「弦楽器製作」カテゴリーアーカイブ

「オールド・チェロ」の製作方法についての検証実験

弦楽器のしくみは多少難解ですが‥「 オールド・ヴァイオリン 」と、「 “写し”として製作されたヴァイオリン 」、そして「 贋作ヴァイオリン 」を見分けるには、『 オールド弦楽器の製作方法 』を知ることが重要ではないかと 私は考えます。

そこで、16世紀中頃から 18世紀の終わりまで製作された弦楽器の音響システムを実証するために、2015年に私が製作したチェロの事例を用いて「オールド弦楽器」の特徴についてお話しさせていただこうと思います。

なお、ここでは ヴァイオリンより多少バランスの違いが見えやすいチェロを用いますが、基本的な仕組みはヴァイオリンや ビオラも同じとご理解ください。

Cello 1700年頃 パーツ無し重量 2280g / 総重量 2789g

弦楽器は固有振動がそのキャラクターを決定します。ですから製作する場合は まず、総重量とそれを構成する それぞれの部分の重量配置 ( 重心コントロール )と、 それらのゆれ方の関係性を決定する必要があります。

そこで まず基本からですが、 オールド・チェロは 響胴サイズが様々です。これを アントニオ・ストラディヴァリ ( ca.1644-1737 )や、ジロラモ・アマティ Ⅱ ( 1649-1740 )、ヨーゼフ・ガルネリ ( 1698-1744 ) などのチェロで見て下さい。

 

● Girolamo Amati Ⅱ ( 1649-1740 ) Cello, 1690年                                      F. 737 -352 – 243 – 439 / B. 738 – 352 – 239 – 431                                    Stop 397mm / ff ( between Tow holes ) 82.2mm                                     Head L. 209mm / Eyes width 63.2mm

● Antonio Stradivari ( ca.1644-1737 ) Cello,”Gore-Booth” 1710年     F. 756 – 343.5 – 230 – 437 / B. 756 – 341.5 – 229 – 437                            Stop 407mm / ff 90.8mm / Head L. 204.5mm / Eyes width 67.4mm

● Antonio Stradivari ( ca.1644-1737 ) Cello, “Pleeth” 1732年頃           F. 719 – 339.5 – 231 – 422 / B. 717 – 340 – 230 – 420                              Stop 398mm / ff 92.8mm / Head L. 214mm / Eyes width 66.5mm

● Antonio Stradivari ( ca.1644-1737 ) Cello, “Josefowitz” 1732年      F. 693.5 – 316.5 – 219 – 403 / B. 690 – 319.5 – 220 – 408                       Stop 375mm / ff 86.2mm / Head L. 204mm / Eyes width 67.5mm

● Guarneri del Gesù ( 1698-1744 ) Cello, “Messeas” 1731年                  F. 730 – 349 – 241 – 434 / B. 735 – 354 – 243 – 437                                  Stop 392mm / ff 102mm / Head L. 210mm / Eyes width 66.0mm

このように オールド・チェロは、総重量の前提となる響胴の大きさを理解するだけでも 難易度は高いと思います。

それらを勘案した上で、音響システムの実証用チェロ製作時に私が直接的に参考としたのは冒頭の画像のものも含めた下記の5台でした。

Nicola Albani / Cello ( Worked at Mantua and Milan 1753-1776 )

① Cello 1700年頃                       パーツ無し重量 2280g ( Back 735 – 349 – 225 – 430 / Stop 403.0 ) 総重量 2789g

② Nicola Albani Cello ( Worked at Mantua & Milan 1753~1776 )パーツ無し重量 2250g ( Back 734 – 343 – 236- 427.5 / Stop 392.5 )総重量 2747.8g

③ Giovanni Battista Guadagnini ( 1711-1786 ) Cello 1757年     総重量 2584g ( Back 712.2 – 332.7 – 237 – 419 / Stop 391.1 )

④ Giovanni Battista Guadagnini ( 1711-1786 ) Cello 1743年頃    総重量 2456g ( Back 716.6 – 340 – 228.7 – 423.3 / Stop 391.0 )

⑤ Cello 1790年頃                     パーツ無し重量 1826g ( Back 707 – 320 – 215 – 408 / Stop 379 )   総重量 2330g

そして、最終的に私は下記の規格を採用しました。

● Joseph Naomi Yokota Cello, 2015年                                                             総重量 2389g

表板サイズ:745.5 – 347.0 – 243.0 – 449.0                                                      裏板サイズ:741.0 – 356.5 – 239.5 – 448.0                                                      側板:ネック側 108.3mm – エンドピン側 120.0mm

表板アーチ:28.7mm                                                                                                     裏板アーチ:31.8mm

ヘッド長:205.0mm( ボトム・ヒール位置まで )                                スクロール・アイ幅:66.2mm 指板:30.0mm – 62.4mm – 583.5mm ストップ:403.0mm

この実証用チェロで重要と考えたのは次の5点です。

① オールド弦楽器の豊かな響きは それぞれの部分の振動が合成されることで成り立っていると考えられます。そして、それは 振動体の質量や長さが整数倍の関係のときに重なりやすいと推測できます。

例えば、下図のチェロのように 指板も含めたネック部と 響胴の重さの関係は 1 : 3 で、ヴァイオリンのそれは 1 : 2 といった設定が望ましいと私は考えます。

また、現代型の指板の場合は 指板が空中に突きでるネック端部に重心を合わせて 1 : 1 にしておくと 音量バランスが整いやすく、そのうえ指板自体の軸組を工夫することで運動特性をある程度 選択できるため、響胴に対してのバランスをあわせるときの大事な選択条件であると思われます。

② 弦楽器で深い響きを生むためには駆動系と変換点のエネルギーロスを減らすこと‥ あえて極端な表現をすれば「 振動の持続時間をすこしでも長くすること。」が大切だと考えられます。

このためには”対” となってゆれが残りやすい天秤の「 腹 – 節 – 腹 」の関係を剛性や運動を勘案し設定すること、そして振動エネルギーが通過する経路の工夫、変換点の「 節 – 腹 」の設定も表板の材料特性をよく観察し適切におこなうことで達成できると信じます。

③ 響胴部のバランスは6本の柱 ( ブロック ) の形状と、1本の交換式柱 ( 魂柱 ) やパフリング外縁部の剛性 ( 形状 ) を工夫して 表板と側板の接着面( Reference plane )に対しての重心位置をあわせることで調和させることが可能と思われます。

④ 響胴中央軸に対してのネック上面の軸は低音側 ( バスバー方向 )に合わせ、ネック下方面 の軸は裏板ジョイント方向にむけて「 ねじり 」を積極的に活用する設定で製作します。

⑤ 低音の共鳴現象が生じやすいように 表板の重さはバスバー無しの白木状態で 350g以下で、裏板は 550g以下、側板部が 500g以下とし、響胴部のなかで 表板と裏板側 ( 側板を含む )の関係を 1 : 3 で製作します。

同じく響胴とネック部の関係を 1 : 3 とするために指板は 200g以下で ネック & ヘッドは 300g以下にします。これらの合計である 2000g以下にするためには、立体的形状や幾何剛性を積極的に利用し安定した状態が持続できるように工夫します。

干渉についてのメモ

■ 自作チェロの重量配分図( 塗装前 )

総重量:2389.2g ( 完成日 2015-12-26 ) パーツ無し重量:1942.0g ( 白木 1885.5g ) / パーツ合計:447.2g

重量配分 ネック部 485.5g : 響胴 1456.5g

塗装前ネック & ヘッド:297.0g – 指板 & ナット:186.0g                   表板部: 411.0g – 側板部:484.7g – 裏板部:531.0g

このチェロは 仕上がり総重量が 2389.2g でしたが、これはもちろん偶々ではなく着手時の目標値が 2250g ~ 2500g でしたので計算の通りといったところです。

現代では チェロの重さは 2300g~3200g 位で、個体差が大きいようです。なお、一般的に使用されているパーツ重量の合計は 380g~580g 程で、普及品タイプのチェロはパーツ無し( 指板含む )重量が 2400g~2800g ほどだと思われます。

あくまで個人的な意見ですが‥ 私は チェロの総重量が 2900g を越えるのは避けたほうが望ましいと思っています。例えば、2012年製 GLIGA gemsⅠシリーズの 初心者用チェロは パーツ無し重量が 2800gで、総重量が 3186g もありました。

GLIGA Cello ( gems Ⅰ), 2012年

こういう楽器は響胴からネック、ヘッドが一直線に硬直していて鳴らすとチューニングも狂いやすく、響胴も硬いのでボーイングが難しく 右手が疲れやすいのではないでしょうか。

その上、音量が望めませんので 合奏楽器としては薦められません。こういう現実を常々目にしていますので、私は 初心者用のチェロがもっと楽器として性能が改善されることを心から願っています。

■ 響胴の軸組

私は 18世紀末までの弦楽器製作者は 響胴の「 節と腹 」の原理をほぼ正確に理解し、実際に用いていたと考えています。

それらの要素をバランスよく組み合わせるためには 座標となる多数の軸線が必要と考えられます。

このため、私は 16世紀中頃から 18世紀の終わりまで製作された弦楽器の音響システムとしてこれらに残されている座標軸線の痕跡を検証し、表板や 裏板の軸線としてまとめてみました。

ヤーノシュ・シュタルケル(János Starker 1924 – 2013 )さんが使用していたチェロは、1705年にベネチアで Matteo Goffriller ( 1659–1742 ) が 製作したものとされています。

 

この部分の’傷’は ストラディヴァリ・ソサエティの エドゥアルド・ウルフソン( Eduard Wulfson )氏が所有し、ナターリャ・グートマン( Natalia Gutman )さんが使用している グァルネリ・デル・ジェスが製作したとされる 1731年製のチェロとも共通しています。

Bartolomeo Giuseppe Guarneri ( 1698-1744 )                           Violoncello 1731, ” Natalia Gutman ”

このガルネリが製作したチェロは A ゾーンと B ゾーンの’傷’がとくに深くつけられています。

1982年にニューヨークで生まれたチェリスト、アリサ・ワイラースタイン( Alisa Weilerstein )さんが 2014年から使用しているチェロにも同じ特徴があります。

この楽器は Domenico Montagnana が 1730年に製作したとされています。そして この楽器ではA ゾーンとB ゾーンの傷が 確認できるとともに、C ゾーンの ‘深い傷’ も見ることができます。

私は これらを ‘節’としての ‘折れ軸’を調整した痕跡と考えています。

私は このような「オールド・チェロ 」などの分析から ‘座標’や ‘折れ軸’としてこれらの線分を製作のために 表板で 100本、裏板は 60本選び設定することにしました。

因みに、軸線が機能していない状態は 壊れた弦楽器で見ることが出来ます。

例えばこれは、壊れたコントラバスの修理をシュミレーションするために写真にしてプリントし切り抜いたあとで 破損個所をカットし表板の変形を実際のように折り込んだものです。

私の所見では‥ この破損の主因は、左右方向の剛性につながるアッパーやロワーの軸の不全です。

そもそも、弦楽器の多くは上図 点C, 点Dに弦の張力をかけることで 点A, 点B が 中央部に向かって倒れ込むような応力がかかるようになっています。

そして 点A, 点B からの応力は駒などによる中央部の剛性が高いゾーンを避けるように 点E と 点F のアッパーとロワー側にむかいます。

これによって弦楽器の多くは響胴にかかる応力で壊れないようになっています。



ですから、例として挙げさせていただいたコントラバスは下図のように折れ軸が機能するように、バスバーの形状を変更することでバランスを合わせ 再び使用出来るようにしました。

 

摩耗したように加工する “パティーナ加工” について

 

Nicola Gagliano ( ca.1710-1787 ) Violin, Napoli 1737年

「オールド・バイオリン」などでは 摩耗したように加工する “パティーナ加工 ( antique patina) ” が施されているものが多いので、ヘッド部を観察するときも これを念頭に置く必要があります。

その参考例として、このスクロールの右側突起部に注目してください。この部分は 製作された後の “修復” によって 現在この状態となっていると私は判断しました。

                  

Nicola Gagliano ( ca.1710-1787 ) Violin, Napoli 1737年

それは、この ヴァイオリン・ヘッドの “修理部分”が、同時期に製作されたヴァイオリンの摩耗痕跡( 上中央 )と 同様であったと考えられることが決め手となりました。

このような”特殊”と呼んでよいレベルの “パティーナ加工” が施されているヴァイオリンが複数台あるということは本当に素晴らしいと思います。

Nicola Gagliano ( ca.1710-1787 ) Violin, Napoli    1737年

   

私は これらを、製作時に摩耗したような加工をする弦楽器製作者がいた状況証拠であると考えています。

Johann Jais Viola Tölz ( 1715-1765 ) Viola 1760年頃

また、上記のように 摩耗仕様で生み出された非対称性については、このビオラのように 着手時の設定段階( 木取り )で意図されたことが分る弦楽器との比較がその理解をより深めることに役立つと思います。

このように、摩耗痕跡タイプの “パティーナ加工 ” は 複数の作品で比較してみると 一定の法則性を見出すことができます。

Antonio Stradivari ( ca.1644-1737 )  Violin, Cremona “Lipinski” “Giuseppe Tartini”    1715年

たとえば このヴァイオリンは、1700年代に ヴァイオリンソナタ『 悪魔のトリル ( Devil’s Trill Sonata ) 』で有名となった 作曲家 ジュゼッペ・タルティーニ( 1692-1770 )が使用したとされる ストラディバリウスです。

 

私は 「 クレセント・カット( Crescent cut )」と呼んでいますが 三日月型の” 激しい摩耗痕跡 “があります。           

因みに、上写真右側の ” Cremonese ” も イタリア・クレモナに展示されている 有名なヴァイオリンです。このヴァイオリンの 該当する部分には 修復痕跡 が認められます。

さて、これは どう考えるべきでしょうか?

