「弦楽器の鑑定について」カテゴリーアーカイブ

このバイオリンは、わずか12年で‥ なぜここまで壊れたのでしょうか?

これは私が 2013年に修理を依頼されたヴァイオリンのラベルです。

ご存じの方も多いでしょうが 国内メーカーが製造しているピグマリウス『 REBIRTH(リバース)』シリーズの 4/4サイズのヴァイオリンとして 2001年に製造されました。

表板は中の状態を確認していただくために持ち主の目の前で私がヘラを使ってはずしました。作業に取り掛かるまえに弦をはじくとはっきりノイズがしていましたのでバスバーの剥がれは予想していましたが‥ ここまでとは !!

写真でわかるようにバスバー両側が完全に剥がれていて、その上 指板下の表板ジョイント部が 140mm程( 表板全長 354mm )の長さにわたって剥がれていました。

そして表板ジョイントの剥がれを撮影しようと私が表板をさわっていたら『 パキッ 』という音とともにバスバーが外れてしまいました。

そしてこの景色となりましたが、私の経験ではそもそもバスバーが脱落するケースはほとんどありませんでした。このようにバスバーがはずれたのは 私の30年間の経験 ( 2013年 )では 3例目となりました。

これが脱落したバスバーを E線側から見たものでバスバー長さが 275.0mm 上下スペースがネックブロック側 39.0mmのエンドブロック側 40.0mmで厚さが写真向かって左のネック側端が 5.5mmで 駒部 6.4mmのエンドブロック側端が 5.8mmとなっています。

そしてバスバーの高さは駒部が 11.6mmで両端が 4.5mmとしてありました。また F字孔間距離の最狭部は 39.8mmにしてあり、これに対しバスバーは 0.1mm内側に取り付けてありました。

因みにこのヴァイオリンのあご当て無しでの重さは 410g程で、そのうちバスバーの重さは 5.9gで バスバーがない状態の表板は 73.0gでした。

このピグマリウス『 REBIRTH(リバース)』シリーズのヴァイオリンは魂柱( Soundpost )が立っていた部分が表板、裏板ともすでに窪みができていました。

このダメージ傷によってピグマリウスに入れられていた魂柱が 直径 6.0mm であったことが推測できます。

私の経験では、ダメージ窪みは スプルース材の表板に比べて 楓材でつくられた裏板は深くはありませんが、このヴァイオリンのように識別可能な窪みとなっているケースは 多いようです。

ヴァイオリンは響胴の変形が進行すると、魂柱が立つ位置の表板と裏板の空間 ( 高さ ) が少しずつ狭く( 低く ) なっていきます。

しかし魂柱は圧力がかかってもほとんど縮まないので、結果として表板や裏板にめり込むかたちになります。

別のヴァイオリン表板内側に生じた魂柱窪みの写真

この過程でのダメージ窪みは 緩慢なスピードで深くなっていきますので、初期から中期にかけては下の写真 e. ( チェロ )と f. ( ヴァイオリン ) のように 表板の割れに至っていないことが多く、外見からの確認は難しいようです。

ヴァイオリンのアーチの条件などにもよりますが 、表板の魂柱部の窪みは下写真のヴァイオリン  f. のように魂柱部の厚さが 3.2 mm で、魂柱位置の厚さは 1.9 mm になることすらあります。 ( 1.3 mm めり込んだようです。)

この段階でも このヴァイオリンは魂柱割れ( Soundpost crack )は入っていませんでした。

下の2枚の写真は 参考のために上のヴァイオリン  f. の内側にサランラップを貼り 四角い木の台座に厚塗りした粘土状樹脂で 魂柱部の窪みの型をとったものです。

サランラップですこし不明確にはなりましたが直径 8 mm 程の窪みが凸型で確認できると思います。

     

表板の疲労変形が生じているヴァイオリンは ちょっとしたことで魂柱が倒れたりします。 下の型は上の楽器とは別のもので、5年ほど使用された新作イタリア製ヴァイオリンから同じくサランラップ越しにとったものですが、過去に調整を依頼された楽器屋さんが 魂柱を外に引っ張ったり‥ 場所を変えてたてた跡が10ヶ所ほど残っていました。

あまりに頻繁に魂柱が倒れるのでかなりきつくいれたようで、よく見るとサランラップ越しなのに表板のスジ状の年輪と直交するかたちで魂柱の断面にあった年輪のあとがクッキリ残っています。私はこの写真を弦楽器工房の関係者すべてに 心にとめておいていただきたいと思っています。

       

残念ながら魂柱窪みに関してはストラディヴァリウスも例外ではありません。

表板魂柱部の割れをサウンドポスト・パッチで何度修復してもその後に再び窪んでしまうものが少なからず存在します。

それから‥ ガルネリ・デル・ジェズでは 、ヤッシャ・ハイフェッツ ( Jascha Heifetz  1901-1987 ) が愛用していたヴァイオリンが象徴的だと 私は思います。

このヴァイオリンは 1950年頃に修復のために表板が外されており、その際の写真で 魂柱部のダメージ窪みなどが確認できるからです。

私はこれらの弦楽器にみられるダメージ傷や割れなどの破損は バランスが調和していない弦楽器を『 演奏した‥ 』結果、表板が歪んだことで生じたケースが多いと考えています。

ヴァイオリンや チェロは「強制振動楽器」であることから、バランスが調和していない楽器は 弦を張って数時間後から 数日で「組み上げた直後とくらべて、音の立ち上がりが悪くなり 響きが失われ‥硬くなった感じがする。」という初期症状が確認出来ます。

これらを念頭において観察すると、冒頭に挙げさせていただいた ピグマリウス『 REBIRTH(リバース)』シリーズのヴァイオリンが12年で演奏不能になったことも理解出来るのではないでしょうか。

 

 

 

 

2019-3-20                Joseph Naomi Yokota

弦楽器を知るための音楽年表

Sandro Botticelli  ( 1445-1510 )
” 地獄の見取り図”( La Carte de l’Enfer )1490年

ヴァイオリンという弦楽器は、14世紀初頭にはじまるルネサンスと 宗教改革により中世的な世界観に変わり 新しい認識や価値観がヨーロッパに広がっていくなかで考案され普及していきました。

その時期は、それまで長らく信じられてきた天動説の体系から コペルニクス ( 1473-1543 ) が唱えた地動説が常識となっていく激動の時代とかさなります。

Cathédrale Notre-Dame de Chartres

Cathédrale Notre-Dame de Chartres    130m × 46m ( 32m )

Cathédrale Notre-Dame de Chartres
身廊全長 128m / 幅 16.4m / 高さ 37mm

ピサの洗礼堂( ピサのドゥオモ広場 )

1409年に この地で「ピサ教会会議」がおこなわれクレタ島生まれのギリシャ人 アレクサンデル5世( 1339-1410 / 対立教皇、在位 1409年 – 1410年)が「教皇」に選出されました。カトリック教会においての教会大分裂 ( 大シスマ  Scisma d’Occidente ) のはじまりです。

この「ピサ教会会議」は、1377年に 教皇グレゴリウス11世が アヴィニヨン ( Avignon 1309-1377 ) からローマに教皇庁を移しましたが その翌年に亡くなってしまい 、結果として ローマとアヴィニヨンに それぞれ「教皇」が存在する状況に陥っていたのを解決するために招集されたものでした。

しかし、ローマの教皇 グレゴリウス12世 ( 1326-1417 / ローマ教皇、在位 1406年 – 1415年 ) と アヴィニョンの ベネディクトゥス13世 ( 1328-1423  対立教皇、在位 1394年 – 1417年 )は廃位に応じませんでした。

その混乱の最中、「ピサ教会会議」で選出された アレクサンデル5世 ( 1339-1410 )が急死したために フィレンツェのメディチ家当主 ジョヴァンニ・ディ・ビッチ ( 1360-1429 ) の支援を受けた バルダッサレ・コッサ ( Baldassare Cossa  ca.1370-1419 ) が ヨハネス23世 (  1370-1419  対立教皇 / 在位 1410年 – 1415年 )として「教皇」となり、1399年にナポリから追われていたプロヴァンス伯 ルイ2世・ダンジューとともに軍を進め 1410年に ローマを占領しました。

そして目まぐるしいですが、ヨハネス23世 ( 1370-1419  )と ルイ2世・ダンジュー ( 1377-1417 )のローマ占領は、1413年にナポリ王 ラディズラーオの軍の反撃によりフィレンツェに退却する事で終わりました。

この教会大分裂を解消するために神聖ローマ帝国皇帝ジギスムントは 1414年、ドイツで コンスタンツ公会議を召集しました。 この公会議で3人の教皇は退位あるいは 廃位さとれ、1417年にマルティヌス5世 ( 1368- 1431  /  在位 1417年 – 1431年 )が選出されたことにより3人の教皇が同時に存在するという混乱は収束しました。


Battistero di San Giovanni ( Pisa ) / Piazza del Duomo
1152 年~ 1363年 外側高さ54.85m / 直径35.5m

ヴァイオリンなどの弦楽器を知るには、16世紀初めから400年ほどの期間を俎上に上げなくてはなりませんので、時間軸上での考察のために 私はこの投稿をまとめることにしました。

念のために申し上げれば  ここでは楽器と弓の製作者、そして時間座標のために音楽家、科学者などの生まれた年や重要な出来事を考慮して列挙してあります。そして、全体の項目を減らすために敢えて ハイドンやベートーヴェンさん達を記載していません。この点はどうかご了承ください。

■  Violin maker  ●  Violinist, Teacher, Composer  □  Bow maker

▶  Pythagoras ( BC.582-BC.496 )
▶  Archimedes ( BC.287-BC.212 )

1321年  Dante Alighieri ( 1265-1321 ) “La Divina Commedia” ( 神曲 )
1378 ~ 1417年   “Schisma” Roma : Avignon ( 1309-1377 )
1453年   コンスタンティノープル陥落によるビザンツ帝国の滅亡   Constantinopolis  /  The Eastern Roman Empire ( 330-1453 )

1492年   San Salvador Island  /  Columbus ( 1451-1506 )
1498年   Santa Maria delle Grazie /  Leonardo da Vinci ( 1452-1519 )

1499年   Vasco da Gama ( ca.1460-1524 ),  Lisbon-Inldia-Lisbon
1517年   “95 Thesen” Martin Luther ( 1483-1546 )

1538年   Naval battle of Preveza / Turkish Empire
1543年   Nicolaus Copernicus ( 1473-1543 )

ヴァイオリンの歴史を紐解くと”クレモナ派”の存在が重要であると分かります。ポー平原の中央に位置するクレモナは ミラノから 80㎞、ブレッシアから 60㎞、トリノと ヴェネツィアからおおよそ200㎞ほどに位置する古都で、ポー川などの水上交通や街道などによって それらの都市や モデナ、ボローニャ、フィレンツェ、ローマ、ナポリなどと繋がっていました。

ヨーロッパでは ヴァイオリンが誕生する直前にオスマン・トルコが支配地域を拡大させ、ついには 1453年にコンスタンティノーブルが陥落し東ローマ帝国 ( ヴィザンチン帝国 ) が滅亡するという事件がありました。

オスマン帝国はその後も勢力範囲をひろげ、この抗争の最終局面で ヴェネツィア共和国、スペイン、ジエノヴァ共和国、教皇領などの艦船で結成された神聖同盟艦隊( ローマ教皇連合艦隊  )とオスマン帝国艦隊が イオニア海にあるレフカダ島沖で戦うことになります。 この “プレヴェザの海戦”( 1538年 )は神聖同盟艦隊側の敗北に終わり、以降はオスマン帝国が地中海の制海権を握ります。

こうした変化はヨーロッパでの音楽事情に影をさし、当然ながらヴァイオリンなどの弦楽器製作にも影響を与えたと考えられます。

それから『 ペスト( 黒死病 ) 』などの疫病の大流行が大きな社会不安を発生させていたことも忘れてはならないと思います。

ペスト菌には3 種類の亜種が知られ、それぞれが歴史上有名なペストの大流行の原因となりました。541 年に東ローマ帝国から始まった大流行は ペスト菌 Antiqua によるもので、14 世紀からのヨーロッパでの大流行は Medievalis によるとされ 、そして中国雲南省で1855 年に始まった大流行は Orientalis によるものとされています。

このうち ルネサンス時代に大流行を引き起こしたペスト菌 Medievalis は まず1348年~1351年にかけてコンスタンティノープルをはじめ、キプロス、サルデーニャ 、コルシカ、マジョリカ等の地中海の主要都市、さらにマルセイユ、ヴェネチア等の港町に上陸します。

そして翌年に入ると アヴイニヨン、フイレンツェ、イングランドにまで広がり、その次の年にはスウエーデンやポーランドも浸食し 1351年末にはロシアにまで達したそうです。

この流行ではヨーロッパの総人口8000万人のうち、その3割にあたる2500万人が 犠牲となったといわれています。

悲しいことに このときの大流行をきっかけとして、ペストはいわば風土病化して ヨーロッパの地に根を下ろし、それ以後18世紀にいたるまで何度もくりかえし発生しました。


▶  1656年頃  A plague doctor in seventeenth-century Rome

とくに 17世紀にはヨーロッパの各地 で頻発したことが記録されています。アムステルダムでは 1622年から1628年にかけて毎年 発生して 3万5000人程が死亡し、パリでは 1612年、1619年、1631年、1638年、1662年、1668年( 最後の流行 )にペストの大流行があり深刻な被害がでました。


▶  1679年  ペスト撲滅( ウィーンでの ペスト最期の流行による 累計死者およそ10万人を追悼 ) 記念碑 1683~1693年建造

また、ロンドンでは 1593年から1664年にかけて、そして 翌年の1665年と ペストが 5回も流行し 死者の合計はおよそ 15万6000人におよんだと言われています。

CNNからの引用です。【   “ 1665年に英ロンドンで大流行して年間7万5000人超を死亡させたのは、ペスト菌が引き起こす腺ペストだったことが、DNA鑑定を通じてこのほど初めて実証された。ロンドン考古学博物館などの研究チームが発表した。

この年の大流行では当時のロンドンの人口のほぼ 4分の1が死亡。ピークだった9月には1週間だけで8000人が死亡した。原因は腺ペストとする説が有力だったが、これまで確認はできていなかった。

しかしロンドン市内で地下鉄の延伸工事中に見つかった集団埋葬地を 2015年に発掘調査したところ、1665年の大流行で死亡したと思われる17世紀の遺骨42柱が見つかった。

研究チームがその遺骨から採取したDNAを調べた結果、腺ペストを引き起こすペスト菌のDNAと一致することをが判明。発掘調査を主導したロンドン考古学博物館の専門家ダン・ウォーカー氏は「1665年のペスト大流行の原因が初めて分かった」と解説している。”   】

因みに、1664年に『スカラー』となっていた ニュートン ( 1642-1727 ) は、 1665年から 翌年にかけてペスト禍を逃れて故郷のウールスソープへ戻り 18ヶ月程の期間をすごしたと言われています。

回想録などでは、25歳までの この期間にニュートンの三大業績は全て成されたとされています。

同じように、クレモナの街も何度にもわたってペスト禍にみまわれ 1630年の大流行の際には、クレモナ派の始祖アンドレア・アマティの息子で父の工房を引き継いでいた ジロラモ・アマティ( Girolamo Amati  1561-1630 )とその妻 そして 2人の娘が犠牲となり、アマティ工房は 34歳となっていた ニコロ・アマティ( Nicolò Amati  1596-1684 )が引き継いだといわれています。

また、アントニオ・ストラディバリ ( ca.1644-1737 ) の 生年月日と出生場所が 判然としないのも、ペスト禍をさけた両親の避難先の町で誕生したからと伝承されています。

1500 – 1550
■   Andrea Amati ( ca.1505-1577 ),  Cremona  /  1539年
Established a workshop in Cremona.
■   Antonio Amati ( 1540-1640 ),  Cremona
■   Gasparo di Bertolotti ( ca.1540- ca.1609 ),  “Gasparo da Salò”       Brescia

Andrea Amati ( ca.1505-1577 )   Violin,  Cremona  1555~1560年頃

Catherine de Médicis ( 1519-1589 )
1533年   She married Henry II at the age of 14.

Charles Ⅸ de France ( 1550-1574 )
1561年   He was crowned the king of France.

Andrea Amati ( ca.1505-1577 )   Violin,  “King Charles Ⅸ”  Cremona  1566年頃

Andrea Amati ( ca.1505-1577 )   Violin,  “King Charles Ⅸ”  Cremona  1566年頃

Andrea Amati ( ca.1505–1577 )  Violin,  “ex Ross”   1570年頃

1572年  “St. Bartholomew’s Day Massacre”


Charles Ⅸ de France  1574年

1550 – 1600
■  Girolamo AmatiⅠ( 1561-1630 ),  Cremona
■  Giovanni Paolo Maggini ( 1580- ca.1633 ),  Brescia
■  Nicolò Amati ( 1596-1684 ),  Cremona

▶  Galileo Galilei ( 1564-1642 )
▶  Johannes Kepler (1571-1630 )
▶  Marin Mersenne  ( 1588-1648 )
▶  René Descartes ( 1596-1650 )

●  Biagio Marini ( 1594-1663 ),  Brescia / 1615  Venezia ‘ Basilica di San Marco’ / 1620 Brescia / 1621 Parma / 1623 ~ 1649 Neuburg an der Donau / 1649 Milan / 1652 Ferrara / 1654 Milan / 1656 Vicenza  /  Venezia 1663  :   Violinist
“Scordatura”,   “double and even triple stopping”,   “Tremolo”   

1600 – 1650
▶  Otto von Guericke ( 1602-1686 )

Gaspar da Saló ( ca.1540-ca.1609 )  Violin,  Brescia  1600年頃 

■  Jacob Stainer ( 1617-1683 ),  Absam, Tirol


●  Maurizio Cazzati ( 1618-1678 ), Luzzara / 1641 Ferrara, Bozzolo, Bergamo / 1657 ~ 1671 Bologna / 1671 Mantova

Giovanni Paolo Maggini ( 1580 – ca.1633  )  Violin,  Brescia 1620年頃

Giovanni Paolo Maggini ( 1580 – ca.1633  )  Violin,  Brescia 1620年頃

Antonio Amati ( ca. 1540-1607 )  &  Hieronymus Amati ( ca. 1561-1630 )   Violin,   Cremona   1624年頃

■  Andrea Guarneri ( 1626-1698 ),  Cremona  /  1654年  He founded the workshop in Casa Guarneri .

 

  ca.1626 ~ ca.1761  ” Les Vingt-quatre Violons du Roi ” ( “The King’s 24 Violins” )  The Royal Palace in Paris

 

Antonio Amati ( ca. 1540-1607 )  &  Hieronymus Amati ( ca. 1561-1630 )   Violin,   Cremona   1629年頃

■  Giovanni Grancino ( 1637-1709 ),  Milan
■  Hendrik Jacobs  ( 1639-1704 ),   Amsterdam

▶  Christiaan Huygens ( 1629-1695 )
▶  Antonie van Leeuwenhoek ( 1632-1723 )
▶  Robert Hooke ( 1635-1703 )
▶  Isaac Newton ( 1642-1727 )

■  Alessandro Gagliano ( ca.1640–1730 ),  Napoli
■  Giovanni Tononi ( ca.1640-1713 ),  Bologna
■  Giovanni Baptista Rogeri ( ca.1642 – ca.1705 ),   Brescia

●  Jean-Baptiste Lully ( 1632-1687 ),  Firenze / 1646 France / 1652 The Royal Palace in Paris  / 1653 “Petits Violons” / 1661 French subject , 1661 ~ 1682 “Château de Versailles”  / 1685,1686,1687

●  Giovanni Battista Vitali ( 1632-1692 ),  Bologna / 1666 Accademia Filarmonica di Bologna / 1774 Modena  :   Violinist

Nicolò Amati ( 1596–1684 )  Violin,  Cremona  1641年

●  Heinrich Ignaz Franz von Biber ( 1644-1704 ), Bohemia / 1668  Zámek Kroměříž / 1671 Salzburg,  ca.1676 ” Rosenkranz-Sonaten ” ( Scordatura )  :   Violinist

■  Antonio Stradivari ( ca.1644-1737 ),  Cremona  /  1680年 He founded the workshop in Casa Stradivari .

