たとえば、学問の中心は アテネから アレクサンドロス大王によって紀元前332年から建設がはじまり、ファラオ・プトレマイオスⅡ世 ( 紀元前308年 – 紀元前246年、在位 : 紀元前285年 – 紀元前246年 ) が統治していた アレクサンドリアに移りました。
それを象徴するのが、プトレマイオスの命により、紀元前3世紀中頃から前1世紀にかけて ヘブライ語の『 旧約聖書 』を ギリシア語に翻訳した “七十人訳 ( Septuaginta )『 旧約聖書 』” がアレクサンドリアで刊行されたことです。
因みに『 新約聖書 』によると、ポンテオ・ピラトの命によりイエス・キリストが処刑された十字架には「ユダヤ人の王 ナザレのイエス」と ラテン語・ヘブライ語・ギリシア語で書かれていたとされています。
The work represents Jesus Christ crucified, and is one of the best known religious works of the Sevillian painter Diego Velázquez.
このようにヨーロッパ世界の思潮を探っていくと、 “ヘブライズム”や “ヘレニズム” の萌芽は 新石器時代後期から青銅器時代初期にかけて キクラデス諸島で栄えた『 キクラデス文明 』( 紀元前3200年~紀元前2300年頃 ) までさかのぼれることが分かります。
そして 大理石に刻まれたキクラデス偶像からは、ささやかですが5000年程前に この地域に生きていた人類の「 意識 」を読み取ることが理解出来るのです。
これらの「意識」は ヨーロッパを中心とした西洋の思想の底流をながれ続け、その後の歴史展開により 結果として現代の私たちにも影響をあたえていることを想起すると、キクラデス偶像などの検証は わたしたちを 自身を知ることに繋がっていると考えられるのではないでしょうか。
● キクラデス偶像においての比率と、コンパスについて
さて、その『 キクラデス文明 』を象徴する キクラデス偶像ですが、最も重要なことは、コンパスの使用が推測される‥ 比率 が用いられていることではないでしょうか。
言うまでもなく コンパスは文明の利器ですから、その使用は後世の歴史にとっても 深い意味をもちます。
しかし、問題はそれを用いたことを証明するほどの痕跡が残らないということです。
そこで コンパスの使用された状況証拠をもとめて 世界の文明史をさかのぼってみると‥
現在、最古の文明と考えられており 今も発掘作業がおこなわれている メソポタミア北部の ギョベクリ・テペの遺跡は 紀元前1万2000年前~紀元前8000年頃にかけて建設され、そこから南東方向120km程にある テル・ハラフには ハラフ文化 ( 紀元前6000年~紀元前5300年頃 ) があったことが分かっています。
ハラフ式彩文土器 ( Halafian ware )
それらは、都市文明のはじまりとされる ウルク文化( 紀元前4000年~ 紀元前3100年 )や、同じころその南に建設されたウル ( Ur ) を都とした シュメール文明に影響を与えた可能性が 十分に考えられます。
“Tablet with pictographs” Uruk period IV 3500 B.C.
“Tablet with pictographs” Uruk, ca. 3100 B.C.~2900 B.C.
ウルク文化期の紀元前 3700年頃には シュメール人によって楔形文字である ウルク古拙文字が発明され、それが次第に改良されて 紀元前2500年頃には シュメール文字として定着し、それらの文化は バビロニア ( 紀元前1830年頃~紀元前 1712年 ) に受け継がれ発展しました。
同じころ ( 紀元前3200年頃 ) エジプトでも ヒエログリフと呼ばれる文字体系が確立し、太陽暦が普及するとともに、メンフィスを都としてエジプト初期王朝時代 ( 紀元前3150年~紀元前2686年頃 ) が始まりました。そしてこの頃には 度量衡も 広範囲に伝わっていったようです。
‥‥ このように世界の文明史を追いながら コンパスの使用された状況証拠をもとめて検討した結果、私は 紀元前3200年~紀元前2500年頃に製作されたと考えられている「 スコットランドの 幾何学的に削られた石の球 」が、コンパスを使用した 最古の状況証拠となるのでは‥ と考えるようになりました。
“Towie Ball” ( Celtic Carved Stone Ball, ca.3200B.C.~2500 B.C. )
Found at Towie in Aberdeenshire, Scotland. The ball has four knobs, three of them decorated with spirals or dots.
なお、石に装飾文様などが 巧みに彫り込んであるのは 紀元前1万2000年前~紀元前8000年頃の ギョベクリ・テペ遺跡を最古として世界各地で発見されていて‥ 同時期であげれば フランス、モルビアン湾の ガヴリニ島にある 紀元前3500年頃の遺跡などのように、大規模で且つ 芸術的な遺跡や遺物も少なくはありません。
“Gavrinis passage tomb”, Cairn Gavrinis.
