さて ”オールド・ヴァイオリン”型の弦楽器は 16世紀前半に和声学の基礎となった機能和声が着目された頃に弦楽器工房で誕生し、パイプ・オルガンもそうであったように この時代の音楽的希求に応えて成長し続けました。 私は これらの状況を検討した結果 ” 弦楽器製作にとってルネサンス末期から 物理学などが急速に発展したことが とても重要な意味をもっていた。” という結論に達しました。
そのため 少し長くなりますが ここで 16世紀から18世紀末までの科学史の概略を列記しておきたいと思います。
Andrea Amati ( ca.1505-1577 ) Cremona, Violin maker.
1539年 Established a workshop in Cremona.
Antonio Amati ( 1540-1640 ) Cremona, Violin maker.
Girolamo AmatiⅠ( 1561-1630 ) Cremona, Violin maker.
Catherine de Médicis ( 1519-1589 )
1533年 She married Henry II at the age of 14.
Charles Ⅸ de France ( 1550-1574 )
1561年 He was crowned the king of France.
16世紀の物理学で重要な役割をはたした人物の筆頭はイタリアの物理学者 ガリレオ・ガリレイ ( 1564-1642 )でしょう。
彼はギリシャの アルキメデス ( BC.287-BC.212 )の諸研究‥ たとえば研究書『 平面のつりあいについて 』で示された ”てこの原理 ”( 反比例の法則 )など 7個の原理 ( 公準 )と15個の命題 ( 代表的なものは「三角形の重心は 3中心線の交点である」というよく知られた命題 )、”浮体論”、”円周の求め方” などを オステリオ・リッチから学びました。
そして 1586年に フィレンツェの アカデミア・デル・ディシェーニョ( 学士院 )に 論文『 小天秤 』を、1587年には『 固体の重心について 』を提出し、1589年に ピサ大学の数学教授の仕事を得たと言われています。
この時期にドイツには 天文学者で数学者の ケプラー ( 1571-1630 )がいて 1609年と1619年には”ケプラーの法則”を発表しています。 ガリレオは 1632年の『 天文対話 』、ケプラーは 1596年の『 宇宙の神秘 』でコペルニクスを支持していましたので 宗教裁判の有罪判決( 1633年 )や 失職( 1598年 )の憂き目にあいました。
1600年には 1592年にピサ大学の職をガリレオと競った ブルーノ( 1548-1600 )が 宗教裁判によって火刑に処せられてしまう‥ そんな時代だったようです。
この頃フランスには メルセンヌ ( 1588-1648 ) がいました。 彼は神学者であるとともに 数学、物理学に加え哲学、そして音響学の理論研究をおこなっていました。1636年には 論文『 Harmonie universelle 』において 平均律を 2の12乗根の計算を用いて数学的に証明しました。また 弦楽器の音の高さについて 振動数と弦長、密度、張力によることを数学的に定式化しました。
メルセンヌは多くの科学者と親交をもっていたため、その交流活動が支持され 彼の没後である 1666年に”パリ科学アカデミー”が創設されることにつながったそうです。
また フランスでは 哲学者、数学者として高名な デカルト ( 1596-1650 ) が 活躍していました。”コギト・エルゴ・スム” の人ですね。デカルトは 慣性の法則や 運動量保存の法則を研究し、1637年には 平面上の直交座標系である”デカルト座標”を『方法序説』において発表し確立しました。
“Gasparo da Salò”
Gasparo di Bertolotti ( ca.1540- ca.1609 ) Brescia, Violin maker.
Giovanni Paolo Maggini ( 1580- ca.1633 ) Brescia, Violin maker.
Nicolò Amati ( 1596-1684 ) Cremona, Violin maker.
Andrea Guarneri ( 1626-1698 ) Cremona, Violin maker.
1654年 He founded the workshop in Casa Guarneri .
Jacob Stainer ( 1617-1683 ) Absam, Tirol. Violin maker.
