この バビロン捕囚は 60年程の期間にもおよび、紀元前537年の初頭になって、やっと ペルシャ王のキュロスⅡ世の布告により捕囚されたユダヤ人達はエルサレムに帰還して エゼキエルの預言『 主なる神はこう言われる‥。』のように神殿を再建することを許されました。
ここから「第二神殿時代」とよばれていますが、その後 エルサレムを中心に社会集団を形成していたユダヤ人達は、紀元前332年、アレクサンドロス大王 ( 紀元前356年 – 紀元前323年、在位:紀元前336年 – 紀元前323年 ) に征服され、古代ギリシア・ペルシア王国の支配を受けます。
それにともない、古代ギリシア・ペルシア王国として統合された イスラエルも含めた ヘレニズム諸国では、多数作られた「アレキサンドリア」を典型とするギリシア仕様の街が建設され、ギリシア人の移住が進み、彼ら移住者と 被征服民 ( 非ギリシア人 ) の婚姻が奨励され‥ 血統のうえでも融合を促進することで国家としての統一を試みる「 ヘレニズム政策 」がおこなわれました。
そして、このときに古代ギリシア・ペルシア王国の共通語としてギリシア語 ( コイネー = Koinē ) が 王国全域に導入されたそうです。
当然のことですが‥ ユダヤ民族にとっても 使用する言語の選択は重要で、それが 直接的な争いに繋がったりもしていました。
しかし、この後の歴史をみれば‥ 『 旧約聖書 』のことばヘブライ語は、口語としては 西暦200年頃には日常生活でほとんど使用されなくなり、一般社会に暮らすユダヤ人はアラム語と ギリシア語のみで日々を送り、ヘブライ語は学者達が理解する言語という認識に変わっていったと言われています。
アレクサンドリアで、紀元前3世紀中頃から紀元前1世紀にかけて ヘブライ語の『 旧約聖書 』を ギリシア語に翻訳した “七十人訳 ( Septuaginta )『 旧約聖書 』” が刊行されたのも頷けますね。
さて、カナンの地域史の話に戻りますが、アレクサンドロス大王亡きあとの 紀元前167年頃には 後継者の一人として シリア、バビロニア、アナトリア、イラン高原、バクトリア地域の国王となった セレウコスⅠ世の支配に抵抗して「マカバイ戦争」と呼ばれる反乱がおこりました。
この状況を収束させるために 紀元前142年頃 ハスモン朝による ユダヤ人自治が認められ、宗主国からの干渉を受けながらも エルサレムには 100年程にわたって国家としての営みがありました。
ところが ハスモン朝の末期である 紀元前37年に、ユダヤ南方に住むエドム人の末裔であるイドマヤ人であり、ガリラヤ地方の行政執行者でもあった ヘロデ ( 紀元前73年頃 – 紀元前4年 ) が、ローマの元老院で承認を得た上で マルクス・アントニウスが率いるローマ軍とともにエルサレムに進軍します。
こうして、彼‥ “ヘロデ大王” によってハスモン朝は滅亡し イスラエル、パレスチナ地域は、ローマ帝国のシリア属州として従属することを約束した”ヘロデ大王”が 総督と領主を兼ねた「ユダヤ王」として支配することになりました。
「 ヘロデ大王のエルサレム占領 」Jean Fouquet ( ca.1415-1481 )
ユダヤの王位についたヘロデは、謀反を恐れて前政権ハスモン朝の血をひくものたちを次々に抹殺していきます。
- 紀元前37年 ハスモン朝「 最後の王アンティゴノス 」を ローマ人を使い処刑。
- 紀元前36年 ヘロデ自身の妻マリアムネ一世の弟「 アリストブロス三世 」を暗殺。
- 紀元前30年 前任であった「 大祭司ヒルカノス二世 」をヘロデに対する陰謀を企んだとして処刑。
- 紀元前29年 「 妻マリアムネ一世 」を処刑。
- 紀元前28年 妻マリアムネ一世の母である「 アレクサンドラ 」を処刑。
- 紀元前07年、ヘロデと妻マリアムネ一世との間に生まれた「 自分の二人の王子 アリストブロス四世と アレクサンドロス 」を処刑。