Gavrinis is a small island in the Gulf of Morbihan in Brittany, France.
At the time of construction in 3500 B.C. , the island was still connected with the mainland.
しかし「 スコットランドの 幾何学的に削られた石の球 」のように、 造形的特徴をなす多数のポイント同士が さまざまな対称性や 一定の比率 などの 幾何学的条件を満たしているものは稀有です。
これこそが コンパス ( Compass ) 、または ディバイダー ( Divider ) を使用した状況証拠と言えるのではないでしょうか。
Geometric Stone Spheres of Scotland stone ball found at Skara Brae ( around 3200 B.C. ~ 2500 B.C. ) National Museums Scotland
たとえば、これらの石球のひとつである上写真のものは スコットランドの首都 エディンバラ ( Edinburgh ) にある “National Museums Scotland” に展示されていますが、これは 新石器時代であった紀元前3200年~紀元前2500年頃の集落遺跡 スカラ・ブレイ ( Skara Brae ) で発掘されたものです。
大きさに関しては、一部の例外を除いたほとんどの石球が 直径7cm程で、この出土品も含めて 綺麗な多面体が多く、その中には 4種類の 正多面体も確認されており 楕円形のものはわずかしかないそうです。
また、上写真の石球には 67個の突起がありますが、表面に彫り起こされた突起は 3個〜160個まで 多くのバリエーションがあります。それから、装飾がないものや 複雑な彫刻が施されたものも出土しているようです。
“Carved stone ball” ( classed as Neolithic )
Room 51, British Museum
この写真は「 大英博物館 」の 51番展示室において公開されている石球のものです。ここには 30個以上の “Carved stone balls” が収蔵されています。 これらの石球は スコットランドだけでなく、イングランドなど各地で、およそ387個程が発見されています。因みに、これらの内 アバディーンシャー ( Aberdeenshire ) では 群を抜いて最も高い密集度 ( 169個 )で発見されたそうです。
“Geometric Stone Spheres of Scotland”
Ball from Kincardineshire, Found 1890. ( AN1927-2727 )
Ball from Fyvie, Found 1885. ( AN1927-2731 )
Ball from Auchterless, Found 1885. ( AN1927-2729 )
The Ashmolean’s collections
ところで、このように紀元前3200年~紀元前2500年頃に製作された 幾何学的な石球の製作に コンパスが使用されたとすると、コンパス自体の出土状況も気になるところです。
そこで 私も それに関してのリサーチを試み、共和制ローマ期 ( 古代ローマでは 元老院と執政官が民会の決議により政治を行っていました。) である紀元前509年~紀元前27年頃に作られたコンパスや デバイダーまでは確認しました。
“Compass or divider” Roman, Bronze ( 191mm )
Ancient Roman Bronze Rare Architects Geometrical Compass, elegantly decorated and in fantastic condition still usable.
( Reproduction )
Compass excavated from “Pompeii”, ca.89 B.C.~79 A.D.
Naples Museo Archeologico Nazionale
それから 傍証になることを願い、コンパスより遙かに大きいために 出土事例が多い 古代ローマ時代の 刀剣であるグラディウスのなかに、金属製のコンパスが製作されたイメージを探してもみました。
グラディウス・ヒスパニエンシス型刀剣 ( Gladius hispaniensis ) は、ローマ軍が長期間にわたって使用した事から古代ローマ時代における剣の代名詞となっています。その名が示す通りイベリア系刀剣の製法や形状などを、ローマ軍でも導入したもので 短めの刀身と厚い刃が特徴とされています。
これがローマ軍に標準型刀剣として大量に導入されたのは “ハンニバル戦争”という別名がある第二次ポエニ戦争 ( 紀元前219年~紀元前201年 )の頃といわれています。そして、その性能が評価されたために 紀元前27年に古代ローマが 皇帝が治めるローマ帝国となっても 標準型刀剣として使い続けられました。
材質は、銑鉄と軟鉄が交ざった状態の合金鉄材が使用されており、鍛造により製造されたために 両方の優れた特性を得て、それ以前の同サイズの鉄剣と比べ破損し難く 切れ味も 格段に向上した刀剣であったと記されています。
因みに、古代ローマ帝国の グラディウスは刃渡 ( Blade length )が 40cm~68 cm 程で、柄まで含めた全長は 60cm~85 cm 、重量が 0.7kg~1.0kg 程だったそうです。
ヨーロッパにおいての青銅器時代のはじまりは、地中海地域では 紀元前3000年頃で、アルプス以北ではまず紀元前3000年~ 紀元前2000年頃にかけて銅器時代があり、移行期を含めた紀元前2300年~ 紀元前1800年頃にかけてが青銅器時代であったと言われています。
そして、紀元前2000年頃にヒッタイト ( 紀元前1680年頃~紀元前1190年頃 ) の都 ハットゥシャが在った アナトリア地方中部で誕生した冶金技術によって鉄器の使用が始まり、その担い手となったヒッタイト帝国が滅亡すると、多くの人々が移住せざるを得なかったため 結果として鋳鉄技術も他の地域に伝播することになりました。このため、紀元前1000年~紀元前800年頃には ヨーロッパ各地で 鉄器の製作が本格的におこなわれたとされています。
なお、イタリア半島では 紀元前700年~ 紀元前350年頃にかけて鉄器文化が栄えるようになったそうですが、その担い手は イベリア半島に移住し イベリア人と同化していたケルト系の技術者であったと考えられています。私見ですが‥ グラディウスを製造できる彼らにとって、コンパスを製作するのは 容易いことだったのではないでしょうか。
Alfius Statius, “Funeral Monument”.