残念ながら このような摩耗痕跡を 『 演奏するためのチューニングなどですり減った。』 と思っている方も多いようで、実際にその判断の誤りにより このように ‘修復’ されてしまう弦楽器もあとを絶ちません。

Antonio Stradivari ( ca.1644-1737 ) Violin, “Sunrise” 1677年

 

これは、 ストラディヴァリが製作した装飾文様入りの有名なヴァイオリン “Sunrise” です。 彼が初期に製作した作品ですが 装飾加工も含めて製作時の状況がよく保存されていることでも知られています。

このヴァイオリン・ヘッドにも 小さなクレセント・カットが入っています。ところがその周りには他に摩耗したような痕跡はあまり見られません。

私は このヘッドにみられる摩耗部とその隣接部との ‘様子の違い’ を不自然( = 意図的 )であると感じます。

それから、これは オーストリア国立銀行が ウィーン・フィル( Wiener Philharmoniker )のコンサートマスターに貸与している 1709製ストラディヴァリウス ”ex Hämmerle” の ヘッド写真です。

2008年に定年退団するまで ウェルナー・ヒンク氏 ( Werner Hink 1943 – ) が使用し、その後 1992年から コンサートマスターに就任していた ライナー・ホーネック氏 ( Rainer Honeck 1961- ) が 演奏に用いている有名な楽器です。

クレセント・カットとなっていたと考えられる 赤色部は接木されているようですが、このヴァイオリンで摩耗部とその周りとの 『 様子の違い 』を 見て下さい。

下画像のように 私はスクロール部を 1段目、2段目、3段目と区別していますが、摩耗痕跡が 1段目のエッジ部でみとめられるのに 2段目、3段目のエッジ部は 完成時のままであるかのように フレッシュです。

この 1709製 ストラディヴァリウス ”ex Hämmerle” の ヘッド1段目とそれ以外のエッジ摩耗の差は、ほかの ストラディヴァリウス‥ たとえば 下写真の 1714年製でも 見ることができます。

この 1714年製のストラディヴァリウスでも、前出の1709年製のヘッド程ではありませんが 同じように三角形の接木がしてあるようです。また、摩耗痕跡も 1段目のエッジ部でみとめられるのに 2段目、3段目のエッジ部は 完成時のままであるかのように フレッシュです。

ヴァイオリンを演奏したことがある方でしたらイメージ出来ると思います。もし チューニングでヘッドに触れたことが摩耗の原因だとしたら 「 この景色 」はあり得ないのではないでしょうか。

これらを検証した結果、ストラディヴァリは 摩耗加工を 多少不自然になるのを承知のうえで、 音響上必要とおもわれる最低限にとどめた弦楽器製作者だと私は考えるようになりました。

さて‥ ヴァイオリン族のなかでも ヴァイオリンと ビオラは 演奏者がヘッドに触れることがある訳ですが、チェロのヘッドは人が触れることは殆どありません。

ところがオールド・チェロの中には、製作者が 前出の ストラディヴァリウスのヘッドと同じように 2、3段目はそのままで1段目だけを”激しく摩耗させた” チェロが存在します。



私も 最初にプロのオーケストラで 2プルトに座っているチェリストから 『 演奏の最中に目の前のオールド・チェロのヘッドをいつも眺めていてね‥ヘッドが ”激しくすり減った” 理由が何度考えてもまったく解からないんだけどどうして?』と質問された時には まったく説明できませんでした。

しかし、同じような質問を何人かから受けましたので 本腰をいれて調べることになりました。

これは 1997年に ヴェネチアの南西80㎞程の街 Lendinara で開催された展示会カタログ ” Domenico Montagnana – Lauter in Venetia ” Carlson Cacciatori Neumann & C. の 109ページに掲載されている 1742年に Domenico Montagnana が製作したとされるチェロです。

16世紀から18世紀にかけて ヴァイオリンやチェロを製作した人は リュート 、シターン や テオルボ 、キタローネや ヴィオラ・ダ・ガンバ をよく知っている弦楽器製作者でした。

左側に1993年に ボローニャの博物館カタログとして出版された ” Strumenti Musicali Europei del Museo Civico Medievale di Bologna ” John Henry van der Meer の105ページに掲載してある、17世紀に製作されたと考えられる テオルボのヘッド写真を置きました。

両者とも、後ろから見たときに中心軸が右側に曲がっていくのが特徴となっています。左右の写真を見比べれば同じ軸取りがしてあるのが理解していただけると思います。

これらのことから、私はクレセント・カットなどのヘッド部の摩耗痕跡は人為的な加工 つまり、ヘッドの中央付近を上下に通る”ゆれるための軸”の調整痕跡であると判断しました。

 

 

ヴァイオリン誕生の土壌

Mandora 1420年頃 L 360.0 W 96.0 D 80.0( 83.0 ) / Wt. 255 g

ペグボックス壁部の厚さを左右差があるように製作すること自体は、ある意味では弦楽器製作者の常識でした。

“The Renaissance Cittern” Francis Palmer London 1617年

これは ルネサンス・シターンや テオルボ ( Theorbo ) などで、垂直軸に対して直交方向に取り付けられている ペグ、ナット、フレット、ブリッジなどの傾きや、ペグボックス部の左右壁厚差を見れば明白だと思います。

しかし 検証を進めた結果‥ 従来の宮廷音楽に加えて ヤコポ・ペーリ (1561-1633 ) や、クレモナに生まれ学び 後にヴェネツィアのサン・マルコ寺院楽長となった クラウディオ・モンテヴェルディ ( 1567-1643 ) 達が、1600年前後にオペラを誕生させたあたりから弦楽器には時代の風が吹いていたことが分りました。

オペラは 急速に普及し1637年には ヴェネツィアにサン・カッシアーノ劇場が開設されると歌劇場建設ブームが起こりました。この時期から 器楽や演奏会場の多様化は 急速に進んだようです。

たとえばフランスでは 1661年にルイ14世の親政が始まり ジャン=バティスト・リュリ ( 1632-1687 )は 宮廷音楽監督に任命され、それまで以上に活躍しました。

Plan du Château de Versailles 1664年

1678年 (1678–1684 )                                                                                                The opulent Hall of Mirrors at the Palace of Versailles

また、アルカンジェロ・コレッリ ( 1653-1713 )は 1675年に ボローニャからローマに移り ヴァイオリン奏者として本格的な活動を始め、1679年にはカプラニカ劇場でオーケストラを指揮し、1681年にはトリオ・ソナタ 作品1 ( 全12曲 )を ローマで出版しています。

Arcangelo Corelli ( 1653-1713 )

Michelangelo’s design of New St. Peter’s Basilica

現在のローマにあるサン・ピエトロ大聖堂は 1506年に建設に着手し、ミケランジェロ ( Michelangelo Buonarroti 1475-1564 ) が 担当したドームは 1588年に着工し1593年に頂塔部の工事が終わりました。

そして1666年にやっと全体が竣工し完成しています。また、ヴェネツィア共和国では 1685年にアントニオ・ヴィヴァルディ( 1678-1741 ) がサン・マルコ大聖堂のヴァイオリニストに就任しています。

Guardi 1775年~77年「1763年の総督アルヴィセⅣモセニーゴの選出」

“サン・マルコ寺院” は 他の都市の中心的聖堂とは異なり、ヴェネツィア共和国時代はカトリック教会の司教座聖堂ではなく、公式には共和国総督の礼拝堂だったそうです。ですから 総督の館であるドゥカーレ宮殿と隣接し繋がっています。これはヴェネツィア共和国のカトリック教会からの政治的独立性の象徴とされ、このことにより宗教関連以外で使用されることも多かったようです。

“18世紀の音楽ホール事情”

これらの時代状況により、私は 1600年代中頃から 弦楽器は ペグボックスの上端位置などで左右差を強くすることも含めた基礎性能の改変がおこなわれたのではないか推測しています。

アンドレア・アマティに代表される黎明期の弦楽器より、17世紀中頃から アントニオ・ストラディヴァリ ( ca.1644-1737 )や、ヨーゼフ・ガルネリ ( “Guarneri del Gesù” 1698-1744 ) も含めた 多くの製作者の弦楽器で “動的”な要素が増やされていくのがこの証と言えるのではないでしょうか。

干渉と共鳴についてのメモ

ピタゴラスが見出したことについての説明が短文でわかりやすく書かれているので共有させていただきました。

“ドレミファソラシド”を発明したのは誰か

2018年11月11日 11時15分 プレジデントオンライン

■「音階」を発明したのは誰か?数学と音楽の関係をご紹介したい。

みなさんご存じの「ドレミファソラシド」の音階。実はこれを発明したのは、「ピタゴラスの定理」で有名な古代ギリシャのピタゴラスなのだ。ある日、散歩をしていたピタゴラスの耳のなかに、鍛冶職人がハンマーで金属を叩く「カーン、カーン」という音が入ってきた。そしてピタゴラスは、美しく響き合う音と、そうでない音があることに気づいた。不思議に思い、いろいろな種類のハンマーを叩いて調べたところ、美しく響き合うハンマーどうしは、それぞれの重さの間に単純な整数の比が成立することを発見したのだ。

特に2つのハンマーの重さの比が2:1の場合と、3:2の場合に、美しい響きになった。そこでピタゴラスと弟子たちはさらに熱心に音階の研究に取り組んだ。彼らは「モノコード」と呼ばれる、共鳴箱の上に弦を1本張った楽器を発明し、2台のモノコードを同時に弾いて、弦の長さを変えながら美しく響き合う位置を探した。その結果、やはり弦の長さが2:1になったときに2つの音が完全に溶け合い、3:2や4:3のときにも音が調和することがわかった。

「ドレミファソラシド」の低いドから高いドまでの音程の幅を「1オクターブ」という。そして、その1オクターブ離れた2つの音は同時に響くと、高さの違う「同じ音」に感じられ、濁りなく美しく調和する。音楽では、音程(2つの音の、音の高さの差)を「度」で表す。同じ高さの音どうしは「1度」、ドとレのように隣り合う音は「2度」になる。特に美しく響き合う「完全音程」は1オクターブのなかに「完全4度」(ドとファ)、「完全5度」(ドとソ)、「完全8度」の3つがあって、弦の長さの比と関係は図のようになる。完全8度だけでなく、美しく響き合う音程になるときの2つの弦の長さの比が、簡単な整数の比になることを発見したピタゴラスたちは非常に感銘した。

数字とはかけ離れたものだと思われていた音楽の美しさがリンクしていたという事実。彼らはそこに何らかの神の意思をくみとり、数字はすべてのものとつながりがあるのではないかと考え、その後は「万物は数である」というスローガンを掲げて活動するようになった。ピタゴラスと弟子たちの熱心な啓蒙により、古代ギリシャの人々は、宇宙は数の調和でつくられていると考えるようになる。宇宙の調和の根本原理は「ムジカ」であり、その調和は「ハルモニア」である。英語でムジカは「ミュージック」、ハルモニアは「ハーモニー」だ。

こうして古代ギリシャ以降、中世に至るまで、音楽は哲学や科学に近く、秩序や調和の象徴としてとらえられていた。数学(mathematics)の語源はギリシャ語の「マテーマタ=学ぶべきもの」で、古代ギリシャにおけるマテーマタ(数学=学科)は、「算術(静なる数)」「音楽(動なる数)」「幾何学(静なる図形)」「天文学(動なる図形)」の4分野から成っていたのだ。古代ギリシャ人にとって音楽(美の中にある数)がいかに「学ぶべきこと」であったかが、うかがえるのではないだろうか。

———-永野裕之永野数学塾塾長1974年、東京都生まれ。東京大学理学部地球惑星物理学科卒。大人の数学塾・永野数学塾塾長。著書に『統計学のための数学教室』『ふたたびの高校数学』『東大→JAXA→人気数学塾塾長が書いた数に強くなる本 人生が変わる授業』など。———-(永野数学塾塾長 永野 裕之 構成=田之上 信 写真=iStock.com)

弦楽器を知るための音楽年表

Sandro Botticelli  ( 1445-1510 )
” 地獄の見取り図”( La Carte de l’Enfer )1490年

ヴァイオリンという弦楽器は、14世紀初頭にはじまるルネサンスと 宗教改革により中世的な世界観に変わり 新しい認識や価値観がヨーロッパに広がっていくなかで考案され普及していきました。

その時期は、それまで長らく信じられてきた天動説の体系から コペルニクス ( 1473-1543 ) が唱えた地動説が常識となっていく激動の時代とかさなります。

Cathédrale Notre-Dame de Chartres

Cathédrale Notre-Dame de Chartres    130m × 46m ( 32m )

Cathédrale Notre-Dame de Chartres
身廊全長 128m / 幅 16.4m / 高さ 37mm

ピサの洗礼堂( ピサのドゥオモ広場 )

1409年に この地で「ピサ教会会議」がおこなわれクレタ島生まれのギリシャ人 アレクサンデル5世( 1339-1410 / 対立教皇、在位 1409年 – 1410年)が「教皇」に選出されました。カトリック教会においての教会大分裂 ( 大シスマ  Scisma d’Occidente ) のはじまりです。

この「ピサ教会会議」は、1377年に 教皇グレゴリウス11世が アヴィニヨン ( Avignon 1309-1377 ) からローマに教皇庁を移しましたが その翌年に亡くなってしまい 、結果として ローマとアヴィニヨンに それぞれ「教皇」が存在する状況に陥っていたのを解決するために招集されたものでした。

しかし、ローマの教皇 グレゴリウス12世 ( 1326-1417 / ローマ教皇、在位 1406年 – 1415年 ) と アヴィニョンの ベネディクトゥス13世 ( 1328-1423  対立教皇、在位 1394年 – 1417年 )は廃位に応じませんでした。