▶  Arp Schnitger ( 1648-1719 ),  active in Northern Europe, especially the Netherlands and Germany,  Pipe organ builder.

■  Francesco Ruggieri ( ca.1645-1698 ),  Cremona
■  Girolamo Amati Ⅱ ( 1649-1740 ),  Cremona

1650 – 1700

●  Arcangelo Corelli ( 1653-1713 ), Fusignano / 1666 Bologna / 1675 Rome / 1681 München / 1685 Roma / 1689 Modena / 1708 Rome :   Violinist

●  Giuseppe Torelli ( 1658-1709 ), Verona / Bologna / 1684 Accademia Filarmonica di Bologna / 1697 ~ 1699 Fürstentum Ansbach / 1699 Wien / Bologna :   Violinist

Nicolò Amati ( 1596–1684  )  Violin,  Cremona  1651年

■  Matthias Klotz ( 1653-1743 ),   Mittenwald
■   Pietro Giovanni Guarneri ( 1655-1720 ),  Cremona  /  Mantua

Jacob Stainer ( 1617-1683 )  Violin,  Absam ( Tirol )  1655年頃

Andrea Guarneri ( 1626-1698 ),  Cremona 1658年頃
( 1654年  He founded the workshop in Casa Guarneri . )

■  Matteo Goffriller ( 1659–1742 ),  Venice
■  Vincenzo Ruggeri ( 1663-1719 ),  Cremona
■  Carlo Giuseppe Testore ( ca.1665-1716 ),  Milan

●  Giacomo Antonio Perti ( 1661-1756 ),  Bologna / Parma / Venezia / 1690 ~ 1756 Bologna  :   Violinist
●  Tomaso Antonio Vitali ( 1663-1745 ), 1674 Modena :  Violinist

■   Filius Andrea Guarneri ( 1666-1740 ),  Cremona

Nicolò Amati ( 1596–1684 )  Violin,  Cremona  1669年

Francesco Rugeri ( ca.1645-1698 )  Violin, 1670年

Giovanni Maria Del Busetto   Violin,  Cremona  1680年頃

■  Francesco Stradivari ( 1671-1743 ),  Cremona
■  Giovanni Battista Grancino II ( 1673-ca.1725 ),  Milan
■  Carlo Tononi ( ca.1675-1730 ),  Bologna  /  Venice
■  Johann Michael Albani ( 1677-1730 ),  Bozen / Bulsani in Tyroli  / Graz

  Louis XIV ‘Roi-Soleil’ ( 1638 – ‘1643-1715’ )
“Château de Versailles” 1661 ~ 1682 

Plan du Château de Versailles  1664年

1678年  (1678–1684 )
The opulent Hall of Mirrors at the Palace of Versailles

●  Antonio Vivaldi ( 1678-1741 ), Venezia 1703 / 1740 Wien :   Violinist
● 
Pietro Castrucci ( 1679-1752 ),  Roma / 1715 London / 1750 Dublin :   Violinist

■  Omobono Stradivari ( 1679-1742 ),  Cremona
■  Carlo Bergonzi ( 1683-1747 ),  Cremona

▶  Gottfried Silbermann ( 1683-1753 ) Saxony / Dresden, Pipe organ builder.
Zacharias Hildebrandt ( 1688-1757 ),  Pipe organ builder.

●  Johann Sebastian Bach ( 1685-1750 ), Eisenach / 1703 Weimar, Arnstadt / 1705.10 Lübeck 1706. 1 /  1707 Mühlhausen / 1708  Weimar / 1717 Köthen, 1721 Anna Magdalena Bach  / 1723 Leipzig

●  Giovanni Battista Somis ( 1686-1763 ), Turin / 1731 Paris / Turin :   Violinist

■  Domenico Montagnana ( 1686-1750 ),  Venice
■  Georg Klotz ( 1687-1737 ),   Mittenwald

●  Francesco Geminiani ( 1687-1762 ), Lucca / 1711 Naples / 1714 London  :   Violinist
●  Francesco Maria Veracini ( 1690-1768 ),  Firenze / 1711 Venezia / 1714 London / 1616 Venezia / 1723 Firenze / 1733 London / 1744 Firenze  :  Jacob Steiner violin  /   Violinist

Hendrik Jacobs (1639-1704)  Violin,   Amsterdam 1690年頃  

Giovanni Grancino ( 1637-1709 )  Violin,  Milan 1690年頃

Carlo Giuseppe Testore ( ca.1665-1716 )   Violin,  Milano  1690年

Giovanni Grancino ( 1637-1709 )  Violin,  Milan 1690年

■  Andrea Guarneri ( 1691-1706 ),  Cremona
■  Carlo Antonio Testore ( 1693-1765 ),   Milan

●  Giuseppe Tartini ( 1692-1770 ), Pirano / 1721 Padova, 1726 Violin School  :   Violinist
●  Pietro Locatelli ( 1695-1764 ), Bergamo / 1723 Mantua, Venezia, München, Dresden, Berlin, Frankfurt, Kassel / 1729  Amsterdam  :   Violinist

■  PietroⅡ Guarneri ( 1695-1762 ),  Cremona  /  1718年  moved to Venezia
■  Sebastian Klotz ( 1696-1775 ),  Mittenwald

Giovanni Baptista Rogeri ( ca.1642 – ca.1705 )   Violin, Brescia  1695年頃

Antonio Stradivari ( 1644-1737 ),  Violin   “Auer – Benvenuti”  Cremona   1699年

●  Jean-Marie Leclair ( 1697-1764 ), Lyon / Turin / 1723 Paris, ‘Palais des Tuileries’  / 1733 ~ 1737  ‘ Louis XV ( 1710 – ‘1715-1774’ ) / 1738 ~ 1743 Den Haag  / 1743 ~ 1764 Paris  :   Violinist

■  Andrea Castagneri ( 1696-1747 ),   Paris ■  Bartolomeo Giuseppe Guarneri ( 1698-1744 ),  “Guarneri del Gesù”  Cremona  /  1722年頃  He is independent.

 1700 – 1750
Giovanni Grancino ( 1637-1709 )  Violin,  Milan 1700年頃

Giovanni Grancino ( 1637-1709 )  Violin,  Milan 1702年頃

Giuseppe Guarneri ( 1666-1740 )   “filius Andrea”   Violin, 1703年

■  Camillo Camilli ( ca.1704-1754 ), Mantua,  Violin maker.

Carlo Tononi ( ca.1675-1730 )  Violin,    Bologna 1705年

1700 – 1750

1701 ~ 1714年  War of the Spanish Succession
“France : Louis XIV ( 1638-1715 ) × Habsburg : Karl VI ( 1685-1740 )”
Cremona governance countries
España ( 1513 ~ 1524, 1526 ~ 1701 ) – France (  1701 ~ 1702 ) –  Republik Österreich / Habsburg  ( 1707 ~ 1848 )

スペイン継承戦争 ( 1701-1714 )のさなか クレモナは、1701年から1702年の クレモナの戦いで オーストリア軍に敗れるまで フランスが短期間支配したのちに、1707年にミラノまでの北イタリア やナポリなどをオーストリア軍が平定したことによりハプスブルク家の所領となりました。そして、この状況は 1713年の ユトレヒト条約などにより確定しました。

ユトレヒト条約によるヨーロッパの勢力図

茶色はイギリス、青はフランス、黄色はスペイン、緑はオーストリア、橙はサヴォイア、深緑はブランデンブルク=プロイセン

Casa Savoia :  1713年 Regno di Sicilia – 1720年 Regno di Sardegna  / Torino – 1848年 The First War of Independence – 1859年 The Second War of Independence –  1866年 The Third War of Independence

●  Giovanni Battista Martini ( 1706-1784 ), Bologna / 1758 Accademia Filarmonica di Bologna / 1774 “Saggio dl contrapunto”

●  Franz Xaver Richter ( 1709-1789 ), Moravia / 1740 ~ 1747 Kempten i.a. / 1747 Mannheim / 1769 ~ 1789  ‘Cathédrale Notre-Dame-de-Strasbourg’  :  Violinist
●  Jean-Joseph de Mondonville ( 1711-1772 ), Narbonne / 1733 ~ 1772 Paris  :  Violinist

Antonio Stradivarius ( ca.1644-1737 )  Violin,  “Viotti”  1709年

Girolamo Amati Ⅱ ( 1649-1740 )   Violin,  Cremona  1710年

Vincenzo Ruggeri ( 1663-1719 )   Violin,  Cremona  1710年頃

■  Nicola Gagliano ( ca.1710-1787 ),  Napoli

■  Giovanni Battista Guadagnini ( 1711-1786 ),  Cremona  /  1729 Parma  /  1740 Piacenza  /  1749 Milan  /  1757 Cremona  /  1759 Parma  /  1771-1786 Turin

Giovanni Battista Grancino II ( 1673-ca.1725 )  Violin,  Milan 1715年

Antonio Stradivari ( 1644-1737 ),  Violin   “Tartini – Lipinski”  Cremona   1715年

Antonio Stradivari ( ca.1644-1737 ),  Violin  Cremona  “Marsick – James Ehnes”  1715年

Antonio Stradivari ( ca.1644-1737 ),  Violin  Cremona  1722年

●  Johann Wenzel Stamitz ( 1717-1757 ), Bohemian / Praha / 1741 Mannheim / 1754 ~ 1755 Paris / 1755 Mannheim :  Violinist

●  Leopold Mozart ( 1719-1787 ),  Augsburg / 1737 Salzburg / 1785 Wien, Salzburg :  Violinist
1751年  “Versuch einer gründlichen Violinschule”
– – – 
Wolfgang Amadeus Mozart ( 1756-1791 )

■ Giovanni Battista Gabrielli  ( 1716-1771 ),  Florence
■  Leopold Widhalm ( 1722-1776 ),  Nürnberg 

●  Pietro Nardini ( 1722-1793 ), Fibiana / Livorno / Padova / 1762 Stuttgart / 1770 Firenze :   Violinist
●  Pierre Gaviniès ( 1728-1800 ),  Paris /  1744 “The Concert Spirituel”  / 1795 He became a professor at the newly-founded ‘Conservatoire de Paris ‘.  :   Violinist

Matthias Klotz ( 1653-1743 )  Violin,  Mittenwald  1725年 

Giuseppe Guarneri ‘filius Andreae’ ( 1666-1740 )   Violin,  Cremona  1725年頃

Johann Michael Albani ( 1677-1730 )   Violin,  Bulsani in Tyroli   1728年頃

Guarneri del Gesù ( 1698-1744 )  Violin,  1729年頃

■  Johannes Theodorus Cuypers ( 1724-1808 ),  Hague Netherlands

Georg Klotz ( 1687-1737 )  Violin,  Mittenwald  1730年頃

Guarneri del Gesù ( 1698-1744 )  Violin,  Cremona
“Goldberg-Baron Vitta”  1730年頃

Antonio Stradivari ( 1644-1737 ) Violin,   “Lady Jeanne”  Cremona   1731年

Guarneri del Gesù ( 1698-1744 )  Violin,   “Posselt – Philipp”  1732年

Guarneri del Gesù ( 1698-1744 )   Violin,  “Spagnoletti”   1734年

●  Gaetano Pugnani ( 1731-1798 ), Torino / 1749 Roma / 1750 Torino / 1754 Paris, Nederland, London, Deutschland / 1763 Torino  / 1767 London / 1770 Torino / 1780 ~ 1782 Russia, 1782 Torino :  Violinist

■  Georg Klotz Ⅱ ( ca.1723-1797 ),  Mittenwald
■  Aegidius Klotz ( 1733-1805 ),  Mittenwald 

Antonio Stradivari ( ca.1644-1737 )  Violin,  Cremona
“Rode – Le Nestor”  1733年

■  Johann Gottfried Reichel ( ca.1735-1775 ),   Markneukirchen

Nicola Gagliano ( ca.1710-1787 )  Violin,  Napoli  1737年

Guarneri del Gesù ( 1698-1744 )  Violin,   “Ex Menuhin”   1739年

Carlo Antonio Testore ( 1693-1765 )   Violin,  Milan 1740年頃

Andrea Castagneri ( 1696-1747 )  Violin,  Paris 1742年


Bartolomeo Giuseppe Guarneri  / ” Guarneri del Gesù”
( 1698-1744 )  Violin,  “Carrodus”   1743年

■  Joseph Klotz ( 1743-1829 ),  Violin  Mittenwald  1760年
■  Lorenzo Storioni  ( 1744-1816 ),  Cremona

Andrea Castagneri ( 1696-1747 )  Violin,  Paris  1744年

Giovanni Battista Guadagnini ( 1711-1786 ) Violin, Piacenza 1747年

● Luigi Rodolfo Boccherini ( 1743-1805 ), 1743 Lucca / 1757 Vienna  “The court employed” / 1761 Madrid / 1771 String Quintet Op. 11  No. 5 ( G 275 ) :   Italian cellist and composer 

●  Johann Peter Salomon ( 1745-1815 ), Bonn / Prussia / ca.1780 London / 1791 ~ 1792, 1794 ~ 1795 Franz Joseph Haydn  :  Violinist

●  Carl Stamitz ( 1745-1801 ), Mannheim / 1762 Mannheim palace orchestra / 1770 Paris / Praha, London  :  Violinist

□  Nicolas-Léonard Tourte ( 1746-1807 ),   Paris  :   Bow maker
□  François-Xavier Tourte ( 1747-1835 ),   Paris  :   Bow maker

Camillo Camilli ( ca.1704-1754 )  Violin,  Mantua  1750年頃

Sebastian Klotz ( 1696-1775 )  Violin,  Mittenwald  1750年頃

Sebastian Klotz ( 1696-1775 )  Violin,  Mittenwald  1750年頃

1750 – 1800
●  Johann Anton Stamitz ( 1754 – ‥ ), Mannheim / 1770 Paris / 1782 ~ 1789 Versailles / ‘ 1798‥1809 Paris ‘  :   Violinist

■  Nicola Bergonzi ( 1754-1832 ),   Cremona
■  Antonio Vinaccia ( 1754-1781 ),   Napoli
■  Gennaro Vinaccia ( 1755-1778 ),  Violin  Napoli
■  Giovanni Battista Ceruti ( 1755-1817 ),   Cremona

Giovanni Battista Gabrielli ( 1716-1771 )  Violin,  Florence  1755年

Joseph Klotz ( 1743-1829 )  Violin,  Mittenwald  1760年

●  Giovanni Battista Viotti ( 1755-1824 ), Fontanetto Po / Torino, Paris, Versailles, 1788 Paris, London, 1819-1821 Paris,  London :   Violinist

●  Federigo Fiorillo ( 1755-1823 ),  Braunschweig / 1780 Poland / 1783 Riga / Paris / 1788 London  He played the viola in Saloman’s quartet.  / 1873 Amsterdam, Paris

Marie Antoinette ( 1755-1793.10.16 )
1770年  She married  Louis-Auguste ( 1754-1793.1.21 )  /  ” Louis XVI ( 1774 ) “  at the age of 14.

French Revolution  1789 ~ 1793年

▶  1793年  ” Louis XVI ” ( 1774 )  /  Louis-Auguste ( 1754-1793.1.21 )

●  Wolfgang Amadeus Mozart ( 1756-1791 ), Salzburg / 1762 München, Wien / 1763 ~ 1766 Frankfurt, Paris, London / 1767 ~ 1769 Wien / 1769 ~ 1771 Milano, Bologna, Roma, Napoli / 1773, 1774 ~ 1775 Wien / 1777 München, Mannheim, Augsburg / 1778 Paris / 1779 Salzburg / 1781 München, Wien / 1783  Salzburg  / 1787 Praha, Wien / 1789 Berlin / 1790 Frankfurt / 1791 Wien, Praha, Wien

●  Bernhard Heinrich Romberg  ( 1767-1841 ),   “The Münster Court Orchestra” / 1790 Bonn  “The Court Orchestra” /  He lengthened the cello’s fingerboard and ‘Flattened’ the side under the C string  :   German cellist and composer

Leopold Widhalm ( 1722-1776 )  Violin,  Nürnberg  1769年

Tommaso Balestrieri ( ca.1735 – ca.1795 )  Violin,  Mantua  1770年

Johann Gottfried Reichel ( ca.1735-1775 ) Violin,   Markneukirchen  1770年頃

Giovanni Battista Gabrielli ( 1716-1771 )  Violin,  Florence
1770年頃

Georg Klotz Ⅱ ( ca.1723-1797 )  Violin,   Mittenwald  1773年

Giovanni Battista Guadagnini ( 1711-1786 ),  Turin  “Ex Joachim” 1775年

Gennaro Vinaccia ( 1755-1778 )  Violin,  Napoli  1780年頃

●  Rodolphe Kreutzer ( 1766-1831 ), Versailles / 1803 Wien “Kreutzer Sonata ” Ludwig van Beethoven 1770-1827,  Paris 1795 ~ 1826 ‘Conservatoire de Paris’ –  1796年 Caprices – 1807 comprises 40 pieces – “42 Études ou Caprices”  / Genève, Swiss :   Violinist
●  Pierre Baillot ( 1771-1842 ),  Paris :   Violinist
●  Pierre Rode ( 1774-1830 ), Bordeaux / 1787 Paris /  1804 Saint Petersburg, Moscow / 1812 Wien ” Ludwig van Beethoven 1770-1827  Violinsonate Nr. 10 in G-Dur, Op. 96 ” / 1814 ~ 1819年  Berlin,  “24 capricci”  /  1830 Lot-et-Garonne :   Violinist

□  François Lupot II (1774 – 1838),  He worked for Leonard Tourte in Paris. Once Lupot set up his own Parisian establishment in 1815.   :  Bow maker

18世紀の音楽ホール事情

▶  1763年  Haydn Saal ( Eisenstadt )  38.0m  ×  14.7m  (  H 12.4m )
▶  1766年  Eszterháza (  Fertőd )  15.5m  ×  10.3m  (   H  9.2m  )
▶  1772年  The Crown & Anchor  ( 271㎡ )   24.7m  × 11.0m

▶  1774年  Hanover Square R. ( 235㎡ ) 24.1m  ×  9.8m  (  H 8.5m  )

▶  1776年  Willis’s Rooms  (  305㎡  ) 25.0m  × 12.2m

 

▶  1781年  Leipzig Gewandhaus   23.0m  ×  11.5m   (  H  7.4m  )

▶  1795年  “Le Conservatoire de musique” ( Conservatoire de Paris )

▶  1780~1782年  弓のフェルールが考案される。

●  Niccolò Paganini ( 1782-1840 )
1802 ~ 1817年  ” 24 Caprices for Solo Violin ”  :   Violinist

●  Louis Spohr ( 1784-1859 ), Braunschweig / 1802 Saint Petersburg / 1804 Leipzig / 1805 ~ 1812 Gotha / 1813 ~ 1815 Wien /  1816,1817 Italiana / 1817 ~ 1819 ‘Oper Frankfurt’  / 1820 England / 1821 Paris / 1822 ~ 1859 Kassel :   Violinist
” Chin rest & Conductor’s stick “

■  Giovanni Francesco Pressenda ( 1777-1854 ),  Lequio Berria  /  Cremona  / 1815 Torino,  1821 was able to open his own firm.