Roman architect Alfius Statius was a prominent Roman from the days of the early Empire ( at the time of the birth of Christ ).
それから、コンパスは 建築や天文、船舶の航海術などにとって 重要な道具であったために、シンボルとして記念碑や、墓碑などにレリーフとして刻まれていることがあります。
その中でも、ローマ帝国の初代皇帝となった アウグストゥスに重用された 建築家の Alfius Statius の「 葬儀記念碑」は 彼がコンパスなどを使用していたことをはっきりと証ししています。
Roman architect Alfius Statius was a prominent Roman from the days of the early Empire ( at the time of the birth of Christ ).
さて、そこまでは良かったのですが‥ 残念ながら 現時点では キクラデス偶像が製作された 紀元前3200年~ 紀元前2300年頃に コンパスが存在し、また 使用されていたという明らかな証拠は見つけられませんでした。
しかし、同時期に製作されたと考えられる「 スコットランドの幾何学的な石の球 」の製作にも 正確な測定と応用のスキルが必要であるように、 コンパスの使用無くして多くのキクラデス偶像の造形的特徴となっている 一定の比率が反映した偶像製作は難しいと思われます。
帰謬法的な想像力が必要ですが、大理石などで製作されたキクラデス偶像が多数出土したのは およそ 900年間に渡って一定の比率で製作する文化が 受け継がれたからではないでしょうか。
ともあれ‥ ここから キクラデス偶像の多く、特にスペドスタイプなどに見られる比率構成についてのお話をさせて下さい。
先程ふれましたように、キクラデス偶像は 紀元前2700年頃を基準とした区別が可能で、それはこの図のように全長比で「 3分割タイプ 」が 「 4分割タイプ 」に移行するほどの 違いであることが 出土した偶像で確認されています。“Canonical” figurines
また この時期の前後では、全長に対する幅の割合基準とする基準点が変更され、全長比で「 1/6 胴幅 」であったのが「 1/4 肩幅 」とされるようになったという学説もあります。
“Cycladic Idol” ( Statuette of a woman ), circa 2600B.C.~ 2400 B.C.
“Cycladic Idol” ( Statuette of a woman ), circa 2600B.C.~ 2400 B.C.
「 Bastis Master 」 Marble, High 62.79cm
Metropolitan Museum of Art
Cycladic female figurine of the Plastiras variety. / Marble
Early CycladicⅠperiod ( ca.3200B.C. ~ 2800 B.C. )”Grotta-Pelos” group. From the cemetery of Glypha on Paros, grave 23.
National Archaeological Museum of Athens, inv. no. 4762.
因みに、「 3分割タイプ 」以前は初期に製作された”原型”の流れをくむ 「 2分割タイプ 」の “抽象形体型”が ありました。
Cycladic female figurine, Marble on Paros
Plastiras “Violin shaped ”
Early Cycladic Ⅰ period ( ca.3200B.C. ~ 2800 B.C. )
National Archaeological Museum of Athens
その”抽象形体型”の最終期に製作されていたのが “ヴァイオリン”という通称で呼ばれる、このようなキクラデス偶像です。
私は このタイプが 「 首の付け根 」を 2分割のポイントとしていることを興味深いと思っています。
“Cycladic type Idol”, Excavated in Anatolia
「 Grotta pelos 」ca.3200 B.C. ~ 2800 B.C.
このように、キクラデス偶像は およそ900年間に渡って 多数製作されていますので、これらにおいて比率が重要であったことは 間違いないと思われます。
ですから、アナトリア半島で出土した このような “抽象形体型”であっても「 首の付け根 」が 2分割のポイントとなっているという推測が成り立つわけです。
● 『 プロポーション ( 比率、均衡 ) 』の 実際例
ここまでお話しさせていただいたように、キクラデス偶像からは 製作された時にそれぞれの部位間の比率が 強く意識されていたことが確認できます。
このように、頭の長さに対しての身長の割合などとして人体を捉えることを、古代ローマの頃から「 人体プロポーション 」と呼ぶようになり、 その後も重要なものとして伝承されました。
それは この捉え方が、私たちに直感的なインスピレーションを与えてくれるからではないでしょうか。
“The illustration on The Pioneer plaque”, NASA
The plaques show the nude figures of a human male and female along with several symbols that are designed to provide information about the origin of the spacecraft.