彼は、凄まじい猜疑心に囚われていたようですが、内政的には エルサレム神殿を大改築して壮大な神殿に造り替えたり 都市計画に基づいて市街地をローマ仕様で整備したりして、ユダヤ人の歓心を買うことに務めたことが知られています。
しかし、ユダヤ教徒をローマ化する ヘレニズム政策に対する反発は強くなるばかりでした。それでも、彼は 常に懐柔と圧政を使い分けて権力を維持し “ヘロデ王朝” による この地域の支配は 西暦44年まで続き、その後はローマの直轄地となりました。
『 旧約聖書 』の時代はこの辺りまでで、この先は『 新約聖書 』の イエス・キリストの時代へと入ります。
『 新約聖書 』のマタイ福音書では、イエス・キリストは ヘロデ大王の時代に ユダヤのベツレヘムで産まれたとされています。そのとき東方から来た 占星術の博士たちが「ユダヤの王が生まれた。」と言っているのを聞き、それを恐れたヘロデ大王は、ベツレヘムとその周辺で産まれた2歳以下の男の子を、一人残さず殺することにしました。
しかし、イエスの父であるヨセフの夢に天使が現れ「エジプトに逃れなさい。」と告げたので、ヨセフとマリア、幼子イエスの三人はエジプトに向かい難を逃れました。ヘロデが死んだ後にイスラエルの地に戻ったヨセフは、再び天使の声に導かれてナザレの町に住み、イエスを育てたとされています。
このような記述や、ルカによる福音書に「 大規模な人口調査が行われた年にイエスがベツレヘムで誕生した 」とあり、人口調査は紀元前4年に行われたとされているために、イエスはヘロデ大王の治世の末期、紀元前4年頃に生まれたと考えることができます。
その後‥ キリスト教では『 イエス・キリストの公生活 』と言いますが、30歳位となられたイエスは ヨルダン川で ヨハネから洗礼を受け、十字架につけられるまでの おおよそ3年半の期間をこの地域で福音を告げながら過ごされました。
このように、イエスや 使徒たちによる福音宣教によって広がっていったキリスト教に対し、はじめはローマ帝国側も他の宗教と同じように対応し、その信仰自体は禁止対象としませんでした。ですから 拘束されるのは、ローマ法を守っていない ( ローマの神々への供え物を拒否するなど ) と認定された場合のみだったようです。
しかし、キリスト者は”一神教”として 独自の慣習を持っていましたので、オリンポスの12神や ミトラ教などの”多神教”が ほぼ全体をしめていたローマ帝国側の人々にとっては 初めから異質な存在でした。
そのような立ち位置の違いや、 専制君主制を採用したローマ帝国が “皇帝崇拝”を強要するようになり、それに同調しなかったことで 次第に キリスト教は社会秩序を乱す危険な宗教とみなされるようになっていきました。
それから ユダヤ人社会のなかでも、ヘブライ語ではなくギリシア語( Koinē ) だけを話す人々が増えたことで人々の分裂が進み、またユダヤ教においても ファリサイ派、サドカイ派、エッセネ派、熱心党などが相互に反発しあうような対立が渦まく社会状況が出来あがってしまいました。
そして‥ 知られているように、この 一触即発の緊迫した空気のなかで、 ナザレのイエスは 十字架につけられました。西暦30年頃の出来事であったと言われています。
エルサレムでの不穏な状況はその後も続き、西暦35年 or 36年には『 新約聖書 』の「使徒言行録 」で”最初の殉教者”とされているステファノが石打の刑で殺されました。
ステファノは、「ギリシア語を話すユダヤ人キリスト者」 ( ヘレニスト、ユダヤ系ギリシア人 ) と、 「ヘブライ語を話すユダヤ人キリスト者」( ヘブライスト )との間で起きてしまった問題を解決するための奉仕者の一人でした。彼は、石打ちに遭いながらも「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」と言って息絶えたと伝えられています。
クムラン石窟
( 1946年から1947年にかけて “死海文書”が発見されました。)