Johannes Theodorus Cuypers ( 1724-1808 )  Violin,  Hague Netherlands   1780年頃

Antonio Vinaccia ( 1754-1781 )  Violin,  Napoli  1781年

1789年  “États généraux”

第一身分は10万人のカトリック聖職者で、彼らはフランス全土の10%程の土地を所有し、さらにその財産は免税されていました。第二身分は貴族で、子供や婦人を含んだ人口は40万人でした。1715年のルイ14世の崩御後、貴族は権力を回復し 高位官職や高位聖職、軍会議そしてその他の公共および半官半民の特権を独占していました。そして封建的慣習により彼らも第一身分と同じく免税されていました。第三身分は2500万人でブルジョワ、農民その他のフランス国民からなっていました。第一、第二身分と異なり、第三身分は納税を強いられていましたが、ブルジョワは何らかの手段でこれを逃れていたそうです。結局、フランス財政の重荷は農民や都市労働者といった貧しい人々に課せられていたのです。

French Revolution  1789 ~ 1793年
▶  1791年  Metric system ( metre & kilogram )
Maximilien Robespierre ( 1758-1794 )

Aegidius Klotz ( 1733-1805 )  Violin,  Mittenwald  1790年頃

Nicola Bergonzi ( 1754-1832 )   Violin,  Cremona  1790年頃

Lorenzo Storioni ( 1744-1816 )  Violin,  Cremona  1790年頃

 


Giovanni Battista Ceruti ( 1755-1817 )   Violin, “ex Havemann”

Cremona 1791年

□  ■  Jean Baptiste Vuillaume ( 1798-1875 ),  Vuillaume was born in Mirecourt, He moved to Paris in 1818 to work for François Chanot.
In 1821, he joined the workshop of Simon Lété, François-Louis Pique’s son-in-law, at Rue Pavée St. Sauveur. He became his partner and in 1825 settled in the Rue Croix des Petits-Champs under the name of “Lété et Vuillaume”.
In 1827, at the height of the Neo-Gothic period, he started to make imitations of old instruments.  :  Bow maker.

Aegidius KLOTZ ( 1733-1805 )  Violin,  Mittenwald  1797年

Nicola Bergonzi ( 1754-1832 )   Violin,  Cremona  1800年頃

1800 – 1850

□  Nicolas Rémy Maire (1800–1878),   Maire was born in Mirecourt. He trained in the Lafleur workshop and served his apprenticeship in the workshop of Pajeot in Mirecourt. He opened his own workshop in Mirecourt in 1826 and left in 1853 to work in Paris.
:  Bow maker.

●  Georg Hellmesberger ( 1800-1873 ), Vienna / 1826 ~ 1833 ‘The Vienna Conservatory’ / His students were Joachim, Leopold Auer.  :  Violinist
●  Charles-Auguste de Bériot ( 1802-1870 ), Leuven / 1843  ‘Royal Conservatory of Brussels’ /  ‥ 1852. – 1858 – 1866 Brussels :   Violinist

■  Giuseppe Antonio Rocca ( 1807-1865 ),  Barbaresco / 1834 Turin,   It was during this time that he became acquainted with Luigi Tarisio, a violin dealer  / Rocca won prizes in his craft at a national arts and crafts exhibitions in 1844 and 1846.
■  Enrico Rocca ( 1847-1915 ),  Turin  /   1850 ~ 1865 Genova

■  Ferdinand Joseph Homolka ( 1810-1861 ),   Prague

□  Pierre Simon ( 1808-1881 ),  He apprenticed and worked in his hometown of Mirecourt until 1838, when he moved to Paris to join the workshop of Dominique Peccatte.  :  Bow maker

□  Dominique Peccatte ( 1810-1874 ),   He was born in Mirecourt. On the recommendation of Nicolas Vuillaume he moved to Paris in 1826 to join J.B. Vuillaume’s workshop. Paris 1838  / 1847 Mirecourt   :   Bow maker

▶  1804年 Napoléon Bonaparte  “Emperor”
Napoléon Bonaparte ( 1769-1821 / ” 1804 – 1814, 1815″ )

1812 – 1814年  [ ナポレオンのロシアからの撤退 ]

●  Heinrich Wilhelm Ernst ( 1812-1865 ), Moravia / 1825 ‘The Vienna Conservatory’ /  1828 Niccolo Paganini visited Vienna. 1830 He played Paganini’s Nel cor pìù non mi sento. / 1865 Nice :   Violinist
●  Jakob Dont ( 1815-1888 ), Vienna / 24 Etudes and Caprices :  Violinist
●  Henri Vieuxtemps ( 1820-1881 ),  Belgium / Liège , Brussels /  1829 Paris /  Brussels / 1833 Germany  /  1835 Wien / 1836 Paris / 1849  ~ 1851 Saint Petersburg / 1850 Paris / 1871  ‘Royal Conservatory of Brussels’ / Paris 1879 / Algeria :   Violinist

□  François Peccatte ( 1821-1874 ),  Mirecourt  /  1842 Paris   :   Bow maker
□  Joseph Henry ( 1823-1870 ),  Henry studied with Dominique Peccatte and established his own shop in 1851.   :   Bow maker

Niccolò Paganini ( 1782-1840 )
▶  1827年7月12日( 木曜日 )プログラム

イタリア・ジェノヴァ 生まれの パガニーニは ナポレオンの妹のエリーザ・バチョッキ( Elisa Baciocchi ) が 1805年にトスカーナ大公妃として設けたルッカの宮廷における独奏者として演奏活動をはじめます。

そしてナポレオンが失脚するとパガニーニは独奏者としての活動をはじめました。彼は 1809年より北イタリアからはじめた演奏会の開催場所をイタリア全土にひろげました。

その後の 1828年にはウィーンでも成功をつかみ、ついでプラハ そしてドイツ各地で開催した後である 1831年には 3月から4月にかけて有名なパリ・デビューを成功させ 5月にロンドンに渡り翌年にかけて イギリス、スコットランド、アイルランドでも大成功をおさめました。


     1831年4月17日( 日曜日 )

□  François Nicolas Voirin ( 1833-1885 ),  He was born in Mirecourt. He moved to Paris in 1855 to join his cousin Jean Baptiste Vuillaume.   :   Bow maker

▶  1831年  Gesellschaft der Musikfreunde ( Tuchlauben, Vienna )a concert hall for ca. 700 people

●  Joseph Joachim ( 1831-1907), Kittsee / 1833 Budapest / Wien / 1843 Leipzig / 1846 London / 1848  “Gewandhausorchester Leipzig ” / 1850 Weimar / 1852 Hannover  / 1866 ~ 1907 Berlin :   Violinist

●  Henryk Wieniawski ( 1835-1880 ), Lublin / 1843 ‘Conservatoire de Paris’ / 1874 ~ 1877 ‘Royal Conservatory of Brussels’ / Moscow :   Violinist

▶  1842年  The founding of the Vienna Philharmonic.

●  Pablo de Sarasate ( 1844-1908 ), Pamplona / 1854 Madrid / 1855 Paris / 1860 London, Paris, performing in Europe, North America, South America / 1864 Camille Saint-Saëns ‘Introduction et Rondo capriccioso en la mineur’   / 1878 Zigeunerweisen, 1883 Carmen Fantasy  / Biarritz 1908 :   Violinist

●  Leopold Auer ( 1845-1930 ),Veszprém  / Budapest, Wien / Hannover : Joachim / 1868 ~ 1917 Saint Petersburg  : St Petersburg Conservatory / 1918 America / 1824 The Curtis Institute of Music  :   Violinist

Ferdinand Joseph Homolka ( 1810-1861 )  Violin,  Prague   1840年  

Giuseppe Antonio Rocca ( 1807-1865 )  Violin,  Genoa
1845-1850 年頃

Giuseppe Antonio Rocca ( 1807-1865 )  Violin,  Turin  1850 年頃

Enrico Rocca ( 1847-1915 ) Violin,  Genova  1893年

□  Charles Nicolas Bazin ( 1847-1915 ),  Son of Mirecourt bowmaker François Xavier Bazin,  Charles Nicolas Bazin inherited the family workshop in 1859 following his father’s death from cholera.
Charles Nicolas was only 18 at the time, but already had ample experience from his father’s training, and the shop flourished under his leadership.  :   Bow maker

 

1848年  :  ウィーン体制が崩壊しヨーロッパの不安定化が進みます。

たとえば イタリアでは 1861年にヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がイタリア統一をおこない、プロイセンは 鉄血宰相ビスマルク( 1815-1898 )の指導のもとクルップ社の鉄鋼製品( 鉄道、大砲 )を背景として 1866年の普墺戦争に勝利して 1867年に北ドイツ連邦に領土を拡大します。

そしてその後 の普仏戦争により 1871年には ワーグナーを擁護するとともにノイシュヴァンシュタイン城を建設させたルートヴィヒ2世( 1845 – 1886 )のバイエルン王国( Bavaria )やフランス領だったロレーヌ・アルザスを併合してドイツ帝国が成立しました。

また 1842年にアヘン戦争に勝利したヴィクトリア女王( 1819 – 1901 、在位 1837 – 1901 )のイギリスも植民地拡大をすすめ大英帝国を構築し繁栄します。 こうして帝国主義を国是としたヨーロッパ列強( ドイツ、イギリス、フランス、イタリア、オーストリア、ロシア )が世界地図を分割していったことで『 諸戦争を終わらせる戦争( War to end wars )』と言われた1914年の第一次世界大戦( 1914 – 1918 )が発生することになりました。

 

1850 – 1900

パブロ・デ・サラサーテ( 1844 – 1908 )

カミッロ・シヴォリは 神童の誉れ高くニッコロ・パガニーニに一人だけ弟子入りを許されたヴァイオリニストとして名を遺して います。

□  Charles Peccatte ( 1850-1918 ),  He was born in Mirecourt, the son of François Peccatte and the nephew of Dominique Peccatte.   :   Bow maker
□ Louis Thomassin (1856–1905),  He learned his craft in Mirecourt where he worked for the Bazin Family. In 1872 he went to Paris to work for François Nicolas Voirin and carried on Voirin’s shop after his death.   :   Bow maker


1858年
The world’s most valuable violin?  The Messiah Stradivarius
0:57   ” 1716 ‥ It is the only as new Stradivarius ‥”

●  Eugène-Auguste Ysaÿe ( 1858-1931 ),  Liège / 1886 ‘Royal Conservatory of Brussels’  / 1918 Cincinnati  /  Brussels :   Violinist

●  Jenő Hubay ( 1858-1937 ),  Pest / Berlin / Paris / 1882 Brussels / 1886 Hungary, ‘Budapest Quartet’ / Hubay’s main pupils Joseph Szigeti.   :   Violinist

▶  1870年  Großer Musikvereinssaal( Wien )1680席,  48.8m  ×  19.1m  (  H 17.75m  )

1861年 Wilhelm I ( 1797 – “1861 – 1888”  / “Deutscher Kaiser 1871 – 1888” ) : Otto von Bismarck ( 1815 – 1898  / “Eiserner Kanzler 1862 – 1890″ )

▶  1870年9月2日 普仏戦争
投降したナポレオン3世とビスマルクの会見 ]
Napoléon III ( 1808-1873 / 1848 -“1852 -1870” )

□  Eugène Sartory ( 1871-1946 ),   Bow maker from Mirecourt. After having first apprenticed with his father, he went on to work in Paris for Charles Peccatte and Joseph Alfred Lamy (père) before setting up his own shop in 1889.   :   Bow maker

□  Victor Fétique ( 1872–1933 ),   He learned his craft in Mirecourt with J. B. Husson.  Later he went on to work for Charles Nicolas Bazin II, before joining Caressa et Français in 1901.   :   Bow maker

●  Lucien Capet ( 1873-1928 ), Paris / 1893 “Capet Quartet”  :   Violinist

▶  1884年  Neues Concerthaus – “Leipzig Gewandhaus ”
Die Gewandhaus-Ruine, 1947年

 

Regno d’Italia ( 1861 ~ 1946 ) Last Casa Savoia : 1946年 UmbertoⅡ( 1904-1983 )

1894年   : ペスト菌がはじめて発見されました。

中国雲南省で1855 年に始まったペストの大流行はペスト菌 Orientalis によるものとされています。このとき香港でこの原因調査にあたっていた医師であるとともに細菌学者であった 北里柴三郎 ( 1853-1931 )さんと パスツール研究所のアレクサンドル・イェルサン( Alexandre Yersin, 1863-1945 )の両名が ほぼ同時にペスト菌を始めて発見し 治療法の研究がより進むようになりました。

ペストの世界的大流行の最後は 1903年~1921 年で、地域別ではインドでの死者が特に多く、1907 年には インドだけで131万人の死亡が報告されています。この最後の世界的大流行での死亡者は 約1,000 万人だったそうです。

1914年6月28日「20世紀が始まった街角 」サラエボ ( ボスニア・ヘルツェゴビナ )

By NAFTALI BENDAVID    2014 年 6 月 29 日 09:35 JST
Matt Lutton for The Wall Street Journal 

当地の博物館の外壁に掲げられた横断幕からオーストリア=ハンガリー帝国のフランツ・フェンディナント大公が堂々と前を見据えている。別の壁では取りつかれたような顔をしたガブリロ・プリンツィプが大きく目を見開いている。ちょうど100年前、プリンツィプはこの美術館の前の通りで大公を銃撃し、第1次世界大戦の引き金を引いた。

「20世紀が始まった街角」――。横断幕にはそう書かれている。

38口径の銃から発射された2発の銃弾は最新の兵器の誕生を許し、いくつもの帝国を倒し、米国を孤立主義から引きずり出した。さらに凄惨な次の大戦や大虐殺、冷戦による欧州の分断の種がまかれたのもこの時だった。

100年経った今も、第1次世界大戦の傷跡は消えずに残っている。暗殺現場に掲げられた横断幕は現地のオーストリア人やドイツ人から「不適切で忌まわしい」と猛烈な怒りを買った。フェンディナント大公とプリンツィプはエイブラハム・リンカーン大統領と、大統領を暗殺したウィルクス・ブースのようなものだ。しかし、横断幕はまだ取り外されていない。

問題はプリンツィプをどのように記憶にとどめるべきか、そして、彼は英雄なのか、それともテロリストなのか、という点だ。弱々しい19歳のセルビア人革命家プリンツィプは100年前の6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の支配に抗議する目的で大公を殺害した。欧州では、戦闘員と市民を合わせて約1500万人が犠牲となり、現代の幕開けとなった第1次世界大戦の記念式典の準備が4年がかりで進められている。その間、くすぶり続けた議論の1つがプリンツィプの評価をめぐる議論だった。

ガブリロ・プリンツィプ
Historical Archive Sarajevo/Associated Press

1914年6月28日、大公の車列がサラエボの町を進むと、共謀者の1人が手りゅう弾を投げつけた。大公には当たらなかったが、複数の随行者が負傷した。大公は入院した随行員を見舞うことにしたが、車が道を誤り、プリンツィプの目の前を走った。プリンツィプは大公と妻のゾフィーを狙って至近距離から銃を発射、2人を殺害した。

当時20歳になっていなかったプリンツィプは絞首刑を免れたが、数年後、服役中に死亡した。オーストリア=ハンガリー帝国は報復としてサラエボを攻撃、欧州各国は即座に敵味方に分かれた。新しい兵器の登場によって大戦ではかつてないほど多くの人が死んだ。

プリンツィプの亡骸はサラエボ郊外の、ビールの看板のすぐ隣にある小さな礼拝堂に安置されている。そこを訪れたときには、2つの枯れた花束とろうそく1本が供えられていた。

多くのセルビア人は、戦争を望んでいた欧州の列強はプリンツィプによる暗殺を言い訳に利用した上、今になっても自らの罪を隠そうと、暗殺が大戦の原因だったと強調していると考えている。一部には、プリンツィプをオーストリア=ハンガリー帝国の支配からスラブ人を解放しようとした英雄とみる人々もいる。

ボスニアにあるバンジャ・ルカ大学の歴史家、Zeljko Vujadinovic氏は「第1次世界大戦に関係した全ての国、特に修正主義的な願望を持つ国は、ガブリロ・プリンツィプを大量虐殺者や暗殺者、オサマ・ビン・ラディンと呼び、彼を非難する口実を探している」と語った。
( 以上、下記からの転載です。)http://jp.wsj.com/articles/SB10001424052702304057704579653160707644406

1917年  :  第一次世界大戦の 最終局面となった この年に ついにアメリカも参戦しました。

アメリカは南北戦争 ( 1861-1865 )を経て国力を拡大し 特にゴールドラッシュ以降はヨーロッパ各地から入国した移民が ‥ 例えば 1880~90年の10年間で520万人に達するといった状況で 1900年代初頭には当時世界最大の産業国であったイギリスに肩を並べるまでに成長していました。

不幸の連鎖という言葉が頭に浮かびますが‥ この参戦によって 1918年3月にデトロイトやサウスカロライナ州で最初の流行がはじまっていた『 スペイン風邪 』が世界中に広がりパンデミック( 大流行 )をまねくこととなり 感染者6億人、死者が4,000万人から 5,000万人といわれる状況まで招きました。

Old Manhattan  1929年

さてここまではウィーン体制崩壊以降のヴァイオリンを取り巻く状況のうち 負の側面についてまとめてみましたが、この時期には産業革命の勝者である『 富豪 』が登場するなど経済の発展が続きヴァイオリンに対する強力な追い風も吹いていました。

この例をアメリカでみてみましょう。 アメリカでは南北戦争の軍需景気もあり製鉄業、鉄道、駅舎・交通業、それと石油や電気関連のエネルギー産業などから大富豪が誕生します。

アメリカ富豪の総資産ランキングでは 1位のビル・ゲイツを除くと 2位ロックフェラー、3位カーネギー、4位ヴァンダービルトとこの産業革命当時の富豪たちが名を連ねています。

製鉄では スコットランドからの移民でのちに『 鉄鋼王 』とよばれたアンドリュー・カーネギー ( Andrew Carnegie  1835-1919 )が最も有名です。彼は1860年代から 石油、電話、鉄道と新しい時代の中心産業に次々と投資しました。 そしてペンシルバニア州のピッツバーグに製鉄技術の向上により製造可能となっていた鋼鉄( スティール )を生産する大規模な製鉄所を設立します。

この工場での大量生産と鉄道での大量輸送はアメリカの産業発展に大きな役割をはたしました。なお‥ このカーネギー製鉄社は 1901年に『 金融王 』といわれた J.P.モルガンに 4億8000万ドルで売却され、これにフェデラル・スチール・カンパニー およびナショナル・スチール・カンパニーの2社が統合されUSスチール( 資本金の14億ドルは 当時のアメリカの国富の4%に相当しました。)が誕生しました。この年に USスチールは 1社でアメリカで生産されたすべての鋼の67%を生産しました。