私は 17世紀前半のヨーロッパ世界はまだ中世の価値観に引きずられていたと認識しています。その象徴が 1633年の異端審問により アルチェトリに幽閉された ガリレオ・ガリレイ ( 1564-1642 ) です。彼は 1638年に両目を失明しても幽閉は解かれないままで 1642年に病没します。罪人として亡くなった彼はいかなる葬儀も墓標も不許可だったそうです。
さて‥ 歴史的な転換点については いろいろな考え方があるでしょうが、私はこれらの状況は 1654年におこなわれた『 マグデブルクの半球実験 』から大きく動き始めたと思っています。
ご存知の方も多いでしょうが、この 大気圧を示す実験 は 1654年に レーゲンスブルクにおいて 科学者でマグデブルク市長でもあった オットー・フォン・ゲーリケ ( 1602-1686 ) が 神聖ローマ皇帝フェルディナント三世 ( 1608-1657 ) 達の前で 16頭の馬を使いおこなった公開実験ですね。
彼は 1650年に真空ポンプを発明し、その後 銅製の半球状容器 ( 直径51cm )を二つ組み合わせ その内部の空気を排気し、それぞれを 8頭づつの馬に引っ張らせる実験を考案しました。これにより真空が物体をひきつけるのではなく 周辺の気体が物体に圧力をかけていることが証明されました。
特記すべきは‥ 彼は公開実験により この事実を先に公知化しておいて、最終的に論文を出版したのは 7年以上たった 1662年のことだったということです。この年にゲーリケが出版した『 真空についての、いわゆるマグデブルクの新実験 』では、彼が実験に用いた銅製容器には 2,787ポンド ( 約1,250kg )の大気圧がかかっていることを詳しく報告しています。
私は ゲーリケによるこれらの行動を「 政治家でもあった彼が中世を引きずった社会に対してネゴシエーションとして慎重に選択した結果である。」と思っています。
『 同期現象 』( 引き込み現象 )の実験
そしてこの時期に ルター派の国 オランダでは 数学者で物理学者、そして天文学者でもあった クリスティアーン・ホイヘンス ( 1629-1695 ) が活躍していました。
彼は 1655年に数学と法律専攻で ライデン大学を卒業し、そのあとで物理学の研究を始めます。この年に彼は 自作した口径57mm、焦点距離3.3m、50倍の望遠鏡で 土星の衛星タイタンを発見します。翌年の1656年には振り子時計を初めて製作するのに成功します。またこの後 『同期現象』( 引き込み現象 )を発見するなど 輝かしい成果をあげていきます。
1666年に フランス国王の ルイ十四世( 1638-1715 ) が パリに『フランス科学アカデミー』を創立した際に、最初のアカデミー会員 ( 21名のフランス人と1人のオランダ人 ) としてパリに招かれ、ナントの勅令が廃止される事となったため 1681年にパリを去りハーグに戻るまで フランスを拠点に活躍しました。
このパリ時代の 1675年には『 世界初の機械式時計 』の製作や『 空気望遠鏡 』の開発をおこないました。そして1678年に彼は 波動の波面形状を包絡面で説明する『ホイヘンスの原理』を発見し、これは 1690年に出版され広まっていきました。( この理論は最終的に 1836年に完成しました。)
それから、オランダではもう一人顕微鏡を使って微生物などを観察し ”微生物学の父”とも呼ばれることになる レーウェンフック ( Antonie van Leeuwenhoek, 1632-1723 ) が デルフトで活動していました。
彼は 1674年に池の水を観察し微生物を発見して以降 多くの新発見をおこないました。
トネリコ属の木質部 1676年
私には、レーウェンフックが弦楽器にも直結する木質部などを顕微鏡で観察した事実がとても興味深く感じられます。なお 彼は生涯 500もの顕微鏡を作ったとされ、現在 彼の真作とされる顕微鏡は博物館に9個 ( このなかで最高の倍率は266倍とされています。)
残っているそうです。
さて 17世紀中期のヨーロッパ世界では イギリスの科学研究が最も活発でした。そして それが発展し 1660年には『権威に頼らず証拠 ( 実験、観測 )を持って事実を確定していく。』という近代自然科学の客観性を担保する目的で ロンドン王立協会 ( Royal Society )が 事実上の科学アカデミーとして設立されました。
レーウェンフック ( 1632-1723 )は 王立協会で 実験監督をしていたロバート・フック(Robert Hooke, 1635-1703 ) にデルフトの解剖学者とクリスティアーン・ホイヘンスの父親 ( Constantijn Huygens )とが 1673年に紹介状を送ったのち 継続的に王立協会に観察記録を送り続けました。そして これらの諸研究によりレーウェンフックは 1680年に ロンドン王立協会の会員となりました。
Antonio Stradivari ( ca.1644-1737 ) Cremona, Violin maker.