その混乱の最中、「ピサ教会会議」で選出された アレクサンデル5世 ( 1339-1410 )が急死したために フィレンツェのメディチ家当主 ジョヴァンニ・ディ・ビッチ ( 1360-1429 ) の支援を受けた バルダッサレ・コッサ ( Baldassare Cossa  ca.1370-1419 ) が ヨハネス23世 (  1370-1419  対立教皇 / 在位 1410年 – 1415年 )として「教皇」となり、1399年にナポリから追われていたプロヴァンス伯 ルイ2世・ダンジューとともに軍を進め 1410年に ローマを占領しました。

そして目まぐるしいですが、ヨハネス23世 ( 1370-1419  )と ルイ2世・ダンジュー ( 1377-1417 )のローマ占領は、1413年にナポリ王 ラディズラーオの軍の反撃によりフィレンツェに退却する事で終わりました。

この教会大分裂を解消するために神聖ローマ帝国皇帝ジギスムントは 1414年、ドイツで コンスタンツ公会議を召集しました。 この公会議で3人の教皇は退位あるいは 廃位さとれ、1417年にマルティヌス5世 ( 1368- 1431  /  在位 1417年 – 1431年 )が選出されたことにより3人の教皇が同時に存在するという混乱は収束しました。


Battistero di San Giovanni ( Pisa ) / Piazza del Duomo
1152 年~ 1363年 外側高さ54.85m / 直径35.5m

ヴァイオリンなどの弦楽器を知るには、16世紀初めから400年ほどの期間を俎上に上げなくてはなりませんので、時間軸上での考察のために 私はこの投稿をまとめることにしました。

念のために申し上げれば  ここでは楽器と弓の製作者、そして時間座標のために音楽家、科学者などの生まれた年や重要な出来事を考慮して列挙してあります。そして、全体の項目を減らすために敢えて ハイドンやベートーヴェンさん達を記載していません。この点はどうかご了承ください。

■  Violin maker  ●  Violinist, Teacher, Composer  □  Bow maker

▶  Pythagoras ( BC.582-BC.496 )
▶  Archimedes ( BC.287-BC.212 )

1321年  Dante Alighieri ( 1265-1321 ) “La Divina Commedia” ( 神曲 )
1378 ~ 1417年   “Schisma” Roma : Avignon ( 1309-1377 )
1453年   コンスタンティノープル陥落によるビザンツ帝国の滅亡   Constantinopolis  /  The Eastern Roman Empire ( 330-1453 )

1492年   San Salvador Island  /  Columbus ( 1451-1506 )
1498年   Santa Maria delle Grazie /  Leonardo da Vinci ( 1452-1519 )

1499年   Vasco da Gama ( ca.1460-1524 ),  Lisbon-Inldia-Lisbon
1517年   “95 Thesen” Martin Luther ( 1483-1546 )

1538年   Naval battle of Preveza / Turkish Empire
1543年   Nicolaus Copernicus ( 1473-1543 )

ヴァイオリンの歴史を紐解くと”クレモナ派”の存在が重要であると分かります。ポー平原の中央に位置するクレモナは ミラノから 80㎞、ブレッシアから 60㎞、トリノと ヴェネツィアからおおよそ200㎞ほどに位置する古都で、ポー川などの水上交通や街道などによって それらの都市や モデナ、ボローニャ、フィレンツェ、ローマ、ナポリなどと繋がっていました。

ヨーロッパでは ヴァイオリンが誕生する直前にオスマン・トルコが支配地域を拡大させ、ついには 1453年にコンスタンティノーブルが陥落し東ローマ帝国 ( ヴィザンチン帝国 ) が滅亡するという事件がありました。

オスマン帝国はその後も勢力範囲をひろげ、この抗争の最終局面で ヴェネツィア共和国、スペイン、ジエノヴァ共和国、教皇領などの艦船で結成された神聖同盟艦隊( ローマ教皇連合艦隊  )とオスマン帝国艦隊が イオニア海にあるレフカダ島沖で戦うことになります。 この “プレヴェザの海戦”( 1538年 )は神聖同盟艦隊側の敗北に終わり、以降はオスマン帝国が地中海の制海権を握ります。

こうした変化はヨーロッパでの音楽事情に影をさし、当然ながらヴァイオリンなどの弦楽器製作にも影響を与えたと考えられます。

それから『 ペスト( 黒死病 ) 』などの疫病の大流行が大きな社会不安を発生させていたことも忘れてはならないと思います。

ペスト菌には3 種類の亜種が知られ、それぞれが歴史上有名なペストの大流行の原因となりました。541 年に東ローマ帝国から始まった大流行は ペスト菌 Antiqua によるもので、14 世紀からのヨーロッパでの大流行は Medievalis によるとされ 、そして中国雲南省で1855 年に始まった大流行は Orientalis によるものとされています。

このうち ルネサンス時代に大流行を引き起こしたペスト菌 Medievalis は まず1348年~1351年にかけてコンスタンティノープルをはじめ、キプロス、サルデーニャ 、コルシカ、マジョリカ等の地中海の主要都市、さらにマルセイユ、ヴェネチア等の港町に上陸します。

そして翌年に入ると アヴイニヨン、フイレンツェ、イングランドにまで広がり、その次の年にはスウエーデンやポーランドも浸食し 1351年末にはロシアにまで達したそうです。

この流行ではヨーロッパの総人口8000万人のうち、その3割にあたる2500万人が 犠牲となったといわれています。

悲しいことに このときの大流行をきっかけとして、ペストはいわば風土病化して ヨーロッパの地に根を下ろし、それ以後18世紀にいたるまで何度もくりかえし発生しました。


▶  1656年頃  A plague doctor in seventeenth-century Rome

とくに 17世紀にはヨーロッパの各地 で頻発したことが記録されています。アムステルダムでは 1622年から1628年にかけて毎年 発生して 3万5000人程が死亡し、パリでは 1612年、1619年、1631年、1638年、1662年、1668年( 最後の流行 )にペストの大流行があり深刻な被害がでました。


▶  1679年  ペスト撲滅( ウィーンでの ペスト最期の流行による 累計死者およそ10万人を追悼 ) 記念碑 1683~1693年建造

また、ロンドンでは 1593年から1664年にかけて、そして 翌年の1665年と ペストが 5回も流行し 死者の合計はおよそ 15万6000人におよんだと言われています。

CNNからの引用です。【   “ 1665年に英ロンドンで大流行して年間7万5000人超を死亡させたのは、ペスト菌が引き起こす腺ペストだったことが、DNA鑑定を通じてこのほど初めて実証された。ロンドン考古学博物館などの研究チームが発表した。

この年の大流行では当時のロンドンの人口のほぼ 4分の1が死亡。ピークだった9月には1週間だけで8000人が死亡した。原因は腺ペストとする説が有力だったが、これまで確認はできていなかった。

しかしロンドン市内で地下鉄の延伸工事中に見つかった集団埋葬地を 2015年に発掘調査したところ、1665年の大流行で死亡したと思われる17世紀の遺骨42柱が見つかった。

研究チームがその遺骨から採取したDNAを調べた結果、腺ペストを引き起こすペスト菌のDNAと一致することをが判明。発掘調査を主導したロンドン考古学博物館の専門家ダン・ウォーカー氏は「1665年のペスト大流行の原因が初めて分かった」と解説している。”   】

因みに、1664年に『スカラー』となっていた ニュートン ( 1642-1727 ) は、 1665年から 翌年にかけてペスト禍を逃れて故郷のウールスソープへ戻り 18ヶ月程の期間をすごしたと言われています。

回想録などでは、25歳までの この期間にニュートンの三大業績は全て成されたとされています。

同じように、クレモナの街も何度にもわたってペスト禍にみまわれ 1630年の大流行の際には、クレモナ派の始祖アンドレア・アマティの息子で父の工房を引き継いでいた ジロラモ・アマティ( Girolamo Amati  1561-1630 )とその妻 そして 2人の娘が犠牲となり、アマティ工房は 34歳となっていた ニコロ・アマティ( Nicolò Amati  1596-1684 )が引き継いだといわれています。

また、アントニオ・ストラディバリ ( ca.1644-1737 ) の 生年月日と出生場所が 判然としないのも、ペスト禍をさけた両親の避難先の町で誕生したからと伝承されています。

1500 – 1550
■   Andrea Amati ( ca.1505-1577 ),  Cremona  /  1539年
Established a workshop in Cremona.
■   Antonio Amati ( 1540-1640 ),  Cremona
■   Gasparo di Bertolotti ( ca.1540- ca.1609 ),  “Gasparo da Salò”       Brescia

Andrea Amati ( ca.1505-1577 )   Violin,  Cremona  1555~1560年頃

Catherine de Médicis ( 1519-1589 )
1533年   She married Henry II at the age of 14.

Charles Ⅸ de France ( 1550-1574 )
1561年   He was crowned the king of France.

Andrea Amati ( ca.1505-1577 )   Violin,  “King Charles Ⅸ”  Cremona  1566年頃

Andrea Amati ( ca.1505-1577 )   Violin,  “King Charles Ⅸ”  Cremona  1566年頃

Andrea Amati ( ca.1505–1577 )  Violin,  “ex Ross”   1570年頃

1572年  “St. Bartholomew’s Day Massacre”


Charles Ⅸ de France  1574年

1550 – 1600
■  Girolamo AmatiⅠ( 1561-1630 ),  Cremona
■  Giovanni Paolo Maggini ( 1580- ca.1633 ),  Brescia
■  Nicolò Amati ( 1596-1684 ),  Cremona

▶  Galileo Galilei ( 1564-1642 )
▶  Johannes Kepler (1571-1630 )
▶  Marin Mersenne  ( 1588-1648 )
▶  René Descartes ( 1596-1650 )

●  Biagio Marini ( 1594-1663 ),  Brescia / 1615  Venezia ‘ Basilica di San Marco’ / 1620 Brescia / 1621 Parma / 1623 ~ 1649 Neuburg an der Donau / 1649 Milan / 1652 Ferrara / 1654 Milan / 1656 Vicenza  /  Venezia 1663  :   Violinist
“Scordatura”,   “double and even triple stopping”,   “Tremolo”   

1600 – 1650
▶  Otto von Guericke ( 1602-1686 )

Gaspar da Saló ( ca.1540-ca.1609 )  Violin,  Brescia  1600年頃 

■  Jacob Stainer ( 1617-1683 ),  Absam, Tirol


●  Maurizio Cazzati ( 1618-1678 ), Luzzara / 1641 Ferrara, Bozzolo, Bergamo / 1657 ~ 1671 Bologna / 1671 Mantova

Giovanni Paolo Maggini ( 1580 – ca.1633  )  Violin,  Brescia 1620年頃

Giovanni Paolo Maggini ( 1580 – ca.1633  )  Violin,  Brescia 1620年頃

Antonio Amati ( ca. 1540-1607 )  &  Hieronymus Amati ( ca. 1561-1630 )   Violin,   Cremona   1624年頃

■  Andrea Guarneri ( 1626-1698 ),  Cremona  /  1654年  He founded the workshop in Casa Guarneri .

 

  ca.1626 ~ ca.1761  ” Les Vingt-quatre Violons du Roi ” ( “The King’s 24 Violins” )  The Royal Palace in Paris

 

Antonio Amati ( ca. 1540-1607 )  &  Hieronymus Amati ( ca. 1561-1630 )   Violin,   Cremona   1629年頃

■  Giovanni Grancino ( 1637-1709 ),  Milan
■  Hendrik Jacobs  ( 1639-1704 ),   Amsterdam

▶  Christiaan Huygens ( 1629-1695 )
▶  Antonie van Leeuwenhoek ( 1632-1723 )
▶  Robert Hooke ( 1635-1703 )
▶  Isaac Newton ( 1642-1727 )

■  Alessandro Gagliano ( ca.1640–1730 ),  Napoli
■  Giovanni Tononi ( ca.1640-1713 ),  Bologna
■  Giovanni Baptista Rogeri ( ca.1642 – ca.1705 ),   Brescia

●  Jean-Baptiste Lully ( 1632-1687 ),  Firenze / 1646 France / 1652 The Royal Palace in Paris  / 1653 “Petits Violons” / 1661 French subject , 1661 ~ 1682 “Château de Versailles”  / 1685,1686,1687

●  Giovanni Battista Vitali ( 1632-1692 ),  Bologna / 1666 Accademia Filarmonica di Bologna / 1774 Modena  :   Violinist

Nicolò Amati ( 1596–1684 )  Violin,  Cremona  1641年

●  Heinrich Ignaz Franz von Biber ( 1644-1704 ), Bohemia / 1668  Zámek Kroměříž / 1671 Salzburg,  ca.1676 ” Rosenkranz-Sonaten ” ( Scordatura )  :   Violinist

■  Antonio Stradivari ( ca.1644-1737 ),  Cremona  /  1680年 He founded the workshop in Casa Stradivari .

▶  Arp Schnitger ( 1648-1719 ),  active in Northern Europe, especially the Netherlands and Germany,  Pipe organ builder.