Carnegie Hall   2013年

Carnegie Hall    1891年

Carnegie Hall

大富豪となったアンドリュー・カーネギーは 1891年にマンハッタンの7番街57丁目に『 音楽堂 』であるカーネギー・ホール ( Carnegie Hall )を建設します。ここではニューヨーク・フィルが リンカーン・センター内のフィルハーモニック・ホールへと拠点を移した1961年まで レジデンス・オーケストラを務めていました。

そしてカーネギー・ホールのメインホール( 2804席 )では 1893年12月16日アントニン・ドヴォルザーク( Antonín Leopold Dvořák  1841 – 1904 )が作曲した交響曲第9番 作品95『 新世界より』がアントン・ザイドル指揮のニューヨーク・フィルハーモニックで世界初演されるなど、中ホールであるザンケル・ホール( 599席 ) や 小ホールのウェイル・リサイタルホール( 268席 )も含めて アメリカの音楽文化の発展に大きく寄与しました。

アンドリュー・カーネギーは83歳の 1919年8月11日気管支肺炎のためマサチューセッツ州レノックスで亡くなりました。生前、既に3億5069万5653ドルを寄付済みで 遺産の3000万ドルも基金や慈善団体や年金などに遺贈されたそうです。

 

 

 

 

 

2018-2-16                Joseph Naomi Yokota

 

 

 

 

 

”加熱痕跡”はいつ付けられたのでしょうか。

前の章からの続きになりますが、私が加熱痕跡から何を読み解いているかについてお話ししたいと思います。
私が 加熱痕跡の読み方について確信を得たのは 15年程前にこのヨーゼフ・アントニオ・ロッカ(1807-1865)が製作した、このヴァイオリンに出会ったからです。

この楽器は 製作されてから まだ150年程しか経っていませんが 表板、裏板ともに肩の位置などにキズ状の加熱痕跡があったり、あご当て部と右肩部にも大胆な加工がしてありました。

私はそれまでもキズ状のものは全て確認するようにしていましたが、”オールド” に入っているその数は『 数えきれない‥。』と思うこともしばしばでした。

これは ヴァイオリンの歴史として” 1500年代半ばに登場し1700年前後には黄金期を迎え、弦楽器製作者が 技術の粋を尽くして 沢山の名器が製作されたものの、 スペイン継承戦争でフランスとオーストリアの領地争奪戦に巻き込まれたロンバルディアの諸都市は言うまでもなく、ヨーロッパ世界を恐怖に陥れたペスト禍や 相次ぐ戦争が 弦楽器製作の世界にも影をおとし、18世紀末までに急激にその製作者数が減少し‥ ついには絶えてしまった。” とされている影響だったと思います。

Giovanni Battista Ceruti ( 1755-1817 )   violin
Cremona 1791年 “ex Havemann”  [ Wurlitzer collection 1931 ]
( Photo : Jiyugaoka violin  1998年 )

“オールド・バイオリン”を目にした時、頭のなかに『 やはり300年くらい前の楽器は、現代まで受け継がれる間にはひどい目に遭ったはずだから‥。』という発想をもつと 単純な思い込みに陥るようです。

Giovanni Battista Ceruti ( 1755-1817 )   violin
“ex Havemann” ( Bein & Fushi inc. 1981年 )

その私が はじめて”オールド・バイオリン”のすり減ったりキズ痕だらけの様子に『 あれっ?』と違和感を感じたのは、 20年ほど前にクレモナ派の実質的な最後の継承者である G.B. チェルーティが製作した このヴァイオリンを扱ったときでした。

このヴァイオリンは モーツァルトが死去した1791年にクレモナで製作されたもので ”ex Havemann ” のニックネームを持っていて、すでに 1931年には ニューヨークのウーリッツァー商会が出版し公表した有名な ”ウーリッツァー・コレクション”で写真付きで掲載されている名器です。

私が目にした1998年は、この楽器が 1791年に製作されてから 207年ほど経っていたわけですが、私の知っている どの G.B. チェルーティより”キズ痕”が多いうえに、それらは人為的につけられた気配が濃厚でした。

なお、このヴァイオリンには 1939年に発行された レンバート・ウーリッツァー社 ( Rembert Wurlitzer Co.、) の写真添付の正式な鑑定書もついていて、その時点での様子をある程度は推測できました。

Giovanni Battista Ceruti ( 1755-1817 )   violin
“ex Havemann” ( William Moennig & Son   1958年 )

また、この他にもフィラデルフィアの著名ディーラーだった ウイリアム・メーニック ( William Moennig & Son ) が 1958年に発行したものと、シカゴの Bein & Fushi inc. が 1981年に発行したものも含めて鑑定書はあわせて3通もついていました。

Giovanni Battista Ceruti ( 1755-1817 )   violin
Cremona 1791年 “ex Havemann” ( Rembert Wurlitzer Co. 1939年 )

それで私は このヴァイオリンの”キズ痕”を順に確認してみました。もちろんですが 1998年は製作されてから 207年、1981年は 190年経過を意味し、1958年は 167年で 1939年は 148年、そして 1931年は 140年しか経っていなかった‥  ということを踏まえた上での話です。

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       1958年 ( 167年経過 )                                  1939年 ( 148年経過 )

さすがに 1939年や 1931年の写真では 外周部がだいぶん不鮮明ですが、それでも駒やF字孔周りの加熱痕跡はしっかりと写真に捉えられていました。

では‥ このイタリア、クレモナで1791年に製作されたこのヴァイオリンの「キズ痕」はいつ入ったのか?

ヨーゼフ・アントニオ・ロッカ(1807-1865)のヴァイオリンに出会ったのは、私が  G.B. チェルーティ作のヴァイオリンと出会った後に さらに5年程の歳月があり、その間にも多くのオールドやモダンの弦楽器を目にしたことによって『  製作時にはじめから入れられていた。』という結論を探っていたタイミングでした。

さて 話が長くなり恐縮ですが、 ここで製作されてから 100年ほど経過したヴァイオリンのこともお話ししておきたいと思います。

( Photo : Jiyugaoka violin  2012年 )

これは 1910年に ミラノで  レアンドロ・ビジャッキ( Giuseppe Leandro Bisiach  1864 – 1945 )氏が製作したヴァイオリンです。

これは所有者の方が 25年程前に 当時 ‥ 一般的に認識されているレアンドロ・ビジャッキ作 ヴァイオリンの販売価格の 2倍くらいの値段で購入されたもので、私は 翌年の 1992年から整備を担当しています。

すばらしい事にこのヴァイオリンは ブリュッセルで開催された 万国博覧会にイタリアから出品され、ゴールド・メダルを受賞した製作当初の状況が 私がこの写真を撮影した 2012年までの 102年間ほぼそのまま保たれています。

Giuseppe Leandro Bisiach ( 1864-1945 )   violin,    Milano  1910年

Giuseppe Leandro Bisiach ( 1864-1945 )  violin,   Milano  1910年
( Photo : Jiyugaoka violin  2012年 )

なぜ そう言えるかというと、このヴァイオリンは万博のコンペテーション部門の展示作品なので、1910年に撮影された新品状態だった時の写真が残っているからです。

Giuseppe Leandro Bisiach ( 1864-1945 )  violin,   Milano 1910年
( Expo 1910 de Bruxelles,  Photo : 1910年 )

Giuseppe Leandro Bisiach ( 1864-1945 )  violin,   Milano  1910年
( Photo : Jiyugaoka violin  2012年 )


Giuseppe Leandro Bisiach ( 1864-1945 )  violin,   Milano  1910年
(   Expo 1910 de Bruxelles,  Photo : 1910年  )

Giuseppe Leandro Bisiach ( 1864-1945 )  violin,   Milano  1910年
( Photo : Jiyugaoka violin  2012年 )

 

Giuseppe Leandro Bisiach ( 1864-1945 )  violin,   Milano  1910年
(   Expo 1910 de Bruxelles,  Photo : 1910年  )

因みに、ブリュッセル万国博覧会は 1910年 4月23日から 11月7日までベルギーの首都ブリュッセルで開催された国際博覧会で 会期中に 1300万人が来場したそうです。

この博覧会にイタリアから出品されたレアンドロ・ビジャッキ(  Leandro Bisiach  1864 – 1945  )が製作したヴァイオリンのラベルには 1910年にミラノで製作したと書かれています。

これはおそらく 4月からの万国博覧会出品のために前年にはあらかた完成していたヴァイオリンに このラベルを貼って仕上げたためではないかと 私は推測しています。

そして、このヴァイオリンは 二つの世界大戦や恐慌などの時代を乗り越えて 戦後のいつかは判然としませんが、遅くとも 1990年頃には日本に運ばれていて、購入された後はそのまま東京で所蔵されることになった次第です。

私は このヴァイオリンの実物と、 ブリュッセル万国博覧会に出品された時の新品写真、そして 2012年に私の工房で撮影した写真を詳細につき合わせてその差異を確認しました。

その結論として、このヴァイオリンは 指板の左右表板の『  演奏キズ  』や 表板C字部中央付近の『  弓の打撃痕  』、そしてそれ以外にも縁などについている『  キズ状  』の加熱痕跡も製作時の加工によるもので、裏板やヘッドのニスが剥がれている景色も 製作時に加工されたことが確認できる貴重なミント・コンディションの楽器であると確信しました。

そして 加熱痕跡のようすから考えると、レアンドロ・ビジャッキ( Giuseppe Leandro Bisiach  1864 – 1945 )氏も “オールド・バイオリン” のキズ痕や ニスの剥離した景色は「 製作時にはじめからそう作られていた」と判断して、それに学びながら弦楽器を製作していたと 私は考えることにしました。

Andrea Amati ( ca.1505–1577 ) Cremona,  Violin 1555年頃

そして、ここで やっと 加熱痕跡の読み方の話しに帰ってきます。

上にリンクを貼ってありますが、私が 第4章で触れた アンドレア・アマティが 1555年頃に製作したと考えられるヴァイオリンの裏板に点々と入った加熱痕跡についての考察です。

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G.B. チェルーティ ( Giovanni Battista Ceruti  1755-1817 ) が 207年前の1791年に製作したヴァイオリンや、レアンドロ・ビジャッキ( Giuseppe Leandro Bisiach  1864-1945 )氏が 82年前の1910年に製作したものなど、加熱痕跡があるヴァイオリン達に学んでいた私は 2003年に153年程前に製作された 前出の ヨーゼフ・アントニオ・ロッカ(1807-1865)のヴァイオリンに出会いました。


そして 精査した結果いくつもの状況証拠により、私はこのヴァイオリンにある このような加熱痕跡も『 製作者本人が製作時に 加えたもの。』と判断しました。

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Gaspar da Saló   /  Violoncello

“オールド・バイオリン”などに見られるキズ痕について。

私達が “オールド”と呼びならわしている弦楽器のなかに『どうして このキズがついたのだろう?』と不思議に思える楽器があります。


Andrea Amati ( ca.1505–1577 )   violin,  “King Charles Ⅸ” ( Ashmolean ) 1564年

そこで、私は これらのキズの特徴を調べてみました。
その結果 これらのキズ痕に見えるものの多くが、焼いた金具や針状のものでつけられていることを見出しました。
それから 私はこれを 加熱痕跡と呼ぶことにしました。

因みに”オールド・バイオリン”を検証すると 同一の製作者でも 加熱痕跡が多い弦楽器と そうでないものを作ったことが分りますが、私は 前者こそが 弦楽器特性を確認する上で重要と考えています。

なぜなら 私はこの加熱痕跡を 理想的な響きを生みだすための “木伏”として捉えているからです。

木工の世界で “木伏”としての技術は現在でも受け継がれています。シンプルなものとしては下の動画にあるように 木材を火で焼き焦がすなどの熱処理があります。
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火にかざすシーンは 3分36秒辺りからです。 ( 4分39秒 )

また、『 焼き杉 』の板壁もそうです。 新建材が普及するまでは 防腐加工として表面が焦げる程度に焼き、その後にススを落として磨き込んで艶を出すなどの加工をして土壁などの外側に被せて化粧壁として利用されていました。

 

風雨にさらされる建築物では 焼いたまま使用することもあったようです。

今日ではめずらしくなりましたが 焼き杉は 伝統的な建物の外壁材でした。杉板の表面を焦がして炭化状にしておくことで火を付きにくくして 耐火性能を高めることが出来たり、 雨風にさらされる外壁の耐久性を高めることが出来ることはかなり昔から知られていたようです。

それから‥この浮世絵は 葛飾北斎、歌川広重らと同時代に活躍した歌川国芳( 1797 – 1861 )が1831年頃( 天保2年 )に製作した「東都三ツ股の図」です。

隅田川の中州から深川方面を眺望する構図で 川にはシジミ取りの舟が浮かび、 手前の中州では船底を焼く様子が描かれています。 これは虫害・腐食の防止のためにフナクイムシを退治する方法である『 船蓼(ふなたで)』作業だそうです。

フナクイムシはフナクイムシ科の二枚貝で貝殻は1センチにも満たないもので 体の一部だけに被っていて、体は貝殻から外に細長く伸び 成長すると1メートル前後にも達するそうです。

恐ろしい事にこのフナクイムシは ヤスリ状になっている貝殻の前部を動かして船底外板に穴を掘り木質部のセルロースを消化しながら深く侵入するため、ついにはこの穴から浸水したり船体に亀裂を生じさせるなどの被害をまねきます。

ですから木造船にとって この『 船蓼(ふなたで)』という船底の熱処理は重要であったことがわかります。

これは、サントリー白州醸造所の見学コースを撮影したもので ウイスキー樽の『リチャー』とよばれる再利用工程だそうです。

私達の日常には 多くの木材が用いられていますので このウイスキー樽の『リチャー』のように、あまり目立たない場所でも 木材の加熱加工は受け継がれています。

http://www.kagakueizo.org/create/other/426/

お琴の製作工程にも 加熱加工である焼入れ工程があります。これはいささか古い映像で恐縮ですが、7分6秒辺りからがそれにあたります。(16分20秒 )


最近(2014年)の動画でいくと、この製作工程を紹介する番組では焼き作業は 5分55秒あたりから出てきます。( 14分00秒 )

これらの動画にもあるように琴や鼓、三味線などでは木材の加熱加工以外にも 良い響きをうむために響胴に 綾杉彫りや 子持ち綾杉彫り、すだれ彫りなどの立体的形状の工夫が施されているそうですが、 番組中でも 加熱加工である『 焼きは 琴の品質を左右する最も重要な工程。』と説明されています。

Here Charles Bazin is cambering a stick.
In Mirecourt the bowmakers would go to the bakery when they swept the coals out of the oven. They would fill an old ‘Marmite’ or Dutch oven with coals and use them for cambering. I use an old fashioned hotplate with an exposed element to give the same even heat but in other traditions an alcohol lamp is used as well.

This is a great photo of the archetier Joseph Arthur Vigneron.  Vigneron was born in Mirecourt and trained with his step father Claude Nicholas Husson.  His early work is indistinguishable from the work of his master.  In 1880 he relocated to Paris to work for Gand & Bernadel.

そして‥ 我らが 楽弓のスティック( 棹 )で施されている ベンディング ( 熱処理工程 ) が意味していることを 改めて考えてみるのはどうでしょうか?


Making a Violin Bow /  Bending the Stick( Reid Hudson )

写真のように 19世紀末にフランスで弓製作者として知られていた Charles Bazin ( 1847-1915 )と、1880年から Gand & Bernadelの工房で弓製作をしていた Joseph Arthur Vigneron ( 1851-1905 ) の 作業台にも スティックの加熱加工のために 石炭が入れられた容器が置かれています。

Vigneron の小さい容器には この写真が撮影されたときに ニカワの湯煎ポットが置かれていますが、写真で作業台の手前側にある窪みがベンディングの際にスティックを曲げるために使用した跡と考えられますので、彼も ベンディング作業中の Bazin と同じように この石炭容器を 加熱加工のための熱源として使用していたようです。

現代の楽弓製作者も スティックの ベンディングのための熱源こそ 電熱ヒーター、アルコールランプ、ヒートガン、ブタンバーナーなどと選択肢は増えましたが ペルナンブーコ材などに加熱加工を施すことによって弓の特性が向上するように工夫しています。

 

私はこのように木材を素のままではなく加熱加工や雨ざらし、蒸気加工、可塑剤の塗布、剛性差を生むための立体的形状の工夫、そして高度な木組みなどの人為的行為によって素材特性を変化させ利用する技術を ”木伏”と捉えることにしています。

特に、加熱加工はこのような木材の多岐にわたる利用のなかで経験則から最終的に確立された高度な技術であると思っています。


Georg Klotz (1687-1737),  Mittenwald 1730年頃

さて‥ 弦楽器においての加熱痕跡ですが、これを理解するためには 例えば このクロッツのように 表板全体に施されたものから それらの関係性を読み解く糸口となるキズ痕を確認していくことが大切になります。


なお、加熱痕跡のうちスジ状のキズにみえるものは 立体的表面形状の特性をととのえる目的で用いられている可能性がありますのでより慎重に観察する必要があります。

例えば、ヴェネチアで マッテオ・ゴフリラーが製作したとされるこのヴァイオリンで スジ状のキズを見て下さい。


私は このキズ状の加熱痕跡は製作者本人が このヴァイオリンを作った時に入れたもので間違いないと思っています。 それは次の 撮影光線角度を工夫した写真により 皆さんにも納得していただけると思います。


この写真でわかるように「キズ」に見えたスジは傷がつきにくい窪みの底にあたる“谷線”に入っています。 これが加熱痕跡が偶発的なものでないと理解していただくための状況証拠です。

そして申し添えれば このようなF字孔の加工は マッテオ・ゴフリラー の独自のものではありません。

ここでは類似事例として Walter Hamma が1986年に出版した “ Violin-makers of the German School from the 17th to the 19th century ”の vol.Ⅱの125ページに掲載されている Johann Adam Popel ( Ende 17.~Anfang 18.)のビオラの写真をあげさせていただきます。

この楽器は  Bruckで1664年に製作されたものとされています。
ご覧のように 右側F字孔に2本のスジ状のキズ が入っているのが とても際立っています。

右側F字孔はその響のなかで特に高い音域を担当することが多いようですので、このように加工された弦楽器を 私は興味深いと思っています。


なお、 “オールド・バイオリン”の製作者は F字孔に複雑な振動をさせるために スジ状のキズ より下の写真のような彫り込みによる立体的表面形状を 枢要な条件設定と考えたようで、F字孔にこのようなスジ状の加工まで施された楽器はまれにしか見つかりません。

Andrea Guarneri ( 1623 – 1698 ) violin,  Cremona 1658年

Front of the Guarneri del Gesù

Antonio Gragnani    violin,  Livorno

それでも、このキズの有無はほかの加熱痕跡とあわせて考えることで状況証拠として音響性能を推測するのに役立つのではないでしょうか。

Ignatius Christianus Partl ( 1732-1819 )   violin,  Wien 1760年頃

下にあげた写真は ミラノで弦楽器製作を栄させた Carlo Giuseppe Testore( 1660~1738 )の息子で同じく ミラノ派を代表する Carlo Antonio Testore( 1687~1765 )が 1740年頃に製作したヴァイオリンのものです。

このヴァイオリンの右側F字孔にもスジ状のキズ があります。 これをその下にある 角度を変えて撮影した写真と比べてみてください。

この写真でスジ状のキズに見えた線は 谷線として刻まれていることがご理解いただけると思います。


Carlo Antonio Testore ( 1693-1765 )    Violin Milano  1740年頃

もう一度正面から位置関係を確認してみましょう。
そうすると先程ご覧いただいたスジ状のキズ以外の 加熱痕跡、特に直線的に並んでいるものが 意志的に見えてくるのではないでしょうか。