そして ステファノ殺害に続いて、エルサレムのキリスト教会に対する様々な迫害が発生したことが「 使徒言行録」に記されています。このように キリスト者達に対する迫害は断続的に発生し、特に 西暦64年の 皇帝ネロによる迫害や、西暦303年のディオクレティアヌス帝による迫害は 峻惨を極めたものでした。
クムラン第一洞窟から見つかったイザヤ書の写本
しかし、キリスト者への迫害は ある意味で逆効果だったようです。たとえば、ステファノが殉教した直後の迫害により ユダヤ系ギリシア人のキリスト者は エルサレムを逃れ離散することとなり、結果としてエルサレムを追われた彼らは 旅する宣教者となりました。
また、この時期 ( 西暦34年~36年頃 )に キリスト教が 拡大するにあたっての重要な契機となった『 使徒パウロの回心 』もあり、キリスト者に対する潮目が 少しづつ変わりはじめます。
使徒パウロ ( ‥ ~ 西暦65年頃 ) は、古代ローマ帝国の属州キリキア州都タルソス生まれの ベニヤミン族系ユダヤ人で、生まれつきのローマ市民権保持者でもあり ヘブライ語とギリシア語も達者でした。また、少年のころからユダヤ教による厳格な教育を受け “律法( トーラー )” 重視のファリサイ主義を至上のものと信じ、キリスト教会を迫害する先鋒として働いていました。
その彼が、キリスト教徒弾圧のために エルサレムからダマスコへ赴く途中「 サウロ、サウロなぜわたしを迫害するのか 」( 使徒行伝9・4 )という天からの声を聞いて『 回心 』し、その後 キリスト者の一人であったダマスコの アナニアの助けによって悟りを開き 洗礼を受けたとされています。
使徒パウロは、この『 回心 』を契機として福音伝道者としての生活に入り、特に異邦人への布教を使命として小アジア、マケドニアなどへ数回に及ぶ “大伝道旅行” を行ないました。
この福音伝道の期間の彼の書簡、たとえば 最古とされる「テサロニケ人への第一の手紙」( 西暦50年~52年頃 ) や それ以降に残された使徒パウロの手紙は、4つの福音書などと共に『 新約聖書 』に収められ キリスト教の骨組みとして残されました。
このような、使徒パウロ達の活動によって【 聖書 】が編纂され、彼らの福音伝道は 大きな成果をあげましが、残念ながら・・ それは ユダヤ人達の反発をさそい、使徒パウロは エルサレムで捕えられ カエサリアと ローマで入獄生活を送ったのち、ローマ皇帝ネロによって西暦65年頃に殉教したとされています。
● 因みに、現代の ローマ・カトリック教会では【 聖書 】としてこの頃から受け継がれたヘブライ語由来の『 正典 ( Canon / カノン ) 』と、『 第二正典 ( 旧約聖書続編 ) 』、『 外典 ( Apocrypha / アポクリファ ) 』を総称して そう呼んでいます。
例えば、私の好きな 知恵の書はや シラ書は 分類上は『 第二正典 』となります。
【 すべてのものは対をなし、一方は他に対応する。】シラ書 ( 42章24節 )
こうして 迫害にもかかわらず、キリスト教徒はローマ領内の下層民を中心に、カタコンベに隠れて共に祈ることで強め合ったり 多くの殉教者の励ましを受けたことで信徒数が 確実に増えていきました。
西暦117年
皇帝トラヤヌス( 西暦53-117 )の 晩年 ( ローマ帝国最大領域 )
ハドリアヌス帝治世下、”バル・コクバの乱” ( 西暦132年~135年 )の後 エルサレムを追放されたユダヤ人達が 定住したディアスポラ ( 居住地 )
“The Baptism of Constantine” ( Stanze di Raffaello ) is a painting by assistants of the Italian Renaissance artist Raphael. It was most likely painted by Gianfrancesco Penni, between 1517 and 1524.