1680年 He founded the workshop in Casa Stradivari .
Girolamo Amati Ⅱ ( 1649-1740 ) Cremona, Violin maker.
Arp Schnitger ( 1648-1719 ), active in Northern Europe, especially the Netherlands and Germany, Pipe organ builder.
そしていよいよ‥ 近世を中世と断ち切る役割をはたした アイザック・ニュートン ( Isaac Newton, 1642-1727 ) がイギリスに誕生します。
この頃には‥ 1543年にコペルニクス ( Nicolaus Copernicus, 1473-1543 ) が発表した地動説は、1619年にケプラー ( 1571-1630 )が 惑星は楕円軌道を描いているというケプラーの法則を発表したことで力を得て、1627年には 地動説に基づいた ルドルフ表が完成したことで最終段階に入っていました。
ところで少し話はそれますが 17世紀にはヨーロッパの各地で ペストの流行が頻発しました。アムステルダムでは 1622年から1628年にかけてペストが毎年 発生して 3万5000人程が死亡し、パリでは 1612年、1619年、1631年、1638年、1662年、1668年 ( 最後の流行 )に流行があり大きな被害がでました。
ロンドンでは 1593年から1664年にかけて、そして 翌年の1665年と ペストが 5回も流行し 死者の合計はおよそ 15万6000人におよんだと言われています。
因みにクレモナも何度にもわたってペスト禍にみまわれ 1630年の大流行の際には アンドレア・アマティの息子で父の工房を引き継いでいた ジロラモ・アマティ( Girolamo Amati 1561 – 1630 )とその妻 そして 2人の娘が犠牲となり、アマティ工房は 34歳となっていた ニコロ・アマティ( Nicolo Amati 1596–1684 )が引き継いだといわれています。
そして アントニオ・ストラディヴァリ( Antonio Stradivari ca.1644-1737 )もまた、 両親がペスト禍をさけてクレモナを離れていた期間に産まれたために 出生年などが判然としないという伝承があるそうです。
CNNから引用 「 “ 1665年に英ロンドンで大流行して年間7万5000人超を死亡させたのは、ペスト菌が引き起こす腺ペストだったことが、DNA鑑定を通じてこのほど初めて実証された。ロンドン考古学博物館などの研究チームが発表した。
この年の大流行では当時のロンドンの人口のほぼ 4分の1が死亡。ピークだった9月には1週間だけで8000人が死亡した。原因は腺ペストとする説が有力だったが、これまで確認はできていなかった。
しかしロンドン市内で地下鉄の延伸工事中に見つかった集団埋葬地を 2015年に発掘調査したところ、1665年の大流行で死亡したと思われる17世紀の遺骨42柱が見つかった。
研究チームがその遺骨から採取したDNAを調べた結果、腺ペストを引き起こすペスト菌のDNAと一致することをが判明。発掘調査を主導したロンドン考古学博物館の専門家ダン・ウォーカー氏は「1665年のペスト大流行の原因が初めて分かった」と解説している。” 」
1664年に”スカラー”となっていた ニュートンは、 1665年から翌年にかけてペスト禍を逃れて 故郷のウールスソープへ戻り 18ヶ月程の期間をすごします。回想録などでは 、25歳までの この期間にニュートンの三大業績は全てなされたと伝えられているようです。
ともあれ この後である 1687年7月5日に地動説は ニュートンが出版した 『自然哲学の数学的諸原理』( プリンピキア ) において発表された万有引力の法則でついに完成しました。
この プリンピキア の冒頭部分は質量、運動量、慣性、力などの定義にあてられていて、重さという概念のほかに質量という概念を導入したことが画期的とされ、万有引力の法則のほかに、運動方程式と ニュートン力学を普及させることに役立ちました。
これは『 ニュートンの揺りかご ( Newton’s cradle ) 』といわれる実演装置です。
ニュートン( 1642 – 1727 )が『 プリンキピア 』で公表した ニュートン力学のうち 運動量保存の法則と力学的エネルギー保存の法則 そして作用と反作用などが視認できることで知られています。