このように調べていった結果‥ 私は 右側F字孔の加熱痕跡についての典型事例として、アマティ兄弟が 1629年に製作したとされるこのヴァイオリンにたどり着きました。

右側F字孔部には 加熱痕跡がたくさんみられますが、ほかの部分は少し抑制的な印象をうけます。このコントラストこそ 製作者が 視覚的要素より聴覚的情報を頼りとして、このヴァイオリンを仕上げたことを暗示しているのではないでしょうか。

そういう切り口から考えて、私は このヴァイオリンの加熱痕跡は  理想的な響きを生みだすための “木伏”の見本だと思っています。

Antonio e Girolamo Amati  violin,  1629年


このように入念に加えられた加熱痕跡は、当時の製作者の技術能力の高さを 今に伝える貴重な状況証拠と言えるでしょう。


それから、余談ですが‥ このような加熱痕跡がある弦楽器を 私は特にアマティ工房の名器に多数見るように思います。

例えば ジローラモ・アマティの息子である ニコロ・アマティが 1640年以降に製作したとされる このヴァイオリンもそのひとつです。

Nicolò Amati ( 1596–1684 )   Violin 1640年

私は このヴァイオリンは本当に『すばらしい!』と思います。

 


Nicolò Amati ( 1596–1684 )   Violin 1640年以降

 

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恐縮ですが 続きは こちらです。

 

 

 

 

2018-1-26                Joseph Naomi Yokota

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

裏板ボトムブロックの端付近も確認してください。

ご存じな方も多いように 弦楽器製作を取り巻く環境は 1980年代後半からとても良くなりました。

デジタルカメラの高性能化、データ処理技術の向上、そしてインターネットの普及などによる情報交換の高速・広域化は 私にとってめまいを感じるほどのスピードでした。

そして 気がつけば  “オールド・バイオリン” などについての資料が容易に集められる時代となっていました。

Giuseppe Guarneri del Gesù  /  The back thickness
VIENNA micro-CT LAB

こうして‥ グアルネリ・デル・ジェズとされるヴァイオリン裏板の厚さをながめたり、ヤコブ・シュタイナーのそれを知ることができる訳ですから 時代とはいえ 不思議なものだと思います。

Jacob Stainer   /  The back thickness

これらの追い風もうけて‥  私は “オールド・バイオリン”の表板、 裏板にみられる響きにつながる要素と そのへりのオーバーハング部に特徴的な加工がしてあること、そしてコーナーブロックの形状は 音響的目的のために関係( Relation )させてあると考えるようになりました。


私は この連続性こそが “オールド・バイオリン” の発音システムの “失われた技術”の正体であると思っています。

左図では 左側角が振動の起点となり奥の角がリレーションすることで「  ゆるみ 」が生まれます。また右図は対称型で 左側角の起点と手前の角がリレーションします。

ヴァイオリンやチェロ、ビオラなどは F字孔周りの振動と 共鳴部の響きによって独特の音色を生みだしています。私は この発音システムが その時に共鳴部に十分な “ゆるみ”を発生させる役割を果たしていると考えるようになりました。


そこで “オールド・バイオリン”などの高性能型を区別するためのチェック・ポイントとして、私は上図 a. の裏板ボトムブロックの端付近( 高音側 )の剛性差を確認することを皆さんにおすすめしたいと思います。

この例として アンドレア・アマティが 1555年頃に製作したと考えられるヴァイオリンと ニコロ・アマティ ( 1596–1684  ) の 1651年製、そして アントニオ・ストラディヴァリの 1733年製から その部分の画像を並べてみました。
左側の アンドレア・アマティ ( ca.1505-1577 ) のヴァイオリンにおける 点 A の剛性差については異論がないと思います。

そして‥ もし判断が分かれるとすると、あとの二台ですね。

これが意図的な剛性差のための加工と確信するには 下図の 赤線辺りが 響胴のねじり軸として機能するとスムーズにゆるみが生じることを理解する必要があるのではないでしょうか。

“Thickness”   G.B. GUADAGNINI ( 1711-1786 )  Cellos
1743年頃 & 1757 年

そのために‥ 少し話がそれて恐縮ですが 下に私の過去の投稿をあげさせていただきます。

【 ヴァイオリンの音は聴くほかにも “見て‥” 知ることが出来ます。】

弦楽器の表板は スプルース材の年輪がたてになるように使用されています。そのため縦に割れやすい特性があり それが影響してこのチェロの魂柱部には縦方向の割れ( Sound post Crack )が入っていて 表面のニスにも 縦方向のひび割れがはいっています。


私はこのニスに入った縦ひび( a. )はバランスが調和していなかったことで歪みが溜まり 表板が疲労した過程できざまれたものと思っています。

では b. c. そして d. のひび割れはなぜ入ったのでしょうか?
私は この年輪に直交するひび割れは チェロやヴァイオリンに設定された音響システムによって入ったものと考えます。

因みに‥ 私がこのように ニスのひび割れと響きを関係づけて考えるようになったのは  2003年 9月29日 の 16:45頃からです。

長くなりますが、ここで その時のお話をさせて下さい。

それは 2週間前まで 11歳の長女が使っていた 1/2サイズのヴァイオリンを 7歳の二女が使いたいと言い張ったので 、その準備として 弦などの交換を検討するために 工房の入り口に立ってこのヴァイオリンを私がチェックしている時のことでした。

風もなく空が晴れわたったおだやかな夕方で 私が立っている工房の入り口には まだ日差しがさしこんでいました。

そのときニスのひび割れが 『 キラッ ! 』と蜘蛛の糸のように光ったのが 私の目にとびこんできました。 それで私は このヴァイオリンの表板と側板にはいった ニスのひびを確認してみました。 はじめは 『  なるほど。 分数ヴァイオリンでも フルサイズとおなじ入り方をするんだ‥‥ 。』と思いながら観察していたのですが、 当時 私が記憶していた他の事例とあまりにも合致していたので 『  これは‥ もしかして! 』と思ったときに 私の顔色は変ったと思います。

それまでニスのひび割れを特に重大なことと思っていなかった私でしたが、このときヴァイオリン響胴の振動モードとそれが きちんと繋がったのです。 私はこのとき『  ヴィジョンが降りてきた‥‥ 。』感覚のなかで 『  いま自分の頭のなかにうかんでいるヴァイオリンのヴィジョンは本当なのかな? 』と 戸惑いながらも楽器の角度を変えたりしながら観察して、もう一度 頭にうかんだ ヴァイオリンの振動モードに誤りがないかを検討しました。

その最中のことです。  私が表板側と側板に気をとられてよくみていなかった 裏板がレイヤー映像のように頭のなかに浮かんだのです。 『  表板がこう振動して側板はブロックによって こう動き‥ということは裏板のここら辺りにこういう形状のニスひびが‥‥ 。』と 私は 独り言をいいながら 裏板を見るために ヴァイオリンをひっくり返しました。

いまでも その瞬間をときどき思い出します。
とにかく感動しました。  私が予測したとおりの形状の小さなニスひび割れが 裏板の推定した位置に 入っていたのです。 おかげさまで 私は 鉱山技師が鉱脈を発見したような 歓びを経験しました。

下の図は そのニスひびを 2005年になって 私のノートに記録したものです。


この時に私がはじめに気がついたのは下幅広部に真横に入っているニスひびが テールピースの下で繋がっておらず 魚のウロコ状のニスひびとなっている事でした。

それで私は このニスひびは ボトムブロックの端付近( 高音側 )の点 a. から ゆれがはじまる”ねじり”によるものと判断したのです。

その証拠に反対側のネックブロック部をみると 点 b. 辺りからブロックのねじりによるニスひびがはいっています。

【  弦楽器のニスに入ったヒビが物語ること‥。】


このような ネックブロックのねじりは上の動画で確認できます。
おそらく撮影の都合だと思いますが鏡像になっていますので ネックブロックは手前側が高音でその奥が低音側となっています。

“Varnish crack”   1970年製     Karl Hofner Cello( 2006年撮影 )

Cittern  /  English  (  Length 616mm – String length 340  )  1600年頃


Cittern by Gasparo da Salo  (  ca.1542 – ca.1609 ) Brescia  1570年頃


Jacob Stainer  ( Absam, Tyrol  )  Bass Tenor Viola da Gamba 1673年

Cello –  Joseph Naomi Yokota ,  Tokyo  2014年

それから 私が上図で – 7.0° としているねじりの軸線は 下にあげさせていただいた アントニオ・ストラディヴァリ ( 1644-1737 ) が 1679年に製作したヴァイオリンの “サンライズ”の裏板年輪の木取を参考にしました。


私はこれらの仮説と状況証拠によりその楽器が “オールド・バイオリン”の音響システムに基づいているかを確認するために 裏板ボトムブロックの端付近( 高音側 )の”意図的”な剛性差の痕跡を確認することは重要と考えています。


最後に実例として アンドレア・アマティ ( ca.1505-1577 ) が 1566年頃に製作したと考えられるヴァイオリンをあげると‥  裏板へりのオーバーハングの差異は小さかったとしても、点 B. のひび割れを この楽器の特質のひとつと見ることが出来ると思います。

これにより 少なくとも 下に並べた 1555年頃のヴァイオリンと同じ製作者によると考えても違和感はないのではないでしょうか?

このように音響システムの視点を持ちながら 弦楽器を観察すると “オールド・バイオリン” と贋作の違いは 意外と見分けやすいのではないかと 私は思います。

 Gasparo da Salò  /   Violoncello

 

2017-2-09                 Joseph Naomi Yokota

裏板 右回転 21°~23°位置 のオーバーハングについて

 

私は “オールド・バイオリン”の特徴である、へり部分の側板からオーバーハングする設定が “意図的”に少なくされている部分があることは音響的に重要と考えています。

 

Andrea Amati  ( ca.1505-1577 ) ,   Violin “Charles Ⅸ”  1566年頃

これは 裏板の焼いた針などでつけられた痕が明瞭なヴァイオリンで確認すると、オーバーハングする設定が “意図的”に少なくされている部分は 直線状の軸線に対応している事からも同意していただけると思います。

Andrea Amati ( ca.1505–1577 ) ,  Violin  1555年頃

例として アンドレア・アマティのヴァイオリンで確認してみましょう。

Andrea Amati ( ca.1505–1577 ) ,  Violin  1555年頃

このヴァイオリンは 裏板 右回転 22.4°位置の下端部オーバーハングがかなり削り込まれているようです。

このように “オールド・バイオリン”では ライニングのすぐ近くまで削られたヴァイオリンが何台も存在します。

但し、ここまで削り込む加工がされたものは 16世紀から 19世紀までの弦楽器においてその存在は貴重です。

上図のように ニコロ・アマティ ( 1596–1684  ) や アントニオ・ストラディヴァリ ( 1644-1737 ) のヴァイオリンでは オーバーハング部の削り込みは外見上の違和感が少ない仕上げとなっています。

Andrea Amati ( ca.1505–1577 ) ,  Violin  1555年頃

Nicolò Amati ( 1596–1684  ) ,  Violin 1651年

Antonio Stradivari ( 1644-1737 )  Violin  “Rode – Le Nestor”  1733年

いずれにしても下図のように左下コーナー部で パフリングの外側の幅を確認したあとで 左下部のパフリングの外幅を見てみると、あきらかに差異があることが分るのではないでしょうか。

Francesco Goffriller ( 1692–1750 )    Violin  1719年頃








Francesco Goffriller ( 1692–1750 )    Violin  1719年頃

2017-2-04                 Joseph Naomi Yokota

それが本物の”オールド・バイオリン”でしたら 裏板の マークを確認してください。

 

私は”オールド・バイオリン” の特徴を確認 するときは 裏板駒下部と その左下に焼いた針などでつけられた マークが無いかを調べます。

例えば アントニオ・ストラディヴァリが製作したとされるヴァイオリン “ローデ” の裏板には下写真のような位置に それが見られます。
Antonio Stradivari ( 1644-1737 ),  Violin  “Rode / Le Nestor” 1733年

参考にして頂くために‥ このストラディヴァリウスと クレモナ派の始祖と伝えられる アンドレア・アマティが 1555年頃に製作したと考えられるもの、そして その孫である ニコロ・アマティが その 100年ほど後に製作したヴァイオリンの画像を並べました。

A、点 B は3台とも同じ座標です。

これを観察すると ニコロ・アマティ ( 1596–1684  ) の弟子である アントニオ・ストラディヴァリ ( 1644-1737 ) が アンドレア・アマティ( ca.1505–1577 )の 170年以上も後に、その製作方法を誠実に受け継いでいたことが感じられると思います。

私はこのようにして比較対象をしながら”オールド・バイオリン”の研究を進めました。

そのなかで 、参照のためにあげた アンドレア・アマティが 1555年頃に製作したと考えられる このヴァイオリンが 非常に重要な意味をもっていると考えるようになりました。

Andrea Amati ( ca.1505–1577 ) ,  Violin 1555年頃

なぜなら、この楽器は “オールド・バイオリン” に多数入っている焼いた針などでつけられた痕が直線状の軸線として用いられたことを暗示しているからです。

これらのピン・マークを 高解像度の画像で確認していくと、下の参考写真のように それらが連なる軸線を何本も見出すことができます。

Antonio Stradivari ( 1644-1737 ),  Violin  “Rode / Le Nestor” 1733年

この作業は‥ 満天の星空をながめながら星座を探すのに似ていますが、細かい “点” ではなくもっとはっきりした “工具痕跡” として加工された マークをもつ楽器を参考にすれば ニコロ・アマティ ( 1596–1684  ) が 1651年に製作したとされるヴァイオリンのように 拡大すると細かい “点” が多数見られる楽器でも それほど難しくはありません。

私は それらの マークが連なる線が 正中線に対して右回転、あるいは左回転で何度にあたるかを画像ソフト上で確認して資料化しています。


Nicolò Amati ( 1596–1684  ) violin 1651年

例えば このヴァイオリンの高解像度画像では上のストラディヴァリウスと同じ 右回転 21.6度の位置に 14個の焼いた針痕を見ることができます。

また 私は下図のように 右回転 14.8度と 28.2度にも軸線を見出しました。

同じように観察をしていくと 下写真の アンドレアの息子たちである アントニオと ジローラモの兄弟が製作したとされるヴァイオリンでも 21.6度 には 10個の針痕があるようです。

 Antonio and Hieronymus Amati        Cremona 1629

私は このようにして基礎資料を増やしていきました。
そしてその後の研究により 結局これが”オールド・バイオリン” の発音システムに繋がっていることが解明できました。

Gasparo da Salò  /  Violoncello

そういう事で、これは 弦楽器を鑑定する場合にも強力な状況証拠となり得ますので 私は皆さんにヴァイオリンなどを調べる際は 高解像度の写真を撮影し‥ それを 拡大して焼いた針などで付けられたマークの位置関係を検証することをお奨めいたします。

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2017-2-03                 Joseph Naomi Yokota

弦楽器システムの最後の理解者 レアンドロ・ビジャッキについて

この他に私はネックや指板について考える場合 1910年頃に ミラノで  レアンドロ・ビジャッキ(  Giuseppe Leandro Bisiach   1864 – 1945  )氏が製作したヴァイオリンに助けられています。 これは所有者の方が 23年程前に 当時 ‥ 一般的に認識されているレアンドロ・ビジャッキ作 ヴァイオリンの販売価格の2倍くらいの値段で購入されたものです。

すばらしい事に 1910年に ブリュッセルで開催された万国博覧会にイタリアから出品されゴールド・メダルを受賞した製作当初の状況がほぼそのまま保たれています。

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このヴァイオリンは 1910年のブリュッセル万国博覧会の写真と 2012年に私の工房で撮影した写真をつき合わせると 指板の左右表板の『  演奏キズ  』や 表板C型部センター・バウツ付近の『  弓の打撃痕  』や それ以外のへりについている『  キズ  』も製作時の加工によるもので、裏板やヘッドのニスが剥がれている『  景色  』も製作時に加工されたことが確認できます。

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ちなみにブリュッセル万国博覧会は 1910年 4月23日から 11月7日までベルギーの首都ブリュッセルで開催された国際博覧会で 会期中に 1300万人が来場したそうです。 この博覧会にイタリアから出品されたレアンドロ・ビジャッキ(  Leandro Bisiach  1864 – 1945  )が製作したヴァイオリンのラベルには 1910年にミラノで製作したと書かれています。 これはおそらく 4月からの万国博覧会出品のために前年にはあらかた完成していたヴァイオリンに このラベルを貼って仕上げたものと 私は推測しています。

私はこのヴァイオリンを 100年前の『  標準型  』として参考にしています。 ネックや指板などもとても興味深い設定です。

Giuseppe Leandro Bisiach (  1864 – 1945  )  /    violin   1910  Milano

表板 サイズ          351.0 mm  –  165.2 mm  –  107.6 mm  –  205.0 mm
アーチ 17.0 mm
裏板 サイズ          351.5 mm  –  165.7 mm  –  107.6 mm  –  204.6 mm
アーチ  16.6 mm
ネック長さ      129.0 mm
ストップ          192.5 mm
ネック高さ( 表板からトップ・エッジまで )E-side 6.2 mm :  G-side  6.5 mm
(  指板エッジまで  )                  E-side 10.1 mm  :  G-side 10.5 mm
ネック厚さ  17.0 mm –  20.2 mm
指板端の高さ(  表板から  )   17.9 mm
指板                23.1 mm –  42.3 mm –  266.5 mm
ナット(  1-4 スペース )     16.3 mm
サドル           34.5 mm( 7 – 20.5 – 7  )、H 5.0 mm( 1.0 )、D 5.5 mm
F字孔間       39.4 mm
F字孔長さ    L 68.5 mm  –  R 69.0 mm
ボタン           20.9 mm  –  H 12.3 mm
側板 Eサイド    N 28.2 mm  –  28.8 mm  –  C 29.4 mm  –  C 29.3 mm  –  29.4 mm
側板 Gサイド    N 28.3 mm  –  28.2 mm  –  C 29.2 mm  –  C 29.4 mm  –  29.4 mm
ヘッド      106.5 mm (  38.0 mm  –  68.5 mm  )
アイ      39.5 mm
ペグ・ホール位置  N-side 16.0 mm  – 14.0 mm – 23.5 mm – 13.0 mm
パーツ無し重量     374.0 g

ただし 念のために申し上げないと私にはどういう事情かは分かりませんが、このヴァイオリンは 彼のどのヴァイオリンよりも特別です。

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ヴァイオリンと能面の類似性について – 後編

長文となり恐縮ですが、ここからは弦楽器の “写し” の特徴についてお話ししてみたいと思います。

まず弦楽器のヘッドの事例を見てください。能面とおなじように みごとな非対称形状のものがたくさんあります。また、複雑なゆれを意図的に生じさせるために 傷や摩耗したような加工が多用されています。

giovanni-battista-ceruti-1791%e5%b9%b4-cremona-1755-1817-a-lGiovanni Battista Ceruti ( 1755-1817 ),    Violin  1791年  Cremona   /  355-163-113-208  ‘Wurlitzer collection 1931’

1500年代半ばに登場した ヴァイオリンは 1700年前後には黄金期を迎え、弦楽器製作者が 技術の粋を尽くして 沢山の名器を製作しました。

しかし、当時 ヨーロッパ世界を恐怖に陥れたペスト禍や 相次ぐ戦争が 弦楽器製作の世界にも影をおとし、特にスペイン継承戦争でフランスとオーストリアの領地争奪戦に巻き込まれたロンバルディアの諸都市は 急激に没落していったと伝えられています。