■  Francesco Ruggieri ( ca.1645-1698 ),  Cremona
■  Girolamo Amati Ⅱ ( 1649-1740 ),  Cremona

1650 – 1700

●  Arcangelo Corelli ( 1653-1713 ), Fusignano / 1666 Bologna / 1675 Rome / 1681 München / 1685 Roma / 1689 Modena / 1708 Rome :   Violinist

●  Giuseppe Torelli ( 1658-1709 ), Verona / Bologna / 1684 Accademia Filarmonica di Bologna / 1697 ~ 1699 Fürstentum Ansbach / 1699 Wien / Bologna :   Violinist

Nicolò Amati ( 1596–1684  )  Violin,  Cremona  1651年

■  Matthias Klotz ( 1653-1743 ),   Mittenwald
■   Pietro Giovanni Guarneri ( 1655-1720 ),  Cremona  /  Mantua

Jacob Stainer ( 1617-1683 )  Violin,  Absam ( Tirol )  1655年頃

Andrea Guarneri ( 1626-1698 ),  Cremona 1658年頃
( 1654年  He founded the workshop in Casa Guarneri . )

■  Matteo Goffriller ( 1659–1742 ),  Venice
■  Vincenzo Ruggeri ( 1663-1719 ),  Cremona
■  Carlo Giuseppe Testore ( ca.1665-1716 ),  Milan

●  Giacomo Antonio Perti ( 1661-1756 ),  Bologna / Parma / Venezia / 1690 ~ 1756 Bologna  :   Violinist
●  Tomaso Antonio Vitali ( 1663-1745 ), 1674 Modena :  Violinist

■   Filius Andrea Guarneri ( 1666-1740 ),  Cremona

Nicolò Amati ( 1596–1684 )  Violin,  Cremona  1669年

Francesco Rugeri ( ca.1645-1698 )  Violin, 1670年

Giovanni Maria Del Busetto   Violin,  Cremona  1680年頃

■  Francesco Stradivari ( 1671-1743 ),  Cremona
■  Giovanni Battista Grancino II ( 1673-ca.1725 ),  Milan
■  Carlo Tononi ( ca.1675-1730 ),  Bologna  /  Venice
■  Johann Michael Albani ( 1677-1730 ),  Bozen / Bulsani in Tyroli  / Graz

  Louis XIV ‘Roi-Soleil’ ( 1638 – ‘1643-1715’ )
“Château de Versailles” 1661 ~ 1682 

Plan du Château de Versailles  1664年

1678年  (1678–1684 )
The opulent Hall of Mirrors at the Palace of Versailles

●  Antonio Vivaldi ( 1678-1741 ), Venezia 1703 / 1740 Wien :   Violinist
● 
Pietro Castrucci ( 1679-1752 ),  Roma / 1715 London / 1750 Dublin :   Violinist

■  Omobono Stradivari ( 1679-1742 ),  Cremona
■  Carlo Bergonzi ( 1683-1747 ),  Cremona

▶  Gottfried Silbermann ( 1683-1753 ) Saxony / Dresden, Pipe organ builder.
Zacharias Hildebrandt ( 1688-1757 ),  Pipe organ builder.

●  Johann Sebastian Bach ( 1685-1750 ), Eisenach / 1703 Weimar, Arnstadt / 1705.10 Lübeck 1706. 1 /  1707 Mühlhausen / 1708  Weimar / 1717 Köthen, 1721 Anna Magdalena Bach  / 1723 Leipzig

●  Giovanni Battista Somis ( 1686-1763 ), Turin / 1731 Paris / Turin :   Violinist

■  Domenico Montagnana ( 1686-1750 ),  Venice
■  Georg Klotz ( 1687-1737 ),   Mittenwald

●  Francesco Geminiani ( 1687-1762 ), Lucca / 1711 Naples / 1714 London  :   Violinist
●  Francesco Maria Veracini ( 1690-1768 ),  Firenze / 1711 Venezia / 1714 London / 1616 Venezia / 1723 Firenze / 1733 London / 1744 Firenze  :  Jacob Steiner violin  /   Violinist

Hendrik Jacobs (1639-1704)  Violin,   Amsterdam 1690年頃  

Giovanni Grancino ( 1637-1709 )  Violin,  Milan 1690年頃

Carlo Giuseppe Testore ( ca.1665-1716 )   Violin,  Milano  1690年

Giovanni Grancino ( 1637-1709 )  Violin,  Milan 1690年

■  Andrea Guarneri ( 1691-1706 ),  Cremona
■  Carlo Antonio Testore ( 1693-1765 ),   Milan

●  Giuseppe Tartini ( 1692-1770 ), Pirano / 1721 Padova, 1726 Violin School  :   Violinist
●  Pietro Locatelli ( 1695-1764 ), Bergamo / 1723 Mantua, Venezia, München, Dresden, Berlin, Frankfurt, Kassel / 1729  Amsterdam  :   Violinist

■  PietroⅡ Guarneri ( 1695-1762 ),  Cremona  /  1718年  moved to Venezia
■  Sebastian Klotz ( 1696-1775 ),  Mittenwald

Giovanni Baptista Rogeri ( ca.1642 – ca.1705 )   Violin, Brescia  1695年頃

Antonio Stradivari ( 1644-1737 ),  Violin   “Auer – Benvenuti”  Cremona   1699年

●  Jean-Marie Leclair ( 1697-1764 ), Lyon / Turin / 1723 Paris, ‘Palais des Tuileries’  / 1733 ~ 1737  ‘ Louis XV ( 1710 – ‘1715-1774’ ) / 1738 ~ 1743 Den Haag  / 1743 ~ 1764 Paris  :   Violinist

■  Andrea Castagneri ( 1696-1747 ),   Paris ■  Bartolomeo Giuseppe Guarneri ( 1698-1744 ),  “Guarneri del Gesù”  Cremona  /  1722年頃  He is independent.

 1700 – 1750
Giovanni Grancino ( 1637-1709 )  Violin,  Milan 1700年頃

Giovanni Grancino ( 1637-1709 )  Violin,  Milan 1702年頃

Giuseppe Guarneri ( 1666-1740 )   “filius Andrea”   Violin, 1703年

■  Camillo Camilli ( ca.1704-1754 ), Mantua,  Violin maker.

Carlo Tononi ( ca.1675-1730 )  Violin,    Bologna 1705年

1700 – 1750

1701 ~ 1714年  War of the Spanish Succession
“France : Louis XIV ( 1638-1715 ) × Habsburg : Karl VI ( 1685-1740 )”
Cremona governance countries
España ( 1513 ~ 1524, 1526 ~ 1701 ) – France (  1701 ~ 1702 ) –  Republik Österreich / Habsburg  ( 1707 ~ 1848 )

スペイン継承戦争 ( 1701-1714 )のさなか クレモナは、1701年から1702年の クレモナの戦いで オーストリア軍に敗れるまで フランスが短期間支配したのちに、1707年にミラノまでの北イタリア やナポリなどをオーストリア軍が平定したことによりハプスブルク家の所領となりました。そして、この状況は 1713年の ユトレヒト条約などにより確定しました。

ユトレヒト条約によるヨーロッパの勢力図

茶色はイギリス、青はフランス、黄色はスペイン、緑はオーストリア、橙はサヴォイア、深緑はブランデンブルク=プロイセン

Casa Savoia :  1713年 Regno di Sicilia – 1720年 Regno di Sardegna  / Torino – 1848年 The First War of Independence – 1859年 The Second War of Independence –  1866年 The Third War of Independence

●  Giovanni Battista Martini ( 1706-1784 ), Bologna / 1758 Accademia Filarmonica di Bologna / 1774 “Saggio dl contrapunto”

●  Franz Xaver Richter ( 1709-1789 ), Moravia / 1740 ~ 1747 Kempten i.a. / 1747 Mannheim / 1769 ~ 1789  ‘Cathédrale Notre-Dame-de-Strasbourg’  :  Violinist
●  Jean-Joseph de Mondonville ( 1711-1772 ), Narbonne / 1733 ~ 1772 Paris  :  Violinist

Antonio Stradivarius ( ca.1644-1737 )  Violin,  “Viotti”  1709年

Girolamo Amati Ⅱ ( 1649-1740 )   Violin,  Cremona  1710年

Vincenzo Ruggeri ( 1663-1719 )   Violin,  Cremona  1710年頃

■  Nicola Gagliano ( ca.1710-1787 ),  Napoli

■  Giovanni Battista Guadagnini ( 1711-1786 ),  Cremona  /  1729 Parma  /  1740 Piacenza  /  1749 Milan  /  1757 Cremona  /  1759 Parma  /  1771-1786 Turin

Giovanni Battista Grancino II ( 1673-ca.1725 )  Violin,  Milan 1715年

Antonio Stradivari ( 1644-1737 ),  Violin   “Tartini – Lipinski”  Cremona   1715年

Antonio Stradivari ( ca.1644-1737 ),  Violin  Cremona  “Marsick – James Ehnes”  1715年

Antonio Stradivari ( ca.1644-1737 ),  Violin  Cremona  1722年

●  Johann Wenzel Stamitz ( 1717-1757 ), Bohemian / Praha / 1741 Mannheim / 1754 ~ 1755 Paris / 1755 Mannheim :  Violinist

●  Leopold Mozart ( 1719-1787 ),  Augsburg / 1737 Salzburg / 1785 Wien, Salzburg :  Violinist
1751年  “Versuch einer gründlichen Violinschule”
– – – 
Wolfgang Amadeus Mozart ( 1756-1791 )

■ Giovanni Battista Gabrielli  ( 1716-1771 ),  Florence
■  Leopold Widhalm ( 1722-1776 ),  Nürnberg 

●  Pietro Nardini ( 1722-1793 ), Fibiana / Livorno / Padova / 1762 Stuttgart / 1770 Firenze :   Violinist
●  Pierre Gaviniès ( 1728-1800 ),  Paris /  1744 “The Concert Spirituel”  / 1795 He became a professor at the newly-founded ‘Conservatoire de Paris ‘.  :   Violinist

Matthias Klotz ( 1653-1743 )  Violin,  Mittenwald  1725年 

Giuseppe Guarneri ‘filius Andreae’ ( 1666-1740 )   Violin,  Cremona  1725年頃

Johann Michael Albani ( 1677-1730 )   Violin,  Bulsani in Tyroli   1728年頃

Guarneri del Gesù ( 1698-1744 )  Violin,  1729年頃

■  Johannes Theodorus Cuypers ( 1724-1808 ),  Hague Netherlands

Georg Klotz ( 1687-1737 )  Violin,  Mittenwald  1730年頃

Guarneri del Gesù ( 1698-1744 )  Violin,  Cremona
“Goldberg-Baron Vitta”  1730年頃

Antonio Stradivari ( 1644-1737 ) Violin,   “Lady Jeanne”  Cremona   1731年

Guarneri del Gesù ( 1698-1744 )  Violin,   “Posselt – Philipp”  1732年

Guarneri del Gesù ( 1698-1744 )   Violin,  “Spagnoletti”   1734年

●  Gaetano Pugnani ( 1731-1798 ), Torino / 1749 Roma / 1750 Torino / 1754 Paris, Nederland, London, Deutschland / 1763 Torino  / 1767 London / 1770 Torino / 1780 ~ 1782 Russia, 1782 Torino :  Violinist

■  Georg Klotz Ⅱ ( ca.1723-1797 ),  Mittenwald
■  Aegidius Klotz ( 1733-1805 ),  Mittenwald 

Antonio Stradivari ( ca.1644-1737 )  Violin,  Cremona
“Rode – Le Nestor”  1733年

■  Johann Gottfried Reichel ( ca.1735-1775 ),   Markneukirchen

Nicola Gagliano ( ca.1710-1787 )  Violin,  Napoli  1737年

Guarneri del Gesù ( 1698-1744 )  Violin,   “Ex Menuhin”   1739年

Carlo Antonio Testore ( 1693-1765 )   Violin,  Milan 1740年頃

Andrea Castagneri ( 1696-1747 )  Violin,  Paris 1742年


Bartolomeo Giuseppe Guarneri  / ” Guarneri del Gesù”
( 1698-1744 )  Violin,  “Carrodus”   1743年

■  Joseph Klotz ( 1743-1829 ),  Violin  Mittenwald  1760年
■  Lorenzo Storioni  ( 1744-1816 ),  Cremona

Andrea Castagneri ( 1696-1747 )  Violin,  Paris  1744年

Giovanni Battista Guadagnini ( 1711-1786 ) Violin, Piacenza 1747年

● Luigi Rodolfo Boccherini ( 1743-1805 ), 1743 Lucca / 1757 Vienna  “The court employed” / 1761 Madrid / 1771 String Quintet Op. 11  No. 5 ( G 275 ) :   Italian cellist and composer 

●  Johann Peter Salomon ( 1745-1815 ), Bonn / Prussia / ca.1780 London / 1791 ~ 1792, 1794 ~ 1795 Franz Joseph Haydn  :  Violinist

●  Carl Stamitz ( 1745-1801 ), Mannheim / 1762 Mannheim palace orchestra / 1770 Paris / Praha, London  :  Violinist

□  Nicolas-Léonard Tourte ( 1746-1807 ),   Paris  :   Bow maker
□  François-Xavier Tourte ( 1747-1835 ),   Paris  :   Bow maker

Camillo Camilli ( ca.1704-1754 )  Violin,  Mantua  1750年頃

Sebastian Klotz ( 1696-1775 )  Violin,  Mittenwald  1750年頃

Sebastian Klotz ( 1696-1775 )  Violin,  Mittenwald  1750年頃

1750 – 1800
●  Johann Anton Stamitz ( 1754 – ‥ ), Mannheim / 1770 Paris / 1782 ~ 1789 Versailles / ‘ 1798‥1809 Paris ‘  :   Violinist

■  Nicola Bergonzi ( 1754-1832 ),   Cremona
■  Antonio Vinaccia ( 1754-1781 ),   Napoli
■  Gennaro Vinaccia ( 1755-1778 ),  Violin  Napoli
■  Giovanni Battista Ceruti ( 1755-1817 ),   Cremona

Giovanni Battista Gabrielli ( 1716-1771 )  Violin,  Florence  1755年

Joseph Klotz ( 1743-1829 )  Violin,  Mittenwald  1760年

●  Giovanni Battista Viotti ( 1755-1824 ), Fontanetto Po / Torino, Paris, Versailles, 1788 Paris, London, 1819-1821 Paris,  London :   Violinist

●  Federigo Fiorillo ( 1755-1823 ),  Braunschweig / 1780 Poland / 1783 Riga / Paris / 1788 London  He played the viola in Saloman’s quartet.  / 1873 Amsterdam, Paris

Marie Antoinette ( 1755-1793.10.16 )
1770年  She married  Louis-Auguste ( 1754-1793.1.21 )  /  ” Louis XVI ( 1774 ) “  at the age of 14.