ニュートン力学は 物体を「 重心に全質量が集中し 大きさをもたな質点 」とみなし、その質点の運動に関する性質を法則化しつぎの運動の3法則を提唱しています。また、これらの法則は、質点とは見なせない物体(剛体、弾性体、流体などの連続体 )に対しても基礎となり得る考え方とされているようです。
第1法則 ( 慣性の法則 )質点は、力が作用しない限り、静止または等速直線運動する。
第2法則 ( ニュートンの運動方程式 )質点の加速度 は、そのとき質点に作用する力 に比例し、質点の質量 に反比例する。
第3法則( 作用・反作用の法則 )二つの質点 1, 2 の間に相互に力が働くとき、質点 2 から質点 1 に作用する力 と、質点 1 から質点 2 に作用する力 は、大きさが等しく 逆向きである。
私は 1687年にニュートンが発表した このような『 古典力学 』の考え方は弦楽器製作にも十分影響をあたえたと信じています。
『オールド・ヴァイオリン』などの弦楽器は どうかすると”神話”のように語られますが‥ 1644年頃生まれたとされるストラディバリ( c.1644 – 1737 )と、1642年生まれの ニュートン( 1642 – 1727 )とほぼ同じ年齢であるという事実が持つ意味は深いと私は思います。
Giovanni Grancino ( 1637 – 1709 ) Milan, Violin maker.
Alessandro Gagliano ( ca.1640–1730 ) Napoli, Violin maker.
Nicolò Gagliano ( active. ca.1730-1787 ) Napoli, Violin maker.
Giovanni Tononi ( ca.1640-1713 ) Bologna, Violin maker.
Matteo Goffriller ( 1659–1742 ) Venice, Violin maker.
Francesco Ruggieri ( 1655-1698 ) Cremona, Violin maker.
Carlo Giuseppe Testore ( c.1665-1716 ) Milan, Violin maker.
Pietro Giovanni Guarneri ( 1655-1720 ) Cremona / Mantua, Violin maker.
Filius Andrea Guarneri ( 1666-1744 ) Cremona, Violin maker.
Francesco Stradivari ( 1671-1743 ) Cremona, Violin maker.
Omobono Stradivari ( 1679-1742 ) Cremona, Violin maker.
Carlo Bergonzi ( 1683-1747 ) Cremona, Violin maker.
Carlo Tononi ( c.1675-1730 ) Bologna / Venice, Violin maker.
Domenico Montagnana ( 1686-1750 ) Venice, Violin maker.
Andrea Guarneri ( 1691-1706 ) Cremona, Violin maker.
PietroⅡ Guarneri ( 1695-1762 )Cremona, Violin maker.
1718年 moved to Venezia
“Guarneri del Gesù”
Bartolomeo Giuseppe Guarneri ( 1698-1744 ) Cremona, Violin maker.
1722年頃 He is independent.
Gottfried Silbermann ( 1683-1753 ) Saxony / Dresden, Pipe organ builder.
Zacharias Hildebrandt ( 1688-1757 ), Pipe organ builder.
Giovanni Battista Guadagnini ( 1711-1786 ) Cremona / 1729 Parma / 1740 Piacenza / 1749 Milan / 1757 Cremona / 1759 Parma / 1771-1786 Turin, Violin maker.
Lorenzo Storioni ( 1744-1816 ) Cremona, Violin maker.
Giovanni Battista Ceruti ( 1755-1817 ) Cremona, Violin maker.
2016-7-20 Joseph Naomi Yokota