余談となりますが、人体プロポーションに関して、ある意味では 非常に象徴的な出来事が 48年程前にありました。
それは、人類史上はじめて太陽系外に 宇宙探査機を向かわせるおりに、探査機 パイオニア10号 ( 1972年 )、11号 ( 1973年 ) に「 人類からのメッセージ 」として この金属板 ( Pioneer plaque ) が取り付けられたのです。
つまり、この探査機は星間空間を漂う一種の”ボトルメール”の役割を持っていました。この計画は カール・セーガン ( Carl Edward Sagan 1934-1996 )、 フランク・ドレイク ( Frank Drake 1930 – )さん達の提案によったものだそうですが、私は この “Pioneer plaque” の表現を実に興味深いと思っています。
“Cycladic Idol” 、紀元前2600年~ 紀元前2400年頃
大理石材、高さ62.79cm
Metropolitan Museum of Art
このような人体プロポーションについての意識は、 日本の仏像彫刻などにも見つかります。たとえば、大仏師の運慶 ( 1150年頃 – 1224年没 )が制作の総指揮をした 奈良、東大寺南大門の金剛力士像は 上図のように 5頭身のプロポーションです。
おなじく、運慶が監修して1212年に制作された 国宝「 無著像 」は 5.8頭身で制作されており、天部の神である金剛力士と 4世紀のガンダーラに生きた高僧 ( 人間 )から菩薩となった無著との違いなど、表現対象の意味を踏まえたプロポーションが 選択されていると推測できます。
国宝 “無著菩薩”( 鎌倉時代、高さ 194.7cm )
そして、この少し後のイタリアで見ると‥ 建築家フィリッポ・ブルネレスキ ( Filippo Brunelleschi 1377-1446 ) とともに活躍したドナテルロ ( Donatello 1386-1466 )が、1440年頃に制作した “ダヴィデ像”は 5.9頭身と見てとれます。
“David” Donatello ( 1386-1466 ), Repubblica fiorentina、1440年頃
“David” Andrea del Verrocchio ( ca.1435-1488 )
Bronze 125cm 、1466年~1469年頃
また、ドナテルロのようにメディチ家の支援を受けながらフィレンツェで活躍し、レオナルド・ダ ・ヴィンチ ( 1452-1519 ) の師としても有名となった ヴェロッキオ ( ca.1435-1488 )が制作した “ダヴィデ像”は 6.4頭身になっています。
彼の工房では レオナルド・ダ ・ヴィンチのほかにも、ボッティチェリ、ペルジーノ、ギルランダイオ達も働きました。ちなみにペルジーノは ラファエロの師匠で、ギルランダイオはミケランジェロの師匠となりましたからイタリア・ルネサンスにヴェロッキオが大きく影響したことは間違いありません。
“Personification of a Virtue” Antonio del Pollaiolo ( ca.1433-1498 ) テラコッタ, 1470年頃
そして、この当時 フィレンツェでヴェロッキオ工房と競合していたのが アントニオ・デル・ポッライオーロと 弟、ピエロ・デル・ポッライオーロの兄弟です。その兄弟工房で、兄であるアントニオ・デル・ポッライオーロが制作した「美徳の擬人化 」は 6.6頭身で製作されています。
“Giuditta” Antonio del Pollaiolo ( ca.1433-1498 ) Bronze, 1470年頃
また 同時期に彼が制作した、アッシリア王が派遣した将軍ホロフェルネスの首を刎ね ユダヤ人を危機から救った若く美しいユダヤ人女性「ユディト ( Giuditta )」のブロンズ像は 7.2頭身となっています。
“David” Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni ( 1475-1564 )
大理石、 高さ 5.17m、1504年
それから、その次の世代にあたる ミケランジェロの “ダビデ像”は 6.6頭身で製作されており、彼が選択したプロポーションは神による創造物を精細に再現した最も優れたものとの評価を受けたそうです。
The ”Varvakeion” Athena, Height 105cm
National Archaeological Museum, Athens
“アテナ神” : パルテノン神殿の中にあったオリジナルのアテナ・パルテノス像は 高さが 12.6m くらいであったと推測されています。その アテナ・パルテノス像は フェイディアス ( Pheidias 紀元前490年頃~紀元前430年頃 ) が紀元前438年に制作したものです。
この “ヴァルヴァキオンのアテナ” は、ローマ時代の 西暦200年~250年頃に そのアテナ・パルテノス像を 1/12で コピーした彫像だそうです。そして、この像のプロポーションは 6.7頭身のようです。