‘三大ヴァイオリン製作者’ を輩出したクレモナも 実質的には このG.B. チェルーティを最後に技術の継承が途絶えたようです。

このヴァイオリンは 1931年の ‘Wurlitzer collection’ のなかでも 特別な楽器として扱われたもので、私は 彼の代表作と思っています。

写真のように スクロールの特徴ひとつとっても非対称技術のすべてを確認できるすばらしいヴァイオリンです。私はこの ヴァイオリンを作った G.B. チェルーティを、能面でいう”創作の時代” の 最後の弦楽器製作者だと思っています。
40623bcdc8be7303f55a6747dccc382eところで、ヴァイオリンや チェロのヘッドは錯視をまねき易い形状のようで、見る角度や撮影条件でかなり印象が変わります。

この上下二枚の写真は、 デジタル一眼レフカメラで 同じチェロのスクロールを撮影したものです。 上写真は 被写体距離が 約2.0m でしたが、下写真は 被写体距離が 約1.2mで 上写真より若干 見下ろす角度で撮影しています。

この楽器を実際に皆さんがご覧になると おそらく上写真のような印象になると思いますが、下のように少しズームアップされた写真は 私たちが二つの眼球でみる景色とは 違う視点を気付かせてくれます。

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因みに私が赤線でいれたような補助線は大切です。 ご覧のように これを書き加えると スクロールの角度設定などの確認が容易になります。

下に いくつかの事例をあげてみましたが、弦楽器は形状に加えてメープル材の虎目模様や 表板もふくむ木材の年輪、糸巻きなど 錯視の誘因条件をかかえているため 実相が捉えにくいという特徴を持っているからです。

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カフェウォール錯視  :  水平の線が右または左に傾いて見える。
1024px-jastrow_illusion_revealed_svg
ジャストロー錯視  :  上のような二つの扇形では下の方が大きく見える。
delboeuf_illusion_svgデルブーフ錯視  : このように合同な内円( 黒 )が 外円の影響で違って見える。

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ツェルナー錯視  :    このように平行な線分に 羽を斜めに( 羽角度が 鈍角ほど顕著 )加える事によりおこる錯視。

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オッペル・クント錯視  :    等間隔の平行線 A,B,C が AB間に書き込まれた平行線によって ABの間隔のほうが BCより広くみえる。

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ポッゲンドルフ錯視  : 斜線を描き、その間の形跡を別の図形で隠すと その直線の始まりと終わりがずれて見える錯視。

この他にも錯視につながる条件がいくつもありますので 弦楽器の特徴を理解したいとお考えの方に 私は写真撮影をおすすめしています。

例えば 下画像はストラディヴァリウスのスクロールに 私が 白線を正中線として 傾斜角度をみるために赤線を入れその角度を書き込んだものです。

私はこれらの傾斜角度は 弦を張る前の木組みを含めた基本設定の段階で決定され 実行されたと考えています。意図的にこの角度差を彫り込むには かなり高度な技術が必要なのは 想像に難くないと思います。

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joseph-thomas-klotz-violoncello-piccolo-mittenwald-1794-1743-09-1-l
Joseph Thomas Klotz ( 1743-1809 ) ,  Violoncello piccolo  Mittenwald  1794年

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Nicola Gagliano ( ca.1710-1787 )   Violin,  Napoli  1737年

そして 弦楽器をみる時にもうひとつ念頭におかないといけないのが、弦を張ったあとの調整痕跡です。

その事例として このスクロールの右側突起部に注目してください。この部分は 製作された後の “修復” によって 現在この状態となっていると考えられます。

これは この ニコラ・ガリアーノが製作したヴァイオリン・ヘッドの “修理部分の損傷”( 下写真右側 )が、同時期に製作されたヴァイオリンの摩耗痕跡( 下中央 )と おなじように製作時に加工されていた可能性が高いことが 状況証拠となっています。つまり この “修理” は 製作時の加工があまりに大胆であったために、後年‥ はじめからと気がつかなかった担当者によって ていねいに修復されてしまったものと 私は判断しました。

それにしても、音響上の理由とはいえ この摩耗加工は‥  たとえば 千利休( 1522-1591 )の “わび茶” を端とする茶道において、 成型した灰型の最後にすじ棒などで崩す( 流派による差異はあります。)所作に似て、美学としても 十分に 意志的と 私は感じます。

まさに、「古( いにしえ )の 弦楽器製作者 恐るべし!」といったところです。

 

 

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Johann Jais  Viola  Tölz ( 1715-1765 )    Viola   1760年頃

弦楽器ヘッドの非対称性については、このビオラのように おそらく着手時に大胆な設定として選択されたと考えられる 事例もありますが 、摩耗痕跡を複数の作品で比較してみると 一定の加工原理としてとらえることが出来るようです。

antonio-stradivari-violin-1715%e5%b9%b4-lipinski-a-lAntonio Stradivari  ( ca.1644-1737 )    Violin  Cremona  1715年
“Lipinski”   /   Giuseppe Tartini ( 1692 – 1770 )

たとえば このヴァイオリンは、1700年代に ヴァイオリンソナタ『 悪魔のトリル (  Devil’s Trill Sonata ) 』で有名となった 作曲家 ジュゼッペ・タルティーニ( Giuseppe Tartini  1692-1770 )が使用したと言われている すばらしい ストラディバリウスです。

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私は クレセント・カット(  Crescent cut  )と呼んでいますが 三日月型の” 激しい摩耗痕跡 “があります。

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そして右写真はイタリア・クレモナに展示されている 有名なヴァイオリンです。クレセント・カット部には 修復痕跡が認められます。さて、これは どう考えるべきでしょうか?

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残念ながら このような摩耗痕跡を 『 演奏するためのチューニングなどですり減った。』 と思っている方も多いようで、実際にその判断の誤りにより このように ‘修復’ されてしまう弦楽器もあとを絶ちません。

 

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Antonio Stradivari  (  ca. 1644-1737  )   Violin  1677年  “Sunrise”

これは、 ストラディヴァリが製作した装飾文様入りの有名なヴァイオリン “Sunrise” です。 彼が初期に製作した作品ですが 装飾加工も含めて製作時の状況がよく保存されていることでも知られています。

このヴァイオリン・スクロールにもクレセント・カットが入っています。ところがその周りには他に摩耗したような痕跡はあまり見られません。私は このヘッドにみられる摩耗部とその周りの’落差’ を不自然と感じます。

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これは オーストリア国立銀行が ウィーン・フィル( Wiener Philharmoniker )のコンサートマスターに貸与している 1709製ストラディヴァリウス ”ex-Hämmerle” の ヘッド写真です。

2008年に定年退団するまで ウェルナー・ヒンク氏( Werner Hink  1943 – ‥ )が使用し、その後 1992年から コンサートマスターに就任していた ライナー・ホーネック氏( Rainer Honeck 1961- ‥ )が 演奏に用いている有名な楽器です。

このヴァイオリンで摩耗部とその周りとの’落差’ を ご説明したいと思います。下画像のように 私はスクロール部を 1段目、2段目、3段目と区別していますが、摩耗痕跡が 1段目のエッジ部でみとめられるのに 2段目、3段目のエッジ部は 完成時のままであるかのように フレッシュです。

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もし チューニングでスクロールに触れたことが“摩耗”の原因だとしたら 「 この景色 」はあり得ないのではないでしょうか。

これらを検証した結果、私は ストラディヴァリは 摩耗加工を 多少不自然になるのを承知のうえで 音響上必要とおもわれる最低限にとどめた弦楽器製作者だと考えています。

さてヴァイオリン族のなかでも ヴァイオリンと ビオラは 演奏者がスクロールに触れることがある訳ですが、チェロのスクロールは人が触れることは殆どありません。  ところがオールド・チェロの中には 制作者が 前出のストラディヴァリウスのヴァイオリン・スクロールと同じように 二、三段目はそのままで一段目を”激しく摩耗させた” チェロが存在します。

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私も プロのオーケストラで2列目に座っているチェリストから 『 演奏の最中に目の前のチェロのヘッドをいつも眺めているけど”激しくすり減った” 理由が何度考えてもまったく解からないんだけどどうして?』 と聞かられた時には 『 うぅーん…。』でしたが、同じような質問を何人かから受けて本腰をいれて調べました。 オールドのチェロは本当に現存する台数がすくないですから結構大変でした。

 

 

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この写真は 1997年に ヴェネチアの南西80㎞程の街 Lendinara で開催された展示会カタログ ” Domenico Montagnana – Lauter in Venetia ” Carlson Cacciatori Neumann & C. の 109ページに掲載されている 1742年に Domenico Montagnana が制作したチェロのヘッドです。

クレセント・カットの意味が解かりやすいので引用させていただきました。  十六、十七世紀にヴァイオリンやチェロを製作した人は イタリア語 Liutaio やフランス語 Luthierであるように リュート製作者でした。 つまり リュート 、シターン や テオルボ 、キタローネや ヴィオラ・ダ・ガンバ をよく知っている弦楽器製作者だったのです。 右側に1993年に ボローニャの博物館カタログとして出版された ” Strumenti Musicali Europei del Museo Civico Medievale di Bologna ” John Henry van der Meer の105ページに掲載してある十七世紀に製作されたと考えられる テオルボのヘッド写真をおきました。 後ろから見たときに中心軸が右側に曲がっていくのが特徴です。

左右の写真を見比べれば同じ軸取りがしてあるのが理解していただけると思います。 下に資料映像をならべておきますが古楽器からヴァイオリン族まで胴体の中央軸線とネックの中心軸線ははじめから 『 く 』の字に組まれていました。

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[ 恐縮ですが ここからは 書いている途中です。]

”クレセント・カット”は制作者が スクロールを後ろから見たときの右曲がりの中央軸の傾きをより「 強化 」するために手を加えたものです。

 

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このように 弦楽器は 響きの立ち上がりのすばやさや 持続性、そして響きの豊かさを達成するために、徹底した音響条件の集合体となっています。

このため 16世紀から18世紀末までに製作されたクオリティの高い弦楽器は、あまりにも複雑な設定がなされているために19世紀後半になるとその音響機構を理解できる人がほとんどいなくなりました。

 

フランス、ボルドーの高名なメドック地区にあるポイヤックのシャトー・ラフィット・ロートシルトの赤ワインは、フランクフルトに発し200年以上金融界に君臨するロスチャイルド家のひとつのフランス・ロスチャイルドが1868年より保有するクラレットなのはよく知られています。 そしてもう一つの シャトー・ムートン・ロートシルトは 1853年にイギリス・ロスチャイルド家の所有となった為に 1855年のランクインが見送られ1973年 シラクによって正式にクラレットとなりました。  このように彼らは 金融、鉱業、鉄道、保険、石油、マスコミ 、製薬 、ワインなどの他にも 鳥類標本を集めれば一つ博物館 ( ウォルター・ロスチャイルド動物学博物館 )ができる収集家があらわれるほどのこだわり方と 『 目利き 』が知られています。  このロスチャイルドの一人 バロン・ナタニエル・ロスチャイルドは 1890年に ストラディヴァリの 1710年作といわれているチェロ “Gore – Booth ” を購入しました。

ペグホールの位置を考える場合に「 非常に興味深い 」そのスクロール写真を 1987年にクレモナで開催された 「 ストラディヴァリ没後250年祭 」の展示会資料集として1993年に Charles Beare がロンドンで出版した ” Antonio Stradivari – The Cremona Exhibition of 1987 ” の 165ページより引用させていただきました。

これはどういう事かを少しお話しすると‥  たとえばこれを研究したとします、私事で恐縮ですが 私の場合は 実験考古学の考え方で解明しようと 2004年11月11日に 独自に研究をはじめました。

 

先程お話しした ヘッド部の非対称加工については、その4カ月後である 2005年3月16日に下記の実験をおこないました。

弦楽器の特質上その条件変更の評価は最終的に響きで確認するしか方法がありません。

そこで私は 自分の娘4人が使用していた 4/4、1/2、1/4、1/8サイズの ヴァイオリン・スクロールで 試奏と削りを 五つの確認工程に分け実施しました。最終の補修工程は翌日でしたので 一台につき 四つの確認工程が終了すると、下の写真のような状態になりました。

実験結果が分かりやすいように 意図的な削りとしていますのでケガをしてるようですね。翌日違和感がないよう成形してニスの補修をおこない このヴァイオリンの実験痕跡が 他の方がご覧になっても分からない仕上げとしましたが、私の感覚としても いやなものでした。

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それはさておき、実験目的の方は 予想していたように「 一カ所ずつ 鑿(のみ)を入れて すぐに試奏する。」ごとに、この日 実験に立ち会った5人とも 感激のショックを受けるほどすばらしい響の変化が確認できました。

あまりにも劇的な効果でしたので 「こんなに簡単に ヴァイオリンの響きが改善できるのであれば 私の研究の完成は そんなに遠くないのでは‥ 。」と思ってしまった程でした。余談ですが 実際にこの研究が最終的な結論が得られ終了したのは 2015年12月26日でした。
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ともあれ‥ ヘッドの非対称加工の結果に意を強くした私は 翌日から数カ月に渡って、不都合な事情がないヴァイオリンやチェロに この加工をおこないました。その総数は30台ほどにおよびました。

しかし その試みは この年の秋には一旦 中止することになりました。なぜなら 重要な情報が この加工を加えたチェロを使用している人からもたらされたからです。

それは『 この加工による劇的な効果が3カ月程したら薄くなってしまった。』というものでした。非対称加工をする前より 状態が悪くなったわけではありませんが、すばらしい響きを一度自分の楽器で体験していると その喪失感は辛いものです。

このため私は 原因を徹底的に検証し ヴァイオリンもチェロもその響きは響胴が “ゆるむ” ことで生じている‥ という点から考えて 、一般に使用される弦楽器によくみられる ‘つり合いの破れ’ が生じ響胴にひずみが溜まったことが原因との結論に達しました。

この実験では ‘十分条件’ となり得る 響をうみだす響胴の音響条件の変更ではなく ‘必要条件’ のひとつを改善しヴァイオリンの響きを良くできました。しかしスクロールで私が試みた “まね”では すぐに限界が露呈するという事がわかりました。

着目は正しかったのですが、私は「 はじめから豊かな響きを持ち それが弦の交換だけで 何年間も安定した性能のまま使用できるヴァイオリン 」を作るために研究をはじめた訳ですから 立ち止まってはいられませんでした。

私が経験したように 弦楽器製作者が  ヘッド部の非対称性を検証しようとすると おそらく同じような一喜一憂があり、それは果てしない道のりに続いていると思えます。

18世紀中期から19世紀はじめにかけて産業革命により 社会構造の変革がおこり時代が 近世から近代に移行するなか 、弦楽器製作者も その流れのなかで立ち止まるのがむずかしくなったということだと思います。

さて話を戻しますが‥ このような事からも分かるように 弦楽器のもっとも重要な特性は響胴部の条件にあります。ピアノなどの鍵盤演奏する弦楽器もふくめて すべての弦楽器は 弦が加える圧力を支えきり、振動板の条件を安定的に維持するのが 最難関の課題となります。

歴史をながめると 多弦楽器において この問題を解決するための研究は 結局‥  弦数を減らしながら 低音域の共鳴音をとりこむ試行錯誤のなかで それぞれの完成形に達したようです。

例えばこれを コントラバスで見てみると 3弦型に行き着きます。

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黎明期には 合奏で低音域を担当する弦楽器は 5弦や 6〜7弦の バス・ガンバが 一般的だったのですが、 それが現在の 4弦ないしは5弦のコントラバスとなる手前の19世紀前中頃には 3弦のものが 主力として活躍していました。

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ハイドンや ベートーヴェンとの親交で知られる ドメニコ・ドラゴネッティ ( Domenico Carlo Maria Dragonetti  1763-1846 ) の晩年である 1840年代の写真や、コントラバスにフランス式運弓法を取り入れ この楽器が多様な音色をもった立派な独奏楽器たり得ることを示した ジョヴァンニ・ボッテジーニ ( GIOVANNI BOTTESINI  1821-1889 ) の 1865年頃 といわれる写真には どちらも3弦のコントラバスが写っています。

3弦のコントラバスは 楽曲演奏に対しての適合性は 別として、より明瞭な共鳴音が見込めるので、ある意味では「 響の完成形 」だと 私は思っています。

これは低い音域の響きを生むには 振動部の面積がどうしても広くなってしまうので システム損失が生まれやすく、この変換効率が落ちる条件のもとで振動部に 30.9~41.2ヘルツあるいはそれ以下の音高につながる運動をさせるエネルギーが要求され、その最終的な解答として製作されたのが 3弦の弦楽器だったからです。

もちろんこれには 幾何剛性を変化させるチューニング( 低い方から A、D、G の四度調弦と G、D、Aの五度調弦が一般的だったようです。 )など 演奏家の工夫に支えられた側面も大きかったと思います。

因みに ボッテジーニは後年 4弦コントラバスにシフトして通常チューニング [  高い方から 中央ハの1オクターブと完全 4度下の ト( G )、以下完全4度ごとに 二( D )、イ( A )、ホ( E )]より 長2度高くする ‘ソロチューニング’ を考案し通常チューニングとともに普及させたそうです。

ともあれ 物理学で最も基本的な法則とされるエネルギー保存の法則( 変換前のエネルギーの総量と変換後のエネルギーの総量は変化しないこと。)があるわけですから、 コントラバス響胴の剛体運動のためのエネルギー総量を弦のゆれのみで 調達するのは至難の業だと私は思います。

 

 

こうした弦楽器製作の繁栄は 残念ながら 19世紀になると急激に変化します。そしてこの時期以降の弦楽器を検証すると これらの音響設定を理解できる人が激減したことがわかります。

また演奏環境の変化( 18世紀の音楽ホール事情 )も影響して 弦楽器製作は『 オールド・バイオリン 』などの弦楽器が製作された時代が終わり、『 モダン・イタリー 』などと呼ばれる弦楽器を中心とした時代となりました。

そして現代では「写し」の特徴である 弦楽器の傷跡状の加工や 製作時の工夫の多くが「 工具痕跡 」と呼ばれるようになりました。これはどうやら 刃物使いなどを失敗したと考えた方の命名のようですが、名工がこんな失敗をするでしょうか?。

そういうことで 弦楽器の特徴を理解するために ここから 私が これを 意図的につけてあると考えた理由をお話ししたいと思います。
Domenico Montagnana( 1686-1750 )  Cello   Venezia   1739年

例えば 1739年に製作されたこのチェロヘッドの背中下側の “工具痕跡” に着目してみましょう。これは 4番線のペグ取り付け位置より少し下についています。

まず ドメニコ・モンタニャーナが 1742年に製作したチェロ・ヘッド後部をまっすぐに撮影した写真 ①を下に置きます。

その下の②は 上の斜め写真の1739年製で ③は フランチェスコ・ルジェーリが 1695年に製作したものです。 三台のチェロに共通するだけでも偶然ではないと理解していただけると思いますが、この位置に同じ ” 工具痕跡 ” をもつオールドの弦楽器はめずらしくありません。

①  Domenico Montagnana( 1686-1750 ) Venezia   Cello 1742年

②  Domenico Montagnana( 1686-1750 )Venezia    Cello  1739年

③  Francesco Rugeri( 1626-1698 )Cremona   Cello  1695年

但し、すべてのオールド弦楽器についているわけでもありません。 下に例として4台のチェロをあげさせていただきました。④のベルゴンツィは上と同じ “工具痕跡” をもっていますが ⑤の “工具痕跡” は中央尾根の真上ですし ⑥と⑦のガダニーニはジグザグを強くしこの位置の軸の中央尾根の高さをさげることで同じ効果が得られるように工夫してあります。