( バチカンにある ラファエロ・サンティと彼の弟子らによる有名なフレスコ画ですが、実際に 皇帝が洗礼を受けたのは最晩年だったようです。)
そして‥ 西暦312年に、キリスト者達にとって大きな転機が訪れました。すばらしいことに ローマ帝国皇帝コンスタンティヌスⅠ世( 西暦270年頃~337年 : 在位306年 ~337年 ) が キリスト教を信じることを表明したからです。
西暦 293年~324年の各皇帝の担当領域の変遷 ( テトラルキアからコンスタンティヌス1世による統一まで。)
その宣言は具体化され、翌年の 西暦313年に コンスタンティヌスⅠ世( 西暦270年頃~337年 ) が発布した “ミラノ勅令” によって 正式にキリスト教は公認され、ローマ帝国による迫害は遂に終わりました。
さらに その後の 西暦380年に、皇帝テオドシウス ( 西暦347年~395年 在位:379年 ~395年 )が “三帝勅令”として キリスト教の “国教化”を定めました。( 彼は コンスタンティノポリスを拠点とし ローマ帝国を実質的に1人で支配した最後の皇帝ですが、政治システムの上では分割統治の形態のままでしたので、他の二人の皇帝 グラティアヌス帝とウァレンティニアヌス帝 とによる命令の形式が必要でした。)
そして 時を置かず 翌年の 西暦381年には “第1回コンスタンティノープル公会議” をも開催しています。
● この公会議では「父と子と聖霊」は本質において同一である。というアタナシウス派の三位一体説が論じられ、それらの承認決議により キリスト教の正統が確定しました。
因みに、日本では ” カトリック “と言うと、ローマ教皇を首長とする “ローマ・カトリック教会”を指す場合が多いですが 、この言葉は そもそもキリスト教会の「 Catholic = 普遍的 」性質を言い表すときに用いられていたもので、 4世紀頃から「正統的」という意味で転用されはじめて その一方だけが広がったものです。
私は、この「 カトリック = 普遍 」という概念はキリスト教会の特質として、すでに連綿と続けられた教会における礼拝そのものが それを証していますので、とても似つかわしいと思っています。
例えば、この 西暦381年の “第1回コンスタンティノープル公会議”で 承認された “Niceno-Constantinopolitan Creed” は 、その後 1640年間 そのままで引き継がれ‥、 西暦2020年の 現在でも 世界中で行われているキリスト教会の礼拝で、”クレド ( 信仰告白 )” として『 ニケア・コンスタンチノープル信条 』または その “原典版的”な『 使徒信条 ( Apostles’ Creed ) 』が、『主の祈り』とともに変わることなく唱えられています。
まさに、自らの罪を悔い、イエス・キリストの聖性により頼み‥祈る「 普遍の教会 」が そこにあります。
こうして、ローマ帝国のキリスト教徒は 急激に増加することとなり、西暦392年 には 皇帝テオドシウスが勅令によって、ニカイア派 ( アタナシウス派 ) キリスト教を ローマ帝国の唯一の宗教、つまり『 国教 』と定めるまでになりました。
また これと同時に、それまで伝統的に祀られていた ローマの神々や、ミトラ教の太陽神信仰などが完全に禁止されました。
この勅令は徹底しており、このあおりを受けて古代オリンピックも 西暦393年の開催を最後に中止されました。
現代の私たちが 思い浮かべる”オリンピック”は 1896年にアテネで「第1回近代オリンピック」として開始されたものですが、古代オリンピックは それとは全く違うもので、開催地オリンピアは ペロポネソス半島西部エリス地方に位置する “ギリシアの神々の聖域”でした。
第1回の 古代オリンピックは この”聖域”で 紀元前776年に開催され‥ その後 4年に1回、全ギリシアから参加者が集まる古代ギリシア世界で 最重要の宗教祭儀として 1169年間という長期間にわたり続けられました。
初期の競技は徒競走だけで、戦車競走や、レスリング、円盤投げなどの様々な競技が徐々に加えられたそうですが、それは金メダルを得るためではなく ギリシアの最高神ゼウスに捧げるためのものでした。
この ギリシアの神であるゼウスを祀る催しを、ギリシアと同じ “多神教” のローマ帝国はそれまで認めていたのですが “一神教” のキリスト教を『 国教 』とした以上‥ 他の神を認めるわけにはいかなかったようです。
キリスト教が 西暦392年に ローマ帝国の『 国教 』となった‥ これがその後の ヨーロッパ世界の思想史にとって強烈な影響をあたえました。
このように『 聖書 』から展開していった 思想傾向を、それが ユダヤ民族由来であったので “ヘブライズム” と言うようになりました。
2021-12-17 Joseph Naomi Yokota