古い思い出話しで恐縮です。
私が 18歳だった頃、近所の喫茶店でのことでした。
常連客の一人のファゴットの多田さんが 「プロと アマチュアの差はなんだろう?」とつぶやきました。
すると、カウンター席の中央で コーヒーを飲んでいた 鈴木公平さんが すぐに小さく手をあげて「俺、それに答えられる。」と応じました。
彼は その場のみんなに話し始めました。「 ヴァイオリンの演奏で例えると‥ 演奏の結果は同じ奏者でも毎回違うので幅がある。この幅の上端をトップラインで下端をボトムラインと表現すると、アマチュアは『いつの日か 最高の演奏をしたい。』と夢をみる。それは トップラインに心が向いている状態といえる。
そして自分もそうだけど‥プロはいつもボトムラインを意識して下げないように、毎日 努力する。たとば 体のコンデションが悪くて納得のいく演奏が出来なかった時にボトムラインが下がったとしても‥ それを受入れ、一旦下がってしまった自分のボトムラインを 今日を使って 少しでも上げようとする。
常に演奏のボトムラインに留意し下げないように‥ 努力をするのがプロフェッショナルだと思う。」彼は そう言い切りました。
この時の 私に とって ほぼ同年齢の彼のことばは戦慄を覚えるほど衝撃的でした。
それから数年後のことですが‥ 私は『 ヴァイオリン製作を仕事にしよう!』 と考えるきっかけを 彼から貰いました。
1983年のことでした。当時 22歳の大学生だった私の住むアパートの扉が真夜中にノックされました。私は 眠っていましたが びっくりして目を覚まし 時計を見たら夜中の 2時20分 でした。扉越しに『 誰?』と聞くと『 あの ‥、鈴木公平ですが ‥。』との声。
彼のお願いは『 今からバッハを聴いてもらいたいのですが‥。』 でした。それから彼の住む羽沢 2丁目のマンションで朝まで 彼の演奏するバッハの「無伴奏ヴァイオリンの為のソナタとパルティータ」を聴きました。
私は幸せでした。おかげさまで 「 彼らの役にたてる人間になりたい。」と思った 私は 程なくしてヴァイオリン製作の修業をはじめました。
それから時がたち‥ドイツのオーケストラでヴァイオリン奏者を続けていた彼と、私が再会したのは 2013年 6月の終わりのことでした。私たちが 最後に会ってから 30年近くが経っていました。
この時は 7月の演奏会までに ヴァイオリン調整と弓の毛替え、そして飲み会‥で 自由が丘と新宿で三回だけ会いました。
そして 7月の演奏会は 彼らの演奏を‥ 当然ながらそのあとの打ち上げも十分に楽しむことが出来ました。
この日、終電が過ぎた時間に別れる際には一年後の再会を約束して‥ 私も家路につきました。
ところが、その約束は果たされることがありませんでした。
一年ほど過ぎて そろそろ演奏会の連絡があるはずと思っていたある日、訃報が届いたのです。
彼は 桜の舞う 2014年4月7日に 55歳で帰天しました。
彼の告別式は 4月10日に東京でおこなわれました。
私は彼をほんとうに”マコトの人”であったと思っています。
今日は、彼の三回目の命日です。
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2017-4-07 Joseph Naomi Yokota