 ④  Carlo Bergonzi( 1683-1747 )Cremona   Cello  1731年

 ⑤  Domenico Montagnana( 1686-1750 )Venezia  Cello  1739年 ” The Sleeping Beauty ”

⑥  J. B. Guadagnini( c.1711-1786 )Cello  1743年頃製作  ”Havemeyer ”

⑦  J. B. Guadagnini( c.1711-1786 )Cello  1777年   ” Simpson ”

それから上の画像を検証すると中央尾根だけでなくチェロ・ヘッドのヒールが楕円を基本型としている事がご理解いただけると 思います。 私はこれを ヘッドのゆれ( = 剛体運動 )の ふたつの運動のうち 回転運動をふやす( = ゆれる時間を長くする )工夫と考えています。

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cittern-%e3%80%80-english%e3%80%801600%e5%b9%b4%e9%a0%83-1-l 説明は省きますが  私はこのような軸組が分かりやすい弦楽器の特徴から 考察して、非対称の楕円部は ねじりを生じさせる仕掛けとなっていると思います。

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Antonio and Girolamo Amati    Violin  1595年頃製作  ” The King Henry IV ”

そして アマティ兄弟が 1595年頃製作したとされる ヴァイオリンです。このスクロール・エッジ部にある段差も  “工具痕跡” とよぶのは無理があると、私は思います。

 

上のスクロールと この 1603年頃に製作された アマティ兄弟のスクロールを比較すると『 段差加工 』は 8年後の方が 少しなめらかな削りとされていることが ご理解いただけると思います。

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Matteo Goffriller (1659–1742)    Violin,    Venezia 1702年

また、 このヴァイオリン・ヘッド右側( Bass side )にも段差加工を見ることができます。

それから 1742年製 とされるドメニコ・モンタニャーナのチェロでも ヘッド右側( Bass side )にも段差加工を見ることができます。

 

domenico-montagnana-vc-venezia-1742%e5%b9%b4-1686-1750-1-lDomenico Montagnana( 1686-1750 ) Venezia   Cello 1742年

私は 性能的に優れた弦楽器のヘッドは ゆれやすいように斜めに不連続面を構成して「 ねじり軸 」を設定していると考えています。
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『 オールド・バイオリン 』などの弦楽器では、その軸がエッジをまわりこむ位置に 下の写真の 点 A, 点 Bのような傷跡状の加工をみることが よくあります。

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Jacob Stainer ( 1617-1683 )  Violin  Absam Tirol   1678年

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Jacob Stainer ( 1617-1683 )  Violin  Absam Tirol  1659年
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Nicola Gagliano ( 1675-1763 )  Violin Napoli 1725年頃
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彼らは弦楽器の発音メカニズムを熟知していたため 中には下のカルロ・ベルゴンツィ( Carlo Bergonzi  1683-1747 )が何台か製作したヴァイオリンのようにヘッドのヒール部分を切り取ることで その条件を調整したものがあるくらいです。



イヤハヤ‥ 頭が下がります。 私は カルロ・ベルゴンツィを本当にすばらしい弦楽器製作者だと思います。そしてパリで活躍した J.B.ヴィヨーム( Jean-Baptiste Vuillaume  1798 – 1875 )もそう考えたようです。カルロ・ベルゴンツィ( 1683-1747 )が亡くなって100年程のちに 下写真のヴァイオリンを製作したくらいですから‥ 。


Jean Baptiste Vuillaume    violin
( Nippon Violin )


この世の中の『 名器 』と呼ばれるすべての弦楽器を検証した訳ではありませんが 私の経験では ヘッド・ヒール部に弦楽器製作の名工達は ” 必ず ” 細やかな工夫を施していました。この事を知っていると『 オ-ルド・バイオリン 』の見分け方としても役立つと思います。

これをおおまかな言い方で表現すると ヘッド・ヒールの A部とB部をまず確認してください。とくに A部( 縁薄部 )は重要ですので焼いた針などの工具痕跡や段差の有無などもみていただきたいのですが‥ もっとも見分けやすいのは縁の厚みを薄く設定してあるかどうか? だと思います。これは B部の意図的に厚みが残してある部分と比較するとなおさら判りやすいと思います。

それからネック上端とヘッドの接合部の C部から斜め上方向( これらの画像の白い点線もそうですが 私は 33°を標準と考えています。)に『 ゆれ軸 』が設定されていないか?を確認します。この C部には焼いた針などでつけた工具痕跡がある場合が多いと思います。そして その上端にあたるD部は 縁がすりへったような加工により高さを低くしてあることが多いでしょう。また『 斜めゆれ軸 』の中央付近に 先ほど『 ヴァイオリンの工具痕跡 (  tool mark )について。』で私が指摘した 工具痕跡がある場合にはなおさら このラインの存在が確認しやすいと思います。

では参考のために 2011年の ” Masterpieces from the Parma 2011 Galleria Nazionale Exhibition ” に関連した研究書として 2012年に SCROLLAVEZZA & ZANRÉが出版した ” Joannes Baptifta Guadagnini fecit Parma ferviens  /  Celsitudinis Suae Realis ” ISBN 978-88-907194-0-0 より  J.B.ガダニーニ( 1711 – 1786 )のヴァイオリン・ヘッド写真を引用させていただきましたので観察してみてください。

①  Giovanni Battista Guadagnini ( 1711-1786 )  violin  ” Franzetti ”  Piacenza   1742年

②  Giovanni Battista Guadagnini ( 1711-1786 )  violin  ” Baron Knoop ”  Piacenza   1744年

③  Giovanni Battista Guadagnini ( 1711-1786 )  violin  ” Dextra ”  Piacenza   1747年

④  Giovanni Battista Guadagnini ( 1711-1786 )  violin  ” Zuber ”  Milan   1752年

⑤  Giovanni Battista Guadagnini ( 1711-1786 )  violin  ” Curci ”  Milan   1753年頃製作

⑥  Giovanni Battista Guadagnini ( 1711-1786 )  violin  ” Wollgandt ”  Milan   1755年

⑦  Giovanni Battista Guadagnini ( 1711-1786 )  violin  ” Burmester ”  Milan   1758年

⑧  Giovanni Battista Guadagnini ( 1711-1786 )  violin  ” Lamiraux ”  Parma   1763年

⑨  Giovanni Battista Guadagnini ( 1711-1786 )  violin  ” Merter ”  Parma   1769年

 ⑩  Giovanni Battista Guadagnini ( 1711-1786 )  violin  ” Millant- Levine ”  Parma   1770年

これらの画像により J.B.ガダニーニのヴァイオリン・ヘッドには  A部の 縁薄部 、B部の意図的に厚くしてある部分と、ネック上端とヘッドの接合部の C部から斜め上方 D部までのライン上に『 ゆれ軸 』の要素となる特徴がみとめられるものが複数存在していることがご理解いただけると思います。

これらの特徴は『 オールド・バイオリン 』ではよく見られますので、私はヴァイオリンを精査する際のチェック・ポイントとしてきました。下に別の製作者事例としてジロラモ・アマティⅡ( ヒエロニムス・アマティ )が クレモナで 1710年に製作したヴァイオリンのヘッド・ヒール部の画像を貼らせていただきました。

⑪  Girolamo Hieronymus Amati Ⅱ ( 1649 – 1740 )   violin   Cremona  1710年

さすがアマティ家の製作者ですので 景色に調和する配慮が感じられますが、J.B.ガダニーニとおなじように音響上の設定はきちんと踏まえて製作していたという事がご理解いただけるでしょうか?

Girolamo Hieronymus Amati Ⅱ ( 1649 – 1740 )  violin


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 Stradivarius   1715年   “Lipinski”  / Giuseppe Tartini’s
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『 オールド・バイオリン 』を見ていると似たような ” 修復 “がおこなわれているのをよく見かけます。例えば上写真は判断ミスでヴァイオリン・ヘッドが ” 修復?”された事例です。

 

Matteo Goffriller (1659–1742) Cello Venice 1705年 - 1 L
Matteo Goffriller Cello Venice 1705年 MONO - 1 LT
Matteo Goffriller (1659–1742) Cello Venice 1705年 - 3 LT
Guarneri 'del Gesù' cello 1731年 - C LT
Guarneri 'del Gesù' cello 1731年 - B LT
Domenico Montagnana Cello 1730年 - A LT
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Domenico Montagnana Cello 1730年 - B LT
Domenico Montagnana Venezia ( Yo-Yo Ma ) 1733年頃 - A LT
Domenico Montagnana Venezia ( Yo-Yo Ma ) 1733年頃 - A MONO L
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Old Italian Cello c1680 - 1700 ( F 734-348-230-432 B 735-349-225-430 stop 403 ff 100 ) - A LT
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ヴァイオリンと能面の類似性について – 前編

 

私は『 オールド・バイオリン 』が製作された 1500年代前期から1800年頃までの製作状況を検証した結果、それが能面の製作と重要な部分で共通していることに気がつきました。

それは 本物のヴァイオリンやチェロを理解する助けとなり得る事柄であると 私は考えています。

ところで 一般に知られていない能面についてお話しすることはとても難しいと 私は以前から思っていましたが、幸いなことに 2014年の年末に この内容を理解するのに適した展覧会が東京で開催されました。

そこで、まず この展覧会カタログを引用させていただきます。

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能面 創作と写し

能面の造形的側面に関する研究は活発とは言えず、彫刻史における位置づけははっきりしていません。能面の製作年代の判定、作者( 面打 )の特定が困難であることが大きな障害になっています。

なぜ困難か。それは、非常に精密な写しが大量に作られたからです。面の形式、表情だけでなく、面裏の様子、さらには傷まで写すことが広く行なわれました。面打特定の手掛かりになるはずの刻銘、焼印なども写したのです。

しかし、創作の時代の面には写しにはない個性が見られることも少なくありません。華やかさ、力強さ、艶めかしさなどが際立って、彫刻作品としても魅力的です。が、その突出した表現力が、演能において用いられる機会を狭めることもあるようです。

写しは、忠実に作っているようでも個性を減少させることが多いので、能楽師にとっては幅広い演目に使いやすいという評価につながります。

美術品の世界では模造は原品より価値の低いものになりますが、能面の場合は それとは異なる独特の文化があると言えるでしょう。

写しの名手として豊臣秀吉から「天下一」の称号を授かった是閑( 出目是閑吉満 / でめぜかんよしみつ  ca.1526 – 1616 )、名工として名高い河内( “天下一河内”の焼印を用いた 河内大掾家重 = 井関家重 / いせきいえしげ  1581 – 1657 )を始め、その評価の高さは創作の時代の面打に劣りません。

この展示でご覧いただきたいのは二点です。まず、創作面の彫刻作品としての魅力です。日本の彫刻史上で、室町時代は衰退期とされています。それは仏像を見ると否定できませんが、能面に目を向ければ彫刻史を書き換える必要を感じます。

次に、写しのあり方です。原品の良さだけでなく、普通なら減点の対象となる傷や剥落、面裏まで写す様子にご注目ください。そこに能の特性を探る鍵がありそうです。

ここで展示するのはもちろんごく一部です。各地に伝来している面の調査、研究によって能楽、あるいは日本文化史の未知の世界が眼前に開けてくる可能性があります。

能と面

能の歴史は まだ明らかになっていない点が多く、その成立までの過程については諸説あります。奈良時代( 710 ~ 794年 )に中国から伝わった、大衆芸能「散楽」が寺社の余興として庶民に広まり、さまざまな変遷を経て能と狂言の要素を持つ「猿楽」となります。

この猿楽に、豊作祈願に端を発するといわれ、庶民の間で親しまれてきた歌舞音曲(田楽)や寺社で行なわれた延年(えんねん)翁舞(おきなまい)などを、南北朝時代( 1336 ~ 1392年 )から室町時代( ‘1336 ~ 1573年’ )のはじめにかけて集大成したものが能狂言であると考えられています。

大成したのは南北朝時代、春日神社と興福寺の猿楽を務めた 大和猿楽四座のひとつ、結崎座(ゆざきざ = 観世座 )の観阿弥( 1333 – 1384 )・世阿弥( ca.1363 – ca.1443 )父子でした。

能は足利将軍家( 室町殿 = 足利義満  1358 – ‘1368-1394’ – 1399 鹿苑寺 – 1408 )、豊臣秀吉( ca.1537 – 1598 )、徳川家康( 1542 – 1616 )ほか諸大名などに愛好されました。

秀吉は金春安照、家康は観世忠親(身愛)を贔屓(ひいき)にしたように、諸大名家ごとに採用する流派が異なり、武士自らも能舞台に立ちました。やがて武家の式楽(公の儀式で行なわれる音楽や舞踏のこと )となります。

禅宗をはじめとした仏教の影響による、主に霊が主役となる幽玄な内容で、人間の哀しみや怒り、恋慕の想いなどを表わす能。そして さまざまな世相をとらえて風刺する笑いの台詞劇である狂言。明治時代に両者を合わせて能楽と呼ぶようになりました。

能楽で使われる面( おもて )がいつ、どのように生まれたかも詳らかではありません。技法では、翁面の切顎は舞台面の技法を継承するなど、ほかの仮面との共通点を持つ一方、目や歯に鍍金した銅板を貼るなど、能面独特の手法もあります。

平安( 794 ~ 1185年 )から鎌倉時代( 1185 ~ 1333年 )の舞楽面(ぶがくめん)、行道面(ぎょうどうめん)については、仏師が製作したことがわかっています。しかしながら仏像を造る仏師と、能狂言面を作る面打(めんうち)の関わりは不明です。

いずれにしろ南北朝時代から室町時代は、あらたな曲がつぎつぎ作られ、面の種類も増えた、言わば 能の「創作の時代」です。この時期に作られた面は造形的な魅力に富み、きわめて尊重されています。

能楽シテ方宗家には 能楽の演目と演出にあわせて工夫された面が備えられました。中には宗家が「本面(ほんめん)」と決めて別格の扱いをしてきたものもあります。

近世( ’1568 ~ 1867年’ )以降は型を伝える「写しの時代」です。諸大名が能面を備えるために面の需要が大幅に増大し、写しを作るようになります。

そして面打(めんうち)を世襲する家系が三つ現われました。越前出目家(えちぜんでめけ)、大野出目家(おおのでめけ)、近江井関家(おうみいせきけ)です。

彼らの仕事は、能楽の宗家である観世、金春、金剛、宝生等をはじめ、各地に秘蔵された名作を写すことでした。

模作は形や彫りだけでなく傷や彩色の剝がれた様子までも写しとることがありました。面の造形だけでなく、その歴史までも貴んでいたのかもしれません。面は 自分ではない何かに扮するための単なる道具という域を超え、能楽師の体の一部となる重要なものとして大切にされています。 [ 川岸 ]

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面を打つ    面打

面(おもて)を作ることを「 面を打つ 」、能面作家のことを「 面打(めんうち)」といいます。面が完成するまでのさまざまな工程のほとんど全ては、ひとりの面打が 担います。

面打に関する文献は非常に少なく、その歴史はいまだ不明な点も多く残されています。世阿弥の『申楽談義(さるがくだんぎ)』には 日光、弥勒、近江の赤鶴(しゃくづる)、愛智(えち)、越前の石王兵衛(いしおうひょうえ)、竜右衛門(たつえもん)、夜叉、文蔵、小牛(こうし)、徳若(とくわか)、千種(ちぐさ)の名が挙げられていますが、彼らの実体はほとんどわかっていません。

近世に、面打 三光坊( さんこうぼう  ‘‥ – ca.1532’ )を祖とする 越前出目家、大野出目家、近江井関家が興り、面打の世襲が始まります。寛政七年(1795)、能役者 喜多古能(きたふるよし)が面打を七種類に分類する『仮面譜』を著しました。 [ 川岸 ]

鼻瘤悪尉(はなこぶあくじょう)

鼻瘤悪尉は、鼻梁(びりょう)の途中に瘤(こぶ)があり凄味のある形相の老人の面(おもて)。「悪」は、強く激しいという意味。目と歯に鍍金した銅板を貼る。これは 人間を超えた存在であることを示すもので、荒ぶる神の役に用いる。額(ひたい)の深い皺(しわ)と浮き出た血管、瞳を上に寄せた容貌が特色である。

1 能面 鼻瘤悪尉  室町( ‘1336 ~ 1573年’ )から 安土桃山時代( 1573 ~ 1603年 )・16世紀 木造、彩色  20.9cm × 17.8cm
面裏(めんうら)に金泥(きんでい)で「文蔵作 / 満昆(花押)」と極書(きわめがき = 鑑定書)がある。

文蔵(福原文蔵  15世紀頃活躍 )は世阿弥の『申楽談義(さるがくだんぎ)』に名の挙がる面打で、南北朝時代頃の人らしいが詳細は不明。満昆は江戸時代の面打の家系である 大野出目家五代 洞水満矩(でめみつのり  ‥ – 1729 )のこと。

能面の極書は信憑性が低く、製作を文蔵の時代まで遡らせるのは難しい。しかし 血の通った彫に写しとは歴然とした差がある。

1 能面 鼻瘤悪尉(はなこぶあくじょう) - 1 L
2 能面 鼻瘤悪尉  江戸時代( 1603 ~ 1868年 )・17~18世紀 木造、彩色  21.5cm × 17.5cm
面裏に「文蔵作正写杢之助打」と記す。杢之助は 面打の家系 大野出目家の七代、友水康久(ゆうすいやすひさ   ‥ – 1766 )のこと。これを信じれば、満昆が文蔵作と極めを書いた面を孫が写したことになるが、この銘文の真偽は不明。表も裏も形は忠実に写しているが、肉付きにやわらかみがない。彩色は後補(こうほ)。

2 能面 鼻瘤悪尉(はなこぶあくじょう) - 1 L
1 能面 鼻瘤悪尉(はなこぶあくじょう)裏面 - 2 L2 能面 鼻瘤悪尉(はなこぶあくじょう)裏面 - 2 L
1 能面 鼻瘤悪尉(はなこぶあくじょう)裏面 - 1 L
2 能面 鼻瘤悪尉(はなこぶあくじょう)裏面 - 1 L
【   裏まで写す  –  1  】

「写し」と呼ばれる面を、もとになった面と比べると、表情はもちろん、舞台では見えることのない面裏の 鑿跡(のみあと)や修理跡までもよく似ていることが あります。つまり面裏まで 写しているのです。

能面 鼻瘤悪尉(はなこぶあくじょう)裏面 - 1 L

文蔵作と記す面( 1 )と それを写した面( 2 )では、額裏側の鑿跡もよく似ていますが、特に注目すべきは布を貼っている部分です。

漆を塗って仕上げる面裏に布を貼ることは通常ありません。おそらく面 1 が割れたか、亀裂が入ったため、布を貼って修復したのでしょう。2 の面は同じところが割れたのではなく、1 の面の修復跡までも忠実に写したのだと考えられます。 [  川岸  ]

鷲鼻悪尉(わしばなあくじょう)

鼻先が鷲(わし)の嘴(くちばし)のようにとがった鷲鼻で、強い表情の老人の面。額に四条の皺(しわ)があり、目に鍍金した銅環(環状の銅板)を貼る。鼻瘤悪尉が 銅板で目全体を覆うのに対し、この面は瞳だけに用いる。歯は根元に墨、先に金泥を塗る。