French Revolution  1789 ~ 1793年

▶  1793年  ” Louis XVI ” ( 1774 )  /  Louis-Auguste ( 1754-1793.1.21 )

●  Wolfgang Amadeus Mozart ( 1756-1791 ), Salzburg / 1762 München, Wien / 1763 ~ 1766 Frankfurt, Paris, London / 1767 ~ 1769 Wien / 1769 ~ 1771 Milano, Bologna, Roma, Napoli / 1773, 1774 ~ 1775 Wien / 1777 München, Mannheim, Augsburg / 1778 Paris / 1779 Salzburg / 1781 München, Wien / 1783  Salzburg  / 1787 Praha, Wien / 1789 Berlin / 1790 Frankfurt / 1791 Wien, Praha, Wien

●  Bernhard Heinrich Romberg  ( 1767-1841 ),   “The Münster Court Orchestra” / 1790 Bonn  “The Court Orchestra” /  He lengthened the cello’s fingerboard and ‘Flattened’ the side under the C string  :   German cellist and composer

Leopold Widhalm ( 1722-1776 )  Violin,  Nürnberg  1769年

Tommaso Balestrieri ( ca.1735 – ca.1795 )  Violin,  Mantua  1770年

Johann Gottfried Reichel ( ca.1735-1775 ) Violin,   Markneukirchen  1770年頃

Giovanni Battista Gabrielli ( 1716-1771 )  Violin,  Florence
1770年頃

Georg Klotz Ⅱ ( ca.1723-1797 )  Violin,   Mittenwald  1773年

Giovanni Battista Guadagnini ( 1711-1786 ),  Turin  “Ex Joachim” 1775年

Gennaro Vinaccia ( 1755-1778 )  Violin,  Napoli  1780年頃

●  Rodolphe Kreutzer ( 1766-1831 ), Versailles / 1803 Wien “Kreutzer Sonata ” Ludwig van Beethoven 1770-1827,  Paris 1795 ~ 1826 ‘Conservatoire de Paris’ –  1796年 Caprices – 1807 comprises 40 pieces – “42 Études ou Caprices”  / Genève, Swiss :   Violinist
●  Pierre Baillot ( 1771-1842 ),  Paris :   Violinist
●  Pierre Rode ( 1774-1830 ), Bordeaux / 1787 Paris /  1804 Saint Petersburg, Moscow / 1812 Wien ” Ludwig van Beethoven 1770-1827  Violinsonate Nr. 10 in G-Dur, Op. 96 ” / 1814 ~ 1819年  Berlin,  “24 capricci”  /  1830 Lot-et-Garonne :   Violinist

□  François Lupot II (1774 – 1838),  He worked for Leonard Tourte in Paris. Once Lupot set up his own Parisian establishment in 1815.   :  Bow maker

18世紀の音楽ホール事情

▶  1763年  Haydn Saal ( Eisenstadt )  38.0m  ×  14.7m  (  H 12.4m )
▶  1766年  Eszterháza (  Fertőd )  15.5m  ×  10.3m  (   H  9.2m  )
▶  1772年  The Crown & Anchor  ( 271㎡ )   24.7m  × 11.0m

▶  1774年  Hanover Square R. ( 235㎡ ) 24.1m  ×  9.8m  (  H 8.5m  )

▶  1776年  Willis’s Rooms  (  305㎡  ) 25.0m  × 12.2m

 

▶  1781年  Leipzig Gewandhaus   23.0m  ×  11.5m   (  H  7.4m  )

▶  1795年  “Le Conservatoire de musique” ( Conservatoire de Paris )

▶  1780~1782年  弓のフェルールが考案される。

●  Niccolò Paganini ( 1782-1840 )
1802 ~ 1817年  ” 24 Caprices for Solo Violin ”  :   Violinist

●  Louis Spohr ( 1784-1859 ), Braunschweig / 1802 Saint Petersburg / 1804 Leipzig / 1805 ~ 1812 Gotha / 1813 ~ 1815 Wien /  1816,1817 Italiana / 1817 ~ 1819 ‘Oper Frankfurt’  / 1820 England / 1821 Paris / 1822 ~ 1859 Kassel :   Violinist
” Chin rest & Conductor’s stick “

■  Giovanni Francesco Pressenda ( 1777-1854 ),  Lequio Berria  /  Cremona  / 1815 Torino,  1821 was able to open his own firm.

Johannes Theodorus Cuypers ( 1724-1808 )  Violin,  Hague Netherlands   1780年頃

Antonio Vinaccia ( 1754-1781 )  Violin,  Napoli  1781年

1789年  “États généraux”

第一身分は10万人のカトリック聖職者で、彼らはフランス全土の10%程の土地を所有し、さらにその財産は免税されていました。第二身分は貴族で、子供や婦人を含んだ人口は40万人でした。1715年のルイ14世の崩御後、貴族は権力を回復し 高位官職や高位聖職、軍会議そしてその他の公共および半官半民の特権を独占していました。そして封建的慣習により彼らも第一身分と同じく免税されていました。第三身分は2500万人でブルジョワ、農民その他のフランス国民からなっていました。第一、第二身分と異なり、第三身分は納税を強いられていましたが、ブルジョワは何らかの手段でこれを逃れていたそうです。結局、フランス財政の重荷は農民や都市労働者といった貧しい人々に課せられていたのです。

French Revolution  1789 ~ 1793年
▶  1791年  Metric system ( metre & kilogram )
Maximilien Robespierre ( 1758-1794 )

Aegidius Klotz ( 1733-1805 )  Violin,  Mittenwald  1790年頃

Nicola Bergonzi ( 1754-1832 )   Violin,  Cremona  1790年頃

Lorenzo Storioni ( 1744-1816 )  Violin,  Cremona  1790年頃

 


Giovanni Battista Ceruti ( 1755-1817 )   Violin, “ex Havemann”

Cremona 1791年

□  ■  Jean Baptiste Vuillaume ( 1798-1875 ),  Vuillaume was born in Mirecourt, He moved to Paris in 1818 to work for François Chanot.
In 1821, he joined the workshop of Simon Lété, François-Louis Pique’s son-in-law, at Rue Pavée St. Sauveur. He became his partner and in 1825 settled in the Rue Croix des Petits-Champs under the name of “Lété et Vuillaume”.
In 1827, at the height of the Neo-Gothic period, he started to make imitations of old instruments.  :  Bow maker.

Aegidius KLOTZ ( 1733-1805 )  Violin,  Mittenwald  1797年

Nicola Bergonzi ( 1754-1832 )   Violin,  Cremona  1800年頃

1800 – 1850

□  Nicolas Rémy Maire (1800–1878),   Maire was born in Mirecourt. He trained in the Lafleur workshop and served his apprenticeship in the workshop of Pajeot in Mirecourt. He opened his own workshop in Mirecourt in 1826 and left in 1853 to work in Paris.
:  Bow maker.

●  Georg Hellmesberger ( 1800-1873 ), Vienna / 1826 ~ 1833 ‘The Vienna Conservatory’ / His students were Joachim, Leopold Auer.  :  Violinist
●  Charles-Auguste de Bériot ( 1802-1870 ), Leuven / 1843  ‘Royal Conservatory of Brussels’ /  ‥ 1852. – 1858 – 1866 Brussels :   Violinist

■  Giuseppe Antonio Rocca ( 1807-1865 ),  Barbaresco / 1834 Turin,   It was during this time that he became acquainted with Luigi Tarisio, a violin dealer  / Rocca won prizes in his craft at a national arts and crafts exhibitions in 1844 and 1846.
■  Enrico Rocca ( 1847-1915 ),  Turin  /   1850 ~ 1865 Genova

■  Ferdinand Joseph Homolka ( 1810-1861 ),   Prague

□  Pierre Simon ( 1808-1881 ),  He apprenticed and worked in his hometown of Mirecourt until 1838, when he moved to Paris to join the workshop of Dominique Peccatte.  :  Bow maker

□  Dominique Peccatte ( 1810-1874 ),   He was born in Mirecourt. On the recommendation of Nicolas Vuillaume he moved to Paris in 1826 to join J.B. Vuillaume’s workshop. Paris 1838  / 1847 Mirecourt   :   Bow maker

▶  1804年 Napoléon Bonaparte  “Emperor”
Napoléon Bonaparte ( 1769-1821 / ” 1804 – 1814, 1815″ )

1812 – 1814年  [ ナポレオンのロシアからの撤退 ]

●  Heinrich Wilhelm Ernst ( 1812-1865 ), Moravia / 1825 ‘The Vienna Conservatory’ /  1828 Niccolo Paganini visited Vienna. 1830 He played Paganini’s Nel cor pìù non mi sento. / 1865 Nice :   Violinist
●  Jakob Dont ( 1815-1888 ), Vienna / 24 Etudes and Caprices :  Violinist
●  Henri Vieuxtemps ( 1820-1881 ),  Belgium / Liège , Brussels /  1829 Paris /  Brussels / 1833 Germany  /  1835 Wien / 1836 Paris / 1849  ~ 1851 Saint Petersburg / 1850 Paris / 1871  ‘Royal Conservatory of Brussels’ / Paris 1879 / Algeria :   Violinist

□  François Peccatte ( 1821-1874 ),  Mirecourt  /  1842 Paris   :   Bow maker
□  Joseph Henry ( 1823-1870 ),  Henry studied with Dominique Peccatte and established his own shop in 1851.   :   Bow maker

Niccolò Paganini ( 1782-1840 )
▶  1827年7月12日( 木曜日 )プログラム

イタリア・ジェノヴァ 生まれの パガニーニは ナポレオンの妹のエリーザ・バチョッキ( Elisa Baciocchi ) が 1805年にトスカーナ大公妃として設けたルッカの宮廷における独奏者として演奏活動をはじめます。

そしてナポレオンが失脚するとパガニーニは独奏者としての活動をはじめました。彼は 1809年より北イタリアからはじめた演奏会の開催場所をイタリア全土にひろげました。

その後の 1828年にはウィーンでも成功をつかみ、ついでプラハ そしてドイツ各地で開催した後である 1831年には 3月から4月にかけて有名なパリ・デビューを成功させ 5月にロンドンに渡り翌年にかけて イギリス、スコットランド、アイルランドでも大成功をおさめました。


     1831年4月17日( 日曜日 )

□  François Nicolas Voirin ( 1833-1885 ),  He was born in Mirecourt. He moved to Paris in 1855 to join his cousin Jean Baptiste Vuillaume.   :   Bow maker

▶  1831年  Gesellschaft der Musikfreunde ( Tuchlauben, Vienna )a concert hall for ca. 700 people

●  Joseph Joachim ( 1831-1907), Kittsee / 1833 Budapest / Wien / 1843 Leipzig / 1846 London / 1848  “Gewandhausorchester Leipzig ” / 1850 Weimar / 1852 Hannover  / 1866 ~ 1907 Berlin :   Violinist

●  Henryk Wieniawski ( 1835-1880 ), Lublin / 1843 ‘Conservatoire de Paris’ / 1874 ~ 1877 ‘Royal Conservatory of Brussels’ / Moscow :   Violinist

▶  1842年  The founding of the Vienna Philharmonic.

●  Pablo de Sarasate ( 1844-1908 ), Pamplona / 1854 Madrid / 1855 Paris / 1860 London, Paris, performing in Europe, North America, South America / 1864 Camille Saint-Saëns ‘Introduction et Rondo capriccioso en la mineur’   / 1878 Zigeunerweisen, 1883 Carmen Fantasy  / Biarritz 1908 :   Violinist

●  Leopold Auer ( 1845-1930 ),Veszprém  / Budapest, Wien / Hannover : Joachim / 1868 ~ 1917 Saint Petersburg  : St Petersburg Conservatory / 1918 America / 1824 The Curtis Institute of Music  :   Violinist

Ferdinand Joseph Homolka ( 1810-1861 )  Violin,  Prague   1840年  

Giuseppe Antonio Rocca ( 1807-1865 )  Violin,  Genoa
1845-1850 年頃

Giuseppe Antonio Rocca ( 1807-1865 )  Violin,  Turin  1850 年頃

Enrico Rocca ( 1847-1915 ) Violin,  Genova  1893年

□  Charles Nicolas Bazin ( 1847-1915 ),  Son of Mirecourt bowmaker François Xavier Bazin,  Charles Nicolas Bazin inherited the family workshop in 1859 following his father’s death from cholera.
Charles Nicolas was only 18 at the time, but already had ample experience from his father’s training, and the shop flourished under his leadership.  :   Bow maker

 

1848年  :  ウィーン体制が崩壊しヨーロッパの不安定化が進みます。

たとえば イタリアでは 1861年にヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がイタリア統一をおこない、プロイセンは 鉄血宰相ビスマルク( 1815-1898 )の指導のもとクルップ社の鉄鋼製品( 鉄道、大砲 )を背景として 1866年の普墺戦争に勝利して 1867年に北ドイツ連邦に領土を拡大します。

そしてその後 の普仏戦争により 1871年には ワーグナーを擁護するとともにノイシュヴァンシュタイン城を建設させたルートヴィヒ2世( 1845 – 1886 )のバイエルン王国( Bavaria )やフランス領だったロレーヌ・アルザスを併合してドイツ帝国が成立しました。

