺よりも中央部分で厚くなっていること、さらに次第に薄くなったり厚くなったりするにしても、木の厚みにはある一定の均一性がなくてはならないことを知っていて、このようなことを 外側カリパス( 訳注:厚みを計測するはさみ尺のこと )を使って検査するのである。

● どうして ヴァイオリンは ひとつとして同じではないのだろうか?

●  どうして あるヴァイオリンは大きな音が出て、別のヴァイオリンは小さな音しか出ないのであろうか?

● どうして ある楽器は、いわば鋭くとがった音がし、別の楽器の音は響かないのだろうか?

●  荒々しく叫ぶような音がしたり、悲しく押し殺したような音がするのは、どうしてなのだろうか?

これ以上 問うのはやめよう。

これらすべては 楽器製作者のやり方の違いに起因しているのだ。ある製作者は目分量で 高さや厚さなどを決めていて、十分な確固とした原則に立っているわけではないのである。

そのために、ある人にはうまくできるのに、別の人には まずい結果に終わるのである。このことこそ、音楽から 多くの美しさを現実に奪っている諸悪の根源なのである。

第6項目

(中略)‥‥ それよりも、私たちがいい楽器にあまりに出会わない、そして出来映えも不揃いで 音質もさまざまであるということを、もっと真剣に考えた方がいいのではないだろうか?

そうすれば 学者先生たちの研究の力を借りて、もっと進展だってできるであろう。

○  例えば、どんな種類の木が弦楽器には適しているのか?
○  そのような木をどうすればうまく乾燥させられるのか?
○  製作にあたって、表板と裏板とで木の年齢が違うとうまくいかないのではないだろうか?

これは 1998年にロンドンで Peter Biddulph さんが出版した ジュゼッペ・ガルネリ( 1698-1744 )の原寸大写真集 ” Giuseppe Guarneri del Gesu “の 161ページから引用させていただきました。

年輪年代学の研究者である ピーター·クラインさんが 25台の ガルネリ・デル・ジェスのヴァイオリン表板を研究した結果を表にしたものです。

現代ではヴァイオリンを製作する場合‥ 材木のスプルースを上からみて放射状に切断して、その板の外側どうしをジョイントすることで左右対称の木組みが なされているために、表板の年輪は左右で違ったとしても数本以内で製作される場合がほとんどです。

ところが ピーター·クラインさんの研究では、これら25台のガルネリ・デル・ジェス( ロワー・バーツ部での左右の年輪合計は 131本から 260本です。)のうち 16台が ジョイントされた左右の年輪数が 10本以上( 10~63本 )も違うことが指摘されています。

これに 年輪年代学 の材木の時代考証をあわせて考えると、ガルネリ・デル・ジェスは 積極的に” 木伏技術 ” として左右が非対称の表板によってヴァイオリンを製作したと考えられます。

私は、ジュゼッペ・ガルネリは 表板に” 木理 ”を考慮して別々の時期に伐採された木材をジョイントした” 疑似的な一枚板 ”を 強いねじりを生みだすために使用していたと思っています。

○  どうしたら 木の気孔はうまく埋めることができるのだろうか?
○  そのために内側にもニスを塗るべきなのかどうか、そして どのようなニスが適しているのか?

○  さらに大切なこととして、表板、裏板、そして側板がどのくらいの高さや厚さであればいいのだろうか?

第7項目

とにかく研究熱心なヴァイオリン奏者というのは、弦、上駒、魂柱を改良しては、自分の楽器をできる限りいいものにしようと努力している。

ヴァイオリンの胴が大きければ、確かに太い弦がいい効果を生むだろう。反対に小さければ、細い弦を張らなくてはならないだろう。

魂柱は高すぎても低すぎてもいけないし、駒の足の下の少し右側に置かなくてはならないだろう。魂柱を正しく置くことのメリットは決して小さくない。

かなり大変ではあるのだが、ときどき魂柱の位置を変えるべきだろう。そのつどすべての弦でいろんな音を出して、楽器の響きを調べ、いい音の状態が見つかるまで、これを繰り返し続けてみるとよい。

駒もまた大いに役にたつ。例えば、音が荒々しくて刺すような、言うなれば、鋭くて、心地よく響かないときには、低い、幅広の、いくぶん厚めの、とりわけ下部を少し切り抜いた駒を使うと、少しはましになる。

音そのものが弱く、静かで、沈む場合には、薄い、あまり幅広でない、そしてできることなら、下方だけでなく中央部も大きく切り抜かれた駒を使うとよくなる。

しかも このような駒の材料は総じて、とても木目が細かくて、気孔のない、よく乾燥した木でなくてはならない。この駒は、表板のローマ字のf形に切り抜かれたふたつの孔の間に置かれる。

 

また 音が沈まないようにするために、弦が固定されエンド・ピンにつけられた、一般には狩人たちの言葉で「緒留め」と呼んでいるテールピースを置くにしても、下方の細くなった端が ヴァイオリンの表板から突き出したり、はみ出したりしないよう、表板と同じ高さになるようにうまく調節しなくてはならない。

最後に、自分の楽器はいつもきれいにしておくように。特に演奏をはじめる前には、弦と表板にある ほこりやコロフォニウム( 訳注:松ヤニのこと )は取り除いておかなくてはならない。

ものごとがしっかりと考えられる人には、とりあえずは この程度のわずかなことで十分であろう。やがて私の望みどおりに、私のこの小さな試み( 訳注:この「ヴァイオリン奏法」のこと )を さらに広げて、すべてのことがらを 正しく規則として示してくれる人が、きっと現れるだろう。

( 引用終了 )

[  Concert violin of Wolfgang Amadé Mozart  ]
until November, 1780.
Klotz family of violin makers in Mittenwald.

私は この レオポルト・モーツァルト著『 ヴァイオリン奏法 』において、音楽家の立場から 弦楽器製作者に対し 告発文のような怒りが込められた意見や疑問が提起されているのは、現代の私たちににとっても本当に重要だと思っています。

少なくとも 1756年頃にはすでに 弦楽器製作者達のなかに『 楽器の諸部分についての確かな基準を持っていない。』実力に問題を抱えた人が増えていたことがハッキリと証言されているからです。


話しは変わりますが、これは 私が大切にしている新聞記事です。

「 過去へ 」と題されたこの記事の終わりには
そう考えると、私たちの日常はだんだん貧しくなっているようにも思える。極端な例では、あの輝かしい音を響かせるバイオリンの名器は、18世紀からあと二度と私たちの手から生まれなくなった。今後、あの音は失われてゆくだけだ。と書かれています。

ジャーナリストであり西洋音楽史の研究者でもある 梅津時比古さんは、現在 桐朋学園大学学長でもあるようですが、私はこの記事を目にしたとき『 流石‥。』と思いました。

もう 20年ほど経ちましたが、私はこの頃から ”オールド・ヴァイオリン” の音響システムは『 原則に従うことで ヴァイオリンの諸部分が相互に補完しあうバランスを礎とした仕組 』にあると考えるようになりました。

2003年 9月29日  16:45頃

そして、このように ”オールド・ヴァイオリン” の音響システムに関する検討を経た後の 2004年11月11日 に本格的な復元楽器の製作に着手しました。

Violin –  Joseph Naomi Yokota ,  Tokyo  2008年

この研究は “オールド・ヴァイオリン” や “オールド・チェロ” などを精査し、仮説を立てそれを製作に反映し‥ その結果から 再び検証と仮説を進めるもので、私は あくまで楽器としての性能の復元をめざしました。

因みに、この研究が終了したのは 2015年12月26日 でした。

“オールド・ヴァイオリン”の 音響システム