能面 鷲鼻悪尉(わしばなあくじょう)   室町時代( ‘1336 ~ 1573年’ )・15~16世紀 金春家伝来 木造、彩色  21.2cm × 15.5cm 重要文化財
「行者」という名称で伝わったが、鷲鼻悪尉と同じ顔である。額、頬骨、頬に刻まれた皺の上下あるいは左右の肉の部分のやわらかさが、生気のある表情を作っている。目に鍍金した銅板(後補)を貼るが、瞳の孔が小さいため迫力が減退しているのが惜しい。

3 能面 鷲鼻悪尉(わしばなあくじょう) - 1 L
4 能面 鷲鼻悪尉(わしばなあくじょう) - 1 L
能面 鷲鼻悪尉(わしばなあくじょう) 「 甫閑打 」朱書  江戸時代( 1603 ~ 1868年 )・18世紀 木造、彩色  20.6cm × 15.7cm
「 甫閑打 」の朱書により、大野出目家第六代 甫閑満猶(ほかんみつなお)の作と示す。

5 能面 鷲鼻悪尉(わしばなあくじょう) - 1 L
5  能面 鷲鼻悪尉(わしばなあくじょう) 「出目康久」焼印 江戸時代( 1603 ~ 1868年 )・18世紀 木造、彩色  21.2cm × 15.7cm
「出目康久」焼印により、大野出目家第七代 友水庸久(ゆうすいやすひさ)の作と示す。

【   豪快な面裏  】

3 ・鷲鼻悪尉(行者)の裏面はきわめて起伏に富んでいます。額を深く刳り(くり)、両目の下と鼻の刳りの上端で山の字状の稜線を作り、鼻と両頬、顎を深く刳っています。

写しの二面は両目と鼻の裏しか刳っていません。これが一般的な面裏です。その差は歴然としており、3 は裏だけで室町時代の作と判断できます。こうした起伏に富む面裏を写す場合もありましたが、これほど豪快にはなりません。実際に着けた時に、山の字状の稜線が邪魔だったかもしれません。
3 能面 鷲鼻悪尉(わしばなあくじょう)裏面 - 1 L 4 能面 鷲鼻悪尉(わしばなあくじょう)裏面 - 2 L5 能面 鷲鼻悪尉(わしばなあくじょう)裏面 - 1 L

 

【   面打特定の手がかり  –  焼印、知らせ鉋  】

能面の裏側(面裏  めんうら)には、その面を知るための さまざまな情報が残されています。「焼印」、「知らせ鉋(かんな)」、「銘(めい)」、「極め」、「鑿跡(のみあと)」などがそれにあたります。

自らの名前の印を焼付ける焼印、裏面に固有の刀の跡を刻む知らせ鉋は、面打が、その面が自分の作であることを示すための方法として面裏に残したものです。ただし、焼印や知らせ鉋まで写し取った写しも存在し、面打を特定する決定的な判断材料にはなりません。

銘は その面の作者名、写しの場合にはオリジナルの面の作者や名称のほか、伝承や制作の目的、面の名称などが記されています。こちらも後世に書き込まれたものも多く、やはりこれだけで面打を特定することはできないのです。面打の特定は今なお大きな課題となっています。 [  川岸  ]

面打特定の手掛かり - 1 L
小面( こおもて )

若い女性の面。「小」は初々しく美しいことを示す。
金春流では 小面、観世流は 若女(わかおんな)、宝生流は 増女(ぞうおんな)、金剛流は 孫次郎(まごじろう)が それぞれ象徴的な女面である。小面は清楚で気品が高い。

能面 花の小面 - 1 L参考  1
能面 花の小面( はなのこおもて ) 室町時代( ‘1336 ~ 1573年’ )・15~16世紀 東京 三井記念美術館所蔵    重要文化財

参考  2
能面 雪の小面( ゆきのこおもて ) 室町時代( ‘1336 ~ 1573年’ )・15~16世紀 京都・金剛家所蔵    重要文化財

伝 竜右衛門作( たつえもん = 石川重政、室町時代の面打。越前大野から京都四条に移ったといわれる。 )の 小面三面を入手した豊臣秀吉( ca.1537 – 1598 )が それぞれ “雪”、”月”、”花” と名付けて愛蔵していたが、後に “雪”は 金春善勝(こんぱるよしかつ = 笈蓮 ぎゅうれん 、六十一世宗家 で  六二世となる次男の 金春安照 やすてる 1549 – 1621 は 秀吉の能指南役をつとめるなど 絶大な庇護をうけた。)に、”月”は 徳川家康( 1543 – 1616 )に、”花”は 金剛家に授けた。

“雪”の小面は流出し、現在 京都の金剛家の所蔵である。”月”は江戸城炎上と運命を共にしたと伝える。”花”は 東京 三井記念美術館蔵。”雪”の写しは多いのに “月”と”花”の写しは見ない。

能面 雪の小面 - 1 L
能面 雪の小面 - 2 L6  能面 小面( こおもて )「天下一河内」焼印 江戸時代( 1603 ~ 1868年 )・17世紀 木造、彩色  21.2cm × 13.6cm 金春家伝来 重要文化財
6 能面 小面 - 1 L

7 能面 小面 - 1 L

7  能面 小面( こおもて )「出目満昆」焼印 江戸時代( 1603 ~ 1868年 )・17~18世紀 木造、彩色  21.2cm × 13.6cm 金春家伝来 重要文化財

8  能面 小面( こおもて ) 「竜右衛門作ヲ似  /  宝来写作  /  宝来作  /  満昆(花押)  /  康久(花押)」金泥書  江戸時代( 1603 ~ 1868年 )・17~18世紀 木造、彩色  21.2cm × 13.6cm

8 能面 小面 - 1 L

9 能面 小面 - 1 L

9  能面 小面( こおもて )「出目満昆」焼印 江戸時代( 1603 ~ 1868年 )・17~18世紀 木造、彩色  21.0cm × 13.4cm 和歌山・根来寺所蔵

面裏に「金春本面  正」と記す金泥銘があるが、いつ書かれたものか不明。若く華やいだ美貌は 若い女面の中でも際立っている。クスノキ材製。

金春家には河内と洞水満昆( 大野出目家五代 洞水満矩 でめみつのり  ‥ – 1729 )が作った写し( 6、7 )があるが、あまり似ていない。むしろ河内の写しを写したと見られる面が多い。

8 は面裏を写していないが、頭髪の剝落の形が酷似していること、「竜右衛門作」を 宝来が写したと記すことから、”雪”の小面の写しとみて良い。

能面 雪の小面 裏面 - 1 L

6 能面 小面 裏面 - 1 L

7 能面 小面 裏面 - 1 L

8 能面 小面 裏面 - 1 L

9 能面 小面 裏面 - 1 L

【   裏まで写す  –  2 】

京都の金剛家に伝わる 雪の小面( 参考 1 )と、東京国立博物館と 和歌山 根来寺所蔵の 四つの写しの面裏を比較してみましょう。

まず、「金春本面」と記す 雪の小面には 両頬に焦げたような色が見られ、鼻の右側に肋骨状の鑿跡(のみあと)が確認できます。どちらも偶然できたものではなく、意図をもって作られたものに違いありません。

続いて写しの面裏を見ると、頬の焦げたような色、肋骨状の鑿跡が認められる面と、そうでないものがあることに気付きます。

8 では、頬の特徴の有無は判然とせず、鑿跡については明らかに表されていません。ところが それ以外の写しの面では、多少の違いはありますが、雪の小面の特徴を意図した表現が確認できます。面裏を写すもの、写さないものの差は、どのように生ずるのか興味深い問題です。

雪の小面( 参考 1 )と 6は クスノキ材製で、河内が雪の小面を写す際、材も忠実に用いたことが知られます。

一方、今回取り上げる ほかの写し 7、8、9は ヒノキ材製です。写しの製作における材の選定にも注意する必要があります。  [  川岸  ]

裏まで写す - 2 L
雪の小面を写した、河内の焼印のある小面にはこのほか面白い特徴があります。

鼻の頭に円形の傷です。
この傷は今回展示している「出目満昆」印と根来寺所蔵、二つの雪の小面の写しにも見られます。

(左) 重要文化財 能面 小面(鼻部分) 「出目満昆」焼印 金春家伝来  江戸時代・17~18世紀
(右) 能面 小面(鼻部分)  江戸時代・17~18世紀 和歌山・根来寺蔵    浅見龍介氏  ( 京都国立博物館列品管理室長 )


万媚
( まんび )

万媚は、媚(こび)を含んだ若い女性の面で、越前出目家三代の 古源助秀満( こげんすけひでみつ  ‥ – 1616 )が能役者の下間少進( しもつましょうしん 下間少進法印仲高  1551 – 1616 )とともに安土桃山時代( 1573 ~ 1603年 )に創作したのが始まりと言われる。

目がぱっちりと開いて、上瞼は強い弧を描く。頬の肉付きは丸みがあり、可愛らしさが強調された表情である。

10  能面  万媚( まんび )「長能(花押)」金泥書 「万媚  /  (花押)化生  / □ / □□(花押)」陰刻 安土桃山時代( 1573 ~ 1603年 )から 江戸時代( 1603 ~ 1868年 )・16 ~ 17世紀 木造、彩色  21.2cm × 13.5cm

10 能面 万媚 - 1 L

11 能面 万媚 - 1 L
11  能面  万媚( まんび )(花押)金泥書   江戸時代( 1603 ~ 1868年 )・17世紀  上杉家伝来 木造、彩色  21.2cm × 13.9cm

10 の面は面裏に「 万媚 」と異名の「 化生(けしょう)」、三種の花押が陰刻され、能役者・喜多長能(きたながよし 1586 – 1653 )の名と花押の金泥による署名がある。さらに亀裂部分を補強したような ペースト状のものを充填した跡がある。

11 の面は 喜多長能の花押だけが金泥で記される。10 の丸みのある肉付きが 11 では引き締まっている。

10 能面 万媚 裏面 - 1 L
11 能面 万媚 裏面 - 1 L
曲見( しゃくみ )

曲見は、しゃくれた顔を意味する。生き別れた子を探し歩く 中年の狂女の役などに用いる。頬の肉は削げて、やつれた表情である。中年女性の面にはほかに 深井(ふかい)があり、曲見は金春流、金剛流で用い、観世流は 深井を、宝生流は両方を使う。

12  能面  曲見( しゃくみ )  「本」(針書き)室町時代( ‘1336 ~ 1573年’ )・15~16世紀 木造、彩色  21.2cm × 14.2cm 金春家伝来 重要文化財

額の左右に打痕、顎の左側にX字を連ねたような擦り傷がある。この面を写した面は多く、この面が傷まで写されるほどきわめて尊ばれたことがわかる。うつろな目に疲れた表情がよく表されている。面裏は 下地を作って厚く光沢のある黒漆を塗る。

12 能面 曲見( しゃくみ ) - 1 L
13  能面  曲見( しゃくみ ) 「天下一是閑 」焼印 安土桃山時代( 1573 ~ 1603年 )から 江戸時代( 1603 ~ 1868年 )・16~17世紀 木造、彩色  21.2cm × 14.2cm 金春家伝来 重要文化財
13 能面 曲見( しゃくみ ) - 1 L
14  能面  曲見( しゃくみ ) 江戸時代( 1603 ~ 1868年 )17世紀 木造、彩色  21.2cm × 14.2cm 金春家伝来 重要文化財

14 能面 曲見( しゃくみ ) - 1 L
【   傷まで写す  】

面は舞台で使用されるため傷がつくことがあります。製作当初の姿でなく、年月を経た面についた傷まで写すことも珍しくありません。金春座に伝わった曲見の面 12 と、その写しを例に見てみましょう。

12 には、額の左右と顎の左側に傷があります。額の左の傷は丸みのあるもの、右は角ばったものによる圧迫痕です。是閑印のある 13 には顎の傷はなく、左右の額の傷は同じ位置にありますが 左の傷の形状は 異なります。

14 は、12 の傷を忠実に写そうとしているのがわかります。傷は その面の刻んだ歴史ともいえるものです。写しを製作する際に、傷を写すことに どんな意味を見出していたのか。興味深い問題のひとつといえるでしょう。  [  川岸  ]
傷まで写す - 1 L

12 能面 曲見( しゃくみ )裏側 - 1 L

13 能面 曲見( しゃくみ )裏面 - 1 L
14 能面 曲見( しゃくみ )裏面 - 1 L

長霊癋見 ( ちょうれいべしみ )

長霊癋見は、「熊坂」「烏帽子折(えぼしおり)」などに用いる。牛若丸一行を襲って逆に討たれる盗賊 熊坂長範(くまさかちょうはん)が着ける面である。鍍金した銅板を貼った瞳が 上目遣いに表わされる。

観世流、宝生流で用いる面・熊坂や、金剛家伝来の長霊癋見は、この金春家伝来の面に比べてもう少し自然な顔であるが、金春型の写しが 世に流布した。

16  能面  長霊癋見 ( ちょうれいべしみ )「 キヒノ  /  ケンセイ 」(陰刻)室町時代( ‘1336 ~ 1573年’ )・15~16世紀 木造、彩色  20.9cm × 16.4cm 金春家伝来 重要文化財

16 能面 長霊癋見 ( ちょうれいべしみ ) - 1 L16 能面 長霊癋見 ( ちょうれいべしみ ) - 2 L

17  能面  長霊癋見 ( ちょうれいべしみ ) 江戸時代( 1603 ~ 1868年 )・17~18世紀 木造、彩色  21.2cm × 16.3cm 上杉家伝来
17 能面 長霊癋見 ( ちょうれいべしみ ) - 1 L18 能面 長霊癋見 ( ちょうれいべしみ ) - 1 L
18  能面  長霊癋見 ( ちょうれいべしみ ) 「天下一近江」焼印 江戸時代( 1603 ~ 1868年 )・17~18世紀 木造、彩色  20.9cm × 16.4cm 金春家伝来 重要文化財

長霊癋見は眉間(みけん)の皺(しわ)、眉から目の周辺の彫りに人間にはあり得ない作りこみがあるため、良さは一見しただけではわかりにくい。

この面は「天下一近江」の焼印のある面( 18 )と比べると造形の素晴らしさが理解できる。眉間の W字状の皺のやわらかさ、一文字に閉めた口の下唇下方の隆起、耳と鼻の間の頬のふくらみの自然な表現などである。

近江印の方は よく写しているが硬い。彫りだけでなく、髪、ひげの毛描きも勢いがあり、先端が蕨(わらび)のように丸まり、あるいは渦を作るなど剽軽(ひょうきん)な顔に似合って面白い。面裏に「キヒノケンせイ」と陰刻するが 意味は不明。

16 能面 長霊癋見 ( ちょうれいべしみ ) - 3 L

17 能面 長霊癋見 ( ちょうれいべしみ ) - 2 L18 能面 長霊癋見 ( ちょうれいべしみ )裏面 - 1 L

【  造形の美  】

能面は舞台で使われてこそ生きる、博物館に展示された能面は眠っている、と言われることがしばしばあります。たしかに舞台で役者が着けている時には、顔の向きによって照明の当たり方が変わるたびに表情が微妙に動く、ということがあります。本来能の道具として作られたものですから、舞台を離れるのは面にとって惜しいことではあるでしょう。

しかし、彫刻的に優れた能面が非常に多い、ということも間違いありません。鬼神系の面のような立体感に富むものだけでなく、起伏の少ない女面などでも息を呑むような造形の美しさが感じられます。能面を彫刻として評価することで日本の彫刻史が書き換えられます。これまで彫刻の衰退期とされていた室町時代にも 豊かな想像を続けていたのですから。

引用カタログ : 東京国立博物館
『 特集 日本の仮面  –  能面  創作と写し 』展
会期 2014年11月5日~2015年1月12日
執筆 浅見龍介氏(京都国立博物館)、川岸瀬里氏(東京国立博物館)ISBN 978-4-907515-07-2 C1071

 

江戸時代の面打について 詳しく書き記した人に、喜多古能(きたふるよし 1742 – 1829 )がいます。古能は 能役者で、喜多流を率いる9代目の大夫(たゆう)でもありました。彼は能面の目利きであり、鑑定にも携わっていたそうです。

彼が著した「仮面譜」( 1797年 )などによれば、面打(めんうち)の家には、越前出目家、大野出目家、井関家があり、さらに越前出目家から児玉家、弟子出目家という2つの家系が分かれたことになっています。これだけでも そこそこの人数がいたという事から考えると、能面にはどうやら私たちが知る以上に多くの面打が 写しを作り続けた深い歴史があるようです。

私は  この『 特集 日本の仮面  –  能面  創作と写し 』展のような機会に面(おもて)を観察することで、 それらの多くの面打が 創作の時代の面を尊びながら 写しの製作に取り組んだ様子を 感じることができ、彼らと同じくもの作りの一人としてほんとうに励まされました。

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また、能面の非対称性については‥ 本来、人の顔は左右非対称で 正面に向かって左側が人間の顔(迷い)、右側が神仏の顔(悟り)という考え方が能面に取り入れられた。という解釈があるくらい大胆に意図されると共に、舞台で人の想念の移ろいを表現したりするために 細やかに調和させる努力がされていることを本当にすばらしいと私は考えています。

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ところで‥ 個人的なイメージで恐縮ですが 創作の時代の能面を見るたびに ルネサンス期の画家 ボッティチェッリの テンペラ画 『 ヴィーナスの誕生 』を思い出します。

このテンペラ画が描かれたときに 私たちの国は 室町時代( ‘1336 ~ 1573年’ )でした。遠くはなれてはいますが イタリアのサンドロ・ボッティチェッリ ( 1445-1510 )と 面打 三光坊( さんこうぼう  ‘‥ – ca.1532’ )は 概ね同時期の人なのです。

そして、私は二人が非対称性を重要と考えたと信じています。

 

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少し話がそれますが‥ この貝殻は スペイン・マラガに滞在した 9歳の男の子からお土産でもらいました。3週間ほど滞在した海岸を離れるさいに足もとの砂浜でひろったものだそうです。

気がついている方が少ないようですが 二枚貝の片側は 巻貝のように渦巻きの形をしています。 ヨーロッパ・ザルガイのような二枚貝だと 美しく渦巻くようすを見ることができます。

ボッティチェッリの このテンペラ画では ヴィーナスの顔が非対称であるのみでなく、彼女がたたずんでいる貝は種類は違いますが ヨーロッパ・ザルガイのように渦巻いているのです。

私は『 オールド・バイオリン 』を製作した 弦楽器製作者の感性は こういうものに育まれたと信じていますが、これは能面を製作した面打と相通じるものがあるのではないでしょうか。

私が この投稿の冒頭で 能面の製作と弦楽器製作が重要な部分で共通していると申し上げたのは「クオリティーの高い作品を製作できる人が 一定数 育ち、結果としてそれが伝承され、また時代の要請によりあらたな “創作” も おこなわれる。」という歴史を 能面の “写し” や 弦楽器製作の黄金期にみることができるからです。

これは “志のある人”が 修業過程で「 写し= ていねいな模倣 」をおこなうことで知識と気づきを得ます。そしてそれをくり返す事で、製作者としての成長があり、当然ながら それが作品に反映されたと考えられるということです。

そして‥ どちらの国でも 社会状況が急激に変化するなか 人々は翻弄され “写し”と ”まね”の違いが分からない人が増えたことによりこれらの黄金期は終わったようです。

ヴァイオリンと能面の類似性について    –   後編