また 1842年にアヘン戦争に勝利したヴィクトリア女王( 1819 – 1901 、在位 1837 – 1901 )のイギリスも植民地拡大をすすめ大英帝国を構築し繁栄します。 こうして帝国主義を国是としたヨーロッパ列強( ドイツ、イギリス、フランス、イタリア、オーストリア、ロシア )が世界地図を分割していったことで『 諸戦争を終わらせる戦争( War to end wars )』と言われた1914年の第一次世界大戦( 1914 – 1918 )が発生することになりました。

 

1850 – 1900

パブロ・デ・サラサーテ( 1844 – 1908 )

カミッロ・シヴォリは 神童の誉れ高くニッコロ・パガニーニに一人だけ弟子入りを許されたヴァイオリニストとして名を遺して います。

□  Charles Peccatte ( 1850-1918 ),  He was born in Mirecourt, the son of François Peccatte and the nephew of Dominique Peccatte.   :   Bow maker
□ Louis Thomassin (1856–1905),  He learned his craft in Mirecourt where he worked for the Bazin Family. In 1872 he went to Paris to work for François Nicolas Voirin and carried on Voirin’s shop after his death.   :   Bow maker


1858年
The world’s most valuable violin?  The Messiah Stradivarius
0:57   ” 1716 ‥ It is the only as new Stradivarius ‥”

●  Eugène-Auguste Ysaÿe ( 1858-1931 ),  Liège / 1886 ‘Royal Conservatory of Brussels’  / 1918 Cincinnati  /  Brussels :   Violinist

●  Jenő Hubay ( 1858-1937 ),  Pest / Berlin / Paris / 1882 Brussels / 1886 Hungary, ‘Budapest Quartet’ / Hubay’s main pupils Joseph Szigeti.   :   Violinist

▶  1870年  Großer Musikvereinssaal( Wien )1680席,  48.8m  ×  19.1m  (  H 17.75m  )

1861年 Wilhelm I ( 1797 – “1861 – 1888”  / “Deutscher Kaiser 1871 – 1888” ) : Otto von Bismarck ( 1815 – 1898  / “Eiserner Kanzler 1862 – 1890″ )

▶  1870年9月2日 普仏戦争
投降したナポレオン3世とビスマルクの会見 ]
Napoléon III ( 1808-1873 / 1848 -“1852 -1870” )

□  Eugène Sartory ( 1871-1946 ),   Bow maker from Mirecourt. After having first apprenticed with his father, he went on to work in Paris for Charles Peccatte and Joseph Alfred Lamy (père) before setting up his own shop in 1889.   :   Bow maker

□  Victor Fétique ( 1872–1933 ),   He learned his craft in Mirecourt with J. B. Husson.  Later he went on to work for Charles Nicolas Bazin II, before joining Caressa et Français in 1901.   :   Bow maker

●  Lucien Capet ( 1873-1928 ), Paris / 1893 “Capet Quartet”  :   Violinist

▶  1884年  Neues Concerthaus – “Leipzig Gewandhaus ”
Die Gewandhaus-Ruine, 1947年

 

Regno d’Italia ( 1861 ~ 1946 ) Last Casa Savoia : 1946年 UmbertoⅡ( 1904-1983 )

1894年   : ペスト菌がはじめて発見されました。

中国雲南省で1855 年に始まったペストの大流行はペスト菌 Orientalis によるものとされています。このとき香港でこの原因調査にあたっていた医師であるとともに細菌学者であった 北里柴三郎 ( 1853-1931 )さんと パスツール研究所のアレクサンドル・イェルサン( Alexandre Yersin, 1863-1945 )の両名が ほぼ同時にペスト菌を始めて発見し 治療法の研究がより進むようになりました。

ペストの世界的大流行の最後は 1903年~1921 年で、地域別ではインドでの死者が特に多く、1907 年には インドだけで131万人の死亡が報告されています。この最後の世界的大流行での死亡者は 約1,000 万人だったそうです。

1914年6月28日「20世紀が始まった街角 」サラエボ ( ボスニア・ヘルツェゴビナ )

By NAFTALI BENDAVID    2014 年 6 月 29 日 09:35 JST
Matt Lutton for The Wall Street Journal 

当地の博物館の外壁に掲げられた横断幕からオーストリア=ハンガリー帝国のフランツ・フェンディナント大公が堂々と前を見据えている。別の壁では取りつかれたような顔をしたガブリロ・プリンツィプが大きく目を見開いている。ちょうど100年前、プリンツィプはこの美術館の前の通りで大公を銃撃し、第1次世界大戦の引き金を引いた。

「20世紀が始まった街角」――。横断幕にはそう書かれている。

38口径の銃から発射された2発の銃弾は最新の兵器の誕生を許し、いくつもの帝国を倒し、米国を孤立主義から引きずり出した。さらに凄惨な次の大戦や大虐殺、冷戦による欧州の分断の種がまかれたのもこの時だった。

100年経った今も、第1次世界大戦の傷跡は消えずに残っている。暗殺現場に掲げられた横断幕は現地のオーストリア人やドイツ人から「不適切で忌まわしい」と猛烈な怒りを買った。フェンディナント大公とプリンツィプはエイブラハム・リンカーン大統領と、大統領を暗殺したウィルクス・ブースのようなものだ。しかし、横断幕はまだ取り外されていない。

問題はプリンツィプをどのように記憶にとどめるべきか、そして、彼は英雄なのか、それともテロリストなのか、という点だ。弱々しい19歳のセルビア人革命家プリンツィプは100年前の6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の支配に抗議する目的で大公を殺害した。欧州では、戦闘員と市民を合わせて約1500万人が犠牲となり、現代の幕開けとなった第1次世界大戦の記念式典の準備が4年がかりで進められている。その間、くすぶり続けた議論の1つがプリンツィプの評価をめぐる議論だった。

ガブリロ・プリンツィプ
Historical Archive Sarajevo/Associated Press

1914年6月28日、大公の車列がサラエボの町を進むと、共謀者の1人が手りゅう弾を投げつけた。大公には当たらなかったが、複数の随行者が負傷した。大公は入院した随行員を見舞うことにしたが、車が道を誤り、プリンツィプの目の前を走った。プリンツィプは大公と妻のゾフィーを狙って至近距離から銃を発射、2人を殺害した。

当時20歳になっていなかったプリンツィプは絞首刑を免れたが、数年後、服役中に死亡した。オーストリア=ハンガリー帝国は報復としてサラエボを攻撃、欧州各国は即座に敵味方に分かれた。新しい兵器の登場によって大戦ではかつてないほど多くの人が死んだ。

プリンツィプの亡骸はサラエボ郊外の、ビールの看板のすぐ隣にある小さな礼拝堂に安置されている。そこを訪れたときには、2つの枯れた花束とろうそく1本が供えられていた。

多くのセルビア人は、戦争を望んでいた欧州の列強はプリンツィプによる暗殺を言い訳に利用した上、今になっても自らの罪を隠そうと、暗殺が大戦の原因だったと強調していると考えている。一部には、プリンツィプをオーストリア=ハンガリー帝国の支配からスラブ人を解放しようとした英雄とみる人々もいる。

ボスニアにあるバンジャ・ルカ大学の歴史家、Zeljko Vujadinovic氏は「第1次世界大戦に関係した全ての国、特に修正主義的な願望を持つ国は、ガブリロ・プリンツィプを大量虐殺者や暗殺者、オサマ・ビン・ラディンと呼び、彼を非難する口実を探している」と語った。
( 以上、下記からの転載です。)http://jp.wsj.com/articles/SB10001424052702304057704579653160707644406

1917年  :  第一次世界大戦の 最終局面となった この年に ついにアメリカも参戦しました。

アメリカは南北戦争 ( 1861-1865 )を経て国力を拡大し 特にゴールドラッシュ以降はヨーロッパ各地から入国した移民が ‥ 例えば 1880~90年の10年間で520万人に達するといった状況で 1900年代初頭には当時世界最大の産業国であったイギリスに肩を並べるまでに成長していました。

不幸の連鎖という言葉が頭に浮かびますが‥ この参戦によって 1918年3月にデトロイトやサウスカロライナ州で最初の流行がはじまっていた『 スペイン風邪 』が世界中に広がりパンデミック( 大流行 )をまねくこととなり 感染者6億人、死者が4,000万人から 5,000万人といわれる状況まで招きました。

Old Manhattan  1929年

さてここまではウィーン体制崩壊以降のヴァイオリンを取り巻く状況のうち 負の側面についてまとめてみましたが、この時期には産業革命の勝者である『 富豪 』が登場するなど経済の発展が続きヴァイオリンに対する強力な追い風も吹いていました。

この例をアメリカでみてみましょう。 アメリカでは南北戦争の軍需景気もあり製鉄業、鉄道、駅舎・交通業、それと石油や電気関連のエネルギー産業などから大富豪が誕生します。

アメリカ富豪の総資産ランキングでは 1位のビル・ゲイツを除くと 2位ロックフェラー、3位カーネギー、4位ヴァンダービルトとこの産業革命当時の富豪たちが名を連ねています。

製鉄では スコットランドからの移民でのちに『 鉄鋼王 』とよばれたアンドリュー・カーネギー ( Andrew Carnegie  1835-1919 )が最も有名です。彼は1860年代から 石油、電話、鉄道と新しい時代の中心産業に次々と投資しました。 そしてペンシルバニア州のピッツバーグに製鉄技術の向上により製造可能となっていた鋼鉄( スティール )を生産する大規模な製鉄所を設立します。

この工場での大量生産と鉄道での大量輸送はアメリカの産業発展に大きな役割をはたしました。なお‥ このカーネギー製鉄社は 1901年に『 金融王 』といわれた J.P.モルガンに 4億8000万ドルで売却され、これにフェデラル・スチール・カンパニー およびナショナル・スチール・カンパニーの2社が統合されUSスチール( 資本金の14億ドルは 当時のアメリカの国富の4%に相当しました。)が誕生しました。この年に USスチールは 1社でアメリカで生産されたすべての鋼の67%を生産しました。

Carnegie Hall   2013年

Carnegie Hall    1891年

Carnegie Hall

大富豪となったアンドリュー・カーネギーは 1891年にマンハッタンの7番街57丁目に『 音楽堂 』であるカーネギー・ホール ( Carnegie Hall )を建設します。ここではニューヨーク・フィルが リンカーン・センター内のフィルハーモニック・ホールへと拠点を移した1961年まで レジデンス・オーケストラを務めていました。

そしてカーネギー・ホールのメインホール( 2804席 )では 1893年12月16日アントニン・ドヴォルザーク( Antonín Leopold Dvořák  1841 – 1904 )が作曲した交響曲第9番 作品95『 新世界より』がアントン・ザイドル指揮のニューヨーク・フィルハーモニックで世界初演されるなど、中ホールであるザンケル・ホール( 599席 ) や 小ホールのウェイル・リサイタルホール( 268席 )も含めて アメリカの音楽文化の発展に大きく寄与しました。

アンドリュー・カーネギーは83歳の 1919年8月11日気管支肺炎のためマサチューセッツ州レノックスで亡くなりました。生前、既に3億5069万5653ドルを寄付済みで 遺産の3000万ドルも基金や慈善団体や年金などに遺贈されたそうです。

 

 

 

 

 

2018-2-16                Joseph Naomi Yokota

 

 

 

 

 

”加熱痕跡”はいつ付けられたのでしょうか。

前の章からの続きになりますが、私が加熱痕跡から何を読み解いているかについてお話ししたいと思います。
私が 加熱痕跡の読み方について確信を得たのは 15年程前にこのヨーゼフ・アントニオ・ロッカ(1807-1865)が製作した、このヴァイオリンに出会ったからです。

この楽器は 製作されてから まだ150年程しか経っていませんが 表板、裏板ともに肩の位置などにキズ状の加熱痕跡があったり、あご当て部と右肩部にも大胆な加工がしてありました。

私はそれまでもキズ状のものは全て確認するようにしていましたが、”オールド” に入っているその数は『 数えきれない‥。』と思うこともしばしばでした。

これは ヴァイオリンの歴史として” 1500年代半ばに登場し1700年前後には黄金期を迎え、弦楽器製作者が 技術の粋を尽くして 沢山の名器が製作されたものの、 スペイン継承戦争でフランスとオーストリアの領地争奪戦に巻き込まれたロンバルディアの諸都市は言うまでもなく、ヨーロッパ世界を恐怖に陥れたペスト禍や 相次ぐ戦争が 弦楽器製作の世界にも影をおとし、18世紀末までに急激にその製作者数が減少し‥ ついには絶えてしまった。” とされている影響だったと思います。

Giovanni Battista Ceruti ( 1755-1817 )   violin
Cremona 1791年 “ex Havemann”  [ Wurlitzer collection 1931 ]
( Photo : Jiyugaoka violin  1998年 )

“オールド・バイオリン”を目にした時、頭のなかに『 やはり300年くらい前の楽器は、現代まで受け継がれる間にはひどい目に遭ったはずだから‥。』という発想をもつと 単純な思い込みに陥るようです。

Giovanni Battista Ceruti ( 1755-1817 )   violin
“ex Havemann” ( Bein & Fushi inc. 1981年 )

その私が はじめて”オールド・バイオリン”のすり減ったりキズ痕だらけの様子に『 あれっ?』と違和感を感じたのは、 20年ほど前にクレモナ派の実質的な最後の継承者である G.B. チェルーティが製作した このヴァイオリンを扱ったときでした。

このヴァイオリンは モーツァルトが死去した1791年にクレモナで製作されたもので ”ex Havemann ” のニックネームを持っていて、すでに 1931年には ニューヨークのウーリッツァー商会が出版し公表した有名な ”ウーリッツァー・コレクション”で写真付きで掲載されている名器です。

私が目にした1998年は、この楽器が 1791年に製作されてから 207年ほど経っていたわけですが、私の知っている どの G.B. チェルーティより”キズ痕”が多いうえに、それらは人為的につけられた気配が濃厚でした。

なお、このヴァイオリンには 1939年に発行された レンバート・ウーリッツァー社 ( Rembert Wurlitzer Co.、) の写真添付の正式な鑑定書もついていて、その時点での様子をある程度は推測できました。

Giovanni Battista Ceruti ( 1755-1817 )   violin
“ex Havemann” ( William Moennig & Son   1958年 )

また、この他にもフィラデルフィアの著名ディーラーだった ウイリアム・メーニック ( William Moennig & Son ) が 1958年に発行したものと、シカゴの Bein & Fushi inc. が 1981年に発行したものも含めて鑑定書はあわせて3通もついていました。

Giovanni Battista Ceruti ( 1755-1817 )   violin
Cremona 1791年 “ex Havemann” ( Rembert Wurlitzer Co. 1939年 )

それで私は このヴァイオリンの”キズ痕”を順に確認してみました。もちろんですが 1998年は製作されてから 207年、1981年は 190年経過を意味し、1958年は 167年で 1939年は 148年、そして 1931年は 140年しか経っていなかった‥  ということを踏まえた上での話です。

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       1958年 ( 167年経過 )                                  1939年 ( 148年経過 )

さすがに 1939年や 1931年の写真では 外周部がだいぶん不鮮明ですが、それでも駒やF字孔周りの加熱痕跡はしっかりと写真に捉えられていました。

では‥ このイタリア、クレモナで1791年に製作されたこのヴァイオリンの「キズ痕」はいつ入ったのか?

ヨーゼフ・アントニオ・ロッカ(1807-1865)のヴァイオリンに出会ったのは、私が  G.B. チェルーティ作のヴァイオリンと出会った後に さらに5年程の歳月があり、その間にも多くのオールドやモダンの弦楽器を目にしたことによって『  製作時にはじめから入れられていた。』という結論を探っていたタイミングでした。

さて 話が長くなり恐縮ですが、 ここで製作されてから 100年ほど経過したヴァイオリンのこともお話ししておきたいと思います。

( Photo : Jiyugaoka violin  2012年 )

これは 1910年に ミラノで  レアンドロ・ビジャッキ( Giuseppe Leandro Bisiach  1864 – 1945 )氏が製作したヴァイオリンです。

これは所有者の方が 25年程前に 当時 ‥ 一般的に認識されているレアンドロ・ビジャッキ作 ヴァイオリンの販売価格の 2倍くらいの値段で購入されたもので、私は 翌年の 1992年から整備を担当しています。

すばらしい事にこのヴァイオリンは ブリュッセルで開催された 万国博覧会にイタリアから出品され、ゴールド・メダルを受賞した製作当初の状況が 私がこの写真を撮影した 2012年までの 102年間ほぼそのまま保たれています。

Giuseppe Leandro Bisiach ( 1864-1945 )   violin,    Milano  1910年

Giuseppe Leandro Bisiach ( 1864-1945 )  violin,   Milano  1910年
( Photo : Jiyugaoka violin  2012年 )

なぜ そう言えるかというと、このヴァイオリンは万博のコンペテーション部門の展示作品なので、1910年に撮影された新品状態だった時の写真が残っているからです。

Giuseppe Leandro Bisiach ( 1864-1945 )  violin,   Milano 1910年
( Expo 1910 de Bruxelles,  Photo : 1910年 )

Giuseppe Leandro Bisiach ( 1864-1945 )  violin,   Milano  1910年
( Photo : Jiyugaoka violin  2012年 )


Giuseppe Leandro Bisiach ( 1864-1945 )  violin,   Milano  1910年
(   Expo 1910 de Bruxelles,  Photo : 1910年  )

Giuseppe Leandro Bisiach ( 1864-1945 )  violin,   Milano  1910年
( Photo : Jiyugaoka violin  2012年 )

 

Giuseppe Leandro Bisiach ( 1864-1945 )  violin,   Milano  1910年
(   Expo 1910 de Bruxelles,  Photo : 1910年  )

因みに、ブリュッセル万国博覧会は 1910年 4月23日から 11月7日までベルギーの首都ブリュッセルで開催された国際博覧会で 会期中に 1300万人が来場したそうです。

この博覧会にイタリアから出品されたレアンドロ・ビジャッキ(  Leandro Bisiach  1864 – 1945  )が製作したヴァイオリンのラベルには 1910年にミラノで製作したと書かれています。

これはおそらく 4月からの万国博覧会出品のために前年にはあらかた完成していたヴァイオリンに このラベルを貼って仕上げたためではないかと 私は推測しています。

そして、このヴァイオリンは 二つの世界大戦や恐慌などの時代を乗り越えて 戦後のいつかは判然としませんが、遅くとも 1990年頃には日本に運ばれていて、購入された後はそのまま東京で所蔵されることになった次第です。

私は このヴァイオリンの実物と、 ブリュッセル万国博覧会に出品された時の新品写真、そして 2012年に私の工房で撮影した写真を詳細につき合わせてその差異を確認しました。

その結論として、このヴァイオリンは 指板の左右表板の『  演奏キズ  』や 表板C字部中央付近の『  弓の打撃痕  』、そしてそれ以外にも縁などについている『  キズ状  』の加熱痕跡も製作時の加工によるもので、裏板やヘッドのニスが剥がれている景色も 製作時に加工されたことが確認できる貴重なミント・コンディションの楽器であると確信しました。

そして 加熱痕跡のようすから考えると、レアンドロ・ビジャッキ( Giuseppe Leandro Bisiach  1864 – 1945 )氏も “オールド・バイオリン” のキズ痕や ニスの剥離した景色は「 製作時にはじめからそう作られていた」と判断して、それに学びながら弦楽器を製作していたと 私は考えることにしました。

Andrea Amati ( ca.1505–1577 ) Cremona,  Violin 1555年頃

そして、ここで やっと 加熱痕跡の読み方の話しに帰ってきます。

上にリンクを貼ってありますが、私が 第4章で触れた アンドレア・アマティが 1555年頃に製作したと考えられるヴァイオリンの裏板に点々と入った加熱痕跡についての考察です。

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G.B. チェルーティ ( Giovanni Battista Ceruti  1755-1817 ) が 207年前の1791年に製作したヴァイオリンや、レアンドロ・ビジャッキ( Giuseppe Leandro Bisiach  1864-1945 )氏が 82年前の1910年に製作したものなど、加熱痕跡があるヴァイオリン達に学んでいた私は 2003年に153年程前に製作された 前出の ヨーゼフ・アントニオ・ロッカ(1807-1865)のヴァイオリンに出会いました。


そして 精査した結果いくつもの状況証拠により、私はこのヴァイオリンにある このような加熱痕跡も『 製作者本人が製作時に 加えたもの。』と判断しました。

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Gaspar da Saló   /  Violoncello

“オールド・バイオリン”などに見られるキズ痕について。

私達が “オールド”と呼びならわしている弦楽器のなかに『どうして このキズがついたのだろう?』と不思議に思える楽器があります。


Andrea Amati ( ca.1505–1577 )   violin,  “King Charles Ⅸ” ( Ashmolean ) 1564年

そこで、私は これらのキズの特徴を調べてみました。
その結果 これらのキズ痕に見えるものの多くが、焼いた金具や針状のものでつけられていることを見出しました。
それから 私はこれを 加熱痕跡と呼ぶことにしました。

因みに”オールド・バイオリン”を検証すると 同一の製作者でも 加熱痕跡が多い弦楽器と そうでないものを作ったことが分りますが、私は 前者こそが 弦楽器特性を確認する上で重要と考えています。

なぜなら 私はこの加熱痕跡を 理想的な響きを生みだすための “木伏”として捉えているからです。

木工の世界で “木伏”としての技術は現在でも受け継がれています。シンプルなものとしては下の動画にあるように 木材を火で焼き焦がすなどの熱処理があります。
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火にかざすシーンは 3分36秒辺りからです。 ( 4分39秒 )

また、『 焼き杉 』の板壁もそうです。 新建材が普及するまでは 防腐加工として表面が焦げる程度に焼き、その後にススを落として磨き込んで艶を出すなどの加工をして土壁などの外側に被せて化粧壁として利用されていました。

 

風雨にさらされる建築物では 焼いたまま使用することもあったようです。

今日ではめずらしくなりましたが 焼き杉は 伝統的な建物の外壁材でした。杉板の表面を焦がして炭化状にしておくことで火を付きにくくして 耐火性能を高めることが出来たり、 雨風にさらされる外壁の耐久性を高めることが出来ることはかなり昔から知られていたようです。

それから‥この浮世絵は 葛飾北斎、歌川広重らと同時代に活躍した歌川国芳( 1797 – 1861 )が1831年頃( 天保2年 )に製作した「東都三ツ股の図」です。

隅田川の中州から深川方面を眺望する構図で 川にはシジミ取りの舟が浮かび、 手前の中州では船底を焼く様子が描かれています。 これは虫害・腐食の防止のためにフナクイムシを退治する方法である『 船蓼(ふなたで)』作業だそうです。

フナクイムシはフナクイムシ科の二枚貝で貝殻は1センチにも満たないもので 体の一部だけに被っていて、体は貝殻から外に細長く伸び 成長すると1メートル前後にも達するそうです。

恐ろしい事にこのフナクイムシは ヤスリ状になっている貝殻の前部を動かして船底外板に穴を掘り木質部のセルロースを消化しながら深く侵入するため、ついにはこの穴から浸水したり船体に亀裂を生じさせるなどの被害をまねきます。

ですから木造船にとって この『 船蓼(ふなたで)』という船底の熱処理は重要であったことがわかります。

これは、サントリー白州醸造所の見学コースを撮影したもので ウイスキー樽の『リチャー』とよばれる再利用工程だそうです。

私達の日常には 多くの木材が用いられていますので このウイスキー樽の『リチャー』のように、あまり目立たない場所でも 木材の加熱加工は受け継がれています。

http://www.kagakueizo.org/create/other/426/

お琴の製作工程にも 加熱加工である焼入れ工程があります。これはいささか古い映像で恐縮ですが、7分6秒辺りからがそれにあたります。(16分20秒 )


最近(2014年)の動画でいくと、この製作工程を紹介する番組では焼き作業は 5分55秒あたりから出てきます。( 14分00秒 )

これらの動画にもあるように琴や鼓、三味線などでは木材の加熱加工以外にも 良い響きをうむために響胴に 綾杉彫りや 子持ち綾杉彫り、すだれ彫りなどの立体的形状の工夫が施されているそうですが、 番組中でも 加熱加工である『 焼きは 琴の品質を左右する最も重要な工程。』と説明されています。

Here Charles Bazin is cambering a stick.
In Mirecourt the bowmakers would go to the bakery when they swept the coals out of the oven. They would fill an old ‘Marmite’ or Dutch oven with coals and use them for cambering. I use an old fashioned hotplate with an exposed element to give the same even heat but in other traditions an alcohol lamp is used as well.

This is a great photo of the archetier Joseph Arthur Vigneron.  Vigneron was born in Mirecourt and trained with his step father Claude Nicholas Husson.  His early work is indistinguishable from the work of his master.  In 1880 he relocated to Paris to work for Gand & Bernadel.

そして‥ 我らが 楽弓のスティック( 棹 )で施されている ベンディング ( 熱処理工程 ) が意味していることを 改めて考えてみるのはどうでしょうか?


Making a Violin Bow /  Bending the Stick( Reid Hudson )

写真のように 19世紀末にフランスで弓製作者として知られていた Charles Bazin ( 1847-1915 )と、1880年から Gand & Bernadelの工房で弓製作をしていた Joseph Arthur Vigneron ( 1851-1905 ) の 作業台にも スティックの加熱加工のために 石炭が入れられた容器が置かれています。

Vigneron の小さい容器には この写真が撮影されたときに ニカワの湯煎ポットが置かれていますが、写真で作業台の手前側にある窪みがベンディングの際にスティックを曲げるために使用した跡と考えられますので、彼も ベンディング作業中の Bazin と同じように この石炭容器を 加熱加工のための熱源として使用していたようです。

現代の楽弓製作者も スティックの ベンディングのための熱源こそ 電熱ヒーター、アルコールランプ、ヒートガン、ブタンバーナーなどと選択肢は増えましたが ペルナンブーコ材などに加熱加工を施すことによって弓の特性が向上するように工夫しています。

 

私はこのように木材を素のままではなく加熱加工や雨ざらし、蒸気加工、可塑剤の塗布、剛性差を生むための立体的形状の工夫、そして高度な木組みなどの人為的行為によって素材特性を変化させ利用する技術を ”木伏”と捉えることにしています。

特に、加熱加工はこのような木材の多岐にわたる利用のなかで経験則から最終的に確立された高度な技術であると思っています。


Georg Klotz (1687-1737),  Mittenwald 1730年頃

さて‥ 弦楽器においての加熱痕跡ですが、これを理解するためには 例えば このクロッツのように 表板全体に施されたものから それらの関係性を読み解く糸口となるキズ痕を確認していくことが大切になります。


なお、加熱痕跡のうちスジ状のキズにみえるものは 立体的表面形状の特性をととのえる目的で用いられている可能性がありますのでより慎重に観察する必要があります。

例えば、ヴェネチアで マッテオ・ゴフリラーが製作したとされるこのヴァイオリンで スジ状のキズを見て下さい。


私は このキズ状の加熱痕跡は製作者本人が このヴァイオリンを作った時に入れたもので間違いないと思っています。 それは次の 撮影光線角度を工夫した写真により 皆さんにも納得していただけると思います。


この写真でわかるように「キズ」に見えたスジは傷がつきにくい窪みの底にあたる“谷線”に入っています。 これが加熱痕跡が偶発的なものでないと理解していただくための状況証拠です。

そして申し添えれば このようなF字孔の加工は マッテオ・ゴフリラー の独自のものではありません。

ここでは類似事例として Walter Hamma が1986年に出版した “ Violin-makers of the German School from the 17th to the 19th century ”の vol.Ⅱの125ページに掲載されている Johann Adam Popel ( Ende 17.~Anfang 18.)のビオラの写真をあげさせていただきます。

この楽器は  Bruckで1664年に製作されたものとされています。
ご覧のように 右側F字孔に2本のスジ状のキズ が入っているのが とても際立っています。

右側F字孔はその響のなかで特に高い音域を担当することが多いようですので、このように加工された弦楽器を 私は興味深いと思っています。


なお、 “オールド・バイオリン”の製作者は F字孔に複雑な振動をさせるために スジ状のキズ より下の写真のような彫り込みによる立体的表面形状を 枢要な条件設定と考えたようで、F字孔にこのようなスジ状の加工まで施された楽器はまれにしか見つかりません。

Andrea Guarneri ( 1623 – 1698 ) violin,  Cremona 1658年

Front of the Guarneri del Gesù

Antonio Gragnani    violin,  Livorno

それでも、このキズの有無はほかの加熱痕跡とあわせて考えることで状況証拠として音響性能を推測するのに役立つのではないでしょうか。

Ignatius Christianus Partl ( 1732-1819 )   violin,  Wien 1760年頃

下にあげた写真は ミラノで弦楽器製作を栄させた Carlo Giuseppe Testore( 1660~1738 )の息子で同じく ミラノ派を代表する Carlo Antonio Testore( 1687~1765 )が 1740年頃に製作したヴァイオリンのものです。

このヴァイオリンの右側F字孔にもスジ状のキズ があります。 これをその下にある 角度を変えて撮影した写真と比べてみてください。

この写真でスジ状のキズに見えた線は 谷線として刻まれていることがご理解いただけると思います。


Carlo Antonio Testore ( 1693-1765 )    Violin Milano  1740年頃

もう一度正面から位置関係を確認してみましょう。
そうすると先程ご覧いただいたスジ状のキズ以外の 加熱痕跡、特に直線的に並んでいるものが 意志的に見えてくるのではないでしょうか。


このように調べていった結果‥ 私は 右側F字孔の加熱痕跡についての典型事例として、アマティ兄弟が 1629年に製作したとされるこのヴァイオリンにたどり着きました。

右側F字孔部には 加熱痕跡がたくさんみられますが、ほかの部分は少し抑制的な印象をうけます。このコントラストこそ 製作者が 視覚的要素より聴覚的情報を頼りとして、このヴァイオリンを仕上げたことを暗示しているのではないでしょうか。

そういう切り口から考えて、私は このヴァイオリンの加熱痕跡は  理想的な響きを生みだすための “木伏”の見本だと思っています。

Antonio e Girolamo Amati  violin,  1629年


このように入念に加えられた加熱痕跡は、当時の製作者の技術能力の高さを 今に伝える貴重な状況証拠と言えるでしょう。


それから、余談ですが‥ このような加熱痕跡がある弦楽器を 私は特にアマティ工房の名器に多数見るように思います。

例えば ジローラモ・アマティの息子である ニコロ・アマティが 1640年以降に製作したとされる このヴァイオリンもそのひとつです。

Nicolò Amati ( 1596–1684 )   Violin 1640年

私は このヴァイオリンは本当に『すばらしい!』と思います。

 


Nicolò Amati ( 1596–1684 )   Violin 1640年以降

 

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恐縮ですが 続きは こちらです。

 

 

 

 

2018-1-26                Joseph Naomi Yokota

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

軸線の役割について

軸線についてご質問がありましたので投稿いたします。
私は ヴァイオリンやチェロなどの軸線が節として動かないのは”一瞬だけ”であると認識しています。

それは 人間の二足直立歩行が 左の足で体重を支えることで右足を動かし、次の瞬間に移動した右足に体重を乗せ 左足の自由度をあげることでそれを動かすのに似ており、

下図で言えば 赤線が軸線として支えている瞬間に 点 aと点 b の側にゆるみが生まれやすくなり、つぎの瞬間にはモードが反転して線分 ab が軸線の役割をはたすというイメージです。


また、軸線のゆれを表板左側にあるバスバーに由来する軸線ゾーンの破損にみることも出来ます。

表板のなかでも剛性が高いはずの このゾーンが 最も破損していることは一見不思議ですが、私はこれが軸線がゆれた証明となっていると考えます。

これらの事などから 私は箱体のヴァイオリンでは X型と十字型の軸線が”対”で設定されていると考えるようになりました。

この X型と十字型の軸線はつり合った状態から ゆらすのにはより大きなエネルギーが必要となります。弦楽器の場合 これは音の立ちあがりが遅くなったり、鳴りにくい状態につながると思われます。

私は 弦楽器は これを避けるために”対”となっている軸線の一方に年輪をあわせることで意図的に差をつけてあったと思っています。

それは 響胴の左右で剛性差がつけられたことでねじりが生じやすくなり、スムーズなレスポンスが得られると考えられるからです。

それから、軸線は年輪やバスバーだけではなく 私が参考例としてあげている 1736年頃の製作とされるストラディバリウス ( Antonio Stradivari c.1736 violin ” Prince Jussupov ” ) などの表板等厚線図の板厚配置でも取り入れられている事がわかります。

 

この2台のストラディバリウスを比較すると 上下端にしっかり確保してある C部D部の厚いゾーンの幅が左側のヴァイオリンよりも右側が狭くしてあり、 おなじくF字孔外側のA部B部の上下方向の幅が狭く変更してあることが分ります。

私は これらのヴァイオリンには 板厚が厚いゾーンの切れ目である  点e, 点f, 点g, 点hを結ぶ軸線が設定されていると考えています。

この二つのストラディヴァリウスの比較から、私は e-f 軸と g-h 軸が交わるx型の軸線角度を 左側のヴァイオリンより右側は 狭くしたと判断しました。

私はストラディヴァリは 後者のヴァイオリンでこれらの条件を変更することでレスポンスの高速化と『 低音域 』の明瞭化を実現しようとしたと考えています。

 

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2017-9-21                   Joseph Naomi Yokota

弦を交換する前に 試してみてください。  

 


ヴァイオリンや チェロの響は ヘッドの影響を大きく受けています。そこで私は、その応用で弦楽器の鳴り方を改善する実験をお薦めしたいと思います。

これは ヴァイオリンや チェロのナットにある溝に、弦の滑りを良くするために 鉛筆( 5B )やローソクを塗る 通常メンテナンスを工夫したものです。

一般にはナット溝のメンテナンスとしては鉛筆が普及しているようですが、私は 蜜蝋入りロウソクの方が より効果が大きいと思っています。この実験のために 恐縮ですが それを準備してください。

因みに、私の場合は仕事でお客さんに差し上げたりしていますので  山田念珠堂  /  蜜蝋入りローソク あさみどり3号 54本入り ( 税込3,888円 )を使用しています。

それから、 この実験は簡単ですので 所要時間 1~2分といったところだと思います。


実験は、まずはじめに準備した弦楽器の響を 開放弦程度でかまいませんので4本とも確認してください。

それから、ヴァイオリンやチェロのナットにある 4本の弦溝のうち 4番線( 一番左側 )の溝だけ 弦の滑りを良くするためにローソクを塗り その後また調弦します。

そして、もう一度 響を確認してください。すると‥ ローソクを塗った4番線だけでなく他の3本も含めて 鳴り方が改善しているのではないでしょうか。

これは4本のうち1本のナット溝だけ塗ったことで ヘッド部のねじりが大きくなり、それが響胴の共鳴条件を改善したためと考えられます。


なお、この実験は弦の状況でも結果にある程度の差が生れます。

例えば、上写真のチェロに張ってあるスピロコアーC線のように芯弦のケーブル 注)1  の上を ナイロンの中間材でさや状に包み、その外側に銅色の丸い金属線が巻いてあり( ラウンドワウンド )、それにまた 白銅色の丸い金属線が巻きつけてあり、最後に平たいベルト状の白みがかった金属が巻き付けてあるフラットワウンド弦で、ある期間使用し‥ 少ししなやかさが失われかけたものは、劇的に改善がみられるようです。

 

注)1
写真では解いていませんが この弦は 中央に2本のピアノ線がねじって糸状にされ、それを包むように6本のピアノ線が強く編み込まれて合計8本で線状ケーブルになっています。つまり、このスピロコアーのC線は 中間材のナイロン部を一つとして数えると12本の線材などで作られています。

私の経験では、ヴァイオリンやチェロで一般に使用されている弦はフラットワウンド弦が多いので 、張ってから時間が経つと内部のずれなどの影響で一番外側の平らなベルト状金属に隙間ができてしまい、駒の弦溝やナットの弦溝部でのすべりが悪くなっていることが 多いようです。

つまり、弦を交換する頃が この実験に最もふさわしいのではないかと 私は思っています。

少し前のトマスティーク社のドミナント弦の広告で、伝統的な手作業でフラットワンド加工をしている写真が貼られていました。

 


芯弦( コアー )がナイロンの場合は 当然‥ 不安定要因が多くなりますので、この実験は より効果が分かりやすいかもしれません。

なお、私はこの投稿では 一応「実験」と言う表現を使っていますが この実験の効果は特に一時的なものではありませんので‥ 結果として、弦を使用できる期間をのばせるのではないかと思います。

それから、弦楽器においてのねじり条件をより知りたい方のために、下に別の実験のリンクを貼っておきます。

非対称楽器であるバイオリンの “名器的響き” を楽しんでください。

 以上、ありがとうございました。

 

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2017-7-18               Joseph Naomi Yokota

ヴァイオリンの音は 聴くほかに “見て‥” 知ることが出来ます。

皆さんがご存じなように、弦楽器の表板は スプルース材の年輪がたてになるように使用されています。

そのため縦に割れやすい特性があり それが影響して このチェロの魂柱部には縦方向の割れ( Sound post Crack )が入っていて 表面のニスにも 縦方向のひび割れがはいっています。


私はこのニスに入った縦ひび( a. )はバランスが調和していなかったことで歪みが溜まり 表板が疲労した過程できざまれたものと思っています。

では b. c. そして d. のひび割れはなぜ入ったのでしょうか?
私は この年輪に直交するひび割れは チェロやヴァイオリンに設定された音響システムによって入ったものと考えます。

因みに‥ 私がこのように ニスのひび割れと響きを関係づけて考えるようになったのは  2003年 9月29日 の 16:45頃からです。

長くなりますが、ここで その時のお話をさせて下さい。

それは 2週間前まで 11歳の長女が使っていた 1/2サイズのヴァイオリンを 7歳の二女が使いたいと言い張ったので 、その準備として 弦などの交換を検討するために 工房の入り口に立ってこのヴァイオリンを私がチェックしている時のことでした。

風もなく空が晴れわたったおだやかな夕方で 私が立っている工房の入り口には まだ日差しがさしこんでいました。

そのときニスのひび割れが 『 キラッ ! 』と蜘蛛の糸のように光ったのが 私の目にとびこんできました。 それで私は このヴァイオリンの表板と側板にはいった ニスのひびを確認してみました。 はじめは 『  なるほど。 分数ヴァイオリンでも フルサイズとおなじ入り方をするんだ‥‥ 。』と思いながら観察していたのですが、 当時 私が記憶していた他の事例とあまりにも合致していたので 『  これは‥ もしかして! 』と思ったときに 私の顔色は変ったと思います。

それまでニスのひび割れを特に重大なことと思っていなかった私でしたが、このときヴァイオリン響胴の振動モードとそれが きちんと繋がったのです。 私はこのとき『  ヴィジョンが降りてきた‥‥ 。』感覚のなかで 『  いま自分の頭のなかにうかんでいるヴァイオリンのヴィジョンは本当なのかな? 』と 戸惑いながらも楽器の角度を変えたりしながら観察して、もう一度 頭にうかんだ ヴァイオリンの振動モードに誤りがないかを検討しました。

その最中のことです。  私が表板側と側板に気をとられてよくみていなかった 裏板がレイヤー映像のように頭のなかに浮かんだのです。 『  表板がこう振動して側板はブロックによって こう動き‥ということは裏板のここら辺りにこういう形状のニスひびが‥‥ 。』と 私は 独り言をいいながら 裏板を見るために ヴァイオリンをひっくり返しました。

いまでも その瞬間をときどき思い出します。
とにかく感動しました。  私が予測したとおりの形状の小さなニスひび割れが 裏板の推定した位置に 入っていたのです。 おかげさまで 私は 鉱山技師が鉱脈を発見したような 歓びを経験しました。

下の図は そのニスひび( 表板側 )を 2005年になって 私のノートに記録したものです。


この時に私がはじめに気がついたのは下幅広部に真横に入っているニスひびが テールピースの下で繋がっておらず 魚のウロコ状のニスひびとなっている事でした。

それで私は このニスひびは ボトムブロックの端付近( 高音側 )の点 a. から ゆれがはじまる”ねじり”によるものと判断したのです。

その証拠に反対側のネックブロック部をみると 点 b. 辺りからブロックのねじりによるニスひびがはいっています。


このような ネックブロックのねじりは上の動画で確認できます。
おそらく撮影の都合だと思いますが鏡像になっていますので ネックブロックは手前側が高音でその奥が低音側となっています。

私は これらのニスに刻まれたヒビは弦楽器のねじりについて 決定的な状況証拠となるものと考えています。

“Varnish crack”   1970年製     Karl Hofner Cello( 2006年撮影 )

【  弦楽器のニスに入ったヒビが物語ること‥。】

この投稿はここまでとさせていただきます。

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2017-7-10               Joseph Naomi Yokota